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2010年7月

RAILWAYS ―― 出雲の線路は熱かった

 映画『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』は、好評のうちに全国公開を終えた。と思ったら、2010年の7月下旬に帰省した島根県では、まだロングラン上映をしていた。ひと足先に帰省した義弟が観に行ったら、かなりの観客がいたという。

 降り立った出雲空港でも『RAILWAYS』の垂れ幕がさがっていて、地元では大変な盛り上がりのようだった。錦織良成監督も出雲出身だ。

 出雲地方を走る一畑(いちばた)電車が舞台となっている。エリート企業戦士だった男性が、郷里の母親の病気をきっかけに、地元へもどり、子どものころの夢だった電車の運転手になる。

 通勤通学の時間帯はともかく、昼間は1時間に1本というのも珍しくない典型的なローカル線だ。ぼくの実家の庭先に幅5メートルほどの川が流れ、その先に線路が走っている。子どものころ、街へ買い物やお祭りにでかけたり、親の実家に行くときは、いつも一畑電車に乗った。高校3年間は、カバンの手を離しても落ちないほどの満員電車で通学した。

 ある年の9月1日早朝、電車の急ブレーキで目が覚めた。何でも、中年の男のひとが、わが家のすぐ近くで飛び込んだという。始業式の朝なのにいやなことがあったな、と記憶に残っている。

 映画のストーリーは単純で、タイトルから容易に想像できる。主演の中井貴一さんは、4回くらい出演を断ったのだという。「いい人ばかり出てくる。これが果たして映画になるんだろうかと」。読売新聞夕刊の対談でそう語っている。北野武監督・脚本・主演の悪いやつらばかり出てくる『アウトレイジ』とは好対照だ。

 『RAILWAYS』は、そうドラマチックな展開もなく、思い切って<Uターン>を選んだ男と、その家族と、田園風景のなかをのんびり走る2両編成の電車が描かれる。そのほっこりした感じがいい。

 映画のなかで、焚き火の煙が車内に入り込んでくるのを避けるため、乗客たちが窓を閉めるシーンがある。

 「あれは、うちの煙なのよ。女優にはなれなかったけど、うちの煙が全国デビューしたわ」。何ごとにも陽気な母が、はしゃいで言った。実家の正面を走る線路のすぐ脇に小さな畑があり、母はそこで趣味と実益の野菜作りをしている。今の時期は、ナスとキュウリ、ゴーヤなどが育っていた。

 厳密に言うと、あれは焚き火ではなく地元では“くよし”と呼ぶ。刈ったばかりの草を畑の隅に積み上げて火をつける。すると、ぼうぼう燃えるのではなく、じっくりと蒸し焼きをするように、たくさんの煙をあげながら燃えていく。ぼくたちにとって、くよしの煙と臭いは、郷愁そのものだ。

 帰省すると、食卓の上に、わが夫婦がすべき<作業一覧>が、書道の師範の免状を持つ母の達筆な字で書き並べてあった。その第一は、墓の掃除だった。ぼくは妹と、山の麓にある家のお墓まで空港で借りたレンタカーで行って、落ち葉掃きをしたり、垣根の枝を刈り込んだりした。そして、妻が担当したのが、線路脇の畑の草刈りだった。かみさんは子どものころ、家の手伝いで、よく信州・千曲川べりの畑の背より高い草を刈り取っていたといい、その腕はプロの農婦なみだ。

 母によると、隣りの畑で草取りをしていた近所のおばあちゃんが、感心して言った。「都会の奥さんが、この暑いのに偉いわぁ」。ごほうびにカボチャを3個くれた。
 盆提灯を2階の押入れから出して組み立て、仏間に飾る。窓を拭き、庭木や盆栽に水やりをする。与えられた任務は数多かったが、ひとつの作業を終えるたび箇条書きに線を引いて消していくと、不思議な達成感があった。

 帰省の最大の目的は、老いた両親のために、少しでも家の雑事をすることだったから、苦にはならない。そして、もうひとつ、お楽しみの目的があった。

 5月28日、TBS系『ぴったんこカン・カン スペシャル』で、RAILWAYSの宣伝を兼ねた特集をした。その番組で中井貴一さんが、名前をあげて推奨した出雲の2件の料理屋があった。そのひとつが、電車の雲州平田駅に近い日本料理店『味処おかや』だった。

 実家からはほど近い。ぼくたちの帰省は、ちょうど父の満88歳の誕生日に当たるので、ひと月以上前に直接店へ電話して個室を予約しておいた。「主賓は年老いた父なので、お料理は量より質でお願いします」

 当日、予約時間より7~8分遅れて着いた。個室のテーブルにはすでに前菜の煮こごり風が置かれていた。だが、仲居さんは、「形が崩れてしまいましたから」と、新しいのと取り替えた。そのきめ細やかさがうれしい。

 お造りは近海で朝獲れたばかりのレンコダイ、ヤリイカ、ヒラマサ。主菜は全長50センチ以上もある高級魚アマダイの姿蒸しで、思わず写真を撮った。そして、締めは出雲特産の割子そばだった。半世紀以上、出雲そばを食べてきたが、そのなかでもベストの一品だった。

 個室は、中井さんと共演者の三浦貴大さん(山口百恵さんの次男)が番組内で食事をしていたその部屋だった! RAILWAYSのおかげで、最高の夏の思い出ができた。

  --毎週木曜日に更新--

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ノンアルコールビールにいちゃもんをつけるな

 梅雨が去り、猛暑となって、ビールの季節がきた。今夏は、ノンアルコールビールが空前の売れ行きになりそうという。じつはぼくにとって、ノンアルコールビールは愛飲人生を振り返る上で欠かせないアイテムだった。

 キリンビールは2009年4月に『KIRIN FREE』を発売した。これが引き金となってノンアルコールビール市場が、それまでの4倍以上に急増したという。キリンの『休む日のALC.0.00%』という商品も、ほとんど同じ味で、肝臓にいいとされるオルニチンが400mg含まれている。いかにも<休肝日にどうぞ>という販売戦略が効いている。

 今年の8月に、アサヒとサントリーも新商品を発売するそうで、さらに市場が膨らむのはまちがいない。

 ぼくのノンアルコールビールとの付きあいは、ニューデリーで劇症肝炎にかかったときまでさかのぼる。医師に「半年間はアルコールを避けるように」と指示された。あの劇症肝炎の死ぬ苦しみを思い起こせば、当分酒を飲まない生活などなんでもないように思えた。

 しかし、退院して日数も経ち、体がすっかり回復すると、アルコールのない日々は思ったよりずっとわびしい。美味しいものを口にしても、どこかのホームパーティに出ても、ひとりお茶や水を飲んでいるのは悲しい。

 健康診断でシンガポールへ飛んだとき、ノンアルコールビールを探し歩いてやっと見つけた。飛行機で他の日本食材などといっしょに運ぶのだから、そうたくさんは買い込めない。せいぜい10本ほどを買って空港へ持って行った。

 そのころの日本には、ノンアルコールビールは売っていなかったと思う。アジア随一の国際都市国家シンガポールだからこそあった。

 手間とお金をかけてインドに持ち帰ったノンアルコールビールは、冷蔵庫の奥にしまっておき、週末に親友のプラメシュとゴルフやテニスをしたあとに、1本だけ開けることにしていた。ぼくの宝物だった。

 「ねぇ、本物のビールのほうがずっと美味いよ。もう、肝炎の症状もすっかり直ったし、こっちのを飲んだらどう?」

 プラメシュの甘い言葉に、つい誘惑されそうになるが、ぐっとこらえて代用品を飲んだ。風味や喉越しは本物と大体同じで、酔うことはもちろんないが、それなりに気分だけは味わえた。

 そして日本へ帰り、4年後にドイツへ赴任すると、さすがにビール大国だけあって、ノンアルコールビールも百花繚乱といった感じだった。車を運転するときや休肝日に愛飲した。いずれも、実に良くできており、メーカーごとの味や風味を楽しむことができた。

 そして再び日本に帰ると、郷里の父が肝臓の病気になった。わが家の生活圏を車で探し回り、やっとある酒の激安店で、オーストラリア産ノンアルコールビールを見つけ、父にお見舞いとして24本入りひと箱を送った。

 しかし、そのころのノンアルコールビールは、製法の限界でアルコールが0.00%ではなく、わずかだが含まれていた。父は、「すきっ腹に飲むと、五臓六腑にしみわたって本物のビールが欲しくなる」という。

 皮肉にも、ぼくが贈ったノンアルコールビールがきっかけで、父はまたしても酒類に手を出してしまった。それでも、持って生まれた強靭な体のおかげで、病気を克服し、晩酌をしてもいいほどに回復し、今も健在だ。

 ドイツから帰ったぼくは、あるきっかけで2年、さらにあいだを置いて3年と禁酒生活を送った。そのときにも、ノンアルコールビールにはずいぶんお世話になった。

 こんないきさつがあるから、ノンアルコール飲料についての報道やCMには、人一倍敏感になる。

 朝日新聞の2010年7月16日付け朝刊で「拡大続くノンアルコール市場」という特集が眼に入った。いまやビールだけではなく、カクテルもノンアルコールの時代に突入したのだという。

 記事では、飲酒運転の罰則が強化されたことが、原因としてあげられている。特集の後半に「未成年対応 悩む店」という意図、意味不明の記事が付いているのに引っかかった。

 「アルコールゼロの飲料は20歳以上を想定して開発しているだけに、メーカー側は未成年が買わないように『お酒売り場』で扱うことを求めている。だが法律上は販売を拒否する理由がないため、店頭では販売方法をめぐって戸惑いが広がっている」

 しかし、未成年がノンアルコールビールを飲むことが法律的にはもちろん、道徳的に問題となるわけもない。記事は「未成年飲酒を助長しかねない」としているが、記事にその検証をしたあとはない。大麻がハードドラッグへの入り口となるという説と同様、科学的、統計学的根拠があるとは思えない。

 そもそも、ビールを飲んだことのない未成年が、進んでノンアルコールビールを飲むだろうか?

 いつものことながら、良識ぶってきれいごとを書く新聞は好きになれない。嗜好品なんだから、アルコールが入っていようがいまいが、適当に飲めばいいではないか。

 --毎週木曜日に更新--

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クジラを獲って何が悪い

 ベルリンに住んでいるとき、行きつけの理髪店には<捕鯨反対キャンペーン>の大きなパネルが掲げてあった。店長とはいつも世間話をしながら髪を切ってもらう間柄だったが、ぼくは捕鯨問題だけは話題にしなかった。「クジラ肉は美味しいよ。学校給食のメニューでも一番好きだった」などと言ったらどうなったか。

 海外赴任に当たって「捕鯨と宗教、民族の話だけはくれぐれも慎重に」と、先輩からアドバイスされていた。そのパネルも「自然や動物の命を大切に」と悪気もなく張られていたのだろう。それだからこそ問題の根は深い。

 ドイツ中部テューリンゲン州の世界文化遺産ヴァルトブルク城には「ルターの部屋」というのがある。16世紀初め、かのマルティン・ルターが聖書をドイツ語に訳したのがこの場所だった。

 がらんとした部屋には、机と椅子、それに足置き台があるだけだった。足置きは、日本で言えば石臼のような円筒形だった。それが、説明書きによると、クジラの脊椎骨なのだという。

 ルターの時代、クジラの脂だけを取り、部屋の明かり用の油として燃やしていたらしい。ヨーロッパに住んでいると、捕鯨国の日本人は何だかとても野蛮な民族のように言われたりすることがあり、不愉快な思いをしていた。でも、ヨーロッパ人だって、昔はクジラを殺していたわけだ。

 しかもクジラの頭から尻尾まですべてを大切な食料、素材資源として「いただく」日本人にくらべ、脂だけを取ってあとは捨ててしまうというヨーロッパ人のほうが、むしろ野蛮ではないか。

 そんなこちらの感想など、今のヨーロッパでは相手にもされない。

 そういえば、江戸時代末期に浦賀沖にやって来て日本を大騒ぎさせたペリーの黒船も、クジラ油を燃料にしていた。18世紀から20世紀初頭にかけて、欧米諸国は、大西洋、インド洋、太平洋に船団を出してさかんにクジラを捕獲していた。初期のころは、クジラを本国や周辺基地に持ち帰り、加工し「鯨油」を採取していたが、次第に南へ、東へクジラとを追っていくようになると、基地に帰れず、海上でクジラを処理して油をとるシステムが開発された。

 だが、操業が拡大するにつれ、水や食料や燃料の補給基地、難破した際の捕鯨船の救助と漂流民保護のための避難港が各地に必要になってきた。当時の日本は鎖国していたため立ち入ることはできず、琉球や台湾、中国に寄航していた。だが、どうしても日本に寄港する必要があり、アメリカ大統領はペリーに命じて日本に開国を迫ったという。

 アメリカの捕鯨船がやって来るまで、日本近海のセミクジラは1万頭ほどいたが、今はそれが1000頭ほどまで激減している。クジラが減ったのはアメリカの商業捕鯨のせいだったのだ。

 そんなことはすっかり忘れて、欧米諸国は捕鯨国を悪者扱いする。キリスト教徒の多くがイスラム教を嫌悪するのと同じような調子で、クジラを食べる民族を野蛮視する。

 2010年7月7日には、反捕鯨団体シーシェパードのピーター・ベスーン元船長が、日本の調査捕鯨船に侵入し、乗組員にけがをさせたとして、有罪判決が下った。その元船長は、母国ニュージーランドで国民的ヒーローになっていると聞く。

 小型のクジラであるイルカをめぐっても、摩擦が起きている。和歌山県太地町のイルカ漁を“告発”するアメリカのドキュメンタリー映画『ザーコーヴ』をめぐる騒動は、いまだにつづいている。日本国内での一般公開をめぐり、7月初めには、各地で反対する保守系団体と警官隊がもみ合いになった。

 クライマックスでは、漁師たちがイルカを殺し、血で海が赤く染まる。

 この作品は、第82回アカデミー長編ドキュメンタリー賞やサンダンス映画祭ドキュメンタリー部門の観客賞を受賞した。漁のシーンは隠し撮りしたという。その点が、とくに上映反対派の怒りを買った。

 なぜ、イルカを含むクジラを獲ることに欧米人の多くは反対するのか。「頭がいい動物だから」「かわいいから」「絶滅の恐れがあるから」と言う。

 頭がいいから、というのならタコだってそうだ。W杯で一躍有名になったドイツの予言タコ「パウル君」を引き合いに出すまでもなく、タコの頭の良さは知られている。本体に3つ、8本の足の根元にそれぞれひとつずつの計11個もの脳を持っているそうだ。ある学者は言う。「人類じゃなくタコが世界を征服していてもおかしくない。かつて火星人と言えばタコの形をして描かれたが、あれにはもっともな根拠がある」

 かわいいから、というのなら犬だってそうだ。中国や韓国、北朝鮮で犬を殺して人間が食べる映像を隠し撮りして作品にしたらどうなるか。少なくとも、日本人はそんなことはしない。

 クジラの絶滅の恐れがないことは、すでに科学的調査で立証されている。

 クジラ騒動とは、文化摩擦というより一種の人種差別、民族差別ではないかと思う。だから根が深く、ベルリンの床屋さんなど白人に納得させるのは厄介なのだ。

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虹色のところてん――大麻臨場(下)

           ~『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編~

 インドのベナレスでジョン・レノン風から聞いた“虹色のところてん”の話は、ずっとぼくの頭の隅に残っていた。

 しかし、ぼくにとっての<法を破るドキドキ感>は、大麻ではなくアルコールだった。イスラムの戒律の厳しいパキスタンでは、ごく一部の例外をのぞいて、たとえ外国人の非イスラム教徒といえども、酒を堂々と飲める場所はなかった。だから、インドから出張するときには、スポーツドリンク専用の水筒にウィースキーをたっぷり詰めて飛行機に持ち込んだ。

 あるとき、ラホール国際空港のセキュリティチェックで引っかかった。係官は、不審な顔をしてちょっと水筒を嗅いでニタッとして返してくれた。彼らにはアルコールを取り締まる職務はない。そうした官僚主義のおかげで見逃してもらえた。

 それから4、5年経ち、今度はドイツへ赴任すると、また大麻の話をよく見聞きするようになった。ボンに住んでいたから、オランダまでは車や特急電車ですぐだった。

 オランダでは、喫茶店でマリファナ(乾燥大麻)をごくふつうに売っている。個人的興味はなかったから買うことはなかったが、若者たちの間では、リラックスするため気軽に吸われているらしかった。

 出張や家族旅行で行ったイタリアでも、薬局で売られている、と聞いた。

 日本で大麻を禁止したのは、第2次大戦後、日本を占領・統治したGHQだったと最近知った。そう古い話ではない。つまり、大麻政策はアメリカから持ち込まれたのだった。

 しかし、アメリカのカリフォルニア州では、2010年11月、大麻を合法化するかどうかの住民投票が行われる。州政府は、極端な財政難に苦しみ、大麻を認めて税金をどっさりかける算段のようだ。5月の世論調査では、州有権者の49%が賛成、41%が反対だった。

 アメリカの連邦法で大麻は栽培、所持とも違法とされている。しかし、以前から医療目的なら許されており、医師の処方さえ受ければ堂々と吸える。アメリカの17歳前後の42%が経験者という政府のデータもある。アメリカでも、「大麻の成分は脳に悪影響を与える」「大量に吸うと精神疾患を引き起こす可能性もある」と警告する声もある。だが、国民の間に日本のような罪悪感がないのも事実のようで、大麻に関してはずっと大らかだ。

 日本でも、この1、2年、大麻をテーマとする本の出版や雑誌の特集が相次いでいる。そのほとんどは、身体や社会に大麻が与える影響について冷静に検討し、「解禁してもかまわないじゃないか」「少なくとも医療目的には許可すべきだ」といった結論を導き出している。

 大麻を解禁している国では、嗜好品として人生の彩り、幸福につながるものとしてとらえる傾向がある。

 日本では、大麻→麻薬→見も心もぼろぼろ→「人間やめますか、それともドラッグやめますか」みたいな感じがある。それは、もとをただせばGHQが植え付け、国民が「ハハーッ」と恐れ従った一種の先入観にすぎないようだ。

 嗜好品と言えば、非イスラム教国の日本では、まず酒類が挙げられる。しかし、飲酒運転や酔ったうえでの暴力で命を落とす人は、世界で1年に約250万人もいる。日本国内だけでもアルコール依存症の患者は約80万人いて、その予備軍も約440万人いると推計されている。「それでも控えめな数字で、1000万人は危ない」という医療関係者もいる。

 ぼくのある親しい友人一家は、大黒柱の酒によるDVが原因で家庭崩壊してしまった。日本がまず規制すべきなのは酒のほうじゃないか、と愛飲家のぼくでさえ思う。

 一方で、マリファナ運転による死亡事故とか死に至らしめる暴力事件、あるいは吸引による死者などという話は、解禁国でも聞いたことがない。

 アメリカのニクソン大統領は、1972年、「大麻を厳しく取り締まらなければならない」と、「マリファナおよび薬物乱用に関する全米委員会」を作った。大統領自ら委員会のメンバーの過半数を選任する力の入れようだった。委員会の結論はこうだった。

 「マリファナの吸引で起こる身体機能の障害について、決定的な証拠はない。極めて多量に摂取しても、それだけで致死量に達することは立証されていない」「マリファナが暴力的ないし攻撃的行為の原因になることを示す証拠もない」「マリファナの使用は犯罪の原因とはならず犯罪とも関係しない」

 ニクソン大統領は、この報告に烈火の如く起こり、レポートの受け取りを拒否したそうだ。WHOをはじめどの信頼すべき報告書でも、同様の結論が導き出されている。大麻を吸うと、ハードドラッグへの入り口になる、という論も科学的根拠はないという。<大麻=麻薬>というのは、ある種の都市伝説みたいなものなのだろう。

 日本でも、財政難に苦しんでいるのだから、大麻を解禁したらどうか。全国で一律に、というのが無理なら、大麻特区を作ればいい。たとえば、高齢者だらけで村として限界に達しつつあり「限界集落」と呼ばれている信州の小谷村などを、大麻特区にすればどうなるか。おじいちゃん、おばあちゃんと若者たちが集って楽しく大麻パーティを開き、村は大いに活性化するんじゃないか。そうなれば、ぼくもちょっと無理して参加させてもらい、虹色のところてんを見てみたい気もする。

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おめでとうは4年後に 岡田JAPANの快進撃

 ブルーの入浴剤をお湯に入れゆっくり浸かり、沐浴した。白星を願う真っ白なタオルで体を拭き、ブルーのパジャマを着る。そして、ブルーの応援タオルを手に、リビングのテレビの前に座った。

 岡田JAPANは、W杯決勝トーナメント一回戦で、パラグアイと120分の死闘を演じた。PK戦ではひとりがはずし、あと一歩で歴史的勝利を逃した。

 ぼくは、岡田JAPANに“Congratulations!”という言葉を用意していた。この言葉は、ぼくにとって、単に「おめでとう」ではなく、忘れられない思い出がある。

 ふた昔前、ニューデリーに駐在していたとき、北インドの地方都市ラクノウへ出張した。その地に住む著名な大学教授を訪ねると、教授はいきなり思いもかけない言葉を口にした。

 “Congratulations!”

 インドの知識人に会うと、よく、第2次大戦後の日本の驚異的な経済発展を賞賛されることがあった。この教授も、その「成功」を祝福してくれているのだろうと思った。しかし、話し始めると、教授はまったくちがう意味を込めていた。

 何と、1904年から翌年にかけて行われた日露戦争、つまり85年前の日本の勝利に対して「おめでとう」と言ったのだった!

 確かに、インド人は、少なくともぼくたち日本人とは時間の観念がちがう。数世紀前のことでも、つい最近起きたかのように話したりする。それは輪廻転生を信ずる宗教観とも通じるものなのかもしれない。

 教授は言った。「あなたがた日本人があのロシアを破ったのは、われわれインド人にとっても実に痛快な出来事でした。アジアが初めてヨーロッパを打ち負かしたのですから」 日露の戦勝が特にアジア諸国に与えた衝撃は大きかった、と習ったことがあった。しかし、自分自身がそのことで祝福されるとは思ってもみなかった。

 実は、ぼくの祖父は陸軍士官学校卒の職業軍人で、激闘が繰り広げられた「203高地」の戦いの英雄だった。それがきっかけで体を患い、ぼくが生まれるよりずっと前に他界していたが、家には大日本帝国からもらった勲章が誇らしげに飾ってあった。

 そんな事情もあり、教授の「おめでとう」には、少しとまどいながらも、悪い気はしなかった。

 2010年のW杯南アフリカ大会で、もし、岡田JAPANがベスト8以上の結果を残せば、それは日露戦争に匹敵するのじゃないか、と密かに思っていた。「武器を持たない戦争」とも呼ばれるサッカーW杯で、ノーマークの日本がそれだけの成績を挙げれば、まちがいなく世界を驚かせただろう。

 紙一重の差でベスト16に留まったが、2002年の日韓W杯のときとは意味がちがう。地の利のない完全アウェイでの戦いの結果だった。日本サッカーは一歩進んだ。

 デンマーク代表と言えば、戦いのあと、聞き捨てならないことがあった。エースのFWベントナー選手が、自国内の大衆紙『B.T.』にこんなコメントをしたのだという。

 「おれに言わせれば、(本田と遠藤の)FKは決まってはならないものだった。GKトーマス・セーレンセンはあれを止めなきゃ。あの後、すべてが厄介なことになって、おれたちはそれにうまく対処できなかった」

 言わば“戦友”である選手を、メディアに名指して批判するなど、スポーツマンシップ以前の問題ではないか。

 W杯を観戦していると、お国柄というか、その国の歴史や文化、国民性が実によく表れる。誰だって大きな勝負で負ければ、他人に責任を押しつけたくもなる。しかし、愚痴を言うTPOがあるだろう。

 わがサムライたちは、決してそんな態度は示さなかった。パラグアイとのPK戦ではずしてしまった駒野選手に対しても、長谷部、松井、中澤各選手をはじめみんなでなぐさめ、かばっていた。それが日本の文化、国民性であり、今大会で示したチームワークの源泉だった。

 あのPK戦では、スタンドから、日本の選手が蹴るときには声援が、パラグアイの選手が蹴るときにはブーイングが飛んだという。日本人サポーターはわずか500人ほどだったとされるから、第3国の観客が日本びいきだったことがうかがえる。ある南アフリカ人は、フジテレビの取材に、「日本の戦いぶりは一体感があってすばらしいから応援した」と答えたという。

 試合を実況したスペイン民放ラジオも、前半は「退屈な試合だ」と連発していたが、後半には「がんばれニッポン。がんばれ本田」とすっかり日本びいきになったそうだ。

 日本が、なぜ、世界No.2の経済大国になったのか、改めてその秘密をうかがい知ったアフリカの人もいるだろう。

 日本人選手らの一体感、ひたむきさ、チームワークは、日本人にとってはお馴染みだった。つまり高校球児みたいだった。それが各国の人びとを感動させた。

 日本のサッカーには、高校生のように伸び代がいっぱいある。だから、“Congratulations!”は、4年後のブラジル大会まで取っておこう。

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