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2010年3月

釜山からの帰り、JR日暮里駅で愕然とした

 韓国では、これでもかというくらい生ニンニクを食べる人が多い。最初に訪れたのは24年前で、一番印象に残ったのは、日本でまだ一般的ではなかった韓国料理のうまさだった。

 ユッケを注文すると、生のニンニクがどーんと添えられており、生肉と合わせて食べる。それもスライスではなく、皮をむいた丸ごと出て来ることもある。プルコギや魚の刺身も生ニンニクといっしょに食べる。試すと、これがくせになる。

 しかし、人びとがニンニク臭いかと言えば、そうでもない。ニンニクの品種がちがうのか、粒は大きく、味は深く、しかも日本のに比べてあまり匂わなかった。

 自分で人体実験してわかった、もうひとつの秘密がある。大量の生ニンニクを食べ慣れると消化酵素が適応するのか、あまり口から匂わなくなるのだ。

 そのころの韓国は、街を行く人の衣服の質が日本と決定的にちがっていた。ちょっと田舎に入ると牛車が道路をのんびり動いていたりして、発展途上だなぁという感じはぬぐえなかった。

 そしてこの2010年の冬、釜山に行ってきた。韓国訪問は20年ぶり3回目となる。今回印象に残ったのは、少なくとも都市部が大いに発展していることだった。釜山には、地下鉄ができていた。切符の自動販売機は、韓国語、英語、日本語、中国語の表示をワンタッチで選べる。

 市の中心部にある西面(ソミョン)駅で切符を買おうとしていると、おじいさんから日本語で話しかけられた。日本から訪れる人たちのために、案内ボランティアをしているという。日本に長らく住んでいたといい、ネイティブの日本語だった。

 駅のアナウンスも4か国語で行われていた。地下鉄の車両は東京メトロなど日本とほとんど変わらず、運賃は日本より4割くらい安い。車内の電光掲示板は韓国語と英語だった。

 南浦洞(ナンポドン)駅で降りると、今度は初老女性の日本語ボランティアがいた。徐英梅、日本名・松本エイ子さんといい、名古屋で育った元在日コリアンだった。

 日本では、高知市へ旅行したとき、坂本竜馬の生家などを案内する歴史ボランティアにお世話になったことがある。だが、駅のコンコースに長時間立って外国人にサービスするという例は知らない。徐さんは、発展した釜山を日本人に見せることに誇りを持っていた。高齢者に生きがいをもってもらい、観光にも役立てる一石二鳥のボランティア制度だった。

 南浦洞駅を出てすぐの海に面したチャガルチ市場一帯が、釜山最大の観光スポットとなっている。日本の植民地から独立した1945年ごろ、砂利地帯(チャガルチ)に海産物の露店を出したのが始まりとされている。

 無数の干物販売店が集まった一角も面白かったが、中心は2006年にリニューアルされた水産市場、その名も『チャガルチ市場』で、大型ビルの1階フロアに、生簀を備えた鮮魚店が100数十軒びっしりと並んでいた。ビルの2階はレストランになっており、1階で買った魚介類をすぐに味わうことができるという。

 ある魚屋でアワビとサザエを2個ずつ、ホヤ、イカ、ヒラメを1匹ずつ買った。いずれも生簀から揚げた活魚だ。それらの刺身や焼き物にキムチとライスが付いて、ふたりで食べて約4000円だった。日本のわが家の近所には、北海道・函館直送の活魚専門店があるが、活イカ一杯で2000円はする。その相場からすれば、信じられないほど安い。

 驚かされたのは、ほとんどすべての店員が、商売にはじゅうぶんな日本語会話ができることだった。地下鉄駅の4カ国語表記・アナウンスや日本語ボランティアといい、鮮魚店員の会話能力といい、国際観光都市としてやっていこうという意気込みはすごい。

 韓国は、官民挙げて「2010-2012 韓国訪問の年」という外国人観光客誘致キャンペーンを展開している。2009年の782万人を2012年までに1000万人以上にするのが目標という。釜山など地方都市のイベントや食べ物について、韓国観光公社や旅行会社、各地方自治体がPR活動を繰り広げている。

 日本でも、前原誠司・国土交通大臣を本部長とする観光立国推進本部が設立されたらしい。だが、ほとんどの国民はあずかり知らず、まったく盛り上がっていない。

 それに比べ、韓国の“官民挙げて”というのは、いつも徹底している。最近のいい例がバンクーバー冬季五輪だろう。金5個、銀4個、銅1個と計10個のメダルを獲得した。選手団は総勢82人で、うち選手が45人ともちろん役員・スタッフより多かった。

 日本は205人もの選手団を送ったが、選手は94人と半数に満たず、銀3個、銅2個の計5個にとどまった。JOCの役員たちが大挙して現地入りしたあおりで、選手に直接つくべきコーチやトレーナーがはじき出された。多くの役員が国費を使って物見遊山に行ったとしか思えない。

 それでもメディアはほとんど批判しない。民主党政権の事業仕分けは脚光を浴びたが、スポーツ行政の無駄遣い、非効率が槍玉に挙げられないのはなぜだろう。

 観光でもスポーツでも、韓国と日本には迫力のちがいがある。でもそれは、島国ニッポンに暮らしているだけではぴんと来ない。

 釜山から成田へ空路帰り、京成電鉄で日暮里まで来てJRに乗り換えた。切符の自販機にローマ字表記さえないのに、愕然とした。

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日本の戦争は終わってはいない――フィリピン残留日本人孤児

 第二次世界大戦より前にフィリピンに渡った日本人とフィリピン人女性とのあいだに生まれながら、戦禍で現地に取り残されたままだった吉見政江さん(76)の戸籍が、NPOによって熊本県天草市で発見され、日本国籍を取れることになった。戸籍は「昭和20年にルソン島マウンテン州で死亡」として抹消されており、戸籍訂正の手続きを行う。

 吉見さんは、2009年、日本の裁判所に戸籍作成を申し立てていたが、「日本人の可能性が低い」として却下されていた。却下後に、戸籍が見つかったケースは初めてという。

 吉見さんのような境遇の人は、一般に「フィリピン残留日本人孤児」と呼ばれているが、その問題は、日本ではあまり関心を引かない。吉見さんの戸籍発見のニュースも、2010年3月5日に毎日新聞が報じただけだった。

 しかし、ぼくにとっては忘れられないテーマとなっている。1986年4月、フィリピンへ出張し、ネグロス島の中心都市バコロドで市場を取材しているときだった。日本では見かけない鮮魚やニガウリ(ゴーヤ)など地物の野菜が売られ、活気にあふれていた。

 「日本人、ですか?」中年の女性に日本語で声をかけられた。その女性は、市場に日本人の記者が来ていることを知り、あわてて飛んで来たという。日本語は不自由そうなので、英語で会話した。

 「私は日本人ですが、戦争が終わってからも、ずっとフィリピンで暮らして来ました。何とか日本に帰れる方法はないかと思いながら、誰に頼んだらいいかもわからないまま、40年も経ってしまいました」

 ネグロス島は、首都マニラから遠く離れたところにある。そんな島に日本人がいるとは、思いもせず驚かされた。ぼくは、予定していた取材をいったん中止し、その女性の話をじっくり聞くことにした。今ではその人の名前は忘れてしまったが、顔だちはいかにも日本人のおばさんという感じだった。

 大戦前フィリピンに渡った日本人男性を父に持ち、「日本の戸籍を持っていたはずだった」という。日本語は父との会話で覚え、戦前にあった日本人学校で本格的に学んだ。だが、日本軍に徴用された父は戦死し、やがて日本軍が負けると、現地日本人への差別や迫害の恐れがあり日本人であることを隠して生きてきた。日本語を話す機会もなくなった。しかし、戦争が終わって長い時間が経ち迫害の恐れも少なくなってから、親しい友人らには、日本国籍を持っていていずれは日本人として生きていきたい、と話していたという。

 その女性は「私と同じ境遇の人は他にもかなりいるはずです。日本の新聞に書いて、政府などを動かしてください」と涙を浮かべて語った。

 ぼくは、出張を終え東京へ帰ると、すぐに、フィリピンにも残留したままの日本人がいるという原稿を書いた。しかし、アジア担当デスクはそのニュース価値がわからず、しばらくはそのままになっていた。新聞社も縦割り組織で、海外のことでも日本や日本人がらみの話は、ぼくの所属していた外報部(現国際部)ではなく社会部の管轄とされていた。

 それでも、ぼくが強く迫ったので、預かりになっていた原稿は、3週間ほど経ってからやっと紙面に載った。

 ぼくは、その前年、外報部に移る前に中国残留日本人孤児の取材をしたことがあり、そのフィリピン版だと考えていた。

 中国残留孤児は、第二次大戦末期の1945年8月、ソ連軍侵攻と日本の関東軍の撤退による満州国(中国東北部)における混乱で、家族にはぐれたり置去りにされたりして日本へ帰れず、中国人の手によって育てられた子どもたちのことをいう。その数は8,000人とも1万人を超えるとも言われている。1981年から日本の厚生省(当時)が中心となって中国残留孤児・訪日肉親捜しが始められた。

 フィリピンのケースは、20世紀初頭から第二次大戦前にかけてフィリピンに渡った日本人移民男性の子、つまり二世が多いとされる。戦争直前にはダバオなどを中心に在留邦人が約3万人いた。また1939年の国勢調査では、日比混血児が2358人、うち日本国籍を取得したのは740人だった。

 NPOのフィリピン日系人リーガルサポートセンターによると、残留日本人孤児の支援を始めたのは2006年だった。以降、123の就籍申し立てを行ったうち、48件しか認められていないという。フィリピン国内には現在、約500人の残留孤児がいるが、多くが70歳以上で戸籍取得が難しくなっている。

 フィリピン残留孤児(二世)の父親の多くは大戦中、日本軍に徴用され、敗戦に伴い強制収用・送還された。戦火の中で死亡した父親も多いとされる。現地に取り残された妻子は山岳地帯に隠れ住んだりした。日本人の父とのつながりを裏付ける資料を自ら捨てた人も多く、戸籍取得が難しい原因となっている。父親の身元が判明し戸籍に名前が記載されている二世はすでに日本国籍を取得しているが、約800人は証明できるだけの資料がなく、すでに死亡した人などを除く約500人が就籍による日本国籍取得に望みを託している。

 ぼくが1986年に書いた記事はスクープだったが、翌年のインド赴任を控え、続報を書く余裕もなかった。他のメディアや政府は何の反応もしないまま問題が放置された。すでに高齢となった孤児の人たちのことを思うと、心が痛む。

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改めて生と死を考える

 妻の母が危篤に陥った、という電話が長野市で暮らす跡取りの義弟から入った。妻とぼくは、関越道、上信越道を飛ばして帰った。横川、軽井沢の峠辺りは霧が立ち込め、すごい吹雪だった。愛車はノーマルタイヤをつけているので、冷や冷やしながらいつもの半分のスピードで走り、夜7時半にどうにか病院へ着いた。

 義母は脳梗塞で倒れ、1年半ほど前から病院や自宅、高齢者施設で過ごしていた。2010年3月5日、急性腎不全で緊急入院し、7日の午後に容態が急変した。

 義母は、口に酸素マスク、腕に血圧計、胸に心電図のパッドをつけ、点滴を受けながらベッドの上であえいでいた。尿を出すためのチューブも挿入されていたが、ほとんど出なかった。医師が義弟らに説明したところによると、尿の毒素が体内に回り、心臓へ達したら最期を迎える。今夜がヤマかもしれないし、体力があれば1週間先になるかもしれない、ということだった。

 血圧を上げる薬のせいで血管が収縮するため、手足が冷え切っていた。妻や義姉は、必死で手足をさすってあげた。

 お見舞いのため帰省した2009年11月、施設のベッドで眠っている義母に妻が大声で呼びかけると、わずかながら目に涙を浮かべて反応があった。しかし、義弟の話では、それからほどなくして症状が悪化し、反応はまったくなくなったという。

 病室で、最新医療機器が送り出す情報を映すモニター画面を見つめていると、生とは何か、人間の尊厳とは何かを考えずにはいられなかった。

 モニター画面では、心臓はまだ規則正しかったが、血圧が乱高下し、酸素の供給値が突然「0」になったりした。看護師がときおり体温を測ると、34度台で推移していた。ベッドに横たわっているのは、生ける屍でしかなかった。

 医療の発達していない昔日なら、義母はすでに、満81歳で静かに命の灯火を消していただろう。

 いたたまれなくなって病室を抜け出し、携帯電話の使用が許されているエリアから、ぼくの実家へ、状況報告の電話をかけた。母は「私がそんな容態になったら、延命措置なんてして欲しくない。お迎えが来たら自然に逝くのが一番だわ」と言った。ぼくもまったく同感だった。

 妻の父は、以前このブログで書いたように、2008年秋、脚立から転倒して脳挫傷を負い、1か月余り入院して亡くなった。救急車に乗せられたときには自分の名前を言ったそうだが、病院へ着くころには完全に意識を失っていたという。それから一度も意識を取り戻すことはなかった。

 義父の容態が一段と悪化したとき、看護師はぼくたちに言った。「人工呼吸器を着けますか? その場合、植物状態がずっとつづくかもしれません。入院費も相当かかります。そして、一度着けたら、法律によって私たちは取り外すことができなくなります。よくお考えください」

 義弟や義姉や妻は、究極の選択を迫られた。父がまだ生きていて、医学的に生きつづけさせることができるならそうしてあげたい。しかし、意識もなくただ生物学的に生きていることに何の意味があるのか、という迷いもあった。

 看護師長は、ぼくをこっそり呼んでこう言った。「医療関係者としては、ご家族のご判断に任せるしかありません。でも、私の個人的な意見を言わさせていただくなら、人間に寿命というものがあり、自然に任せるのが一番いいと思います」

 義父は、人工呼吸器を着けることもなく命を終えた。

 少し距離を置いたところで、植物状態になったときの医療費などを気にしていたぼくは、本人も家族もこれでよかったんだ、と心から思った。

 義母は、ぼくたちが飛んで帰った翌日の午前10時過ぎに逝った。結果としては、どうにか尊厳が保たれた。

 葬送のセレモニーについては、基本的には葬儀社に任せた。祖母が大往生したときにきめ細かく動いてくれた担当者を指名した。

 問題は檀那寺だった。義父のとき、M寺の住職は、とんでもないことにお布施と戒名代で120万円もふっかけてきた。何事も丸くおさめようとする義弟は、値切ることもなく貯金をはたいて差し出した。3か月後に祖母が亡くなると、今度はさすがに50万円に下がった。

 親戚のあいだでは、M寺の強欲ぶりがひとしきり話題になった。そして3年連続の葬儀となる義母の場合はいくら要求するのか、みんなで注目していた。今回は20万円だった。住職は、檀家の足元を見て適当に額を決めているとしか思えない。

 医学は進歩したが、人の寿命を尊重し尊厳を守るという点においては、明らかに後退している。そして、他の仏教国にはない戒名などというものでぼろ儲けをする葬式仏教も、いくところまでいった感じがする。

 通夜から葬儀にかけて、春の嵐が吹き荒れた。

 (このブログは、原則として毎週木曜日に更新します)

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勝った者は強い だから、4年後には…

 強いものが勝つとは限らないが、勝った者は強い――バンクーバー冬季五輪の女子フィギュアを観終わって、この言葉を思い出した。

 ラッキーカラーとされる青いコスチュームで、228.56という異次元の得点をあげ金メダルを取ったキム・ヨナ選手のことではない。

 前回トリノ五輪でやはり青いコスチュームを身にまとい金メダルを取った荒川静香さんのことだ。荒川さんは、つくづく強運の持ち主なのだろう。2005年のグランプリシリーズ、グランプリファイナルでは浅田真央ちゃんに2連敗したが、真央ちゃんやキム・ヨナ選手は年齢制限のためにトリノ五輪に出場できなかった。

 代表落ちすれば引退することさえ公言していた荒川さんは、全日本選手権でどうにか3位となり、長野五輪以来8年ぶりとなるトリノ五輪代表に滑り込んだ。

 そのトリノでは、フリーで自己最高得点を出して優勝し、アジア選手として五輪フィギュア史上初の金メダルとなった。当時24歳で、五輪女子フィギュア史上最年長の金メダル獲得でもあった。

 トリノで日本人選手団は惨敗し一つのメダルも取れないなか、荒川さんの「金」は燦然と輝き、一躍、国民的ヒロインとなった。体を後ろに大きく倒して滑るイナバウアーは流行語になった。

 しかし、合計スコア191.34は、単純比較はできないとしても、バンクーバー五輪でなら4位にとどまる。真央ちゃんらがトリノに出場していたら、荒川さんはメダルに手が届かなかったかもしれない。

 荒川さんは、トリノ後、プロスケーターとなり、フィギュアの解説者としても活躍している。空前の広告不況でテレビ出演料が軒並み下がり、大物芸能人は4割減とも言われる状況で、バンクーバー五輪の解説をする荒川さんだけはギャラがはね上がり“ひとり勝ち”とされる。

 経験に基づく説得力のある解説や、歯切れのいいインタヴューなどで非凡なものがあり、テレビ局が重用するのは当然とはいえ、それも「金」のおかげだった。

 まさに、勝った者は強い、の好例といえる。

 一方、野球のピッチャーにたとえると、キム・ヨナ選手はバンクーバーで、投球術、制球力抜群、変化球多彩でボールの切れもよく、「完全試合」を達成した。コーチの方針もあり、難易度の高いジャンプよりも表現力など評価点の高い演技に力を入れ、狙い通りの結果を出した。つまり、好投手タイプだ。

 紅と黒のコスチュームの真央ちゃんは、トリプルアクセルという世界最高速の剛速球を放ったが、投球術や制球力でやや劣り、勝利を逃した。

 素人目にみても、華やかさ、つまりショー的要素としては、キム・ヨナ選手が数段勝っていた。

 だが、男子フィギュアで唯一の4回転を決めながら、真央ちゃんと同じく銀メダルに終わったロシアのエフゲニー・プルシェンコ選手(27)をはじめ、採点方法に疑問を呈する声もある。たしかに、フィギュアのスポーツ性を重視するなら、力と技が要求される難度のより高いジャンプをもっと評価してもいいだろう。

 フィギュア・エキシビションで、真央ちゃんは「クイーン・オブ・トリプルアクセル(3回転半の女王)」と紹介された。同じジャンプに命をかける者同士として親近感があるのか、真央ちゃんはエキシビション練習で同組になったプルシェンコ選手の頬にキスをしたという。

 そして、練習でもウオーミングアップ代わりに4回転の2連続ジャンプを跳んだプルシェンコ選手を食い入るように見つめて、刺激を受けた。

 プルシェンコ選手も、真央ちゃんの4回転の可能性について聞かれると、「"Yes, she can"、着氷にはまだ少し難があるけど、マオはジャンプの回転が速いから大丈夫」と太鼓判を押した。さらに「何ならぼくも手助けできる」と、どこまで本気かはわからないが、コーチ役にも名乗りを上げたという。それが実現したら面白いことになる。

 率直に言って、キム・ヨナ選手の競技人生は、バンクーバーがピークだったのではないか。競技生活から引退してプロスケーターになるかもしれないという話は、真実味を帯びている。

 それに比べ、真央ちゃんはまだ荒げ削りなだけ、伸びしろもある。プロ野球のピッチングコーチは、若い投手にまずスピードを求めるという。変化球や投球術は練習と実践で習得できるが、球の力は持って生まれた要素が大きいからだとされる。

 フィギュアも同じだろう。トリプルアクセルを跳べるのは、現役の女子選手でふたりしかいないとされる。真央ちゃんは、それを五輪という大本番で計3回も成功させた。そして、4回転の可能性もじゅうぶんに秘めており、夢が広がる。

 4年後にロシアのソチで開かれる五輪が、真央ちゃんのピークになるのではないだろうか。エキシビションで「4回転の女王」と紹介されるのを想像して、練習に励んで欲しい。そして、「強い者が勝つ」シーンを見せて欲しい。

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