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古代出雲王朝の謎

 ぼくは、11月26日に生れた。神話の国・出雲では、それが大きな意味を持つ。

 よく知られているように、旧暦の10月には、全国の八百万(やおよろず)の神々が出雲に集まり、「神無月」となる。そして、出雲では「神在月」と呼ばれる。神々は新暦の11月26日まで出雲にとどまり、三つの神社を移動しながら誰と誰を将来の夫婦にするかを話し合う。出雲大社に祀られる大国主命(オオクニヌシノミコト)が縁結びの神様とされるのは、ここから来ている。ぼくはその最後の日にすべり込んだことになる。

 誕生日は、ヤマタノオロチ神話の舞台・斐伊川(ひいかわ)のほとりにある万九千(まんくせん)神社のお祭りの日でもある。万九千は無数のことを意味するらしい。その神社で神々の集いを終え、その名も神立橋(かんだちばし)という橋から全国へ帰っていく。

 「あと一日生れるのが遅かったら、縁が遠くなるところだった」。幼いころ万九千神社のお祭りに連れていってくれた祖母は、そう話したものだった。

 出雲地方には、このように神話の世界がそのまま息づいている。しかし、日本の古代学では、神話はしょせんフィクションに過ぎないという考えが主流だった。そこへ、近年、出雲で考古学上の大発見が相次いだことで、風向きが変わってきた。『芸術新潮』2009年10月号は「古代出雲王朝」という大特集を組み、「出雲神話は、やはり史実に基づいて語り継がれたものではないか」という仮説を打ち出した。

 当然と言えば当然の動きだが、出雲人のひとりとしては大いに注目したい記事だった。

 筆者はかつて、哲学者でありながら日本の古代について大胆な説を次々と打ち出し、「梅原古代学」として衝撃を与えた梅原猛氏だ。氏は、『隠された十字架 法隆寺論』(1972年、新潮社)で「再建された法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺である」と論証し、『水底の歌 柿本人麿論』(1973年、新潮社)では、歌人・柿本人麿は流罪になり死刑になったのではないかとした。大学生だったぼくは、興奮を覚えながら夢中になってそれらの著作を読んだ。氏の著作は学生仲間でもひとしきり評判になった。そこでは、歴史の陰に隠れたある人物が、一連の出来事の首謀者、黒幕として名指しされていた。

 『芸術新潮』の大特集は、「梅原猛が解き明かす」と銘打たれており、久びさに梅原古代学が復活した観がある。

 梅原氏は、記事の冒頭で、「私は学問的良心を持つ限り、もう一度出雲神話を考え直し、出雲神話は全くの架空の物語であるという説を根本的に検討しなおさなければならないであろう」と書いている。約30年前、氏は『神々の流竄(るざん)』 (集英社文庫)で「出雲神話なるものは、大和に伝わった神話を出雲に仮託したもの」と論じていたからだ。

 『古事記』『日本書紀』が語る壮大な出雲王国を裏付ける考古学的な遺跡が発掘されていなかったことが、仮託説の論拠だった。

 しかし、1984年、出雲の荒神谷遺跡で銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。 さらに、1996年、加茂岩倉遺跡で39個の銅鐸が出て来た。いずれも日本の考古学史上、例のない大量出土だった。加えて、山陰から富山県にかけて計97基もの四隅突出型墳丘墓が発見された。これは3世紀に出現したと考えられている前方後円墳より約200年もさかのぼる。こうしたことから、「出雲を中心にした日本海沿岸に根強く一つの権力が存在し続けたことを意味すると考えてよかろう」と梅原氏は書く。

 現地調査をし、「アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝がこの日本の国に君臨していた」と考えるに至った。ぼくは初めて知ったのだが、『日本書紀』には、スサノオが高天原から新羅に降り立った後に出雲へ来たと書かれているという。つまり、朝鮮半島からやって来たことになる。梅原氏は、出雲地方までを植民地としていた越の国(新潟県)の悪しき豪族の支配から出雲を解放した英雄がスサノオであると考え、「出雲王国の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいた」と推測する。そして、スサノオの末裔であるオオクニヌシが、日本海沿岸で強大な王国を繁栄させた。

 やがて、その出雲王朝は大和政権との戦いに敗れ、オオクニヌシは出雲大社の西に広がる稲佐の海に身を隠したとされる。入水自殺をしたのだろう。

 2000年、出雲大社境内で巨大な柱根が発見された。平安中期の書物には、出雲大社の本殿がわが国で最も高く16丈(48メートル)あったとされている。その記述が巨大な柱根によって裏付けられた。では、誰が何の目的でそれほどとほうもない神殿を建てたのかが問題となる。梅原氏の論はそこでクライマックスを迎える。

 氏は、ここでも『隠された十字架』や『水底の歌』で名指ししたある人物の名を黒幕としてあげる。再建法隆寺が聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺だったと論証したように、巨大出雲大社はオオクニヌシの鎮魂のための神殿だったとする。大和政権は自らが滅ぼした出雲王朝のオオクニヌシの怨霊が怖かったのだ。その時代、疫病などは怨霊の仕業と恐れられていた。

 神無月に全国の神々が出雲へ集まるのは、「オオクニヌシの葬式のためだ」と梅原氏は書く。毎年集まることを考えれば、一周忌、三回忌などの法事のようなものだろう。縁結びのための会議という表向きの目的とは別に、裏があったことになる。

 梅原氏は、出雲大社を参拝し、オオクニヌシについて誤った説を唱えたことを詫び、新しい論考を改めて一冊の書物にすることを誓ったという。その書物が待ち遠しい。

 出雲の一部には、未婚のカップルが出雲大社にいっしょに参ると結ばれない、という言い伝えがある。ぼくは結婚後に妻を連れてお礼参りに行った。

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