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2009年8月

なぜ、埼玉にジョン・レノンなのか

 さいたまスーパーアリーナに『ジョン・レノン・ミュージアム』がある。なぜ、さいたま市なのか、以前から気になっていた。ビートルズ・メンバーの出身地イギリスのリバプールには、博物館『ザ・ビートルズ・ストーリー』がある。これをのぞけば、ビートルズ関連の博物館は、さいたま市のが世界で唯一とされる。

 世界のスーパー・スターだったジョン・レノンは、果たして幸せだったのかどうかも知りたいところだった。

 館長が案内してくれるツアーがあるというので、出かけてみた。水沢順一館長は63歳で、いわゆるビートルズ世代に当たる。20歳のときビートルズが来日したが、「そう好きではなかった」という。

 ジョン・レノン・ミュージアムは、2000年10月9日、ジョン・レノンが生きていれば60歳の誕生日に開館した。これまでの入館者は約45万人で、年間5万人が訪れていることになる。意外にも、7割が40歳代以下なのだという。日本の教科書に載っていて、今の中学生、高校生は、ビートルズやジョン・レノン、オノ・ヨーコを知っている。学校の社会学習でミュージアムを訪れることもあるそうだ。

 ジョン・レノンは、第2次世界大戦最中の1940年に生れた。父親は船乗りで何か月も家に帰ってこず、母親は別の男と同棲していた。ジョンは子どものいなかった母の姉夫婦のもとで育てられる。5歳のとき、父と母のどちらを選ぶか選択を迫られたが、結局、伯母夫婦の家で成長する。実の母に捨てられた形になり、「それが生涯のトラウマになった」と水沢館長は言う。

 小学校のときは成績も良かったが、中学に入ると他の生徒をいじめたり、かっぱらいのまねをするなど不良になった。館長は「わざと悪ぶっていたのだろう」と語る。ただ、子どものときから新聞や本を読む習慣をつけていた。語彙が豊富で後にすぐれた詞を書けたのは、そこから来ているらしい。

 16歳のあるとき、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて、ロックに目覚めた。このころ、母親が近所に住んでいることを知ったジョンは、その家へ出入りするようになり、母親はジョンにバンジョーを教えた。そのバンジョーは、ミュージアムに展示されている。しかし、18歳だったある日、母親は交通事故で亡くなった。「ジョンにとって、2度目で最後の母親喪失体験だった」。ジョンのきつかったとされる性格や年上女性への憧れは、そうした幼・少年期の影響だろうという見方もあるらしい。

 ジョンは、シンシアという女性と結婚し男の子も生れた。しかし、両親と暮らしたことがなく、妻にどう接すればいいか分からず、戸惑っていたという。シンシアとは10年で別れた。

 バンドを結成し、無名時代はおんぼろ車に楽器を積んでイギリス各地を回った。ギャラはソフトドリンクだけということもあったが、人前で演奏できるのが何よりうれしかった。アーチストとしては、このころが一番幸せだったのかもしれない。

 ビートルズは、イギリスでそこそこ売れたころ、たまたまアメリカのテレビ番組に取り上げられて有名になり、すぐに世界的スターとなった。アメリカの野球場で公演をしたとき、失敗してもギターを弾かなくてもキャーキャーと言われ、「本来、自分たちがやろうとしていることじゃない」と、それ以降、大きな会場での生ライブをやめてしまった。

 26歳のとき、7歳年上のオノ・ヨーコに出会った。ロンドンで開かれていたヨーコの現代アートの個展会場だった。天井から虫眼鏡がぶら下がっていて、それで天井を見たらひとつの言葉があった。“yes ”とだけ書かれていた。それを見て、ジョンはヨーコにほれ込んだ。ミュージアムには、その“yes ”が再現されている。

 平和の象徴であるどんぐりを鉢に植え、大統領や首相に送ってふたりでメッセージを世界に発信した。鉢に植えたどんぐりも、ミュージアムの床に埋め込まれている。

 ふたりが正式に結婚したのは、ジョンが29歳のときだった。ジョンはバツ1、ヨーコはバツ2で、ともに子どもがいた。ジョンの戸籍上の名前はジョン・ウィンストン・レノンだったが、ジョン・オノ・レノンに改名しようとした。それは認められず、ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと名乗るようになったのだという。

 ジョンは、ヨーコのもとから逃げ出し、ロサンゼルスでで酒と薬物におぼれていたことがある。それでも、1年あまりで、ヨーコのもとへ帰った。やがてふたりの間に男の子ショーンが生れた。ヨーコはそれまでに2回、流産していて、待望のベビーだった。

 ショーンが5歳になるまで、ジョンは育児に専念した。当時は、父親が育児をするのは珍しかった。館長は「自分が母親から捨てられた年までは、子どものそばにいてやることにしたのだろう」と語る。その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。ジョンの私生活は、このころがもっとも充実していたのかもしれない。

 ビートルズの活動にヨーコが口を出すこともあり、1970年、ジョンが30歳のときにビートルズは解散する。だからか、「ビートルズファンの99%はヨーコが嫌い」という話を、ミュージアムで聞いた。

 ジョンとヨーコは、東京ディズニーランドの半分以上もある広大な敷地の邸宅に住んでいたこともある。しかし、そこはわずか2年で引っ越した。ミュージアムにはそのジオラマがあるが、大邸宅に暮らす空しさを味わったのではないか。

 ジョンは、40歳のとき、精神疾患の症状があった男に射殺された。その当日、ジョンは「死ぬならヨーコより先に死にたい」という言葉を残している。ファンが今でもその死を惜しむのは当然だが、しかし、劇的な生涯への突然のピリオドは、ある意味でふさわしいのかもしれない。

 ところで、なぜ、さいたま市にミュージアムがあるのか。水沢館長は語る。「スーパーアリーナの建物が完成に近い状態になってから、『イベントのない日は閑散とする。何かアイデアはないか』ということになり、100くらいの案が出された。最後に残ったのが、水族館と苦し紛れにひねり出したジョン・レノン博物館の構想だった。しかし、アリーナは大水槽の重量には耐えられない構造だった。建設を請け負っていた大成建設の4人の社員が、ミュージアムのミニチュア模型をニューヨークのオノ・ヨーコのところへ運び、プレゼンテーションした。絶対に断られると思っていたのに、なぜかOKした」

 展示室には、これも現代アートのひとつなのか、外線に通じたダイヤル式の白い電話機がある。オノ・ヨーコは、ほんの気まぐれにそこに電話をかけてきて、たまたま出た人と雑談するのを楽しみにしているという。

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のぼうの城に、のぼう様はいたのか

 埼玉県行田(ぎょうだ)市には、戦国末期に攻防戦が繰り広げられた忍城(おしじょう)の跡がある。ちょっとドライブして、その城址を見に行った。本丸のあったところには、1988年、郷土博物館が建設されている。博物館からは、復元された三階建ての櫓(やぐら)へ上ることができる。中は展示室で、最上階は展望台になっていて、市内を一望する。ちょうど日曜日だったため、子ども連れをふくむかなりの人が訪れていた。

 関が原の戦いより10年前の、天正18年(1590年)6月(現在の暦で7月)、豊臣秀吉の命を受けた石田三成は、この忍城を攻めることになった。守るほうは兵力わずか500余りで、攻め手は2万の大軍だった。

 その攻防戦を描いた『のぼうの城』(和田竜著、小学館)は、2007年12月に発売され、32万部が売れた。翌年の本屋大賞第2位にもなり、話題を呼んだ。映画化されることになり、クランクインは2010年夏という。

 物語の主人公は、城代の息子の成田長親(ながちか)だが、武道はさっぱりで勇壮な戦国武将とはほど遠い。城門を守る兵や領民からも、でくのぼうを略した「のぼう様」と呼ばれている。図抜けて背が高く、体には脂肪がのっていて、のそのそ歩いた。なぜか野良仕事が好きで、よく田や畑に出向いて手伝おうとした。だが、恐ろしく不器用で麦踏みさえまともにできず、百姓らからは馬鹿にされていた。しかし、誰からも愛されていた。

 城代はあるとき、長親の幼友だちでもある重臣の丹波に「長親はあの通りのうつけじゃ。わし亡きあとは、城代は丹波、お前が引き継げ」と言った。しかし、丹波は「城代、わしはあの馬鹿者の持つ得体の知れぬ将器を見極めたいのでござる」と、それを暗に断った。将器というのは、文字通り一軍の将としての器のことで、この作品のキーワードとなる。

 三成の軍勢に忍城が囲まれたとき、城代は病の床についた。のぼう様はうろたえて「父上、父上」と繰り返すだけだった。当時の武者ならおくびにも出さないひるみを、臆面もなく表に出す男だった。

 それでも、不思議なことに領民の人望はどんな武将より厚かった。やがて城代が亡くなり、長親が総大将にならざるをえなくなる。なぜか開城・降伏ではなく徹底抗戦を選んだ長親のもとへ、女子どもをふくむ2000人以上の領民が集まり、ろう城する手勢に加わった。

 三成の軍勢が攻めてくると、のぼう様は指揮らしい指揮もできなかったが、配下の武将たちが奮戦し、一度ははねのけた。そこで三成は、忍城を水攻めにすることを考えた。水攻めは、かつて秀吉が備中高松城で使った作戦で、三成もいつかやってみたいと思っていた。

 三成の軍は、破格の金を積んで近郊、遠方の農民、商人から子どもにいたるまで数十万人をかき集め、高さ9メートル、底幅20メートル、総延長28キロにもおよぶ人工堤防を、わずか1週間で築かせた。これは後に「石田堤」と呼ばれ、その一部は今も残る。鴻巣(こうのす)市袋地区には「石田堤史跡公園」が整備されており、堤の断面を見学することもできる。

 利根川と荒川の水をこの人工堤に囲まれた地域に引き入れ、城ごと敵を水没させる計画だ。しかし、人工堤は、現在の行田市堤根と鴻巣市袋の境にある掘切橋あたりで決壊したとされ、作戦は失敗に終わった。城攻めの天才・秀吉も落とせなかった城として、この水攻め攻防戦は、とりわけ徳川の世になった江戸時代に語り継がれることとなった。

 『のぼうの城』では、長親を慕う農民がこっそり堤防を切ったことになっている。忍城の危急存亡の秋(とき)になって、のぼう様の将器がものを言ったのだった。

 2009年7月11日付けの読売新聞によると、約10年前、行田市の会社員、土田真弘さんが、同僚だった和田竜さんを「行田にはすごい歴史がある」と攻防戦の舞台に案内したことがきっかけで、『のぼうの城』が生れた。和田さんは「帰り道で作品の構想を練り始めた」という。

 のぼう様の将器とは、何だったのだろうか。和田さんは「なにか底のみえない古井戸をのぞき込んでいるかのような心地」と書いている。「みろ、兵どもをみろ。敵も味方もあの者に魅(み)せられておる。明らかに将器じゃ。下手に手を出せば、窮地に立たされるのは我らの方じゃぞ」。三成の重臣の言葉としてそう語らせてもいる。

 「丹波は戦慄しながら、自身が予感し続けてきた長親の将器を思った。(こんな男をこそ、名将というのか)おもえば名将とは、人に対する度外れた甘さを持ち、それに起因する巨大な人気を得、それでいながら人智の及ばぬ悪謀を秘めた者のことをいうのではなかったか」

 非暴力主義を貫き無数の人びとを動かしたインド独立の父、マハトマ・ガンジーを思い出す。貧しい人、恵まれない人にわけへだてなく愛を注ぎ、世界中の人びとを感動させたマザー・テレサも連想させる。漫画でいえば、ジョージ秋山の『浮浪雲(はぐれぐも)』(ビッグコミックオリジナル)にも通じるものがあるだろう。着流しで仕込み杖を持ち「おねえちゃん、あちきと遊ばない」と誰彼に声をかける、一見だらしない男だが、なぜか恐ろしいほど人望を集める。

 『のぼうの城』は、作品としての完成度はそう高くない。それでも読者を引きつけるのは、長親の人物像にユニークな将器を取り入れたためだろう。

 行田市郷土博物館の学芸員に聞くと、実は、石田堤が決壊したかどうかさえ、歴史的証拠はない。水攻めが解かれる前に開城した可能性もあるらしい。成田長親の人物像についての史料もほとんど残っていない。もちろん、「のぼう様」というあだ名も作者が考えついた。確かな史料がないことで、大胆な創作ができたのだった。

 博物館は、小説のおかげで、入館者が2割は増えたそうだ。映画が公開されれば、さらに増えるだろう。さて、のぼう様の役を誰が演じるのか。

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最高裁の幽霊

 東京・三宅坂の皇居桜田濠沿いにそびえる最高裁判所は、まさに威容を誇る建物だ。地上5階、地下2階で、のべ床面積は5万平方メートルにおよぶ。注目を集める最高裁判決があるとき以外は司法記者たちの人影もまったくなく、静まり返っている。廊下が迷路のように走り、職員の詰める部屋がほんの一角にあるだけだ。裁判官もいつもいるわけではないから、人口密度は恐ろしく低い。

 コンクリートだらけの庁舎の特徴的な外観や、権威主義的な裁判の運営方針などから、弁護士や法学者は「奇巌城」「奇岩城」と呼んできた。揶揄したり、否定的な意味合いを込めたものだった。

 ぼくは、20代の終わりの10か月間だけ、新聞社の地方部内信課の記者として、最高裁、東京高裁、東京地裁を担当していたことがある。これら3つの裁判所で行われる裁判を取材し、新聞の地方版に書くのが仕事だった。裁判のほか検察も担当する社会部記者とは、微妙にテリトリーがちがっていた。他のメディアにも、ぼくのような任務を背負った記者はいなかったので、ひとりで自由に行動できた。

 東京地裁のビルにある司法記者クラブはいつも人でごった返していたが、最高裁の記者クラブは、ふだん誰もいなかった。広報課に所属するおばさん公務員がひとりいて、新聞記事のスクラップをのんびりとやっていた。ぼくが顔を出すと、暇つぶしの相手ができてうれしいのか、お茶をサービスしてくれた。頼みもしないのに、インスタントラーメンを作ってくれたこともある。

 「ここの廊下を歩いていると、何だかさみしくなりますねぇ」。あるとき、最高裁の男性職員と雑談していてこう口にすると、「そうなんですよ。冗談か本当か、幽霊を見たって話す人もいるくらいですからねぇ」と言う。ある女性職員が廊下で痴漢に遭った、という根も葉もない噂を聞いたことすらある。

 公判で、検察官は「思料する」とか「防御創」などという専門用語を羅列した冒頭陳述や調書を早口で読み上げ、裁判官の書く判決文も、同様に恐ろしく非日常的だった。それを誰にでも分かりやすく書き直すのが、ぼくの主な仕事だった。ある程度、決まりきった言い換えがあるものの、初めのころはやさしい判決記事を書くのに骨を折った。

 ぼくは、長野地裁を2年間担当したこともあるが、考えてみれば裁判官と個人的に話をしたことは一度もない。最高裁判事とは、たった一度だけ、あるパーティで口をきいた。検事や弁護士とはお酒を飲む機会もあったが、裁判官の日常はよく分からない。裁判官自身が一般社会から距離を置いている、と聞いたこともある。純粋培養の、浮世離れしたイメージしか浮かばない。司法の権威に閉じこもっていて、市井の泥や汗にまみれた末に犯した罪を裁けるのか、疑問があった。

 日本の裁判制度が抱えるそうした問題点をクリアするために、裁判員制度が生れた。一般国民の市民感覚や常識を、刑事裁判の判決に反映させる目的で導入された。6年の準備期間を設けた後、初めての裁判員裁判が東京地裁で開かれ、2009年8月6日に判決が下された。路上殺人で、求刑が懲役16年のところ懲役15年となった。

 報道をみるかぎり、法廷の風景は一変した。3人の裁判官に6人の裁判員が加わって法壇に並んだ。検察、弁護双方はモニター画面を使ってプレゼンテーションし、冒頭陳述の内容を1枚の紙にまとめたメモを提供したという。専門用語は、すべてやさしい表現に替えられ、メモにはイラストも用いられた。裁判員全員が「分かりやすかった」と感想を述べている。

 被告は起訴事実を認めたので、審理では「殺意の強さ」が争点となった。この事件をプロの裁判官が裁いたら、懲役10年から13年くらいになっただろうという声がある。これまでの相場より厳しい判決になったのは、それが市民感覚ということなのか、それとも検察側のプレゼンがうまかったのか。

 評議の経過は非公開で、裁判員には守秘義務がある。多数決か全員一致かも分からない。裁判員のひとりは「人を裁くという重大なことを一般市民が担わされていると感じた」とコメントしている。

 4日間で1審が完結した。事件発生からわずか100日以内の判決だった。これまでなら、1年や2年はかかったところだ。

 3日目の午後と4日目の午前中に裁判官と裁判員による最終評議が行われ、午後2時半過ぎには判決言い渡しがあった。つまり、判決文を書く時間はかなり短い。従来、裁判官は相当の日数をかけて判決文を書いていた。新聞記者のように、裁判官にも文章を書くスピードが要求されることになった。

 新聞記者には「予定稿」という手法がある。事態の推移をある程度予測して、あらかじめ原稿を書いておき、本番に臨んでは少しだけ手を入れて完成させるやりかただ。裁判官も、これからはそういう方法を採ることになるはすだ。

 こんなスピーディな裁判がやれるなら、どうして今までやらなかったんだろう、と思う。半面、分かりやすさとスピード、プレゼン能力重視で行われる裁判でいいのか、とも思う。

 今後は、被告が起訴事実を否認する裁判、被告の責任能力が争点となる裁判、死刑求刑が予想される裁判にも裁判員が参加する。控訴審、上告審には裁判員は参加しないが、1審判決を尊重することになっている。万が一にも、死刑となった事件が、後に冤罪(えんざい)と分かったら、裁判員の心はどうなるのか。それこそ、最高裁の廊下を死刑囚の幽霊が歩いている悪夢にうなされることになるだろう。

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葬式仏教をぶっとばせ!

 妻の父と祖母のダブル新盆・一周忌法要で、長野市へ帰ってきた。義父は、2008年9月、庭の梨の木を剪定(せんてい)していて脚立が倒れ、頭を強打して、翌月に亡くなった。それから3か月も経たないうちに、祖母が満98歳で大往生した。

 親戚の多くは首都圏に住んでおり、車で日帰りするので、お斎(とき)でもアルコールを口にしなかった。その中で、住職は注がれるビールや日本酒を、断ろうともせずがんがん飲んでいる。

 長野市M寺のこの住職は、義父の葬儀のとき、お布施を120万円も要求した。ぼくは、事後にその額を聞いて、よほどお寺に乗り込もうと思ったほどだ。しかし、妻の叔母の葬儀では、叔父が長野市の別のお寺に200万円もお布施を払ったと聞き、直談判をあきらめた。祖母の葬儀では、M寺の住職はさすがに50万円に負けてくれたが、それでも高い。お布施に加えて、祭壇、式場、棺代など葬儀社に支払う額をあわせると、恐ろしい額になる。

 島根県出雲地方のぼくの実家の菩提寺は、山陰の名刹として知られるが、母によると、祖母の葬儀のときのお布施は、僧侶3人分でわずか18万円だったという。隔週刊誌『SAPIO』2008年12月24日号の特集「寺と墓と死体の経済学」を読むと、お布施の平均値は30万円となっている。長野市のお布施の相場は、あまりにも異常ではないか。

 長野市で葬式を安くあげる裏技は、善光寺に頼むことだという。菩提寺がないか、菩提寺の住職ともめた家などが、善光寺に駆け込むのだという。そう言えば、出雲大社では、わずか1万円で神式の葬儀をしてくれるそうだ。善光寺や出雲大社は、葬式でもうけようなどとは頭から思っていないのだろう。

 お寺はふつう宗教法人となっていて、お布施には税金がかからない。しかし、宗教法人は公益法人のひとつで、社会のために存在しているからこそ、特例として無税になっている。家族の死に打ちひしがれている檀家から、お布施をむしりとって何が公益か。ぼくは、お斎のときに、M寺の住職には決してお酒を注ぎに行かないことにしている。住職が、お経をあげた後にする法話も薄っぺらで、死者を弔うより、くそ坊主に腹が立つ気持ちが強くなってしまう。

 葬式仏教という言葉が生れたのは、いつごろなのだろうか。ずっと昔のお寺は、地域の文化拠点としてそれなりに存在意義があったのだろう。しかし、昨今は、葬式か法事のときしか檀家も立ち寄らず、お寺の機能はすっかり形骸化している。

 ぼくは、かつてインドに駐在していたとき、ヒンドゥー教最大の聖地ベナレスの近くにあるサルナートで、修行と布教をしている日本人僧侶に取材したことがある。そこは仏陀が初めて説法をした仏教の聖地だ。この僧侶は、在家に生れたが、あるとき仏教に惹かれ仏門に入った。だが、葬式仏教へと堕落した日本の現状を見限り、仏教の原点の地で生きる道を選んだ。仏典に書き残された仏陀の教えだけを拠り所として過ごす日々で、ご本人はそれを「仏教原理主義」と呼んでいた。イスラム原理主義と言えばテロリストを連想してしまうが、仏教の原理主義者は極めて穏健で平和な暮らしをしていた。サルナートを訪れたのは、ふた昔も前のことだ。

 現代の日本には、そんな僧侶はいないのだろうか。そう思っていたところへ、『寺よ、変われ』(岩波新書)という本に出会った。長野県松本市浅間温泉の神宮寺住職、高橋卓志さんが書いたものだ。この住職は、2000年10月の長野県知事選で、田中康夫陣営の地域リーダーとして奮迅した。ぼくも取材させてもらい、『田中康夫 戦いの手の内』(情報センター出版局)に書いたことがある。

 高橋住職は、この新書で、葬式仏教に堕した日本の寺は「死にかけている」とし、生老病死という4つの苦に満ちた現実の中で、現代の仏教は死後のことにしか関わっていないことを正面から衝く。僧侶を排除した葬式が増えており、寺と檀家のトラブルも後を絶たず、檀家システムは崩壊の危機にあるという。

 僧侶の息子に生れた高橋さんは、「仏教のことなどわかるはずもない」小学三年生で得度(とくど)した。お盆には、坊主頭に衣を着て檀家回りをしたが、中学の同級生に「お前の家は、人が死んだら儲かる」と言われたことがトラウマとなった。

 副住職となっていた30歳のとき、本山である京都の臨済宗妙心寺管長・山田無文老師に付いて、太平洋戦争の戦地だったニューギニアの小さな島の洞窟を、戦没者の遺族や戦友とともに訪れた。足の下には、兵士の骨がそのままあり、遺族は号泣した。そして、高橋さんは「死後のセレモニーとしてしか死者たちに向き合ってはいなかったことを恥じた」という。

 その体験が原点となり、旧ソ連チェルノブイリ原発事故で汚染された病院や、タイのエイズホスピスなどを訪れ、社会活動をするようになった。神宮寺の経理を公開し、コンサートなど様々なイベントを企画して、寺を開かれた場所にした。僧侶仲間から批判を浴びたこともあったが、葬式仏教から抜け出すためにありとあらゆる試みをしてきた。

 ふつう、僧侶は、お通夜の読経から死者に関わるが、高橋さんは、旅立ちの前から関わることもしばしばで、見取ることもするという。新書に載せたデータによると、2008年1年間の葬儀は55件で、うち20件は檀家以外だった。檀家であっても菩提寺に葬式を頼むことを拒否するケースがある現代、檀家以外からの依頼がこれだけあるという事実は、特筆に値する。お布施の平均額は、戒名料などすべて込みで28万円だった。

 葬儀のあり方はこれでいいのか、という声は急速に高まっている。朝日新聞『天声人語』は、奇しくも義父の葬式が行われた2008年10月20日、この問題を取り上げた。「葬儀などの際、包んだお布施に釈然としなかった人は1人や2人ではあるまい。(中略)不透明さが仏教界への不信を招いているのではないか」。そして、青年僧ら約20人が、東京で結成した『寺ネット・サンガ』のことを紹介した。この団体は、お布施について喪主側に十分説明し、使途も明示するなどして、信頼を得る道を探っているという。

 葬式仏教をぶっ飛ばせ。

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