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「生き様」を初めて使ってしまった

 世の中には「口説き文句」という言葉がある。女性を口説こうとするとき、男は一世一代の言葉を考えるかもしれない。最近は、逆ナンといって女性が男性を口説くのも珍しくはないようだが。

 文章を書く仕事をしていると、別に誰かを口説くわけでもないのに言葉に敏感になる。どんな場面でどういう言葉を選ぶかは、結構むずかしい。文脈からみて適切かどうかはもちろん、ある言葉の好き嫌いも大きな要素となる。

 2004年に『空中ブランコ』で直木賞を取った作家の奥田英朗さんが、週刊誌に「『真逆』なんて日本語はない!」というタイトルのエッセイを書いていた。テレビのアナウンサーが使う日本語の粗雑さを槍玉にあげている。

 「暗雲が立ち込めました」
 まて、こら。立ち込めるのは霧や煙。雲は「垂れ込める」だろう。
 (略)わたしは、毎度ブラウン管に向かって小言を言うことになっているのである。

 ――こんな調子だ。これは誤用のケースだが、奥田さんは新造語というか、この1、2年で一気に広まった言葉の例として「真逆」をあげ、徹底的に叩く。テレビがこの言葉の発信源だとし、「なあにが『真逆』だ。そんな日本語あってたまるか。『正反対』というちゃんとした日本語があるだろう。どうしてそんなひどい言葉に、みんな抵抗もなく飛びついてしまうのか」と非難する。

 奥田さんの言いたいこともわからなくはない。だが、こと「真逆」に限っては、まったくちがう声を聞いたことがある。言葉に対して最高度の敏感さを持つ、ある俳句の大家の解説だ。いわく、「真」も「逆」もベクトルというか運動の方向性を持つ字で、非常に力強い。そのふたつの文字がぶつかって融合し、ひとつの言葉となった。漢字を基本とする日本語ならではの造語で、その秘めたエネルギーは計り知れない、と。

 奥田さんは、「『ちょっと洒落た言い回し』として燎原の火のごとく一般にも広まってしまった」と嘆く。しかし、一気に広まったのは、それだけ言葉のエネルギーが大きかったからでもある。たしかに、俳句や歌詞であえて使えば、たった一語で迫力のあるものになるかもしれない。「正反対」という穏やかだがありきたりな言葉では言い表せない情動のようなものを表現できる可能性がある。奥田さんは、「『真逆』には美しさがまるでない。使う人間の美意識を疑う」と書く。でも、腐ったカボチャに魅せられて描きつづける画家がいるように、常識からぶっ飛んだ美意識というものある。

 「秒殺」という言葉も同じたぐいだろう。格闘技の一瞬の勝負をこれほど端的に言い表すものはない。

 奥田さんは、テレビから生れた軽薄日本語として「立ち上げる」という言葉も切って捨てる。これはまったくその通りだろうとぼくも思う。年配の名の通った文筆家が、新聞への寄稿でこの言葉を使っていたときには、白けてしまった。政権を奪取した民主党の政治家が「新しい行政機構を立ち上げたい」などというのを聞くと、ぶん殴ってやりたくなる。政権交代は大歓迎だが、こんな閣僚はいらない。日本では、「政治は言葉」を実践する政治家があまりにも少ない。

 奥田さんは、故・遠藤周作さんが「生きざまなんて日本語はない」とことあるごとに怒り、訴えていたという例もあげる。「死にざま」はあっても「生きざま」はなかった、と書く。ぼくは、駆け出しの新聞記者だったころ、上司に「生きざまという言葉は決していい意味ではないから、使わないように」と教えられた。しかし、時を経て、生きざまとしか呼べないような生のあり方もあるんじゃないか、と考えるようになった。

 『週間現代』2009年10月17日号の対談で、俳優の中井貴一さんと緒形幹太さんが、緒形さんの亡くなった父・挙さんを追想している。挙さんは、2008年10月から12月にかけてフジテレビで放映されたドラマ『風のガーデン』が遺作となった。がんに冒された中井さん演ずる麻酔科医が、長年確執のあった挙さん演ずる父親と和解の会話を交わす。その撮影のとき挙さんはすでに末期がんだったが、14分もつづくワンシーンワンカットを「俺はやる」と演じ切った。麻酔科医は父親に手を握られたまま死んでいく。

 中井さんは語る。「緒形さんからは、最期まで学ぶことばかりでした。『緒形挙が遺したもの』とは、役者としての生き様だと、僕は思っています」。こういう死と隣り合わせの壮絶な生は、たしかに「生き方」などというお上品な言葉では言い表せない。

 ぼくも、『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』のエピローグで、禁を破った。インドの「死」について述べたあとで、こう書いた。

 「インドでの『生』もぼくの想像を超えていた。とくに、カースト制をめぐる生き様は半端ではない。差別する者とされる者という図式などではなく、ほぼすべての人が誰かに差別され、また誰かを差別しているように見えた。カーストの低い人ほど他人を差別する意識が強いようにも思えた。国として差別の解消に取り組んではいるが、カースト間、無数に分かれたサブカースト間の差別はなくならない。ひょっとしたら、インド人に限らず、それが人間の本性なのだろうか」

 良し悪しは別として、圧倒的なエネルギーを持つカースト制を語るとき、ぼくは他の言葉を思いつかなかった。遠藤周作さんはたしかに、名作『深い河』(1993年)でインドを描いたとき、「生き様」という言葉は使わなかった。だが、多くの枚数を費やした。ひと言で表すとしたら、やはりこの言葉しかないのではないだろうか。

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