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なぜ、埼玉にジョン・レノンなのか

 さいたまスーパーアリーナに『ジョン・レノン・ミュージアム』がある。なぜ、さいたま市なのか、以前から気になっていた。ビートルズ・メンバーの出身地イギリスのリバプールには、博物館『ザ・ビートルズ・ストーリー』がある。これをのぞけば、ビートルズ関連の博物館は、さいたま市のが世界で唯一とされる。

 世界のスーパー・スターだったジョン・レノンは、果たして幸せだったのかどうかも知りたいところだった。

 館長が案内してくれるツアーがあるというので、出かけてみた。水沢順一館長は63歳で、いわゆるビートルズ世代に当たる。20歳のときビートルズが来日したが、「そう好きではなかった」という。

 ジョン・レノン・ミュージアムは、2000年10月9日、ジョン・レノンが生きていれば60歳の誕生日に開館した。これまでの入館者は約45万人で、年間5万人が訪れていることになる。意外にも、7割が40歳代以下なのだという。日本の教科書に載っていて、今の中学生、高校生は、ビートルズやジョン・レノン、オノ・ヨーコを知っている。学校の社会学習でミュージアムを訪れることもあるそうだ。

 ジョン・レノンは、第2次世界大戦最中の1940年に生れた。父親は船乗りで何か月も家に帰ってこず、母親は別の男と同棲していた。ジョンは子どものいなかった母の姉夫婦のもとで育てられる。5歳のとき、父と母のどちらを選ぶか選択を迫られたが、結局、伯母夫婦の家で成長する。実の母に捨てられた形になり、「それが生涯のトラウマになった」と水沢館長は言う。

 小学校のときは成績も良かったが、中学に入ると他の生徒をいじめたり、かっぱらいのまねをするなど不良になった。館長は「わざと悪ぶっていたのだろう」と語る。ただ、子どものときから新聞や本を読む習慣をつけていた。語彙が豊富で後にすぐれた詞を書けたのは、そこから来ているらしい。

 16歳のあるとき、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて、ロックに目覚めた。このころ、母親が近所に住んでいることを知ったジョンは、その家へ出入りするようになり、母親はジョンにバンジョーを教えた。そのバンジョーは、ミュージアムに展示されている。しかし、18歳だったある日、母親は交通事故で亡くなった。「ジョンにとって、2度目で最後の母親喪失体験だった」。ジョンのきつかったとされる性格や年上女性への憧れは、そうした幼・少年期の影響だろうという見方もあるらしい。

 ジョンは、シンシアという女性と結婚し男の子も生れた。しかし、両親と暮らしたことがなく、妻にどう接すればいいか分からず、戸惑っていたという。シンシアとは10年で別れた。

 バンドを結成し、無名時代はおんぼろ車に楽器を積んでイギリス各地を回った。ギャラはソフトドリンクだけということもあったが、人前で演奏できるのが何よりうれしかった。アーチストとしては、このころが一番幸せだったのかもしれない。

 ビートルズは、イギリスでそこそこ売れたころ、たまたまアメリカのテレビ番組に取り上げられて有名になり、すぐに世界的スターとなった。アメリカの野球場で公演をしたとき、失敗してもギターを弾かなくてもキャーキャーと言われ、「本来、自分たちがやろうとしていることじゃない」と、それ以降、大きな会場での生ライブをやめてしまった。

 26歳のとき、7歳年上のオノ・ヨーコに出会った。ロンドンで開かれていたヨーコの現代アートの個展会場だった。天井から虫眼鏡がぶら下がっていて、それで天井を見たらひとつの言葉があった。“yes ”とだけ書かれていた。それを見て、ジョンはヨーコにほれ込んだ。ミュージアムには、その“yes ”が再現されている。

 平和の象徴であるどんぐりを鉢に植え、大統領や首相に送ってふたりでメッセージを世界に発信した。鉢に植えたどんぐりも、ミュージアムの床に埋め込まれている。

 ふたりが正式に結婚したのは、ジョンが29歳のときだった。ジョンはバツ1、ヨーコはバツ2で、ともに子どもがいた。ジョンの戸籍上の名前はジョン・ウィンストン・レノンだったが、ジョン・オノ・レノンに改名しようとした。それは認められず、ジョン・ウィンストン・オノ・レノンと名乗るようになったのだという。

 ジョンは、ヨーコのもとから逃げ出し、ロサンゼルスでで酒と薬物におぼれていたことがある。それでも、1年あまりで、ヨーコのもとへ帰った。やがてふたりの間に男の子ショーンが生れた。ヨーコはそれまでに2回、流産していて、待望のベビーだった。

 ショーンが5歳になるまで、ジョンは育児に専念した。当時は、父親が育児をするのは珍しかった。館長は「自分が母親から捨てられた年までは、子どものそばにいてやることにしたのだろう」と語る。その間も自宅で作曲活動は続けており、暇を見つけてはテープに録音していた。ジョンの私生活は、このころがもっとも充実していたのかもしれない。

 ビートルズの活動にヨーコが口を出すこともあり、1970年、ジョンが30歳のときにビートルズは解散する。だからか、「ビートルズファンの99%はヨーコが嫌い」という話を、ミュージアムで聞いた。

 ジョンとヨーコは、東京ディズニーランドの半分以上もある広大な敷地の邸宅に住んでいたこともある。しかし、そこはわずか2年で引っ越した。ミュージアムにはそのジオラマがあるが、大邸宅に暮らす空しさを味わったのではないか。

 ジョンは、40歳のとき、精神疾患の症状があった男に射殺された。その当日、ジョンは「死ぬならヨーコより先に死にたい」という言葉を残している。ファンが今でもその死を惜しむのは当然だが、しかし、劇的な生涯への突然のピリオドは、ある意味でふさわしいのかもしれない。

 ところで、なぜ、さいたま市にミュージアムがあるのか。水沢館長は語る。「スーパーアリーナの建物が完成に近い状態になってから、『イベントのない日は閑散とする。何かアイデアはないか』ということになり、100くらいの案が出された。最後に残ったのが、水族館と苦し紛れにひねり出したジョン・レノン博物館の構想だった。しかし、アリーナは大水槽の重量には耐えられない構造だった。建設を請け負っていた大成建設の4人の社員が、ミュージアムのミニチュア模型をニューヨークのオノ・ヨーコのところへ運び、プレゼンテーションした。絶対に断られると思っていたのに、なぜかOKした」

 展示室には、これも現代アートのひとつなのか、外線に通じたダイヤル式の白い電話機がある。オノ・ヨーコは、ほんの気まぐれにそこに電話をかけてきて、たまたま出た人と雑談するのを楽しみにしているという。

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