列島これでいいのか 草花だって子孫を残す

 草花にも劣る若者があふれている。うちの息子は、彼女がいたりいなかったりだからまだましだ。息子のある友だちは、「女の子と一緒にいるより、ちいさい子と遊んでいたほうがいい」と言い切る。ぼくも面識があるが、イケメンですらっと背が高く、優しくて運動神経もいい申し分ない好青年なのに。こういうタイプは、息子の周囲にいくらでもいるらしい。

 厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が2012年元日に発表した調査結果は、いまさらではあるが、やはりショッキングだ。18~34歳の未婚者を対象に調べた。

 男性の61%が「交際している異性がいない」と答え、2005年の前回調査から9.2ポイント増えた。交際している異性がいない女性は50%だった。

 少子高齢化が深刻化する日本でさらに深刻なのは、交際相手のいない男女のうち45%が、「異性との交際をとくに望んでいない」と答えた事実だろう。

 「別に恋人なんかいなくてもいいもん」から「恋人なんていないほうがいいもん」まで、青年男女の草食化、非動物化はますます進んでいる。

 ぼくらが若いころには、女の子に興味・関心・欲望がない男なんておかま、ゲイ以外にはいなかった。とくに大学へ入ると、男女のカップルが雨後のたけのこのようにぼこぼこ出来た。まだ相手のいない者は、男でも女でも、せっせと合コンなどに顔を出した。そのころ、王様ゲームなんていうものはなく、いまでもぼくはどんなことをするのかよく知らないのだが。

 日本家族計画協会がやはり2012年初めに公表した数字では、16~19歳の若者のうち、セックスに「関心がない」「嫌悪感がある」と答えた男性は36%、女性は59%いた。前回2008年調査から、男性が19ポイント、女性も12ポイント増えた。

 去勢された宦官でもあるまいに、恋愛やセックスに興味を示さない童貞・処女が、ぐんぐん増えているわけだ。女性に関心のない息子のイケメン友だちはたしかに例外でもなんでもないことを、こういうデータは示している。

 たとえば韓国では、若者の草食化現象など見られないという。その他の国ではどうなっているのか。元特派員として言わせてもらえば、日本のマスメディアは、国際政治の薄っぺらい報道にかまけているより、もっと深刻なこういうテーマの海外取材に力を入れ、打開策を探ったほうがいいのではないか。

 当然ながら、日本で生まれてくる赤ちゃんの数も確実に減っている。社人研が1月30日付で発表した推計によると、50年後に人口は3割減り、高齢者が全体の4割を占めることになる。いま以上の超高齢化社会になるわけだ。

 日本はシングルマザーやシングルファザーが少なく、「結婚して子どもが生まれる国」とされている。社人研の推計では12年の婚姻件数も過去最低の67万組となる見込みで、この点でも出生数が減少するのは避けられない。

 だから、できちゃった結婚などは国をあげて奨励すべきことだ。

 ITの発達でこれだけ手軽にポルノグラフィが見られる時代になったからこそ、男は去勢がちに、女性はセックス忌避がちになるのだろうか。学校で性教育に加え「ポルノとの正しいつきあいかた」「簡単な子どもの作りかた」を必修科目にすべきかもしれない。

 そもそも、草食系という言葉自体に問題がある。草食動物は草を食べて子孫を作るし、花にだってオシベとメシベがありそこら辺にはびこってDNAを残す。それさえできない人類のある種族は、もはや草食動物でも草花でもなく枯れ木に近い。作りたくて作れない人たちは別として。

 日本はお先真っ暗な感がある。それは先進国共通の悩みでもある。高齢化率の将来見通しのグラフを見ると、日本が最悪だが、ドイツ、フランス、スウェーデンなども大変だ。

 一方で、英誌エコノミストは、経済的繁栄の指標はひとり当たりのGDPだから人口減少を気にする必要はないとしている。

 <労働力が不足し、労働効率を高めるため最新技術を導入する圧力が増すので、生産力はより速く上がるはずだ。労働力供給を増やすため、定年を引き上げることもできる。高齢化、人口減という新たな人口統計は祝うべきたぐいのものなのだ>

 <人類はかつて多産多死の落とし穴にはまった。いま、少産少死の自由な世界に逃れてきたのだ。政治家たちは国家の経済力の凋落を恐れるかもしれない。しかし、国民は新たな人口統計を黄金時代の到来を告げるものとして祝うべきなのだ>

 そううまくことが運ぶだろうか。

 異性に興味がない、セックスをしない、結婚をしない、子どもを作らない若者たち。しかも、男性の約5人にひとりが“美白願望”を抱いているとするデータもある。

 ぼくは、未知の“環境おかま型去勢ホルモン”が列島を覆っているとにらんでる。それに、漫画やアニメがいくところまでいき、集団アイドルもはびこって、生身の異性と1対1で相対し悪戦苦闘する動物としての本能が、ますます退化しているのではないか。

 嗚呼、放射能ではなく男性ホルモン、女性ホルモンをそこらじゅうにばらまく方法はないものだろうか。

 --毎週木曜日に更新--

| | トラックバック (0)

続・有毛論、無毛論

 ニューヨーカーは、カップ入りの味噌スープをスプーンですくって飲む。日本人としてはカップから直接飲みたいところだが、そうすれば周囲の目が集まって気まずいことになる。ミソスープと味噌汁はかくもちがう。

 そんなことを、朝日新聞のニューヨーク特派員がコラムで書いていた。その気持ち、よくわかる。ぼくも、ヨーロッパに住んでいるとき、麺類を食べるのに、決してすすらないよう十分気をつけていた。欧米にすすって食べる文化はなく、そんなことをすれば、なんと下品な人間だと決めつけられる。

 ところが、クールジャパンに憧れた外国人たちが日本にやってくるようになり変わってきた。麺をすすって食べるのは、蕎麦の風味を味わうためとか、熱々の麺を冷ますためとかその意義を知って、すすって食べるようになっているという。

 郷に入っては郷にしたがえというか、文化の差というのは難しく、かつ面白い。

 さて、毛はあったほうがいいか、ないほうがいいかという話を書こう。

 頭の毛はあったほうがいい、と決めつけているのは日本の文化(?)だ。ロシアなどでは、頭の毛が薄い男性のほうがホルモンが強く男らしい、とむしろもてるというのだからこれも文化のちがいではある。

 では、下半身の毛はどうだろう。2011年1月13日に本ブログで「有毛論、無毛論」をアップしたところ、アクセス数がいまでもぐんぐん増えつづけている。サッカー香川真司選手の名前をあげ、ドイツのヌーディストスポットに言及するなどしたからというのもあるだろうが、人はみな、そういう話題が好きなのだろう。

 ドイツのブンデスリーガで戦う日本人選手は下の毛を剃っている、という話題だ。チームメートがみな剃っているからシャワーのときひとりだけ生やしているのは恥ずかしいのだそうだ。CSKAモスクワで活躍してきた本田圭佑選手も剃っているというから、無毛モードはロシアにも及んでいる。

 ニューヨークで味噌スープをカップから飲めないのと同じことだ。

 ここで繰り返しておくと、ぼくがドイツで暮らしていた10数年前、ドイツ人は男女を問わず下の毛を生やしていた。それは、ヌーディストスポットや混浴サウナ、アダルト雑誌で確認したことだからまちがいない。

 だから、ぼくにとって一番興味深かったのは、ヨーロッパ人男女がいったいいつごろから何のために下半身の毛を処理するようになったか、という点だった。だが、ことがことだけに、マスメディアが改めて報道するテーマではない。ぼくの中ではずっと引っかかったままになっていた。

 そしてついに、その件について正面から取り上げた記事に出会った。週間現代2012年1月21日号だ。そのタイトルが素晴らしい。「無毛ヌード時代がやってきた」。グラビアを売りのひとつにする週刊誌だけに、「無毛時代がやってきた」ではないところがそれらしい。誌面では、あそこがつるつるの美女たちが、惜しげもなく全裸をさらしている。

 ヨーロッパでは18歳から25歳の女性のうち半数は陰毛を完全に剃っている、というデータが2009年にオーストリアの新聞に掲載された、と記事にある。ドイツ人心理学者の研究結果だそうだ。

 そして、西洋の美女を撮りつづける写真家・高橋生建氏のコメントを紹介している。<かつてはみな生やしっぱなしでしたが、10年ほど前から剃毛する女性が増えました。一昨年や昨年に撮影したときは、9割の女性は“無毛”。>

 ぼくの体験、観察はまちがっていなかった。かつてはたしかに生やしっぱなしだった。脇の毛でさえ自然に任せている女性もいたほどで、こちらが勝手に恥ずかしくなった。

 そこで、高橋氏は、日本男児として当然の質問をした。剃っている理由を聞いたのだ。すると、「だって清潔で衛生的だから、当然でしょ」と答えたという。陰毛は性病の原因になるし、体臭を発生させやすい不潔なものと考えているのだそうだ。

 記事には、通算5,000人以上の外国人女性と関係を持ったという猛者のライター出町柳次氏のコメントもある。

 <一神教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の女性は、最近、剃毛しているケースがほとんどです。しかし、仏教、ヒンドゥー教など多神教は剃毛しない女性が多い。一神教の生まれた中東は砂漠地帯で水が使えず不潔になる。…水が豊富な日本などアジアの人は剃る必要性を感じていないのです」

 一見もっともらしい解説だが、宗教と無毛は関係あるのだろうか。それなら、ずっと昔からキリスト教徒などは無毛だったはずだ。性病予防のために剃るというのも唐突すぎる。エイズは粘膜で感染するというし、その流行が理由でもないだろう。ここ10年ほどというのだから、なにかをきっかけにした一種のファッションなのではないか。

 まあ、そんなのは大したことではない。日本でも無毛が流行るかどうかだ。週間現代などがどれだけ無毛ヌードで売るかにかかっているのではないか。

 <90年代に一世を風靡したヘアヌードの次は、無毛ヌードがブームを起す>と、記事は締めくくる。

 個人的には有毛、無毛ともに捨てがたいのだが。

 --毎週木曜日に更新--

| | トラックバック (0)

死ぬのが楽しみになりそうな本がある

 恩人、恩師、恩義などという言葉がある。『般若心経入門』の著者で『南無の会』会長の松原泰道師は、ある本に出会い「これは恩書です。人に恩人がいるように、本にも恩書があります」と語ったという。松原師が86歳だった1994年夏のことだ。

 その本は『ここまで来た「あの世」の科学』(天外伺朗著)という。仏教の大家で仏への道は熟知しているはずの師も、高齢となり、考えるところがいろいろあったのだろう。

 本の著者は長らくソニーに勤め、犬型ロボットAIBOを発明したことでもよく知られる。素粒子の科学(量子力学)と宗教をふくむ東洋哲学、そして深層心理学の3方向から、人間にとって最大の難問であるあの世に迫っている。

 この本が単行本で出されベストセラーとなった当時、ぼくはドイツにいてそのことを知らなかった。それから約10年を経て改訂版が文庫として出され、初めて読んだ。

 天外氏は、素粒子研究者たちが最新の理論と東洋哲学の類似性を指摘していることにふれる。<どうやら、この宇宙は二重構造になっており、われわれがよく知っている物質的な宇宙(この世)の背後に、もうひとつの目に見えない宇宙(あの世)が存在するらしいのです>

 ぼくがかじった宇宙論や素粒子論などでは、たしかにそういう議論が行われている。この世とあの世は、紙の表裏みたいな関係かもしれない。

 般若心経の有名なくだり「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」は、形あるものとないものが表裏一体で分離できないことを示す。天外氏は、般若心経がそれを4回もくり返し強調していることを指摘する。また、華厳経にある「一即一切、一切即一」は<部分が全体で、全体が部分>であることを意味し、これらの経文は<最新の宇宙モデルそのものである>と述べる。

 宗教では、この世があり死んであの世にいく、という説明がなされてきた。しかし、天外氏はこう記す。<私たちは、生きているこの瞬間にも時間も空間もない「あの世」にもいる、ということです。「死」というのは、「この世」の存在が終わることを意味しており、「あの世」での存在だけになるのです>

 そして、古代インド哲学の「アカシック・レコード」という概念を紹介している。「空」を意味するアカーシャの記録という意味で、<宇宙開びゃく以来すべての存在、出来事、行動や想念などが細分洩らさずに記録されている>

 それから着想して「アカシック場(フィールド)」という考え方をとる物理学者もいるそうだ。<時間を超越して…未来のことまで含めてたたみこまれている>。この考え方は、著者の提唱するものと同様、科学的仮説というよりまだ科学的ロマンの段階だそうだが。

 ぼくがかつて暮らしていたインドでは、たしかにそういう考え方がある。たとえば、ムンバイのスラム街を舞台とした英映画『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)は、アカデミー賞8部門をはじめ数え切れない賞を受けた。これをめぐって、出演したスラムの素人の子どもたちの反応が印象的だった。彼らはヒンディー語で言う。「結果はあらかじめ決まっていた。それは運命だったんだ」。英語字幕では“It is written”ともなっていた。つまり、すべては「アカシック・レコード」に書かれていることだ、と言うのだ。

 『神、この人間的なもの』(なだいなだ著)は、宗教とは何か――という問いにこう答えている。<孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理、それもなるべく簡単な原理>

 一方、宗教の誕生にはもうひとつ決定的な要因がある。つまり、死の恐怖からの救いだ。宗教は死後の世界をさまざまに説き、それを信じる者、信じない者ともに救ってきた歴史がある。イスラム、タミルなどの過激派の自爆テロは、それぞれの宗教にもとづく死生観抜きには語れない。キリスト教徒は決して自爆テロなどしない。

 大震災を目の当たりにした日本では、いま、宗教入門書や僧侶のエッセイなどが続々と刊行されている。死を強烈に意識し出し、これまで宗教に距離を置いてきた人も関心を抱くようになったのだろう。

 天外氏は、瞑想や禅など東洋式の修行は、この世と裏表にどこにでも存在しているあの世の真理にアクセスする方法論であることをくりかえす。哲学者ラズロは<あらゆる存在や出来事、行動や想念が歪みとして真空中に記録されていると考えました。宇宙は、その歪みを通じて瞬時に影響しあう、密接に結合されたひとつの実体だ、というのです>

 釈迦が悟ったのだとすれば、その真理、その実体だったはずだ。死というのはあくまでこの世での観念で、実際には、生を終えてもその記憶と記録は「空=アカシック・レコード」に永遠に存在しつづけることになるのだろう。

 日本仏教に「人は死んで仏になる」というのがある。ある意味では不遜な教えであり、他の仏教国にはない。だが、これこそ真理である可能性はある。誰でも死ねば、釈迦が6年の苦行ののち菩提樹の下で7日間の瞑想をしてたどりついた境地または存在に、結果として至るのかもしれない。

 生身の人間が死を実験で確かめることはできない。しかし、“恩書”によって死が恐怖でもなんでもなく、むしろ楽しみになってくるようにさえ思えてくる。

 --毎週木曜日に更新--

| | トラックバック (0)

命とは、記憶とは 赤ちゃんの不思議

 友人知人に孫がつぎつぎと生まれている。かみさんの姪も女の子を出産した。ぼくは、こういうとき、必ず次のように言うことにしている。

 「おしゃべりできるようになったら、聞いてみて。お母さんのお腹から生まれたときのことを覚えてる? 生まれるよりずっと前のことも覚えてる? と」

 こんなことを話すのは、2011年後半から、最新の赤ちゃん学をかじったからだ。

 ある日、小学生のシンガーソングライター水谷ゆうさんが、テレビで『いっぱい大好き』という歌をうたっていた。

 ♪ねえママ わたし 生まれる前 ママを空からずっと見てたよ
 やさしそうだなって ずっと見てたよ だからわたしは ママを選んだよ
 ああ やさしそうだね 神さまわたしは あの人の子どもに なりたい なりたい
 そうしたら ちっちゃい シャボン玉に入れられて ゆっくりわたしは 透明になって
 降りていく 降りていく♪

 ぼくは水谷さんに、所属事務所を通じて手紙を出した。「実は、いま、<赤ちゃんは親が作るのではなく、赤ちゃんのほうが親を選んで生まれてくるのではないか>というテーマで取材をしています」。そして、この歌詞を書いたいきさつを尋ねたのだが、残念ながら返事はなかった。しかし、自分の記憶に基づいている可能性はじゅうぶんあるだろう。

 産科の現役の医師・池上明さんが、『子どもは親を選んで生まれてくる』(日本教文社)という本を出している。出産の現場に数多く立会い、また、ぐんぐん育つ赤ちゃんに接するうち、その能力が常識を超えていることに気づき、研究を進めてきたという。

 胎内記憶・誕生記憶については、100年くらい前から報告がある。だが、科学的な研究がはじめられてからはまだ日が浅い。池上医師自身は、2001年、全国保険医団体連合会で胎内記憶について発表し、全国紙に掲載されて大反響を呼んだ。

 2003~04年には、長野県の諏訪市と塩尻市のすべての幼稚園、保育園に協力してもらい、3601組の親子にアンケートを実施した。対象は3~4歳で、ほぼ3人にひとりが記憶していた。胎内記憶をもっていたのは30数%で、誕生記憶は20%前後だった。「子どもがまだしゃべれないので答えられない」「子どもが話したがらない」「子どもに質問したことがない」などのケースもあり、実際の記憶保有率はもっと高い可能性もある、としている。池上医師は、2005年、アメリカで開かれた国際学会で発表した。

 「こうした記憶は人に語ると消えていくようなのです。まるで、誰かに知られることで記憶の役目が果たされたかのように」としている。

 ぼくが知る限り、作家の故・三島由紀夫は自分の誕生記憶について書き残している。それを読んだときには、さすが天才だからか、と思ったが、池上医師によると、大人でも100人にひとりくらいは、生まれる前後の記憶を保っているそうだ。

 子どもたちの語る内容は、細かい点はちがっていても、だいたいのイメージは共通しているという。「生まれる前は雲や空の上にいて、何人かの友だちとのんびりすごしていました。その世界は平和で穏やかで、神さまや天使や妖精たちが住んでいます。そしてふさわしい時期がくると、どのお母さんのもとに生まれるかを決めて、トンネルやはしごを通っておなかの中に入るというのです」

 この情景は、水谷ゆうさんの歌『いっぱい大好き』そのものではないか。

 川上医師によると、おなかにいたときお母さんに話しかけられた赤ちゃんは、胎内記憶・誕生記憶ともに保有率が高いというデータも得られた。お母さんが赤ちゃんにひんぱんにおなかに話しかけていると、「あったかかった」「たのしかった」といったポジティブな記憶が多く、あまり語りかけないと「さみしかった」「早くでたかった」というネガティブな回答が多くなるという。

 東洋では胎教という考えが昔からあったが、母は出産するより前から子どもと絆を持っているということだ。そして、胎内のときから父親の影響も大きいという。

 ある小学生はこう語ったという。「虐待されることも全部知って生まれてきます。それは、親に『そんなことをしてはいけないよ』と教えるためです」

 赤ちゃん学、発達認知神経科学などを専門とする開一夫さんは、『赤ちゃんの不思議』(岩波新書)を書いた。口を開けたり閉じたりする、唇を突き出す、舌を突き出すなどの表情を新生児にしてみせると、それをまねるのだという。生まれて数時間しか経っていない赤ちゃんが、人間の顔の絵とそうでない絵とを区別することもできるそうだ。

 赤ちゃんは、高度で多彩な認知能力を非常に初期から持ち合わせている、と開さんは述べている。

 池上医師はさらに、「イトミミズみたいなのになって」お父さんからお母さんのお腹の中へ入り「たまごになった」と話す子どものケースなどを紹介している。つまり、精子と卵子の記憶で、その子は、受精から誕生までの産科医師も知らない発達のようすについて克明に語ったという。

 命とはなにか、記憶とはなにか、とつい考えさせられる。

 嗚呼、ぼくにも早く孫が生まれないかな。実験台としても楽しみだ。

 --毎週木曜日に更新--

| | トラックバック (0)

カレーライス

 あるエッセイを読んで、半世紀以上前の記憶がまざまざとよみがえった。郷里・出雲の母がファクスで送ってきた。タイトルは『恩師』とあった。

 <今朝もいつもの通り新聞のお悔やみ欄を見る>

 こう始まる文章には、筆者の古川精次さん(72)が、その欄で高校時代の恩師の名前を見つけ、長女の訃報が載っていたことが書かれている。

 恩師とはぼくの父であり、長女は姉だった。父は、島根県立出雲産業高校などで教員をしていた。産業高校は、のちに商業高校と工業高校に分かれる。

 <長女とあるから先生は健在なのだ。卒業してから五十数年が過ぎている今、こんなことでそれを知った>

 姉は長年、パーキンソン病と闘ってきた。頭はしっかりしているのに、手が振るえ、足元がおぼつかなくなって、言語障害もしだいにひどくなっていった。

 それでも、ごく軽い一眼レフカメラを買い、不自由な体で花の写真を撮るようになった。母や妹、ヘルパーさんに体を支えられるようにして撮影をつづけた。四季折々、花の輝きを一瞬で切り取るため、その場に長い時間たたずんで撮影することもよくあった。

 毎年、12の作品を選んで卓上カレンダーに印刷し、人に買ってもらうようになった。その作業をつづけるうち、花のカレンダーは評判を呼び、メディアでたびたび紹介されるようになった。カレンダー作りは、体がついていけなくなるまで10年間つづけた。その間、作品をパネルにして各地で展示会も開かれた。

 症状は一進一退で、しだいに重くなっていった。入退院を繰り返し、2011年9月20日、ついに帰らぬ人となった。古川さんが目にしたのは、その死亡記事だった。後日、姉の作品を母と妹がまとめた写真集が完成し一般にも販売されるという記事を読み、ぼくの実家に写真集を買いにきてくれた。そのとき、母に手渡したのが自作のエッセイだった。

 「このエッセイについて、ブログに書いてよ」と、母は言ってきた。ぼくは古川さんの自宅に電話を入れ、いきさつを聞いた。

 昭和33年3月、当時の出雲産業高校を卒業した。学校では、父から商法と民法を教わったという。「堅くてまじめ、冗談も少なく面白みのない授業でした」。たしかにそういう父だった。エッセイにはこんなエピソードがつづられている。

 <ある日の授業の時だった。黒板に歌の詞を書かれた。『これは自分の卒業した旧制三高の寮歌だ』と言われた。『琵琶湖周航の歌』の歌詞だった>

 歌詞は6番まであるが、父は教室で1、2番を歌い、授業をつぶしてクラスの生徒全員に合唱させたそうだ。

 ♪われは湖(うみ)の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと♪

 <まだ蛮カラな気風が残っていたその当時の私たちが、特に二番の歌詞 ♪雄松(おまつ)が里の乙女子は・・・はかない恋に泣くとかや♪ のフレーズに『乙女だと』、『恋だと』と男子生徒も、女子生徒も照れと気恥ずかしさでワーワー騒いだ>

 それがきっかけとなり、生徒たちは父に親しみを覚えた。卒業式の数日後、古川さんは男子4、5人と連れ立ってぼくの実家へ遊びに来た。

 <若い奥様、先生となにを話しただろう。そのまわりを走ったりしていた子供がいた。女の子もいた。その子がそのお嬢さんだったのだろう>

 昭和33年の春といえば、姉が6歳、ぼくが4歳のころだ。妹はまだ生後4か月だった。古川さんが覚えているのは、まちがいなく姉とぼくだった。当時7歳の兄は、お客さんのまわりを走るような子ではなかったはずだ。

 このエッセイを一読したぼくのかみさんは、「文章が上手ね」と言った。聞けば、古川さんは、地元のエッセイ同好会に参加していて、月に1回、先生の指導のもと、各自の作品を批評しあっているという。仕出し料理の会社を経営していたが、息子に譲って会長職に退き、悠々自適の日々を送っている。

 新聞のお悔やみ欄を目にする1週間前、古川さんは、親鸞聖人750回御恩忌法要で京都の西本願寺に参拝し、バスでホテルへ向かった。琵琶湖の湖畔に差しかかり、ガイドさんが『琵琶湖周航の歌』を歌った。

 <私も大きな声で歌った。となりの家内が「よう知っているね」という。その時、昔の話をしたばかりだった。湖上を中秋の満月が照らしていた>

 卒業生さんたちは、ぼくの実家に泊まったという。母も、それは覚えていないそうだが。

  <夕食は子供向きの甘いカレーだった>

 古川さんは言う。「そのころ、カレーはまだ珍しかった。それに、とっても甘口だったので記憶に残ったのかもしれません」

 教師の家に生徒が遊びにいく牧歌的な時代だった。

 母は、生徒さんが来ると、たいていカレーライスを大量に作って出していた。表座敷で学生服姿のお兄さんたちが大声でおしゃべりをし、カレーを食べていた情景を、ぼくもはっきり覚えている。

 父は学校で“カレーライス”というあだ名をつけられたのだった。

 --毎週木曜日に更新--

| | トラックバック (0)

インどイツ物語ドイツ編(36・終章)【愛兎RAB、絶体絶命】

      97年春

 ドイツを離れる日をXデーとし、わが家はてんてこ舞いの毎日を送った。仕事の引き継ぎの資料を作り、荷造りをし、車2台の処分も考えなければならない。

 妻が子どもたちの送り迎えとショッピングなどに使っていた仏ルノー社製の赤いクリオを、まず、中古車ディーラーで査定してもらった。最初のディーラーは、車が盗難未遂事件に遭い配線カバーがちょっと傷ついていることに難癖をつけてきた。

 そんな値段か、とちょっとがっくりしながらも、翌々日、別のディーラーに妻を連れて訪れた。すると、ろくにチェックもしないで「クリオは、何と言ってもヨーロッパのカー・オブ・ザ・イヤーになった人気車ですからねぇ」と、最初のディーラーの2倍近い買い値をつけてくれた。

 妻とぼくは顔を見合わせ、即、売ることに決めた。なんと、営業マンはぼくたちを待たせ、金庫からキャッシュの束を持ってきた。その場で愛車を引き渡して、取引はすぐに終わった。

 ボンで買い3年間乗りつづけた車だけに愛着もあったが、別れを惜しむ間もなかった。ぼくたちには、まだ、山のように処理すべきことが残ってもいた。

 95年の夏に買ったメルセデス・ベンツは、意外にも、売りさばくのがむずかしかった。ディーラーが言うには、サンルーフがついていないことと色がポーラーホワイトなのがネックという。ドイツ人は、日本人とちがって白い車はあまり乗りたがらないそうだ。

 「それだったら、どうせ日本でも車がいるんだから、持って帰ればいいんじゃない」

 妻のひと言が背中を押して、引越し業者に日本への個人輸出の手配を頼んだ。そのコストは、日本で改めて車を買うことを考えれば、数分の一ですむようだった。

 国際引越しの最大の難題は、またも、わが家のスーパースター、ウサギのRABだった。ボンからベルリンに移ったときも、結果として、こっそり飛行機のキャビンに乗せて運んだ。

 今回もその手でいくしかない。うわさに聞くと、まともに持ち帰れば、成田空港で検疫のために数日間、預けなくてはならないようだ。その手間とお金がもったいない。

 いよいよXデー当日、RABを小さ目のダンボール箱に入れ、それをバッグに納めた。ベルリン・テーゲル空港で、日本人学校のシノハラ校長とマツノ事務局長などに見送られ、国内線に搭乗した。ここでのセキュリティではX線にばっちり映ってしまったが、無事通過した。

 そして、フランクフルト空港で成田行きの国際便に乗る時だった。ぼくは持ち込み手荷物のノートパソコンのチェックを受けるため、家族とは別のカウンターへ行っていた。妻によると、大柄でがっしりした体格の中年のおじさん係官が、バッグの中にウサギが入っていることに気づいた。

 妻や子どもたちがどきどきしていると、係官はナイフかハサミのような刃物をどこからか持ってきた。

 わっ、RABちゃんが殺されちゃう!

 胸がどきんと鳴ったとき、警備員は、RABのダンボール箱に、ブスッ、ブスッと穴を開けた。

 なんだ、息がしやすいようにしてくれたんだ。親切なドイツ人はここにもいた。

 RABは無事、成田空港に着いた。税関では、子どもたちが問題の“密輸バッグ”を乗せたカートを押してすーっと通り抜けた。1歳と8か月のRABは、ついに日本の土を踏んだのだ。

 RAB用の大きなケージは、船便で運んだ。東京近郊に新居が決まり、ケージもやがて到着して、RABは元気な日々を送った。

 優士は、自宅から1キロ以上離れたところにある公立の小学4年生となった。東京のベッドタウンで人口急増地帯のため、クラス転入生は他に5人もいて、自然に溶け込んだ。「ベルリン日本人学校から来ました」と自己紹介したら、みんなエーッと驚いた。

 舞は3年生のクラスに転入した。あこがれのランドセルをしょって通学するのがうれしくてたまらなかった。

 ドイツからの生きたお土産となったRABは、のちにピーターラビット種の真っ白なお嫁さんをもらい、6人の子をもうけ、10歳と半年も生きて大往生した。

 ――完

| | トラックバック (0)

インどイツ物語ドイツ編(35)【焼き鳥注意報】

      97年早春

 「国際映画祭のパーティがあるんだけど、いっしょに行く?」

 どちらかと言えばミーハー系の妻は、「行く、行くっ!」と叫んだ。

 当日、子どもたちも連れて出かけると、ベルリンに10数件ある日本レストランの中でもっとも大きい店だったが、東京の終電くらいに込んでいる。

 店内のどこにどう行けばいいか分からない。

 「こんな所で迷子になったらみっともないよ」

 子どもたちの手を引いて進んで行った。人混みにぽっかりあいた穴の中へ迷い出ると、タカハシ大使夫妻が目の前に立ち、隣に浅黄色の和服を着た女性がいた。そこへ何台ものカメラが向けられている。あわてて脇へどくと、フラッシュがいっせいに光った。

 和服の人は、女優の岩下志麻さんだった。妻は知り合いにわが家のカメラを手渡し、岩下さんといっしょに撮ってもらおうと必死だ。でも、あたりはミーハー系であふれかえっている。

 テーブルには食べ放題の日本食が並んでいるが、ここもラッシュだった。優士と舞は、かろうじてタレつきの焼き鳥を手に入れてもどってきた。

 やっと岩下さんの横があくと、子どもたちがつつーと近づいた。

 「焼き鳥、焼き鳥ッ!!」。

 妻が岩下さんの顔のまん前で、押し殺した声で叫ぶ。いかにも上等そうなお召し物にタレでもつけられたらたまらない。

 ぼくが映画関係者に取材をしているあいだ、妻はマネージャーらと食事をしていた岩下さんに頼み込んで、舞との写真を撮らせてもらった。

 妻は、今度は飲み物、食べ物の確保で忙しい。いつのまにかそばを離れた子どもたちを探すと、トイレに通じる廊下でだれかとおしゃべりをしている。

 「日本人学校のこと聞かれたよ」「あのおじさん、とてもやさしそうだった」

 最近の日本のテレビ・ドラマなど見る機会もないから、優士も舞も相手がだれか全然知らない。「やさしいおじさん」は、俳優の長塚京三さんだった。長塚さんも、子どもたちとの写真におさまってくれた。

 パーティは、ベルリン国際映画祭に参加した篠田正浩監督作品『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』のキャンペーンの一環だった。

 翌日曜日の朝、上映会を観に繁華街の映画館へ行った。日本人学校のアカミネ先生一家といっしょになった。ゲートで招待券を見せたが、細身の若い女性係員は「ちょっとここで待って」と通してくれない。しばらく立ったまま待つ間に、ドイツ人らがどんどん中へ入っていく。

 「どうして入れてくれないんだ」

 詰め寄ると、女性係員はドイツの典型的接客調でそっけなく言った。

 「18歳未満は、指定映画以外は観られないと法律で決まってますから」

 日本の映画配給会社が雇っていたドイツ人通訳もいっしょになって交渉してくれた。

 「きのうの上映会では、子どもも入れたじゃないですか」

 「きのうのことは知りません」

 こうなると、ドイツ人はテコでも態度を変えない。アカミネ夫人が「子どもたちはうちであずかってますから」と申し出てくれた。

 作品が、もしグランプリの「金熊賞」でも獲得すれば、ぼくは記事を送らなければならない。そのとき、どんな映画か観もしないで書くわけにもいかなかった。結局、アカミネ先生とわが夫婦だけが中に入った。

 日本では、原則として誰でも映画館に入れ、「成人向け」が例外としてある。ドイツはまったく反対で、未成年向けの指定映画があるらしい。いわゆる教育上よくない作品を子どもたちから遠ざけるためだが、民放テレビを観れば、そんなルールがあるとは信じられない。

 週末の深夜に限られてはいるとはいえ、下のヘア丸出しの過激番組がいくつもある。いわゆる本番のバッチリ映った番組が流れることもある。夜のパーティに親が出かけた後、子どもたちがこっそりチャンネルを合わせているかもしれないではないか。男女の愛欲の極地を描いたとされる日仏合作映画『愛のコリーダ』が、ノーカットで放送されたこともある。

 庭の芝刈りは昼寝時間帯はだめ、洗濯は夜8時まで、と何でもかんでも法律で決められている。もともとはドイツ式合理主義から生まれたのだろう。その合理性が時の流れとともに失われても、一度決めたことはちょっとやそっとで変えようとしない。

 逆に、社会でいろいろ不都合があっても、「法律にないから」と変な理由であまり問題にならないことも少なくない。

 『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』は、篠田監督渾身の力作で、戦後の混乱期に戦死した長男の遺骨を郷里に埋葬するため、家族で旅に出る物語だ。描写はノスタルジックで、成人向けどころか文部省推薦にさえなりそうな作品だった。

 日本での一般公開より3か月近くも早く、しかも招待券で観ることができた。前夜のパーティでは「ミーハー写真」を撮り、おいしい日本食までごちそうになった。それでも、映画館を出るとき、未成年締め出しですっきりしないものが残ったのは事実だった。

 ぼくたち一家は、もうすぐドイツでの任期を終え、日本に帰ることになっていた。ボンとベルリンでの日々は、文化のちがいは痛感しながらも、実に面白く楽しかった。

 引越しと後任への引継ぎ準備でほとんど寝る暇もないある日、タカハシ大使夫妻が、ぼくたち夫婦を大使公邸でのさよなら昼食会に招いてくれた。タカハシ夫妻とは、もともと、ボンの週末テニス仲間で、いっしょにテニス合宿に行ったこともある。そして、偶然、同じ時期にベルリンへ転勤になった。

 昼食会のメインディッシュはフォアグラのソテーだった。大使に、ドイツでの取材と生活の感想を聞かれた。ぼくは赤ワインのグラスを手にしたまま、即座に答えた。

 「ひと言で総括すれば、“Nicht schlecht”ですね」

 この言葉が大使夫妻に大受けした。「そうですか。ニヒト・シュレヒトですか。言い得て妙だな」

 英語で言えば“Not bad”、悪くない、という意味だ。

 正直に言って、かつてインドを離れるときには、これでやっと日本へ帰れる、と思った。今回は、子どもたちも「もう2、3年はいた~ぃ」と言っている。いろいろあったが、さまざまな人たちと知り合い、親切なドイツ人もたくさんいた。ドイツ暮らしは、確かに、悪くはなかった。

 〔短期集中連載〕

| | トラックバック (0)

インどイツ物語ドイツ編(34)【夢の学校 白雪姫も大人になる】

     97年早春

  「ツーガーベ、ツーガーベ!」

 ステージに勢ぞろいして終演のあいさつをする日本人の児童生徒に、ドイツの子どもたちからアンコールを求める大合唱が飛んだ。

 ベルリンのドライリンデン小学校。近所にある日本人学校が、全校でドイツ語劇『白雪姫と7人の小人』を熱演したのだ。

 全校といっても、小中学生合わせてわずか10数人。ドイツ統一の熱狂の中で創設準備が進められ、4年前開校した。だが、その後、日本企業の撤退が相次いだため、首都機能が99年にボンから移ってくるまで、日本人社会も学校もこぢんまりしたままだ。

 日本では最近、クラスや学年の枠を超えた「タテ割り教育」が学校改革の一環として試みられているが、ここではそれがいやおうなしに実現した。大きな子は自然に小さな子の面倒を見、下の子は上の子に刺激されて伸びて行く。家族的な、いじめも不登校も無縁の世界だ。

 『白雪姫』はもともと、学校祭で上演された。週に2時間、ドイツ語の授業があるが、低学年や転入間もない子にドイツ語のせりふは難しい。本番ひと月前、Mちゃんは練習でべそをかいていた。でも、1週間ほどに迫ったある日、発音などの指導にあたる事務局長に、自分からせりふを口にしてみせた。「これでいいでしょ」と笑顔を添えて。

 学校祭に招かれたドライリンデン小学校の副校長は、全員参加のドイツ語劇に舌を巻き、即座に自校への「出張公演」を依頼した。

 当日、開演を前に、副校長はこうスピーチした。

 「日本人の子どもたちにとって、ドイツ語のせりふを覚え、劇を演じるには大変な努力があったはず。そのことを考えながら見て下さい」

 ドイツの子どもたちは一般的に、劇場などで行儀がいいとは言いがたい。だが、幕が開くと静まりかえった。「ドイツ語でも私にはあんなにうまくできない」。3年生のウリーちゃんは幕あいに興奮していた。

 「ドイツ人には学校間交流という発想がなく、開校以来、すれ違いと試行錯誤の連続でした」と、日本人学校のある関係者は語る。それでも毎年、日本式の運動会などにドイツの先生と児童を招いてきた。

 昨年来、ドライリンデン小学校の4年生全員が担任の先生に連れられ、突然、日本人学校にやってきて、先生も含め全員に手作りの「お菓子の家」をくれた。日本の遊びや食事を一緒に楽しむ「交流会」に招待したことへのお礼だという。「4年かかってようやく大きな手ごたえがあった」と先生たちは感激した。

 「ドイツの子は乱暴で、欲張りだなどと、うちの学校の子どもたちにも偏見があった。劇をこれほど真剣に見てもらい、それもなくなるでしょう」

 アンコールの大喝さいに包まれ、舞台衣装の「小さな外交官」たちはほおを染めて立ち尽くしていた。ステージのそでで、先生や事務局長は目を潤ませていた。

 (読売新聞1997年2月24日付けから)

    ☆★☆★☆★☆★    ☆★☆★☆★☆★    ☆★☆★☆★☆★

 ベルリン日本人学校の元在籍生は、西暦で「0」と「5」のつく年の夏、東京で大同窓会を開いている。卒業生だけでなく、親の仕事の関係で数か月だけ在籍した者でも、参加資格がある。

 出身地は全国にまたがり、海外で活躍する者も少なくない。幹事団は、大学2年生の世代が担当することになっている。

 2005年夏、第1回が信濃町のレストランを貸し切って開かれた。出席した卒業生は約50人だった。一番の特徴は、保護者たちが元在籍生以上にたくさん参加することで、広いレストランは人であふれた。

 子どもは都合がつかなくて出席できなくても、親だけが参加するケースもある、珍しい同窓会だ。

 幹事団は、元在籍生にメールで連絡をとり、欠席者をふくめた名簿を作成、会場で手渡してくれた。そこには、各自のコメントが集められていた。

 「自分探しの途中です」(ユキ)「大学生活をエンジョイしてます」「都内の大学で2年生です。勉強よりも趣味のオーケストラに夢中、目の前の今を楽しむ毎日です」(フウコ)

 成長したんだなぁ。

 「 卒業生第1号結婚しました」(ユキ)というのもある。もうそんな年ごろになった人もいるのか。

 「ハンガリーのリスト音楽院に通学しております」(ケント)。将来が楽しみだ。

 先生たちからは、こんなコメントが寄せられた。「ぎりぎりまで日程を調整したのですが、出張や会議やらで出席できなくなりました。北海道の空から乾杯!」(シブカワ)「懐かしかった。なんかウルウルきましたよ。ヴァンゼーの公園で遊びたいね」(オグラ)

 そのオグラ先生は、ベルリンの現地採用で、学校創設準備以来のメンバーだ。同窓会には妻子を連れての一時帰国中で、参加してくれた。日本人学校では、先生と子どもたちの仲もすごく良かった。オグラ先生は個人的に、ある夏、ケンゴ君、コウスケ君、コウジ君と森のなかでキャンプをし、カヌー遊びをしたという。子どもたちも、その時のことをもちろんよく覚えている。

 タカシ君は、学校のすぐそばにあった湖ヴァンゼーが全面凍結した時のことが印象に残っているという。「みんなで氷の上を歩いて、かなり遠くまでいってみた」

 トモコちゃんは、小5から中1まで在籍した。ドイツ語劇『白雪姫』でヒロインの白雪姫を演じた。王子様が最後のシーンでキス(のふり)をするとき、ドキドキした。いまでは、銀行員となった。

 2010年夏には、信濃町の同じレストランで、第2回大同窓会が開かれた。前回以上の参加者で、会場はわいわい大にぎやかとなった。

 キヨシ君は、この同窓会に出るためだけに沖縄から弾丸で参加した。卒業生第1号結婚したユキさんは、母親4年生になった。非常勤でホテルの専門学校の英語講師をしている。ガーデニングにはまっていて、庭でのんびり娘とお茶をするのが何よりの楽しみという。

 コウジ君のように、ほんの短いあいだしか在校しなかったが、「人生のなかで決定的な体験になった」という者たちも少なくない。

 北海道大学大学院の1年生カオル君は、空路、飛んできてくれた。カオル君と同じクラスだった優士は欠席したが、こんなコメントを寄せた。

 「社会人1年目です。日本で最初に作られた知的障害者施設で働いています。常盤貴子さん主演で映画化もされた施設です。最近は趣味で写真撮影をよくしています。ミクシィで公開したりしています」

 センダ先生も、一度日本にもどった後、ふたたびベルリンで暮らしているが、わざわざ同窓会に参加してくれた。

 ブラジルのリオデジャネイロ日本人学校に赴任していたアカミネ先生も、任期を終えて帰国し、大分から家族連れで参加した。閉会前の先生のあいさつで初めて知ったことがある。

 ベルリンにいるとき、ぼくが先生に「日本に帰ったあとも、みんなで集まれる親子同窓会を開けば楽しいでしょうね」と提案したのだという。言い出しっぺはぼくだったのか。

 ぼくは、ボンで日本語補習校の運営委員をしていた関係から、ベルリンの学校でも保護者会長兼理事をさせられていた。日本人学校へ顔を出す機会も多く、アカミネ先生とそんな話をしたのだろう。本人はすっかり忘れていたのに、それが実現した。

 実は、同窓会の第0回というのがあり、その時は、アカミネ先生たちが主導して開かれた。席上、次回からは子どもたち自身が幹事役になることが決められ、こうして2回の本番を重ねたわけだ。

 そして、第2回の同窓会でも、次回の幹事団が決められた。いまは高校生だが、幹事になるときには大学生の年代で、きっとうまくやってくれるだろう。

 新旧の幹事団に拍手!

 〔短期集中連載〕

| | トラックバック (0)

インどイツ物語ドイツ編(33)【晴れのち晴れ=後編】

      96年晩夏

 「日本の運動会みたいに、明け方から場所取りするなんてことなくていいわね」「日本では、校庭のフェンスを乗り越えて入って、厳重注意される人がいるくらいだものねえ」

 お母さんたちがぺちゃくちゃやりながら、長机ひとつの「本部席」の横にシートを並べる。とはいえ、大人も出番が次々あり、席を暖めている暇がない。

 「ラジオ体操第1」も全員参加だ。「30年ぶりくらいかなあ」と言いながら、体を動かすと、それだけで結構疲れる。ドイツ人親子も見よう見まねでぎこちなくやっている。

 大人だけの競技では、わが夫婦がAチームの主将にさせられた。竹篭を背負って走っていき、ドッジボールを地面にワンバウンドさせて篭に入れる。コーンを折り返して帰ってきて、ボールを取り出し篭を次の人に渡す。

 オグラ先生がお手本を見せてくれた。「先生、よく似合ってますよーぉ」。ぼくが声をかけると、妻が調子に乗って「お猿のかごやみたーい」と言う。「私もそう思ったけど、悪いから口にしなかったのに」とアヤコちゃんのママがつぶやく。

 トップバッターはかなりのプレッシャーがかかる。何とか一発でボールが入り、内心「よかったーぁ」と叫びながら折り返した。Aチームの面々や子どもたちからの大歓声が快感だ。

 つづいて妻も一発で決め、意気揚々と帰ってきた。Bチームの主将になったカオル君のパパは何回やっても入らず、すっかりあせっている。2番手のママも大苦戦だった。これなら、Aチームは圧勝しそうだ。

 わが夫婦は、日本にいたとき、子どもの幼稚園の運動会でも「賞品稼ぎ」で鳴らした。優士が年小組の時、2人3脚縄跳びで1等賞になり本部席で受け取ったのは、なぜか醤油の小瓶2本だった。しばらくの間、わが家のキッチンにはのし紙を巻いた醤油瓶が誇らしげに飾られていた。

 ベルリンの運動会で、わがチームはいつの間にか大逆転されてしまった。それでも体を動かしたから、お昼の缶ビールがうまい。隣の席はアカミネ先生一家で、奥さん手作りの豪華弁当を広げている。先生に缶ビールを渡そうとしてやめた。「勤務中ですもんねえ」と言うと「本当は飲みたいんだけど」と恨めしそうだ。

 わが家の弁当も負けてはいない。妻はいつも行楽弁当に関しては、実家の母親の流儀を受け継ぎ、こだわりを見せる。巻き寿司、稲荷寿司、鶏の唐揚げに必ずおでんが付く。練り物はもちろんうずらの卵や筍の水煮など、外国では手に入りにくいものをどこかで見つけ、2、3日前から気合いを入れて仕込む。

 「優士、アルミちゃんのお父さんに渡して」と1缶を持たせた。「“文部省後援”の行事だからアルコールはまずいかなと思って持って来なかった」と言っていた。金属の研究で博士号を取った人で、石部金吉かと思えばとんでもない。金属に入れ込むあまり、長女にアルミニュームからアルミと名付けた。本名はもちろん漢字で、とても可愛い感じの名前だ。次女が生まれ「ニューム」と付けようとして、さすがに奥さんに反対されたという。

 子どもたちはさっさとお昼を済ませ、グラウンドで遊んでいる。ドイツ人の子どもたちは1輪車に挑戦しているが、そう簡単にはいかない。タロー君や舞が得意そうに乗り回している。

 雷鳴が急に近くで聞こえ出した。遠くの雲も一段と黒くなったようだが、頭上の空はまだ青い。

 午後の最初のプログラムは綱引きだった。参加者全員がふた組に分かれ、ドイツ製らしいちょっと細目のロープを持った。ちょうど日本総領事館のタカハシ大使夫妻が激励に来てくれた。「今ごろグリーン上かと思っていましたのに、わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」

 とても気さくなおふたりだから、ぼくが綱引きに誘うとふたつ返事だった。「えっ、いっしょに引いてくれるの!」。よその奥さんたちが驚いている。

 理事長が「ツィーエン(引けっ)で引くんだよ」とぼくたちのチームに声をかける。日独合同だからかけ声はドイツ語だ。たかが綱引きでも、ホイッスルが鳴ればみんな真剣になる。3回戦い、1対2で負けてしまった。

 次の子どもたちの競技の写真を撮ろうとして、手に力が入らない。「明日はひどい筋肉痛かなぁ」という声があちこちで聞こえる。

 運動会の定番、玉入れ競争は今回初めて取り入れられた。先生たちがベルリン日本語補習校から借りてきてくれた。篭はひとつしかないから赤白対抗とはいかない。来賓もドイツ人親子もふくむ参加者全員をその場でふたつに分け、1回戦勝負となった。

 「ひとおつ(アインス)」、「ふたあつ(ツヴァーイ)」と2か国語のカウントが続く。35対42。優士たちのチームから歓声があがった。

 ハイライトはリレーだ。大人たちの参加を呼びかけるアナウンスがあると6、7人のドイツ人が、集合場所へ歩いていく。高めのヒールの靴をはいた女性もいる。日本人はひとりも出ない。日本人学校の運動会なのにドイツ人だけが走るのをながめるのは悔しい。しかも最後のプログラムだ。

 全力疾走などしばらくしていないからひっくり返るかもしれないが、ひとりでも参加することにした。集合場所から保護者の応援席に手招きすると、タロー君とマユミちゃんのパパたちがきてくれた。アルミちゃんのパパも「ビールの借りがあるから」と加わった。
 まず、日本人の児童生徒が紅白戦をした。人数合わせでシノハラ校長先生は舞と一緒に走った。マツノ事務局長も重そうな体で力走した。

 いよいよドイツ人親子と日本人の大人の番だ。適当に分かれると、たまたまぼくが列の最後に立っていたのでアンカー用の青いベストを渡された。係りのセンダ先生が白鉢巻をたくさん持っている。ぼくは「どうせなら雰囲気を出したいから」と1本もらい頭を締めた。

 スタートのホイッスルが鳴り、ドイツ人のちびっこが飛び出していく。しゃがんで順番を待っている間、じわっと緊張感が湧いてくる。リレーで走るなんて中学校以来か。

 ぼくたちの組は快調でぐんぐんリードしている。気がつくとタロー君のパパが走っている。次がアルミちゃんのパパで、もうアンカーにくる。

 バトンを受け取った時、相手チームは最後から2番目の選手がまだゴールラインで待っている。何かおかしいな、と思いながら走りだした。若いころのイメージで走ると下半身がついていかずころんでしまうと言われる。7割ぐらいの力で、と言い聞かせ走っていると意外に早くゴールが近づいてきた。

 「もう1周、もう1周」という声が聞こえる。え、やっぱり人数が合ってなかったのか。ゴールに飛び込んだままもう一度コーナーを回った。胸が痛い。2周も走るんならやめておけばよかった。振り向くと差は詰められていない。ゴールではセンダ先生たちが白いテープを張って待っている。万歳しながら走り込むと足がよろけそうになった。子どもたちの歓声が初めて耳に入った。

 閉会式で校長先生があいさつしていると、雨が落ち始めた。空はなんとか持ってくれた。学校もどうにか続けていけるだろう。人口350万人を抱えるヨーロッパ屈指の大都会の片隅に、大人たちもドイツ人も巻き込んだこんな寺小屋のような学校があった。伝説になる日はそう遠くないだろう。

 〔短期集中連載〕

| | トラックバック (0)

北朝鮮を嗤えない すぐそこにもある独裁メカニズム

 読売グループをめぐる“清武の乱”が世間を騒がせている。これを横目でみていて、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件を連想した。

 第2次大戦中、敗色濃厚となったドイツ国防軍のシュタウフェンベルク大佐が、ヒトラーのいる総統大本営会議室に爆弾をしかけた。爆発はしたものの、ヒトラーは危うく難を逃れた。実行者の大佐や同志の反ヒトラー派将兵グループは、身柄を拘束され、惨殺された。

 戦後、ヒトラーは<悪いドイツ人>の象徴=絶対悪とされ、それを排除しようとしたグループは、(西)ドイツで<善いドイツ人>として英雄視された。

 国防軍は正規軍であり、ナチス親衛隊などナチ組織とは、いちおう一線を画していた。したがって、シュタウフェンベルク大佐らはナチスではなかったが、生粋の軍国主義者であり、ヒトラー亡きあとも民主的な国家再建を目指していたわけではない。ヒトラーがトップにいる限り敗戦は免れない、とし国防軍が戦争を主導するため決起しようとした。

 そういう意味では、どっちもどっちだ。しかし、トム・クルーズ主演の米映画『ワルキューレ』(2008年)でも、大佐らを美化して描いていた。

 “乱”に失敗し巨人軍の代表兼GMを解任された清武氏とは、ぼくは30歳前後のころ机を並べて仕事をした。敏腕記者として鳴らし、巨人軍に移ってからも数々の新機軸を打ち出してきた。

 清武氏は、ナベツネこと渡邉恒雄・読売グループ会長のコーチ人事介入に耐えられず、その独裁体制に風穴をあけようと決起し、つまづいた。

 世界の独裁体制には、大きく分けて北朝鮮型とナチス型があると思う。北朝鮮では、抗日パルチザンのリーダーだった金日成が、大戦終結直後、ソ連の支援を受けて北朝鮮労働党を組織し、北朝鮮の指導者となり、やがて72年に独裁者となった。2011年12月19日に急死した金正日は、父親の独裁権力を世襲した。

 つまり、北朝鮮では、民衆があずかり知らないところで、上からの独裁体制が築かれた。 これに対し、ヒトラーは一兵卒からのなり上がり者だった。巧みな演説と不思議なカリスマ性で人心を掌握し、選挙によって第1党の党首となり、首相の座についた。ナチ党を基盤として国民をつぎつぎとナチ化し、独裁体制を固めていった。出世しようと思えばナチになるになるのが一番であり、一般国民のほとんどもナチズムに酔った。

 つまり、ナチスドイツは、下からの独裁だった。

 ナベツネ独裁体制は、ナチス型だ。もちろん、読売新聞が戦争や大虐殺をしたわけではない。あくまで、組織論から考えればパターンがよく似ているということだ。

 ナベツネが大学生時代、共産党員だったことは一般に知られている。ある事件で宮本顕治の逆鱗にふれ、党を除名された。その後、保守に傾くようになった。

 読売に入ると政治部に所属し、自民党・大野伴睦の番記者となった。中曽根康弘氏とも盟友関係となり、政界、社内で影響力を持つようになった。そのころ「組織は5%の人間を押さえれば、全体を牛耳れる」と語っていた、とぼくはある人物から聞いたことがある。それは、共産党のシンパ作りの手法そのものだという。

 ナベツネは、まず、政治部の5%を確保し、それから部全体を掌握した。つづいて、経済部を手中に収めた。社会部とはまだ敵対していた。

 だが、社長になって少し経ったころからか、社会部、社会部出身の幹部を篭絡していった。出世しようと思えばナチになるになるのが一番、という原則がここにもある。

 清武氏も、その当時は「あの人も、ナベツネの軍門に降ったか」などと言っていたのを思い出す。編集局でも、ぼくがいた外報部(現国際部)をふくめ、大多数の記者はナベツネに反感を持っていた。

 なにしろ、言論機関でありながら、紙面には言論の自由などなかった。なにか核心を突くスクープ記事の原稿を書いても、社論や社の政治利権に反すれば、ナベツネ自身ではなくナベツネ体制の尖兵となった幹部が握りつぶしてしまう。清武氏も社会部などにいてそういう経験をしたことを、本人の口から聞いたことがある。

 社内で出世するということは、ナベツネの軍門に降ることとほぼ同義語だった。そして、社内にはミニナベツネがいくらでもいた。

 ナベツネは、ぼくもメンバーだった社内の「憲法研究会」にほぼ毎週顔を出した。頭のキレはずば抜けていたが、権力志向があまりにも強く、方向性をまちがえていると思う。

 ある週刊誌は今回の“乱”をめぐり、「清武氏が巨人軍内でミニナベツネになっていた」と報じた。彼自身は、ナベツネの軍門に降ったわけではない、と思っていたのかもしれないが、はたから見ればヒトラーの威を借るナチ幹部と同じだっただろう。

 独裁体制下で、人がどんどんナチになっていくのは、読売に限ったことではない。たとえば、創業家出身の前会長が不正に106億円もの借り入れをしていたとして大騒ぎになった大王製紙でも、「絶対的に服従する企業風土があった」と朝日新聞は伝えている。

 権力者の軍門に降るのは、人の習いなのだろう。つまり、ナチはあなた自身かもしれない。少なくとも、あなたのそばには、ナチがたくさんいる。

 --毎週木曜日に更新--

| | トラックバック (0)

«インどイツ物語ドイツ編(32)【晴れのち晴れ=前編】