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2010年6月

サッカーW杯は戦争でしょ 岡田JAPANの歴史的勝利を信じて

 サッカーのワールドカップは国と国との戦争である、ということを痛感したのは、1994年7月9日だった。

 ぼくは、イタリアで開催されるサミット(主要国首脳会議=G7)を取材するため、ナポリに来ていた。日本からは、自民党に担がれた社会党の村山富市首相が出席した。

 ぼくの同僚記者たちも、東京、ワシントン、ロンドン、パリ、ローマなどから続々とやって来た。

 最終日の9日午後2時、最後の首脳会議が開かれるはずだった。そこでの結論が「ナポリ・サミット宣言」として世界に発表され、一連のイベントのフィナーレとなる。

 各国の報道陣でごった返すプレスセンターにいると、昼前に、とんでもない情報が入って来た。「議長国のイタリアが、各国代表団に、首脳会議を2時間ほど遅らせてくれと言って回っているらしい」

 ぼくは、現地で雇った取材助手を使い、情報収集に当たらせた。「どうやら、イタリアのベルルスコーニ首相自らが、会議を遅らせるよう指示を出したようです」

 「理由はなんなの? 体調が悪いとか?」

 「それが…、ワールドカップでイタリアvs.スペインが2時5分にキックオフされるので、その試合中継が終わるまで待ってくれ、ということだそうです」

 「・・・・」

 確かに、W杯のアメリカ大会が開かれている真っ最中だった。あの“ドーハの悲劇”がなければ、わが日本も、初のW杯本大会出場を果たしていたはずだった。

 各国代表団のあいだでは、大騒ぎになった。アメリカのクリントン大統領をはじめ各首脳は、分刻みのスケジュールで動いている。サッカーを理由にいまさら2時間も会議をずらすなど、受け入れられるはずもなかった。日本代表団ももちろんそうだった。

 結局、ベルルスコーニ首相を説得して、首脳会談は予定通りに行われた。ぼくたちは、プレスセンターで刻々と入ってくる会談の情報を取って分析をしていた。でも、イタリアとスペインのジャーナリストたちは、センターの隅にあるテレビの前から動こうとせず、大声をあげて応援合戦している。

 この日の試合は準々決勝で、25分にイタリアのエース、バッジョが先制点をあげた。その瞬間、プレスセンターのテレビ前だけでなく、サミット会場のあちこちから歓声があがった。まったく、みんな、何をしにナポリへ来ているのやら。

 58分、スペインのカミネロが同点ゴールをあげ、またも歓声があがった。しかし、イタリアはしぶとい。終了間際の87分、再びバッジョが勝ち越し点をあげ、サミット会場には、歓声と悲鳴が交錯した。ゲームはそのまま終わり、首相以下、文字通り国をあげての応援を受けたイタリアが、決勝トーナメントを駆け上がった。

 後で聞くと、首脳会議中、司会役のベルルスコーニ首相は、試合経過をいちいちメモで受け取っていて、気もそぞろだったという。

 すべての仕事が終わった夜、ぼくは同僚特派員たちとタクシーで、予約していた打ち上げパーティのレストランへ行こうとした。しかし、タクシーはホテルの敷地からまったく出られない。

 歩道は、顔に黄緑・白・赤のペインティングをしたサポーターであふれ、車道は、窓を全開して上半身を乗り出し、イタリア国旗を狂ったようにふりながら徐行している人びとの車で埋まっていた。皆、大声で叫んでいる。「イタリア万歳! これで優勝だ!」

 狂気乱舞とはこのことか。特にイタリアは前回、自国で開いた大会で3位となっており、アメリカ大会にかける意気込みは半端じゃなかった。アメリカ大会でイタリアは、決勝でブラジルと0:0に終わり、PK戦で2:3と惜敗、準優勝となった。

 それから16年後、2010年W杯南アフリカ大会で、わが岡田JAPANは緒戦のカメルーンに何とか勝った。それまでの悲観論は吹っ飛び、一気に決勝トーナメントへ進む希望が出てきた。

 2戦目の強豪オランダに惜敗した夜、朝日新聞は「チームの評価が乱高下するのはなぜ」と一般市民に聞き歩き、翌6月20日朝刊で特集した。

 「日本の文化は中心が見えにくく、世論が流されやすい」「日本人はミーハー。周りに左右される。毎回そうだ」「国民もメディアも結果に一喜一憂しすぎだ」

 朝日は、こうまとめた。「昔から言われている日本人の『付和雷同型』の性質は、依然根強いと(市民は)見ている。…そんな日本人の性質に我慢ならないという人もいた」

 しかし、スポーツの国際大会など、結果に一喜一憂するためにあるんじゃないのか。どこの国だってそうだ。ナポリの夜にイタリア国旗の群れが乱舞する様を目の当たりにしてから、ぼくはそう確信している。

 朝日は、国際感覚に欠け、<日本人論>をステレオタイプにはめ込もうとしているとしか思えない。

 6月25日未明、岡田JAPANはデンマークと運命の一戦を交える。松井も大久保も遠藤も長友も、みんなちゃぶれ! そして、日本は勝ち、決勝トーナメントへ進む。

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虹色のところてん――大麻臨場(中)

          2010年6月10日アップロードの(上)からつづく

           ~『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編~

 パンを食べ終えたロングヘアーとチリチリは、安っぽい笛と弦楽器を取り出し、即興演奏をはじめた。白人の青年は、ちょっとうるさそうな顔をしたが、なにも言わないで本を閉じ、寝る体勢にはいった。西洋人は真っ裸でうつぶせで寝るって聞いたことがあるけど、ほんとなんだ。ぼくはどうでもいいことを考えていた。

 うまくもない即興演奏が延々とつづいている。ガンジャをやっていない他のバックパッカーたちも、お互い様なのか、文句を言うこともなくおとなしくしている。

 「どうして、ミュージシャンがガンジャをやるのか、わかります?」。ジョン・レノン風は軽いノリで聞いてきた。「さぁ、音がきれいに聴こえるとか?」

 「そう、そうなんです。音がこの世のものとは思えないほどきれいに研ぎ澄まされるし、それに、とてもきれいに見えるんです」

 「音が見えるってどういうこと?」

 「ガンジャの作用はもちろん人によっていろいろかもしれませんけど、ぼくの場合は、ステレオにビートルズでもかけて、ガンジャを吸ってその前で座っていると、スピーカーボックスの網目から、音が七色のところてんみたいに押し出されてくるんです」

 ぼくは、その話に飛びついた。「音のところてんは、放射状に広がっていくの?」

 「いや、にゅる~っという感じで少し曲がりくねって出てきますね」

 「それを手でさわったことある?」

 「いや、もちろん、幻覚だって頭の隅ではちゃんとわかってるから、さわろうとしたことはありませんね」

 「ガンジャでラリッていても、頭のどこかには理性が残っているんだ」

 「そうですね。コカインやヘロインみたいなハードドラッグはどうか知らないけど、マリファナみたいなソフトドラッグは、半分以上、理性が残ってますね」

 部屋中に漂うガンジャの煙のせいか、ぼくの胸はドキドキしっぱなしだった。ジョン・レノン風に「一服試してみます?」と誘われたが、断った。

 ロングヘアーとチリチリの演奏もやがて終わり、誰かが天井の照明を消して、あちこちから寝息が聞こえてきた。でも、ぼくの頭は冴え渡っていた。

 夜明けを待って、こっそり部屋を出ると、ホテル前の大通りにいたリクシャーをつかまえ、プラメシュの待っているホテルの名を告げた。

 やっと仮眠したあと、プラメシュと朝食をとりながら、ささやかなガンジャ体験を話した。

 「えーっ! そんなのは知らなかったよ。確かに、ガンジャなんてどこででも手に入るとは言うけど、あえて試すこともしないしね。でも、面白い経験だったね」

 しかし、ずっとのちのことだが、日本の新聞に、インドで大麻を大量に所持していた日本人旅行者が逮捕された、という記事が載っていた。インドは連邦国家で州によって法律がちがうから、そういう事件もあるのか。それにしても、政府直営の大麻販売店があるというジョン・レノン風の話は、にわかには信じられなかった。

 だが、どうやら事実らしい。ぼくは2009年5月に邦訳が出た『インド 特急便!』(光文社)の巻末解説を頼まれて書いた。その316ページにはこんなくだりがあるのだ。
 「(インド)政府が経営するハシシ店からは大麻の煙が立ちのぼる」

 著者はカナダ出身で、イギリス公共放送BBCの特派員としてパキスタン、インド、ネパールに駐在したことのあるジャーナリストだ。だから、ぼくは自分で取材したことはないものの、確かな話なのだろう。

 アフガニスタンの首都カブールのホテルでの体験も思い出す。ある国際通信社の女性記者に、「あたしの部屋に遊びに来ない?」と気軽に誘われ、いったら、タヌキのあぶり出しみたいになって、ほうほうのていで逃げ出した。

 そのころのカブールは、24時間、銃声砲声が聞こえる物騒な都市だったから、街で取材を終えると、できるだけ寄り道をしないでホテルに引き上げる毎日だった。だが、ホテルの部屋では本を読むくらいしかすることはなく、大麻の好きな人は思い切り吸っていたのだろう。そのときは、うかつにも大麻の煙だとは気づかなかったのだが。

 そういえば、ベナレスで会ったジョン・レノン風は、こんなことも言っていた。

 「ガンジャをやりながら音楽を聴きつづけていると、ガンジャで創作された曲を簡単に聞き分けられるようになるんです。あの○○○○だってそうですよ」

 ○○○○は、世界を舞台に活躍しているあまりにも有名な日本人ミュージシャンだった。ジョン・レノン風は言った。

 「たぶん、日本国内でこっそりマリファナを吸って曲を作るなんて危ないことはしてないでしょう。海外には、合法化されている国がいくらでもあり、そこに小さなスタジオでも借りてやればいいんだから」

 島国ニッポンに生まれ育ったままだと、考え方が一面的になる。インドのような半端じゃない多様性文化の国にいると、思考も複眼にならざるを得ない。ぼくにとって、大麻というテーマもそうだった。

 ~~ 虹色のところてん――大麻臨場(下)につづく

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虹色のところてん――大麻臨場(上)

           ~『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編~

 その部屋に入った瞬間、お、ジョン・レノンがいる、と思った。よく見ると、ぼさぼさの髪を長く垂らし真ん丸の眼鏡をかけた日本人青年だった。明らかに、ジョン・レノンを気取っている。名前は聞かなかったが、ぼくはこっそり<ジョン・レノン風>と呼ぶことにした。

 もうふた昔も前、新聞社のニューデリー特派員をしていたころ、冬休みをとって、親友のプラメシュと、長距離列車でヒンドゥー教最大の聖地ベナレスへやってきていた。ガンジス河の沐浴で有名なところだ。

 それなりにちゃんとしたホテルを拠点に、プラメシュとふたりで小説にでもなりそうなネタの取材をしていた。ある晩、彼をホテルにおいたまま、ひとりで夜の街へ出かけた。「ちょっと、日本人旅行者のたまり場になっているらしい安ホテルにいってくるよ」

 探し当てた安ホテルで、フロント係りは「もう時間も遅いから、一泊25ルピーで」とふっかけてきた。値切れば値切れそうだな、とは思いながらも面倒なので、言い値を出した。日本円にすれば、わずか250円ほどだ。

 通された部屋を入ってすぐ右側のベッドに、ジョン・レノン風が腰掛けていた。部屋には、病院の大部屋みたいに8脚のベッドが並び、その奥にシャワールームがあった。右手一番奥のベッドでは、白人の青年が全裸でうつぶせになって本を読んでいた。ベッドはほとんどふさがっており、白人以外はみな日本人の若者だった。

 はっきりいってぼくは、年齢的にちょっと場違いだった。貧乏旅行者にお決まりのバックパックも持っていなかった。

 ぼくにあてがわれたのは、ドアを入ってすぐ左のベッドだった。つまり、ジョン・レノン風の隣りだ。「ぼくたちより、大先輩ですよね」。ジョン・レノン風は、そう言って探りを入れてきた。「ああ、ニューデリーに駐在しているんだ。せっかくベナレスに来たんだから、噂のバックパッカーに話を聞いてみたいと思ってね。観光地めぐりだけじゃつまらないから」

 ジョン・レノン風は、家は東京にあり、年に2回はインドへ来ているという。「こっちの道端で売っている安いアクセサリー類を大量に買って、青山でブティックをしている姉の店にコーナーを作って売っているんです。インド製品は、日本人からしたらものすごく安くても、器用な職人が多いから、なかなかいいものがあるんです。青山だと街のネームバリューもあるし、仕入れ値の10倍くらいで売れるんですよ」

 ジョン・レノン風は、売れないミュージシャンだった。ホテルのこの部屋では長老格で、26歳だという。みな何泊もしているらしい。

 ジョン・レノン風と奥の白人青年のあいだのベッドには、ロングヘアーの女子学生風と、天然かパーマか、髪をチリチリにした男子学生風がいた。ジョン・レノン風とぼくの話が弾んでいるわきで、ペットボトルをちょっと加工したものを取り出した。水が入っており、ボトルにたばこ?を差し込んで火をつけた。手製の水パイプらしい。

 乾燥ハーブを燃やしたようなかなり強い臭いの煙が漂った。ロングヘアーとチリチリ頭は、しばらく、その煙を胸いっぱいに吸い込んでいた。やがて何かを言い合いながら、食パンを取り出した。インドにも四角い食パンはあるが、恐ろしくまずく、ぼくはめったに口にしない。

 でも、ロングヘアーとチリチリ頭は、けらけら笑いながらパクパク食べている。ぼくがよほど不思議そうに、その光景を見ていたからなのだろう。ジョン・レノン風が解説をしてくれた。

 「ガンジャを吸うと、何かひとつのことに意識が集中するんです。いまあのふたりは、ちょっとお腹がすいたなと思って、パンがあることを思い出し、それを食べることに夢中になっているんです。パンがなくなるまで食べ続けると思いますよ、きっと」

 そうなんだ。インドでは、ガンジャというのが大麻を意味するくらいはぼくも知ってはいた。しかし、もともとたばこは苦手で、麻薬にも興味はなかったので、取材のテーマにしようとしたことはない。したがって、インドでの大麻の現状についてもほとんど知らなかった。

 ちなみに、日本では乾燥大麻をマリファナ、大麻樹脂をハシシ、液体大麻をハシシオイルと呼び分けているようだが、インドではそんな厳密な区別もないのではないか。

 「インドへ来るバックパッカーの少なくとも3人にひとりは、ガンジャが目的ですね。そのほぼ全員が音楽をやっているんです」

 ジョン・レノン風は、なんでもない世間話をするように解説をつづける。しかし、少なくとも日本では大麻は非合法で、もし発覚すれば刑事事件になる。ここはインドとはいえ、大麻を吸ってラリッている若者たちを目の前にして、ぼくは胸のドキドキを抑えることができなかった。

 「インドでは、政府直営でガンジャを売る店がありましてね。ここベナレス辺りだと、警官の地回りみたいなのがいて、店先にあるガンジャを堂々とくすねていったりするんですよ」

 ~~ 虹色のところてん――大麻臨場(中)につづく

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ある竹とサバの奇跡的ハイブリッドに、この季節を思う

 「ああ、あれが食べたいわねぇ」。2010年も6月に入り、初夏の日差しとなった。

 この季節に、かみさんが「あれ」というのは、ひとつしかない。ネマガリタケの味噌汁だ。

 わが人生を振り返ってみると、2年か3年に一度、「うん、これはじつに美味い!」というものに出会ってきた。ネマガリタケの味噌汁もそのひとつだった。

 1978年5月の終わりごろだったと思う。新聞社の長野支局に配属され、駆け出し記者となってひと月が過ぎたときだ。地元出身の先輩記者、坂東さんが大鍋を手に言った。「おい、うまいもの食わせてやるからな」。毎年恒例のイベントらしい。ぼく以外の先輩記者たちは、それが何かを知っていて、「お、もうそんな季節か」と集まってきた。

 坂東さんは、支局の机の上に、太さが2~3センチほどの細いタケノコを取り出し、簡単そうに皮をむいていった。それをキッチンで斜め切りにし、大鍋に沸かしたお湯の中にいれた。他に、タマネギも切っていれた。そして、ぼくはびっくりしたのだが、サバの水煮の缶詰を開け、大鍋のなかへ無造作に汁ごと放り込んだ。最期に味噌をいれ、たまじゃくしでさっとかき回した。「さあ、できたぞ」

 タケノコとサバの水煮の組み合わせなど、聞いたことがなかった。半信半疑ですすってみると、ショックを受けるほど美味い。具のネマガリタケをかじると、なんとも言えない風味がある。よく口にするモウソウダケのタケノコのように灰汁を抜く必要もないのだという。

 季節感、旬という言葉そのものを食べているような感激があった。

 北信濃に赴任して、最初に味わった地元のものはコゴミだった。ワラビをずんぐりむっくりにしたような山菜で、おひたしや天ぷらで食べる。ぼくにとっては、それが最初の信州の味だった。そして5月に入ると、リンゴの白い可憐な花が咲き、やがてネマガリタケの季節がめぐってくる。毎年、毎年、坂東さんが味噌汁を作ってくれた。

 長野市が広がる盆地一帯を、長野県人は「善光寺平」と呼ぶ。そのほぼ中心で生まれ育ったうちのかみさんは、子どものころからネマガリタケとサバ水煮の味噌汁に親しんできたものと思っていたら、そうではなかったという。

 かみさんは、地元で就職し、同僚の男性グループに「タケノコ狩り」に連れて行ってもらったとき、初めて知ったのだそうだ。男性たちは、大鍋を山に持ち込み、キャンプ用のコンロにかけて、その場で味噌汁を作ってくれた。その野趣と、タケノコとサバ水煮のハイブリッドに、かみさんもすっかり魅せられたのだった。

 実は、ネマガリタケは、かみさんの実家の裏庭にも自生していた。しかし、家で食べるときは、いつもふつうの煮物にしていたので、そんな簡単で衝撃的な料理法は知らなかった。

 ネマガリタケは、鳥取県以北の本州の日本海側や東北地方、北海道、樺太、千島、朝鮮半島に分布しているという。ぼくの郷里、島根県はぎりぎりで分布地図にははいっていない。だから、知らなかったのだ。

 このタケノコは、一般にはチシマザサ(千島笹)と呼ばれているそうだ。稈(かん)の根元が弓状に曲がるので、別名としてネマガリダケ(根曲竹)があるのだという。「姫たけのこ」「笹たけのこ」などとも呼ばれるらしい。稈は農作物の支柱や竹細工に利用され、まあどこにでもある竹の一種だ。

 皮付きのまま焼いて皮をむいて食べたりすることもあるといい、それはそれで美味いのだろう。でも、サバ水煮と合わせたほどのインパクトはあるのだろうか。

 ぼくがネマガリタケと初めて出会ってから16年ののち、ドイツのボンのスーパーで、細いタケノコを見つけた。これぞあのネマガリタケだろう、と思って迷わず買った。日本人外交官の数家族をわが家に呼び、ホームパーティのメインディッシュとして、サバ水煮との味噌汁を出した。

 かみさんとぼくは、あの味、あの季節感を知っている。しかし、ドイツ産のタケノコは、姿形は似ていても、風味は信州産にはおよばなかった。やっぱりだめかぁ。それでもぼくたち夫婦は、来客に、信州での衝撃的な味との出会いを盛んに説明し、せめて雰囲気だけでも想像してもらおうと努めた。

 「特に山菜なんかは微妙な味を楽しむのだから、日本産の繊細なものじゃなきゃだめなのねぇ」。かみさんが、故郷を懐かしんで言った。

 しかし、ドイツ産の山菜も結構いけるものがあった。ベルリンへ引っ越し、春になったとき、わが家の庭隅にコゴミそっくりの植物があるのを、かみさんが見つけた。

 「だめ元でおひたしにしてみるね」。鰹節と醤油をかけて恐る恐る食べると、コゴミそのものだった!

 不覚にも、信州の春を思い、ぼくは目が潤んだのだった。

 ネマガリタケとサバ水煮の奇跡的ハイブリッドは、いつ、誰が、どんなきっかけで考案したのだろう。その味噌汁を口にするたび、どこの誰とも知らない人に、「ありがとうーッ」と言いたくなる。

 

 注)ネマガリタケは、長野県飯山市の『道の駅 千曲川』から取り寄せることができます。5月下旬から6月下旬。1袋の量はまちまちですが、500gで約500円、プラス送料です。ファクス:0269-62-1889。支払いは同封の郵便振替用紙で。

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