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2009年11月

ワケありブームのカラクリをみた

 歳暮は、お世話になったひとに贈るものかと思っていたら、最近は自分へ贈るひともいるという。銀座の老舗百貨店松屋は、2009年末、自宅配送限定のカタログを初めて作った。いわゆる「ワケあり」の商品などを集めたもので、割れたマロングラッセ(1キロ、3675円)など64点を掲載している。いずれも、定価より15~40%安いという。

 このところ、ワケあり商品は大ブームらしい。不況下のデフレで、安いもの、あるいは、安そうなものに人気が集まっている。とくに、インターネット販売では、ワケありのオンパレードだ。「楽天市場」や「Yahoo! ショッピング」など大手では、ワケあり商品の売れ行きが上位にランクされ、次々と専用ページが開設されている。

 収穫前に風でこすれて傷ついたリンゴは30~80%引きで売られている。贈答用には向かないが、自宅で食べるぶんには問題ないから、生産者と消費者の双方にとってメリットがある。スーパーでも、規格外の野菜を10~20%引きで売ったりしている。

 パソコンやデジタル家電でも、箱に損傷があるものなどを少し安く販売している。ワケあり家電専用のショップも生れているようだ。

 ワケあり商戦はどこまでいくのか注目していると、テレビ東京の番組『トコトンハテナ』(11月15日放映)では、「訳あり品 本当に徳?」という特集をした。

 魚の干物を売る店では、サイズの規格外品を半値で売っていた。スイーツの工場から余剰製品やちょっと崩れたワケあり商品を直接仕入れ、アウトレットとして定価の60%で売っているケースもある。余剰製品というのは、急な注文にも対応できるようかなり多目に作ったもので、本来のワケありとはちがうが、通常ルートには乗らないものだから格安で売られる。

 一番問題がありそうなのは、割れたせんべい、いわゆる「割れせん」だった。ネットでは2キロが4200円で売られているケースもある。しかし、番組では草加せんべいの店を3軒ほど聞き回ったが、いずれも「割れせんは、売るほどにはできない」という答えだった。試食用にしたり、店の片隅でちょっと売っている程度だ。ある店では、ネット業者からなのか「割れせんを売ってくれないか」という誘いの電話があったが、それほど大量には出ないので断ったという。

 11月16日の読売新聞朝刊に、割れせんのカラー全面広告が載った。たかがせんべいを扱う店が、千万単位の金がかかる全面広告を打つことに、ちょっと驚かされた。しかも、11月25日、今度は朝日新聞の朝刊に、まったくおなじ広告が掲載された。

 全国向けに、大々的に売り出すほど、割れせんべいが確保できるものなのか。疑問に思って、埼玉県内にあるそのメーカーXに電話し、責任者を呼び出してもらった。

 「製造工程でできる割れせんを、直営店で売ったり社員が食べたりしていましたが、むしろ割れているほうが、おつゆがよくしみて旨いという声もあり、一般に販売することにしました」

 最初は、そう差しさわりのないことを話していた。「新聞で全面広告を打って売るほどに、せんべいが割れるとは思えませんが」と突っ込むと、「実は、割っているんです」と、しぶしぶ認めた。完成品をわざわざ割って、割れせんを作っているのだとういう。それが、いまや同社の主力商品になったそうだ。

 ワケありの割れせんだからお買い得、というイメージが消費者に受けるのだろう。X社の割れせんは、一斗缶(2キロ)入り3150円で決して高くはない。「完成品なら4000円くらいの値をつける商品です」という。ネットで売られている正体不明の割れせんより、かなり良心的ではある。

 テレビは、さすがにトレンドを読むのが早い。すでに7月10日放送のドラマ『コールセンターの恋人』が、ワケあり商品をテーマにしていた。テレビショッピングの会社が舞台で、社員も、元警察官や元キャバクラ嬢などワケあり人間だ。

 北海道産のワケありタラコを、500グラム3800円で紹介したところ、電話回線がパンクしそうなほど注文が殺到し、予定の500パックはすぐに売り切れた。「ワケありフェスティバル」と銘打ってチョコレート、せんべい、Tシャツを扱うと、いずれも完売した。

 会社の幹部は、調子に乗って、ワケありタラコをさらに1000パック発注した。しかし、どこかの娘から、会社の苦情処理係に「ワケありタラコをもう売らないで」と電話がきた。ドラマの主人公都倉渉(小泉孝太郎)は、電話をかけてきたのが生産者の娘ではないかと推理し、北海道のメーカーへ飛ぶ。

 そこでは、激論が交わされていた。「職人がきれいに詰めたらかえって売れねえなんておかしい」「店がつぶれたら、みんな食っていけなくなる」。やはり、わざとタラコを傷物にしてワケあり商品を作っていたのだった。結局、「傷をつけるのは、みんなの誇りに傷をつけるのと同じ」として、やめることにした。

 人間の場合も、「バツイチのほうが、むしろいい」などとワケありがもてたりする。しかし、ワケありにはワケありの理由がある、ということを肝に銘じておいたほうがいいかもしれない。

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日本が世界に誇る最大の文化遺産

 海外の日本大使館が行うもっとも重要で華やかなイベントは、天皇誕生日祝賀レセプションだ。その国の政府要人や各国大使など外交団、日本企業関係者らが集い、天皇皇后両陛下の写真が飾られたホールで、皇室の話題などに花が咲く。立食パーティだが、供される日本食もおいしく、わが夫婦にとっても楽しみだった。

 1996年、南米ペルーの首都リマで起きたテロリストによる日本大使公邸占拠事件で、一躍、日本で暮らす国民にも、その行事のことが知られるようになった。宴たけなわの午後8時過ぎ、覆面をした一団がレセプション会場に乱入して約600人を人質に取った。ペルー警察の突入で解決するまで、4か月間以上もかかったあの事件だ。

 現天皇の在位20年を祝う記念式典が、2009年11月12日、皇居前で盛大に開かれた。その前後、在位20年を振り返る報道はあちこちで行われたが、「国際社会のなかでの天皇」について触れたケースはまずなかった。しかし、海外で取材していると、その存在感を知らされる機会が少なくない。

 かつて、ベルリンで私設の「反戦博物館」を主宰する学校教師シュプレー氏にインタヴューした。氏は、歴代自民党首相の戦争責任についての姿勢を強く批判しながら、天皇を高く評価した。「日本の首相は、過去の戦争を『遺憾だ』と口にはするが、それは『残念だ』という意味で謝罪ではない。それに対し、天皇は平和の使者として戦争被害国などを訪れ、心を打つ言葉を発している」

 天皇は、政治的な発言はできないことになっているが、ぎりぎりの表現で謝罪の心を示してきた。たとえば、1992年に訪中したときは、歓迎晩餐会でこう語った。「我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。戦争が終わった時、我が国民は、このような戦争を再び繰り返してはならないとの深い反省にたち、平和国家としての道を歩むことを固く決意して、国の再建に取り組みました」

 日本人が考える以上に、国際社会はこうした天皇の言動に注目している。首相がころころと代わってきた日本では、政治家の顔と名前など、海外ではほとんど知られていない。一方、天皇の知名度は抜群であり、とてもいい意味で「日本の顔」となっている。

 戦後50年に当たる1995年、南ドイツのアルプス山中にあるナチスの元ゲストハウスなどを訪問した。戦後ずっとアメリカ軍の管理下にあり、取材を終え案内をしてくれた将校に手土産を渡して帰ろうとした。すると将校は「ヒトラーの第二司令本部の建物や部屋が残っているんだが、興味はあるか」と聞いてきた。ぼくは、もちろん、その話に飛びついた。将校は、自分の仕事を終えてからぼくの滞在ホテルまで迎えに来て、アメリカ軍関係者しか入れないその施設に連れて行ってくれた。そこには、ヒトラーが使った机などが、そっくりそのまま残されていた。ドイツではまったっく知られていないナチス遺跡で、スクープとなった。恐らく、手土産が効いた。将校に渡したのは、会社の上司にもらった天皇家からの下賜品、「菊の御紋」入りの金杯だった。「こんなものを本当にもらっていいのか」と感激していた。

 2008年にインド・ニューデリーを訪れた際には、総合病院を経営するサチデヴ院長の自宅へ招かれ、夫人が、お嬢さんの通っていた学校に秋篠宮妃殿下が訪れたエピソードを、楽しそうに語ってくれた。

 世界最古のファミリーである天皇家は、中国や韓国などアジアの一部をのぞき、ミーハー的な意味でも人気がある。なのに、そのこと自体、日本国内ではあまり報道もされていないし、したがって一般国民に認識されてもいない。

 それは、20世紀に日本が行った戦争が、天皇の名の下に遂行されたため、天皇制を批判する国民が一定の割合でいることと関係があるだろう。しかし、天皇制批判は、あまりにも薄っぺらで近視眼的な歴史観ではないか。千数百年の歴史を持つ天皇家の、ほんの数十年間のことを取り上げ否定しようとする精神構造は、健全とはいえない。

 日本では長らく、君が代と日の丸をめぐる争いがつづいた。しかし、第二次世界大戦の二大敗戦国の一方であるドイツでさえ、国歌と国旗は戦争以前のものを戦後も採用している。新しい国歌を導入しようと試みた勢力もあったが、国民は受け入れなかった。国でも学校でも個人の家でも、伝統を守ろうとするのは当たり前のことだ。マイナス面はマイナス面として心に刻んでおけばいい。

 イエス・キリストの名の下に行われた戦争は、世界中にいくらでもあるが、だからといって神そのものを否定しようとするキリスト教徒はいない。アラー名の下に行われた戦争も、世界中にいくらでもあるが、だからといって神そのものを否定しようとするイスラム教徒はいない。

 歴史上の一時期をのぞき、天皇には権威はあっても権力は持たなかった。キリスト教徒の外国人には「日本人にとっての天皇は、ローマ法王と似た存在だ」と解説すると、よく理解してくれる。

 現天皇は、過去20年間に、計14回、31か国を訪問したという。天皇の存在そのものが日本の最大の文化遺産であり、最強の外交官であることはまちがいない。その事実を、日本人はもっと自覚したほうがいい。

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アダルトビデオの謎

 海外で暮らしていたとき、どうしても日本のニュースに疎くなった。日本からの新聞、雑誌で最近の事情を知るのだが、心理的な距離のせいか、ピンとこないことも少なくなかった。テレビで生々しい現場を観ることがないのも影響しているかもしれない。

 そうした出来事の一つに、1989年の坂本堤弁護士一家失踪事件があった。国内ではかなりのニュースとして取り上げられたのだろうが、ぼくはインドにいて、ほとんど記憶がなかった。

 失踪はオウム真理教の仕業と分かり、一家は殺害されていた。2009年11月4日、それから満20年が経ち、事件を振り返る報道が行われた。

 ぼくは失踪事件のあった翌年にインドから帰国し、友人のX弁護士と久しぶりに会うことになった。待ち合わせに横浜市内の弁護士事務所に行くと、「あの坂本弁護士がここで働いていたの知ってる?」とXが聞いてきた。一瞬、何のことか分からなかったが、一家で失踪した弁護士がいたことを思い出した。オフィスの中に入れてもらうと、坂本弁護士の机はそのままで、無事を祈る千羽鶴が壁にかけてあった。そのころは、まだ安否が不明だった。

 坂本弁護士は、1989年春、オウム真理教の出家信者の母親から「息子を何とか脱会させたい」と相談を受けたのをきっかけに、オウム真理教と対決することになった。当初は教団の幹部と話し合いをしていたが、10月になって決裂し、オウム真理教の宗教法人の認可取り消しなどを求めて、民事訴訟の準備に入った。

 6年後に明らかになった事実関係によると、教団の代表者麻原彰晃(松本智津夫)は、総選挙に立候補を予定しており、坂本弁護士の動きが自分の選挙活動や教団の活動の妨げになると考え、殺害を企てた。

 11月3日、教団幹部の村井秀夫など6人に、坂本弁護士を待ち伏せして車に連れ込み塩化カリウムを注射して殺し、遺体をそのまま運び去らせる計画を立てた。しかし、その日は休日で待ち伏せしていた横浜市の洋光台駅付近に弁護士は現れず、失敗した。

 そこで、麻原は計画を変更し、翌日未明、6人を自宅に侵入させ、坂本さん(33)と妻の都子さん(29)を絞殺、長男龍彦ちゃん(1歳2か月)を窒息死させた。遺体はそれぞれ、新潟、富山、長野各県の山中に埋めた。

 当初、同僚弁護士らは、年末年始の休みも返上し、情報収集に必死になったという。弁護士有志は「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」を結成し、全国規模でチラシの配布やキャラバン活動などを展開した。

 坂本弁護士の自宅には、オウム真理教幹部しか付けていなかった「プルシャ」と呼ばれる真理教の徽章が落ちていた。同僚たちは、オウム真理教の仕業ではないかと強く疑っていた。だがまだ、地下鉄サリン事件などよりずっと前で、あのカルト教団も世間ではあまり注目されてはいなかった。

 一家失踪について、警察は事件として積極的に動く姿勢を見せなかった。神奈川県警によるある誤認逮捕事件を坂本弁護士が主に担当していたことや、弁護士事務所が警察による日本共産党幹部宅盗聴事件で警察側と対立していたことなどが影響していたと勘ぐる声もあった。

 警察は「坂本弁護士は借金を抱えて失踪した」「大金を持ち逃げした」などの事実無根の噂を新聞社数社に流したとされる。

 坂本弁護士は生真面目すぎるほどの人物で、ある友人が「もうちょっと、柔らかくなったほうがいい」と、無修正のアダルトビデオを貸したことがあったという。

 一家不明事件を受け、警察は自宅にあったさまざまな物を預かっていった。その中に、問題のビデオもあった。友人たちは、一家の安否を心配しながら、ビデオの中身をチェックされたら、何といっても禁制品だから出所を詮索されるのではないか、と戦々恐々としていたらしい。

 一家の遺体は、オウム真理教の摘発、麻原の逮捕などの後、1995年9月に発見された。事件の真相は、実行犯のひとり岡崎一明が自首をして明らかになった。

 オウム真理教が世界的に名を知られるようになったのは、地下鉄サリン事件からだ。そのころ、ぼくはボンにいた。ドイツの新聞は麻原を「毒ガス・グル」と呼んで、詳しく報じた。ドイツには、はたして危険なカルト教団はないのかと思い、調べてみたらひとつだけあった。

 取材を申し込むと、原稿を事前検閲することを条件に出してきたので、断った。その教団は、信者やその家族が閉鎖的なコミュニティに暮らしており、狂信的な側面があるという。凶悪事件こそまだ起こしてはいないが、いつ何があってもおかしくはない、という見方もある。

 横浜の事件では、しばらく経って、警察が坂本弁護士の自宅から預かっていった一切の物を返却してきた。その中には、ちゃんとアダルトビデオもあった。友人らはドキドキしながら、念のため、再生してみたという。画面に出てきたのは、なぜか『ひらけ! ポンキッキ』だった! 

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壁崩壊から20年の後に

 2009年11月9日、ベルリンの壁が崩れてから満20年となる。

 ぼくの一家は、壁が崩れて5年後、旧西ドイツの首都ボンで暮らし、その後、旧東ドイツの首都ベルリンに住んだ。かつての西ドイツ市民と東ドイツ市民の両方に接したわけだ。

 第二次世界大戦の結果によるドイツの分断は、冷戦の悲劇を生んだ。同時に、もともとひとつの国民がまったくちがう政治体制の下で生きたときどうなるか、文化人類学上の壮大な実験という側面もあった。そして、ぼくたちが知りえた限りでは、東と西ではやはり市民性にかなりのちがいがあった。

 1996年10月、ベルリンに駐在していたぼくのところに、新聞社の大阪本社からある取材依頼がきた。ノーベル医学生理学賞の候補にノミネートされている京都大学の名誉教授がドイツへ行くので、万一の受賞にそなえて取材体制をとって欲しい、というものだった。

 名誉教授は、学会でオーストリアへ行った後、夫人とともに旧東ドイツの都市ワイマールへ来るという。受賞となれば世界的ニュースだから、ぼくはAP通信の写真部に連絡し、カメラマンを派遣してもらう手はずを整え、ワイマールへ向かった。

 名誉教授夫妻の滞在ホテルはわかっていたので、同じホテルの部屋を確保し、名誉教授に部屋から電話を入れた。「わざわざ取材に来てくださったんですか。でもたぶん、受賞はしませんよ」と言っていたが、可能性はある。夫妻といっしょに昼食をとったり、市内をぶらついたりしながら、名誉教授の研究に対する考え方やエピソードなどを聞き出した。

 夫妻は英語はできたが、ドイツ語はできなかった。行く先々でぼくがドイツ語の通訳を買って出ると、「どこで習ったんですか」と聞かれた。大学で専攻したと答えると、「きれいな発音ですね。きちんと基礎を叩き込まれたおかげでしょう。研究もそうですが、基本がとても大切です」と言った。

 自身の研究モットーとして「ホームランを狙うときには狙う。そうでなければ、ホームランは打てません。狙わなければだめです」ときっぱり言った。弟子たちにも、繰り返しそう指導しているという。ぼくは、かつての巨人軍の原辰徳選手の言葉を思い出した。「ホームランを狙って、結果としてヒットになることもある」と。そして、ずっと後に、イチロー選手も「ホームランは狙って打つ」と言った。

 ノーベル賞委員会の発表の時間が近づくころ、ホテルのロビーでソファに腰かけ、夫妻とおしゃべりをしていた。AP通信のワイマール支局から長身の男性カメラマンがやってきた。地元の出身という青年だった。ほかに報道陣はいない様子で、受賞が決まれば独壇場になる感じだった。

 そろそろ時間かなと思っていたとき、カメラマンの携帯電話が鳴った。彼はちょっとだけ話してすぐに電話を切った。それから2、3分してぼくの携帯が鳴った。大阪本社からで、受賞を逃したという連絡だった。ぼくは夫妻にそのことを告げた。名誉教授はとくに気落ちする様子もなく、淡々としていた。

 ぼくはその日のうちにベルリンへ帰ることにしていたので、夫妻に別れを告げた。カメラマンといっしょにホテルを出ると、彼がこう言った。「私の携帯に落選の知らせがあったんですけど、同じ日本人同士であるあなたからそれを伝えたほうがいいと思って、そのままにしておきました」

 それは、旧東ドイツ市民の人情だった。

 カメラマンは、ぼくが乗る列車の時刻まで、まだ時間があると知ると、支局に誘ってくれた。オフィスはこじんまりしていて、記者ひとり、カメラマンひとりだけという。記者にも紹介してくれて、3人でおしゃべりをした。旧東ドイツの地方では方言がかなりきついが、ふたりとも、ぼくが聞き取りやすいよう標準語で話してくれた。カメラマンは「ちょっと待っていてください」と席をはずし、地元名物のお菓子を買ってきてくれた。帰りがけ、カメラマンは食べ残したお菓子を「列車の中で食べてください」と、紙に包んでくれた。

 ぼくがドイツ駐在を通じてもっとも心温まった体験だった。ああ、西ではこんなことはないかもしれないな、と思った。

 ベルリンの壁が象徴した東西冷戦は、社会主義と資本主義の戦いだった。そしてたしかに、西側は冷戦に勝ったが、社会主義が100パーセント悪く、資本主義が100パーセント良かったわけではない。東側陣営では、共産党が独裁体制を敷き、市民の自由は束縛されていた。東ドイツには悪名高い秘密警察『シュタージ』が情報網を張り巡らし、市民を監視していた。その半面、人びとが過度の競争社会にさらされることはなく、ゆったりと暮らしていたのも否定できない事実だった。

 壁が崩れ、冷戦が終わって20年となる今、考えさせられることは多い。日本社会でも格差は広がり貧困率は高まる一方だ。つい最近、政府は、2007年の「相対的貧困率」が15.7パーセントだったと発表した。約6人にひとりが貧困という計算になる。自民党政権時代には、その統計をひた隠しにしていた。

 ふた昔以前と今のどちらがいいか、日本で世論調査をすれば、かなりの率で「昔のほうが良かった」というひとが多いだろう。冷戦に勝ったおごりなのか、再統一ドイツや日本をふくむ各国で、資本主義は暴走をつづけ、市場原理主義が人びとの暮らしと心を荒廃させている。

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