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日本の壁が、ついに崩れた

 ドイツの首都ベルリンで特派員をしているとき、旧西ベルリンの閑静な住宅街に住んでいた。愛車でブランデンブルク門の脇をすり抜け、旧東ベルリン随一の繁華街ウンター・デン・リンデン通り近くにあるオフィスまで通勤した。毎日、かつての西と東を往復していたわけだ。

 ぼくがいたのは、ベルリンの壁が崩れて約5、6年後のことで、すでに中心部には壁の跡形もなかったが、心の壁は消えないでいた。旧東の住民は、「旧西の住民に2級市民扱いされている」と感じていた。45年にわたる東西分断で生まれた市民意識や文化のギャップは容易に埋まらず、所得格差もかなりあった。

 壁が崩れたのは、20年前の1989年11月9日だった。ドイツ人は、壁の崩壊前後からドイツ統一にいたる一連の政変を「ヴェンデ(Wende)」と呼ぶ。転回とか転機、歴史的な転換期のことを意味する。アメリカのオバマ大統領が言った「チェンジ(変革)」に通じる。日本で「戦前」「戦後」と言われるように、ドイツ人は「ヴェンデ前」「ヴェンデ後」とよく口にする。

 東西冷戦期の日本では、西側陣営にくみする親米保守の自民党が派閥領袖のたらい回しによって政権を維持し、社会主義の東側を支持する社会党が万年野党に甘んじていた。1955年に生れたその国家体制は、ごく短い期間をのぞいて揺るがなかった。「政権交代のない民主主義などありえない。日本は共産党独裁の社会主義国家とどうちがうのか」。ドイツ人には、よくそんな皮肉を言われた。

 日本の国内にも、<壁>がそびえていたのだった。ベルリンの壁が崩れてソ連邦が崩壊し冷戦が終わって6年後、日本社会党は解散し、社民党が後継政党になった。しかし、その後も自民党は延命してきた。

 第二次大戦後の西ドイツでは2大政党と少数政党があり、政権交代は何度も行われてきた。ヴェンデ後の統一ドイツでも、日本の衆議院に当たる連邦議会は、任期の4年間、よほどのことがない限り解散されることはなく、首相も任期をまっとうする。

 しかし日本では、国民のあずかり知らないところで、国の最高指導者が選ばれ、有権者の多くは政治に白けてきた。2005年9月、時の小泉純一郎首相が「自民党をぶっ壊す」と叫んで、自民党を歴史的大勝に導いて以後、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎と首相が3人も交代して迷走した。

 そして、ついに2009年8月30日の総選挙で、戦後初めて野党が単独で過半数を占め、政権交代が実現することになった。自民党は壊滅的な敗北を喫し政権の座を追われた。ベルリンの壁が崩れてから実に20年後、<日本の壁>が崩れたのだ。まさに、日本版ヴェンデがはじまった。

 イタリアでは、冷戦が終わった1991年に共産党が解散に追い込まれた。戦後政治を主導してきた親米保守のキリスト教民主党は、反共主義の旗印を失い、92年総選挙で大敗北し、2年後に分裂・解党した。

 日本では、それと同じ現象が、ようやく今になって起きた。自民党敗北の原因はさまざまだろうが、社会を覆う閉塞感が限界に達し、国民が変革を求めたということだろう。総選挙の当日、自民党は新聞各紙に「日本を壊すな」という全面広告を載せた。どうせ広告代理店が考えたキャッチコピーと思われるが、ブラックジョークでしかない。格差の拡大など日本の国民生活を壊したのは、市場原理主義を導入した小泉自民党に他ならないからだ。

 今回の総選挙は、市民の閉塞感や体制側からの離反者続出という点で2000年10月の長野県知事選によく似ていた。あのとき、長野県では、I前副知事が早々と出馬を表明し、県議会の共産党をのぞくすべての議員が支持した。県内120市町村のすべてにI後援会の支部が作られ、首長や議長が支部長になった。経済界をはじめ3000を超す各種団体が、I氏を推薦した。全体主義的な空気、「モノ言えば唇寒し」というムードが蔓延していた。

 県民のうち、危機感を抱いたごく一部の有志は対抗馬擁立を模索し、田中康夫氏に白羽の矢を立てた。擁立グループはボランティアを動員し、田中氏もマスコミを巧みに操って県民にアピールした。田中支持の勝手連が100以上も生まれ、県政の変革を求める動きが燎原の火のように広がっていった。「市民は、自分の1票で政治が動く、と思えば自ら動く」とあるボランティアは喝破した。上からの圧力に口をふさいでいた人びとも声をあげ、奔流となった。磐石の態勢を敷いたはずのI陣営からも、離反者が続出し、田中氏が当選した。

 ぼくは、自分たちが創刊したわが国で初めての有料メールマガジンで、『長野十月革命』というタイトルを掲げ、その知事選の内幕を長期連載した。無数の人びとが、何をきっかけににどう動いたのかを描いた。さらに、2002年の出直し知事選ルポと合わせ『田中康夫 戦いの手の内』(情報センター出版局)として上梓した。田中氏は、体制の破壊者、閉塞感の打破者としての役割をはたした。だが、「受けのするパフォーマンスに走るきらいがある」と側近も危惧していたように、やがて県民に見限られ、3度目の知事選では落選した。

 今回総選挙では、朝日新聞や産経新聞の出口調査によると、自民支持層の約3割が離反し、民主党に投票した。兵庫8区から出馬した田中康夫氏は、長野県での成功体験から「選挙に行こう。政権交代が始まる!」とあおった。公明党の冬柴鉄三・前幹事長を接戦の末に破り、当選を果たした。有権者は、自分の1票で政治が動く、と思って<日本の壁>を崩す1票を入れたのだった。

 民主党は、憲政史上初めて308もの大量議席を獲得した。しかし、有権者が民主党に絶大な期待を寄せていたわけではない。読売新聞が投票直前に行った世論調査によると、衆院選後の望ましい政権の形として、「政界再編による新しい枠組み」28%、「自民と民主による大連立」28%、「民主中心」26%、「自民中心」11%だった。

 公明党が小選挙区で全滅するなど民主党のひとり勝ちだったが、国民の多くは、ただ「自民党をぶっ壊したい」から民主党に入れたのだ。選挙後の世論調査では、新政権に期待する声が、朝日74%、読売71%あったが、それは「結果が出た以上、期待はする」ということだろう。

 民主党のマニフェストは、冷静に読めば、ばらまき以外の何モノでもない。朝日新聞の世論調査では、83%もの人がその財源について「不安を感じる」と答えている。官僚丸投げの政治から本当に脱却できるか、外交・安全保障政策をどうするかなど、危うい点はいくらでもある。

 ベルリンの壁崩壊から20年後の旧東ドイツ市民は今、何を考えているか、世論調査が行われた。そこでは、57%もの市民がかつての東ドイツという国を支持している現実が浮き彫りになった。東ドイツは共産党の独裁体制下、秘密警察『ジュタージ』が国民の自由を束縛し、市民の相互密告制度などもあった。西側では「暗黒国家」「非法治国家」とみなされていた。それでも、半数以上が、東(オスト)への郷愁(ノスタルギー)を覚えている。新ドイツ語でオスタルギーと呼ばれるそうした意識は、ヴェンデ後しばらくしてから生れたが、それが今でもつづいている。

 日本でも、「自民党の“独裁体制”のほうが、まだ良かった」などと国民に思われないよう、鳩山民主政権は最高度の手腕を発揮しなければならない。<日本の壁>の単なる破壊者で終わることは許されない。

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