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御柱祭 出雲→北陸→越後→信州の「神」逃亡ルートからのロマン

 寅年と申年に、奥山でモミの巨木を切り出し、里を曳いて急坂を滑り落とし、川を越え、神殿の4隅に立てる。巨木には2000人から3000人もの氏子が群れしたがう。長野県諏訪地方の御柱(オンバシラ)祭が、2010年4月2日から6月15日までつづいている。

 申年だった1980年、ぼくも長野県に住んでいたが、あの勇壮な祭をじかにみる機会はなかった。しかし、テレビで観るだけでも迫力は伝わる。猛スピードで坂を下る巨木に群がる男たちには、死さえ恐れぬヒロイズムが感じられる。人びとの巨木へと向かう衝動は何なのだろう。あの祭りは、観る者の心に消化しきれない何かを残す。

 2000年4月、信州から遠く離れたぼくの郷里、島根県の出雲大社で、巨大な柱の根元が発見され、考古学上の大ニュースとなった。直径1メートル以上のスギが3本、金輪で締められていた。かつては出雲大社が、世界最大の木造建築である奈良・東大寺大仏殿の約45メートルを上回る約48メートルの高さを持つ掘っ立て柱建物だった――そう記す平安時代の文献や、本殿の平面図「金輪造営図」を裏付ける大発見だった。

 その速報に触れ、ぼくはすぐに諏訪の御柱祭を連想した。古代、出雲でも無数の人びとが集い巨木を切り出して神殿に立てたのだろう。出雲には柱立ての神事の記録さえないが、遠く諏訪に伝えられ今に残っているのではないか。

 インターネットで調べると、古事記に出雲と諏訪を結ぶ記述があるという。アマテラスオオミカミの孫ニニギノミコトの降臨に先立ち、タケミカヅチノミコトが使者として出雲へ赴き、オオクニヌシノミコトに出雲王朝の支配権を譲渡するように迫った。これに対し、オオクニヌシの息子であるタケミナカタノミコトが「国譲り」に反対し、タケミカヅチと格闘した。負けたタケミナカタは出雲を追われ諏訪まで逃れて、その地を征服し、土着の神と交わって王国を築いたという。それが諏訪大社の起源とされる。

 巨大柱の発見のあと、出雲地方のある自治体で教育長をしている高校時代の友人が上京し酒を酌み交わした。そのときに、出雲大社と諏訪の御柱祭をめぐるぼくの仮説を話してみた。

 そして、2000年の10月、出雲大社ではさらに、古代神殿の中心にあったと思われる「心御柱」の根元も発見された。いわゆる大黒柱そのものであり、シンノミハシラと読む。出雲と諏訪は、読みこそちがえ「御柱」というキーワードでもつながる。

 教育長の友人からは、こんなメールが来た。「子どもたちに地元の神話と伝承を教える体験学習として、出雲大社に柱を立てる“御柱祭”のイベントをしたいと思っています。ついては、古代における出雲と諏訪の関係について、諏訪側の情報を集めてもらえませんか」

 ぼくはそのころ、経済人や市民が田中康夫さんを長野県知事選に当選させ「革命」とも呼ばれた出来事について取材するため、信州へよく出張していた。そのついでに諏訪を訪れ、在野の考古学者、宮坂光昭さんの自宅を訪れた。

 奥さんの手料理でもてなされ、「以前は御柱祭の年には冠婚葬祭を控え、祭にお金と精力を注ぎ込んだものです」と聞かされた。現代でも、祭の期間には、まったく見知らない人が来ても料理と酒を惜しげもなくふるまうのだという。御柱祭は、全国的にみてもまれにみるスケールでのハレの行事なのだった。総参加者は20万人ともいう。

 宮坂さんは出雲との関係については否定的だった。「現在の諏訪大社の神事には、出雲系のタケミナカタを祀るものはほとんどありません」

 諏訪市博物館で学芸員に聞くと「出雲大社での大発見には個人的には注目していますが、諏訪大社との関係はよくわかりませんね」と言った。

 友人の教育長は、出雲での“御柱祭”として、地形的にみて、切り倒した木を川に浮かべて平野部まで運び、そこから里曳きをして出雲大社へ向かうルートを考えた。それを実行に移すには、少なくとも3市町の協力が必要だった。各首長に働きかけて準備を進めたのだが、平成の大合併に伴う混乱で、話は立ち消えになってしまった。

 それでも、ぼくは自分の仮説を温めつづけていた。今回2010年の御柱祭をテレビで観て、改めてネットで調べてみた。すると、2009年11月の筆者不詳のある記事で、ぼくと同じことを想像した人がいることがわかった。

 また、出雲と同様、諏訪地方にもかつては旧暦10月を「神無月」ではなく「神在月」と呼ぶ風習があったことも知った。諏訪大社上社の祭神であるタケミナカタが、出雲で“勘当”されたため全国の八百万の神々とはちがいこの月に出雲には行かないためそう呼ぶ、との説があるらしい。諏訪市博物館に問い合わせると、神在月という呼称も「今では巷ではほとんど聞かれない」という。諏訪の人びとは、出雲の記憶を忘れているのか。

 だが、タケミナカタを祭る神社が出雲から北陸にかけての日本海側に点在し、それを結んでいくと出雲、北陸、越後、信州へとつづく逃亡ルートが再現できるらしい。古代、出雲と諏訪が深く結びついていたことはまずまちがいない。

 巨大柱を立てる文化の伝播ルートも、いつか考古学上の大発見によって裏付けられるかもしれない。そうすれば、そもそもなぜあれほどまでに大騒ぎをして柱を立てるのか、という御柱祭最大の謎が解けることになる。

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