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2009年7月

樫本大進君が、大進撃!

 「ねえ、樫本大進さんがテレビに出てるわよ」。2009年7月27日、妻の声にリビングへ飛んでいくと、あの天才ヴァイオリニストが、ついに世界の最高峰ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスターに内定したという。その記者会見をしていた。ベルフィルのオーディションに挑戦し、見事合格した。9月から2年間は試用期間だが、その技術と音楽センスで、正式な団員となるのはまちがいないだろう。

 ぼくが樫本大進(かしもとだいしん)君に取材したのは、ドイツのリューベックだった。バルト海に面したかつてのハンザ同盟の都市で、ベルリンからはるばる列車に乗って行った。1996年秋のことで、当時、大進君は17歳の高校生だった。

 大進君は、ロンドンで生まれた。大きくなったら趣味でチェロでも弾けるようになれば、と両親が望んで、3歳半からヴァイオリンを習うようになった。1日10分の練習だったというから、英才教育とは程遠かった。

 父親の転勤でニューヨークに住んだ7歳のとき、「趣味で習っていたヴァイオリンをつづけるため」に受けたジュリアーノ音楽院プレカレッジに最年少で受かった。以来、「最年少」がついて回る。ドイツ・ケルンの国際コンクールで最年少の15歳で1位となった。5回のコンクールで一度だけ優勝を逃したが、それでも3位だった。96年のロン=ティボー国際音楽コンクールでも史上最年少優勝を果たした。

 11歳のとき、リューベックに住むようになった。ロシア出身でドイツ在住の著名なサハール・ブロン教授に見込まれてのことだった。両親はドイツへの移住にさんざん迷ったというが、結局、母親だけが大進君と暮らすことにした。ふつうの住宅街にある一戸建てを借りて住んでいた。家の一室を練習場として使っていたが、ドイツの家はしっかりできており、隣近所から「うるさい」と苦情がくる心配はない。お母さんは、家事だけではなく、マネージャーのような役割も受け持っていた。

 大進君は、もともとマスコミ嫌いだったそうだが、ぼくの取材は例外的に受けてくれた。かつての長嶋茂雄選手が大好きで巨人ファンだったことから、「読売新聞の取材ならOK」とお母さんに言ったという。家には、長嶋さんからもらった色紙が飾ってあった。当時、ドイツの現地校に通っていたため、ドイツ語が母語になっていた。英語ももちろんぺらぺらだったが、日本語でインタヴューした。後で、お母さんに「日本語ではニュアンスがうまく伝えられなかったかもしれない」と語ったという。

 ヴァイオリンを弾いているところを写真に撮りたい、と申し出ると、ケースから取り出し、いきなり練習曲を弾きはじめた。至近距離でカメラを構えたぼくは、太く男性的な音色に圧倒された。数々のコンクールでも、その線の太さが高く評価されたという。音楽の素人のぼくは、剛速球に切れ味鋭い変化球を交えるメジャーリーグの本格派投手を連想した。

 「人前で弾くのがすごく好きです。4歳の初ステージなどを除けば、プレッシャーを感じたことがないんです」

 でも、お母さんによると、かなりの練習嫌いで指導者泣かせだった。ブロン教授は、お母さんから大進君の名前の意味を聞き、「大進じゃなくてダイナン(大難)だ」と嘆いていたそうだ。

 「学校の勉強はきつい」と、コンサート活動は最小限にしていた。英語が得意科目なのは当然として、数学、体育も得意だった。100メートルを12秒台で走る俊足で、大コンクールの練習を放ってクラス対抗リレーのアンカーになったこともあったという。

 ぼくの取材が終わると、「同級生と遊ぶ約束があるから」とふつうの高校生にもどり、出かけていった。お母さんは、ぼくをリューベックでもっとも有名な北ドイツ料理店『船主クラブの家(シッファーゲゼルシャフト)』に案内してくれた。1535年に建造された赤れんが造りの館で、昔日は船主の集まるクラブだったという。そこで海の幸を堪能しながら、大進君との生活のことを聞いた。

 一番大変なのは、反抗期の大進君にとにかく毎日、ヴァイオリンの練習をさせることだという。大進君はもともと練習嫌いだから、疲れて帰ってきた日など、そのまま寝てしまいそうになる。あるときには、定規でたたいてでもヴァイオリンを持たせたという。

 「今日、息子にお話していただいたことをとても感謝しています」とお母さんは言った。何のことかと思うと、ぼくが大進君に「ヴァイオリンの練習は大変だろうけど、質の高い文学や絵画や映画などに触れることも、大切だよ。音楽家としての将来にきっといい影響を与えるよ」と語ったことだった。大成するには、音楽以外でもいかに感性をみがくかだろうと思ったからだ。「私が言いたくても、反抗されたらと言い出しにくかったことです」

 お母さんは、1998年までドイツで暮らし、その後日本にもどった。

 ひとり立ちした大進君は、ときどき来日してコンサート活動をし、日本のファンを着実に増やしてきた。特に、2002年、NHK大河ドラマ『利家とまつ』の音楽を担当して広く知られるようになった。

 2009年5月に行われた小澤征爾指揮のベルフィル演奏会にもゲスト・コンサートマスターとして招かれ、成功を収めた。

 コンサートマスター内定の記者会見では、ベルフィルに以前からあこがれていたことを明らかにし、「11歳のときからドイツに住んでいるので、一番身近にある理想の音楽という感じですね」と語った。また、「イギリス、アメリカ、ドイツと海外を転々としてきましたが、やはりぼくは日本人。日本が好きですし、自分の中にある日本人としてのアイデンティティを大事にしたい」とも口にした。

 大進君は、もう30歳になった。大成してくれたことは、成長過程にほんのちょっとだけかかわったぼくにとってもすごくうれしい。

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ビールは本場物、とは限らない

 夏の盛りとなって、ビアガーデンもピークを迎えているだろう。日本では、土地がせまいせいか、ビアガーデンといえばたいていビルの屋上と相場が決まっている。しかし、蒸し暑い夏に、何で戸外で飲まなきゃいけないのか、つき合わされるたびに疑問に思っていた。あるときは、突然の土砂降りで、ダンボールを傘代わりにして“雨割りのビール”を飲むはめになった。

 本場ドイツでは、緑豊かな公園や河畔、石畳の路上にあるビアガーデンで飲む。第一、夏はさらっとしているから、ビールがとても合う。ドイツ人は、とにかく外で飲むのが好きな人が多く、まだ寒い時期から、夏の訪れを待ちわびて、コートを羽織ってでもビールを飲んでいる。

 ビアガーデンのなかのビアガーデンといえば、ミュンヘンのイギリス庭園にあるビアガーデンだ。ものすごく広い公園の一角に、テーブルがずらっと並んでいて、相当混んでいても座れないことはまずない。地元の日系企業に勤めるYさんに案内してもらって、何度か行った。

 「ここの名物、何だと思います?」。初めてのとき、Yさんはいたずらっぽく聞いてきた。まず、席を確保しておいて、ジョッキやおつまみを売り場まで自分たちで買いに行く。驚いたことに、大きな鯖(さば)を塩焼きにして売っているのだ。これじゃ、日本の海辺の飲み屋と変わらない。ぼくは何だかうれしくなって、すぐに1匹買った。「この街に住んでる日本人は、お醤油を持参して食べるんですよ」。塩味はそれなりに効いているが、ちょっと醤油をたらしたほうが、日本人にはうまいだろう。山国のミュンヘンでなぜ鯖なのか、Yさんも詳しいことは知らなかった。

 もう一つの名物は、ブレーツェルと呼ばれるパンだった。これも、パンには珍しく塩がまぶされていて、周りの席を見ると、ドイツ人はビールのつまみとして食べている。最近では、日本でもときどきブレーツェルを売っているのを見かけるが、味は本場のものとはかなりちがう。

 さて、アサヒビール(株)では、2009年夏、『アサヒ・ザ・マスター』という新商品を売り出した。テレビCMでは、「アイン(1)、ツヴァイ(2)、ドゥライ(3)、プロースト(乾杯)!」とドイツ語でやっているのに、商品名だけがThe Masterと英語だ。「やっぱり変だよね。何でデァ・マイスター(Der Meister)じゃないんだろう?」と、息子も言う。

 週刊誌の広告にアサヒビールのお客様相談室の電話番号が載っていたので、かけてみた。「社内でいろいろ検討したのですが、この商品は、ドイツのビール醸造学の中で権威の高い大学のひとつミュンヘン工科大学から醸造学のマスターの称号を与えられた醸造家が監修したものです。それに、一般に分かりやすいということでマスターにしました」。でも、「マイスターにすべきだった」というお客さんの声はないのだろうか。「それはあります。たくさん、そういう声が寄せられています」。やっぱり、誰でもそう思うだろう。

 広告では、ドイツの「ビール純粋令」に定められた麦芽、ホップ、水だけを使ったドイツ伝統の製法で作っていることが強調されている。EUの中でも、ドイツは製法にこだわっていることで知られるが、実際に飲んで見ると、日本人の舌と喉にはピンとこないこともある。『アサヒ・ザ・マスター』の評判をお客様相談室に聞いてみると、「自分には合わないとおっしゃるかたもいます」という。

 アサヒの一番の売れ筋とされる『アサヒ・スーパードライ』などは、コーンスターチと米が入っている。それに慣れた舌には「麦芽100%」はちょっとあっさり過ぎる。「本場の製法だから」とありがたがって飲むひともいれば、自分の舌に正直にスーパードライを選ぶ人もいるだろう。

 お客様相談室によると、アルコール度8%と強い『アサヒ・スタウト』は、発酵度を高めるために砂糖を使っているそうだ。「ビール純粋令」から言えばとんでもない話だが、日本では、それはそれで固定的な人気があるらしい。

 東京には、『東京ビアガーデン制覇クラブ』という愛好家の集まりがあるそうだ。その人たちは、屋外に席数80以上を確保した店をビアガーデンと定義して、毎年、都内のそれらの店のすべてを飲み歩き、接客や雰囲気、メニューなどをチェックしている。クラブのこの夏の一押しは、京王百貨店新宿店の屋上にある『京王アサヒ スカイビアガーデン』だという。工場から直送されたアサヒ・スーパードライのキレがたまらないらしい。やっぱり、コーンスターチや米が入ったスーパードライが人気なのだ。なぜかアサヒのビールが置いてあるビアガーデンは少なく、希少価値もあるらしい。

 しかし、ぼくは、せせこましい屋上で汗をふきふき飲む気にはならない。どうしても屋外で、ということなら、明治神宮外苑のビアガーデンがお勧めだ。ここだけは、緑も豊かでさわやかな風が吹く。この夏、オープン時刻を3時間くりあげ、正午にしたそうだ。昼に出かけた人によると、子どもづれが目立ったという。バーベキューも食べられるから、ビアガーデンはもはや、おじさん、おばさんだけの社交場ではない。「本場ミュンヘンの味」をうたって、鯖の塩焼きを出したら売れるかも。

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ぼくは勝った!――核廃絶への道をめぐる大論争

 かつて新聞記者をしていたとき、ある同僚と大論争をした。1991年7月に行われた戦略兵器制限条約(SART1)の締結をめぐるものだった。それまでアメリカとソ連は、戦略核兵器を互いに向けてにらみ合い、冷戦を続けていた。それが、この条約で両国の核兵器を計4割、削減することになった。

 ぼくの新聞社は、まるで戦争でも終わったかのような大見出しで、このニュースを伝えた。他のメディアも同様だった。東京本社でその記事を作成する手伝いをしていたぼくは、そうした大扱いに異議を唱えた。冷戦期、米ソの核兵器を合わせると「地球30個分を破壊する威力がある」と俗に言われていた。4割削減でも地球18個分を破壊する威力は残される計算になる。アンパンを30個から18個に減らすという話ではない。全人類は、依然として人質に取られたままだった。

 米ソともに、「核でやられたら、核でやり返す」ことを宣言していた。これを、専門家は相互確証破壊と呼んでいた。英語の略称は“MAD”だった。「まったく馬鹿げた、 無分別な、不合理な」などの意味がある。まさに「まったく馬鹿げた均衡戦略」だった。

 「被爆国・日本の立場としては、もっと冷静に事態を見つめる必要があるんじゃないの。米ソが核を削減するのは、これまで核軍拡を互いにエスカレートさせて、金もかかるし疲れたから、核を少し減らさないか、ということにすぎない。米ソの台所事情の話で、核廃絶なんかまったく考えてはいないんだから、少なくとも日本にとっては大したニュースじゃない」。それがぼくの主張だった。

 同僚は、「それでも、核を減らすというのは、人類史上初めてのことで、それだけでも意義はある」と譲らなかった。

 ぼくは、もうひとつ、理由を付け加えた。「アメリカの大統領選挙で、一度でも核廃絶をアピールして立候補した政治家がいたか? アメリカは核を手放す気なんかまるでなく、より安上がりで安全な方法で、核兵器を持ち続けたいだけなんじゃないか。核削減がミソではなく、核維持がヘソなんだよ」

 それから17年が経った2008年、アメリカ大統領選挙では、バラク・オバマ氏が初めて「核のない世界を目指す」と訴え当選した。ぼくは、オバマ氏がそれをどう実行するか、個人的にも注目していた。ついに、核に脅される世界を変革しようとした政治化が現れたわけだから。

 そして、オバマ氏は、就任した翌2009年の4月、チェコの首都プラハで「核を使用した唯一の国として、アメリカは核を廃絶する責務がある」と、世界に向けて宣言した。
 背景には、2001年の9・11同時多発テロ以後、国際テロ組織アル・カーイダなどに核兵器を強奪される恐れが強まった事情がある。とくに、インドに対抗して核武装したパキスタンが狙われている。オバマ大統領は「核によるテロは、最も急速に極端にグローバルな安全を脅かす」とも述べた。

 オバマ大統領と旧ソ連の核を引き継ぐロシアのメドベージェフ大統領は、この年7月、新しい核軍縮条約の枠組みに合意した。米ロ両国は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、戦略爆撃機を合わせてそれぞれ5576、3909持っている。そこから、核弾頭数を1500~1675個に削減し、ミサイルなど運搬手段も500~1100に減らすことになった。それでもまだ、「地球を10個分以上をぶっ飛ばす」威力は残されている。しかし、核廃絶を究極の目標としている点が、START1のときとは決定的にちがう。

 そして、イタリア・ラクイラで7月に開かれたG8サミットで、「核兵器のない世界に向けた状況をつくることを約束する」とした首脳声明がまとめられた。声明は、すべての核保有国に対し、もっと核兵器情報を開示し核軍縮を進めるよう求めた。討議を引っ張ったオバマ大統領は、席上、2010年3月に、ワシントンで核安全保障サミットを開くことを明らかにした。北朝鮮やイランに、核開発をあきらめさせることも狙っている。

 1998年に核実験を強行して60~70個の核兵器を手に入れたインドでは、与野党、官民をあげず喝采し「これで大国の仲間入りができた」と喜んだ。それが、核の持つ魔力でもある。核の本当の恐ろしさ、非人道性を知らず、単に「巨大な爆弾」だと思い違いしているようだ。パキスタンも同じで、印パの間で核戦争が起きる恐れは、米ロ間よりずっと高い。核をおもちゃのように扱い、外交ゲームをしている北朝鮮は、もちろん、印パよりもはるかに危険だ。

 1980年代に広島を訪ねたスウェーデンのオロフ・パルメ首相(当時)は、原爆の惨禍の実態に大きな衝撃を受け、「国際的に責任を負う国の政治家は、政権を担当したら、すべからくヒロシマを訪れるべきだ」という言葉を残している。パルメは、ヴェトナム平和回復運動や反核運動にも尽力した政治家だ。

 核廃絶は容易ではない。岡田JAPANがサッカー・ワールドカップ南アフリカ大会でベスト4に入る確率よりずっとずっと少ない。それでも、一度使えば人類がおしまいになりかねない馬鹿げた兵器である核を、地球上からなくそうとするオバマ大統領は本気だ。その本気度に期待するしかない。

 オバマ大統領を主役とする核削減への一連の動きについて、日本のメディアは、START1のときのような馬鹿騒ぎはしていない。廃絶への道のりがどれだけ険しいか、分かっているからだろう。騒ぐより、どうすれば実現できるか、一つひとつの問題を検証して行こうという姿勢も見られる。その冷静な姿勢は真っ当だ。

 ぼくは、今にいたって、かつての大論争に勝ったのではないか、と思っている。
 次にぼくが興味を抱いているのは、オバマ大統領が、いつ広島・長崎を訪れ、何を語るかだ。

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ダブル村上では分からない――『1Q84』余話

 かつて、芸能界では、ダブル浅野がもてはやされた。浅野ゆう子さんの端正な顔立ちとずば抜けたプロポーションは、捨てがたかった。でも、彼女の出演するテレビドラマをほとんど観た記憶がない。ぼくは、浅野温子さんのコメディタッチの演技や、さらさらのロングヘアーが好きだった。

 文壇には、ダブル村上が健在だ。その片方、村上春樹さんは『1Q84』が驚異的な売れ行きとかで、脚光を浴びている。上下巻で、すでに200万部を突破したらしい。どんな人が、どんな動機で買っているのだろうか。ぼくには、小説の中身より、そっちのほうが、よほど気になる。

 ぼくはひねくれものなので、ベストセラーは、それが売れているときには買わないことにしている。ブームがおさまってしばらく経ってから、新古書店などで気が向いたら買う。そのほうが冷静に読める気がする。

 村上春樹さんの作品は、群像新人文学賞を獲ったデビュー作『風の歌を聴け』から『羊をめぐる冒険』、『ノルウェーの森』など、4、5冊は読んだ。しかし、なぜかあまり感銘を受けなかった。あの独特の乾いた感じの文体で都会生活を描いた世界が、ぼくには合わないのだろうか。「夏目漱石以降で最も重要な作家」などという批評には「え、そうなの?」と思うしかないし、ノーベル文学賞の有力候補というのが信じられない。
 朝日新聞2009年7月5日付け朝刊の読書欄には、「売れてる本」として『ノルウェーの森』が取り上げられていた。文庫化されており、トータルは975万部だそうだ。その書評がすごい。

 「多くの若者には支持されたが、日本文学のメインストリームからは大きく外れる文学、と考えられた。だが、“失われた”90年代の間に『主流』そのものが失われ、多くの物語はセグメンテーションされ、社会の一部の人々にしか届かなくなっている。万人に接続される小説はなくなったのだ」

 この評者はIT関連の取材・執筆で名の知られる人だ。「セグメンテーションされ」るとか、「万人に接続される」とかの表現は、IT用語から来ているらしい。セグメンテーションは区分や分割のことで、それをむりやり動詞にするなど、新しい日本語を作ろうとでもしているのだろうか。特定の世界の人びとには通じるかもしれないが、新聞にはなじまない。朝日の読者欄は、日本の新聞でもっとも高い評価を受けている。ぼくもそれに異論はない。でも、こんな記事をそのまま載せるのは、いかがなものか。

 「いまや彼の小説は、日本人のみならず世界の誰とでもつながることのできるイコンとして再生したように見える」

 ここまで書かれると、もはや何のことか分からない。イコンと言えば、キリスト教で神や天使、聖人を象徴する絵や像のことで、崇敬の対象とされるもののはずだ。パソコンなどで使うアイコンの本来の意味でもある。ここでもIT用語とかけてシャレた表現だと自己満足しているのだろうか。村上春樹応援団も、ひいきの引き倒しで空回りしているように思える。

 ダブル村上のもう一方、村上龍さんの世界は、ぼくの肌に合う。群像新人文学賞と芥川賞を受賞した『限りなく透明に近いブルー』は、忘れられない作品だ。若者の麻薬とセックスを描いた状況設定は、ぼくの日常とはかけ離れているが、龍さんが書こうとしたものは、よく分かるような気がする。

 この本は、1976年に講談社から刊行されたそうだ。そういえば、1983年ごろ、ぼくはその担当編集者に一度だけ、新宿の喫茶店で会ったことがある。「飛ぶように売れる、というのはこんなものだと経験したのが、あの作品です」と語っていた。

 どうしてぼくは、村上春樹さんの作品になじめないのか。それがようやく理解できる記事に出会った。『1Q84』が刊行される直前、スペインの日刊紙『エル・パイス』のロングインタヴューに、春樹さんが応じている。この新聞は、発行部数が44万部で、スペインではもっとも読まれているという。そこでは、こんなことを語っている(『クーリエ・ジャポン』2009年7月号の翻訳から)。

 ――あなたは、三島由紀夫が好きではないと聞いていますが。
 村上 三島のスタイルが好きじゃないということです。
 ――というのは、彼の文学的スタイルのことですか? それとも彼自身のあり方についてですか?
 村上 読者として好きになれないのです。最後まで読めた作品はひとつもありません。
 ――日本の新しい世代の偉大な作家として“父親を殺す”必要性を感じているのではないでしょうか。
 村上 そうではないと思います。僕は誰も殺したくない。ただ単に個人的に三島の文体と作品が好きではないのです。また彼の世界観や政治的思想にも共感を持てない。

 つまり、ダブル村上を対比させて考えるより、村上春樹vs.三島由紀夫で考えたほうがわかりやすいのではないか。三島の思想も文体も、本質的に外国語には翻訳不可能だとぼくは思う。三島が、結局、ノーベル文学賞を獲れなかったのは、そこに主な原因があるだろう。

 そして、ぼくは、断然、三島作品のほうが文学として上をいくと思っている。その三島の文体も作品も世界観も好きではない人の作品を好きになれないのは、当然かもしれない。

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日本も、第2のコマネチを

 チャウシェスクの名前が歴史から消えて、やがて20年になる。ニコラエ・チャウシェスクは東欧ルーマニアの独裁者で、家族・親族30人以上に共産党や国家の要職を独占させる一族支配をつづけ、「王朝」と呼ばれる強権体制を築いた。ヨーロッパでは、北朝鮮の金王朝以上に、その独裁ぶりが知られていた。1989年12月、革命が起き、悪名高い妻エレナとともに革命軍に公開処刑で銃殺された。この様子はビデオで撮影され、日本をふくむ西側諸国でただちにテレビ放送された。

 ニコラエの後継者と見られていた次男ニック・チャウシェスクは、両親の威光をかさにきていばりちらし、秘密警察「セクリタテア」の幹部だった。ビートたけしさんのギャクで知られるルーマニアの体操選手ナディア・エレーナ・コマネチに、愛人になるよう強要していたといわれる。コマネチは、革命の1か月前、愛人にされるのを嫌いアメリカに亡命した。ニックは革命が起きると車で逃げようとして逮捕され、横領などの罪で起訴された。裁判中の1996年、肝硬変のために亡くなった。

 そのニックが絶頂にあった1985年、ぼくは神戸で彼にインタヴューしたことがある。ニックは当時33歳で、青年・スポーツ大臣のポストにあり、夏季ユニバーシアードの視察に来た。それは名目で、日本に遊びに来たのが本当のところらしかった。東京のルーマニア大使館に「日本を代表するメディアとのインタヴューをセットしろ」と命令し、日本語ぺらぺらの参事官が会社にコンタクトしてきて、ぼくが引き受けることになった。

 ぼくはユニバーシアードの取材中だったから、ポロシャツにジーンズ、スニーカー姿で、指定されたホテルに行った。ニックはスーツを着てスイートルームで待ち構えていた。大柄の締りのない体つきだった。ぼくのラフな格好に怒ったのはみえみえで、参事官の通訳がまったく追いつかない、ものすごいスピードでしゃべりまくった。こっちから質問する間もまるでない、とんだ単独会見になった。こいつは、ほんとに馬鹿だな、と思ったものだ。

 当然、記事にすることもなく放っておいたら、数日後、参事官が文字通り泣きそうな声で電話してきた。「記事はいつ出ますか?もし、記事が出なければ、わたしはどうなるか分かりません」。ぼくは上司に相談したが、インタヴューとして成立していない以上、記事にしようがなかった。独裁者の馬鹿息子ニックの性格を考えると、たしかに、参事官の身の上が心配だった。結局、その身がどうなったかは分からない。

 日本でやっと、スポーツ行政を一元化する「スポーツ庁」を作る構想があることを知って、ニック・チャウシェスクのことを思い出した。かつて、旧ソ連・東欧の社会主義諸国は、国威発揚のためにスポーツに力を入れていた。西側のように民間企業がスポンサーとなるプロ選手がいない代わり、エリート選手は国が丸抱えして養成していた。ニックは、そうした国策としてのスポーツ振興の業務をする官僚機構のトップだったわけだ。

 日本政府の教育再生懇談会が、2009年5月末、スポーツ庁を設けるよう提言し、スポーツ基本法案を国会に提出することが検討された。もともと法案の骨子は、自民党、公明党に民主党の議員も加わった超党派の「スポーツ議員連盟」が設置した有識者会議が作った。

 自民・公明の与党はトップ選手の育成や企業スポーツの振興、国際大会への支援などに力を入れようとし、スポーツ庁の設置も付則に盛り込んだ。これに対し、民主党は地域スポーツの基盤整備に重点を置こうとし、与党案には協力しないことを確認した。総選挙の時期をめぐる駆け引きなどもあって、法案はすぐには日の目を見ないことになった。

 こうした政治のどたばたぶりに歯軋りしている人は少なくない。教育再生懇談会では、北京オリンピックの陸上男子400メートルリレーで銅メダルを取った朝原宣治さんも「スポーツ行政の統一化と効率化を」と、意見を述べた。2016年オリンピックの東京招致キャンペーンが行われる中、スポーツ庁を創設することはスポーツ界の悲願とされる。わが国でスポーツ振興法が制定されたのは、オリンピックがまだアマチュアの大会だった1961年のことだ。トップスポーツが個人ではなく国の戦いになって久しく、日本はすっかり世界から取り残されている。

 トップアスリートを集めて鍛えるナショナルトレーニングセンターが東京にできたのは、やっと2008年だった。だが、海外の多くの国がトップ選手の合宿・遠征費用、奨学金などを助成しているのに比べ、「日本政府の支援は貧弱で、世界とまともに戦えない」という声が根強い。

 民主党の言うように草の根のスポーツ基盤を整えることも大切だろうが、才能ある若手を思い切って支援するエリート養成も避けて通れないのが現実だ。

 先日、近くのショッピング・モールに、ワールドベースボールクラシック(WBC)の優勝トロフィがやって来たので、妻と出かけた。銀色に輝くずっしりと重そうなトロフィには、原辰徳監督やイチロー選手の指紋がついたままで、ガラスのケースに入れられていた。侍ジャパンを応援した誰もが知っているように、ほんの紙一重の勝利で連覇が達成された。特に、予選から本大会まで5回も戦った韓国の強さと粘りには、改めて感心させられた。

 不思議なのは、韓国野球の裾野はあきれるほど狭いことだ。日本では、全国約4000もの高校野球部が甲子園を目指し、それが選手育成の場となっている。韓国では、アマチュア野球を統括する大韓野球協会に選手を登録しているのは、たった53校だけだという。ごく限られた才能のある選手を、最新施設で徹底的に鍛えている。それで、あの実力と根性が生れるのだから、日本も学ぶところは大いにある。

 たとえば、サッカーには、スポーツを通じて子から孫の世代まで誰もが幸せになるという「Jリーグ百年構想」がある。それはそれで結構だが、何かまだるっこい印象はぬぐえない。

 コマネチは、1976年のモントリオール・オリンピックに14歳で参加し、段違い平行棒と平均台で近代オリンピック史上初めての10点満点を出し、金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル1個を獲得した。純白のレオタードを身にまとい「白い妖精」と呼ばれた。1980年のモスクワ・オリンピックでも、金メダル2個、銀メダル2個を取り、世界体操界のスーパー・スターだった。チャウシェスクの王朝に翻弄されたが、あの技は国威発揚システムのおかげであることも事実だ。

 日本も、第2のコマネチを産むくらいの国策を取らなければ、スポーツ後進国へ転落してしまう。妖精の尻を追いかける第2のニックなどはいらないが。

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