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2010年11月

三島由紀夫の世界が完結した日

 2010年11月25日は、三島由紀夫が自決してから40回目の命日に当たる。

 40年前のあの日午前11時過ぎ、三島は、若者たちを集めて自ら創設した民兵組織『楯の会』のメンバー4人と、東京の自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室を訪れ、総監を人質に取った。そして、バルコニーから自衛隊員らを見下ろし、「自衛隊を国軍とすべく憲法改正を!」と檄を飛ばし、決起つまりクーデターを促した。ヤジが飛び交い報道ヘリも上空を飛ぶ騒然としたなかで、三島は30分予定していた演説を7分間で切り上げた。総監室にもどって短刀で腹を切り裂き、メンバーに介錯されて息絶えた。45歳だった。

 三島は演説で、自衛官らに向かい「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ!」と絶叫した。

 昭和45年11月25日、山陰地方は朝から薄暗く夕方のようで、何かが起こりそうな一日だった。ぼくは高校2年生だった。昼休みの後は数学の授業だったが、時間になっても数学の教師でクラス担任でもある朝山先生は、教室に現れなかった。

 いつもきちんとしている先生が来ないので、みんなが「おかしいな」とささやき合っていたところ、15分以上遅れてやっと教室に入って来た。

 先生は、顔が青ざめていた。開口一番「三島が自衛隊で腹を切った!」と言った。一瞬の間を置いて、教室内は騒然とした。先生は、職員室でテレビの緊急特別番組を観ていて授業のことを忘れていた、と釈明した。

 教室のほとんどの生徒たちは、なぜ三島がそんなことをしたのか、何となくわかるような気がした。三島は、ふつうの作家とはかけ離れていた。生来の虚弱体質というコンプレックスを克服するため、30歳からボディビルで体を鍛えた。思想的には、天皇を「歴史と文化の伝統の中心」「祭祀国家の長」として絶対視していた。晩年には、国防についても積極的に発言、行動していた。

 虚構としての小説や戯曲を書くだけにとどまらず、虚構としての人生を自ら演出し生きている作家だった。そもそも人生とは虚構なのかもしれないが。

 新右翼や民族主義者に影響を与えていただけでなく、深いところで日本人の心の琴線に触れる何かを持った人物だった。ノーベル文学賞の候補でもあり、世界でも三島の世界観に注目していた。もっとも、特に絢爛な文体の作品群は翻訳不可能だ、とぼくは思っていたが。

 教室のぼくたちも、三島自決に衝撃を受けた。先生の授業はしどろもどろで、生徒たちもうわの空だった。

 あんな作家はもう出ないだろう。仮に、村上春樹さんや東野圭吾さんが自殺したとしても、田舎の高校生に衝撃を与え授業が空転するというようなことはないはずだ。文学と生き方の質がまるでちがう。時代の緊迫感もちがう。

 40年の区切りのいま、三島を特集した刊行物や展示、舞台などが相次いでいる。三島は自分が老いていくことを恐れていた。英雄的自己犠牲に対するマゾヒスティックな憧れを抱いていた。切腹という行為そのものに官能的なフェティシズムを覚えていた。自決の動機については、そういうさまざまな解釈がある。

 ぼくは、横浜へ所用で出かけた折りに、足を伸ばして鎌倉文学館を訪れた。そこでは、2010年12月12日まで、『川端康成と三島由紀夫 伝統へ、世界へ』という特別展が開かれている。

 文学館は、加賀の前田侯爵家の別邸だったところで、三方を森に囲まれ、窓から南に由比ケ浜を臨む。三島の晩年の大作『豊穣の海』4部作の第1巻『春の海』の舞台とされた侯爵邸のモデルとなった場所でもある。佐藤栄作が首相在任当時の1960年代この邸を借りていて、そのころ三島は邸そのものの取材に訪れたことがある、と展示で知った。

 鎌倉文士のひとり川端康成は、26歳年下の三島の才能を発掘した。文壇の大先輩、後輩という関係ではなく、互いに切磋琢磨する間柄だった。川端は三島に出合ってから世界的に評価を受ける作品群をものにした、という指摘もある。川端は、三島を「無二の師友」と呼んでいた。1968年、日本人初のノーベル文学賞を取った際、受賞できた三つの理由のひとつとして「三島由紀夫君のおかげ」を挙げたほどだった。

 平和運動に携わっていた川端は、晩年の三島の右翼としての言動には距離を置いていた。しかし、特別展によると、死の直後、「三島由紀夫を失ってみると、失わないためにも、楯の会や自衛隊にともについて行かねばならなかったか」と書いたという。川端は三島の葬儀委員長を務めた。そして、川端も1年半後に72歳で謎のガス自殺をした。

 文学館には、校外学習の中高生たちがプリントを片手に続々と詰めかけていた。国語で習うのだろうが、いまの若い人たちに川端はともかく三島を理解できるのだろうか。

 特別展には、三島の数々の自筆原稿も展示されている。絶筆となった『豊穣の海』第4巻『天人五衰』の最終ページに見入った。端正な字でこうしめくくられている。

 「庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。…… 『豊穣の海』完。」

 そして、日付が書かれている。

 「昭和四十五年十一月二十五日」。

 --毎週木曜日に更新--

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ドルトムントのピッチで牛若丸が舞う

 日本人サッカー選手でいま、もっとも光り輝いているのは、香川真司(21)だろう。ドイツ一部リーグ、ブンデス・リーガを首位独走中のボルシア・ドルトムントで、トップ下の攻撃的MFを務めている。

 ドイツ最大の8万3000人を収容するその本拠地ジグナル・イドゥナ・パークの天然芝のピッチに、ぼくも立ったことがある、と言えば、人は信じるだろうか。

 ぼくがボンに駐在していた1994年8月28日の話だ。4選を目指すコール首相率いる与党・キリスト教民主同盟が、当時ヴェストファーレン・シュタディオンと呼ばれていたそのスタジアムで党大会を開いた。週末のことでもあり、ぼくはアメリカンスクールに通う子どもたちとかみさんを連れて、列車で取材に出かけた。

 スタジアム一帯には屋台がたくさん出ていて、お祭りムードだった。もちろん、たこ焼き屋やじゃがバター屋、イカ焼き屋があるわけはないが、一番の人気は炭火焼きのソーセージ屋だ。本格的料理がイマイチのドイツで、もっとも確かな味は、街角で売っている炭火焼きソーセージをパンにはさんだものと相場が決まっている。

 ゲートで記者カードを示してピッチに入ると、大掛かりな特設ステージが設けられ、“前座”の楽団が演奏していた。ドイツの選挙では、候補者の名前を連呼する遊説カーなど無粋なものはなく、候補者は大、中、小規模の集会を開いて、政策を有権者に訴える。会場は、街の喫茶店やレストランなども利用される。

 ドルトムントでの党大会はその巨大版で、総選挙への火蓋を切ったのだった。ドイツ統一から4年を経ていた。コール首相は、「統一からの苦しみを耐え、我われの社会は確実に良くなってきた」と実績を強調する一方で、「選挙情勢はいつでも変わり得る」と運動員や支持者を引き締めた。

 ぼくは、その演説を最前列で取材した。かみさんと子どもたちは、一般有権者に交じってスタンドから見ていた。

 原稿も送り終えた夕方、家族でタクシーに乗って食事に出かけた。ドルトムントの地元料理が期待できるはずもなく、ぼくは運転手さんに聞いた。「どこか、お勧めの日本料理店はないですか?」

 「さあ、知らないな。でも、ちょっと待ってよ」。運転手さんはそう言って、無線でタクシーセンターに尋ねてくれた。センターの配車係りも知らず、全タクシーに一斉無線で問い合わせた。ドルトムントには日本企業もほとんどないから、日本料理屋はないかもしれないなぁ。無線では、運転手さんたちの大声でのやりとりが飛び交っている。それにしても、大変な騒ぎになってしまった。

 そのうち、ひとりの運転手さんが、「いい店を知ってるよ」と、住所を教えてくれた。タクシーで案内された店は、街中心部からちょっとはずれたところにあり、和風の想像を超える豪華な造りだった。鉄板焼きをメインとする『EDO』というところで、仲居さんはみな着物姿だった。

 日本ではほとんど知られていないようだが、ヨーロッパで日本式鉄板焼きと言えば、高級料理で通っている。実は、食通のあいだでは寿司より人気が高いほどだ。鉄板カウンターで肉や魚介類をバターで焼き、日本の醤油で味付けして食べさせてくれる。

 デザートにバニラアイスの鉄板焼き(!)を頼んだ。カチカチに凍らせたアイスを焼き、ブランデーでフランベしてぼーっと炎を燃え上がらせ香りをつける。子どもたちがこの手の料理ショーを見たのは初めてで、大喜びだった。

 ときは移り、2010年11月12日、ボルシア・ドルトムントは、ホームで目下リーグ6位のハンブルガーSVと対戦した。テレビ朝日系の『日本サッカー応援宣言 やべっちFC』のキャスター矢部浩之さんと、Jリーガーに人気の前田有紀アナウンサーが、香川選手に直接取材するため、スタジアムに乗り込んでいた。

 ボルシア・ドルトムントの熱狂的サポーターのおじさんは、どしゃぶりの中、テレビのマイクに向かって叫んだ。「たったひとりの男が、日本の印象を変えたんだ!」

 後半4分、ドルトムントのDFが敵陣右奥から折り返し、香川選手が右足内側で合わせて、ゴール右隅に先制弾を蹴り込んだ。2試合連続ゴールで、今季12戦中6点目となった。香川選手は2点目の起点ともなり、2-0で快勝した。

 矢部さんたちは、試合後、香川選手に合い、まずこんな感想を口にした。「球際の激しさとスピード感を、生で見てびっくりしました」

 香川選手は、正直に話した。「今日は、体がちょっと重かった。矢部さんも来てくれているのにどうしようかな、と思ってたんです」

 それでも、ピッチを走り回り獅子奮迅の働きぶりを見せた。173センチしかなく童顔で、屈強な選手ぞろいのブンデス・リーガでは、中学生かせいぜい高校生くらいにしか見えない。しかし、当たり負けすることはない。京の五条の橋の上で弁慶を翻弄した牛若丸のように、華麗にプレーした。

 ドイツ2大サッカーメディアで、2週連続ベストイレブンに選出された。

 香川君、『EDO』で栄養をつけて、ザックJAPANでも八面六臂の活躍を!!

 --毎週木曜日に更新--

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日本人はなぜアルデンテにこだわるのか

 ニューデリー特派員をしていたころ、パキスタンへ出張し商都カラチのホテルで日本人のA特派員と食事をした。Aさんは、スパゲッティを注文した。運ばれてきたものは、見るからにぺちゃぺちゃしていた。Aさんは、ボーイを呼んでちょっと声を荒げた。

 「君ぃ、スパゲッティのアルデンテって知ってるの。こんなふにゃふにゃしたものじゃ、美味くもなんともないじゃないか!」

 ボーイさんはきょとんとしていた。ぼくはAさんをなだめた。

 「まあ、パキスタンのレストランでアルデンテを要求しても無理でしょ。およそ、洋食なんてあるだけましで、美味いまずいは別の話じゃないですか」

 日本テレビが、2010年10月30日、『地球食堂 ~通ぶれる美味しい話~』という番組を放送した。「見るだけで『通』を気取れる新型グルメ番組」という触れ込みで、関東ローカルとして試験的に放映し、反響が良ければゴールデンタイムも狙うという。

 そこで、スパゲッティのアルデンテについて、本場イタリアの事情を現地人のリポーターが報告した。番組がしつらえた東京・新橋にあるという架空の『地球食堂』の客、森泉さんと柳原可奈子さんに、「本場ではこうなんですよ」と日本人には薀蓄となりそうな話を語る趣向だった。食堂の親父は田中要次さんが演じている。

 その報告によると、イタリアで街頭アンケートをしたところ、アルデンテにこだわる人はわずか2割弱で、10数%はアルデンテという言葉そのものを知らなかった。その他は、「どうでもいい派」だろう。

 ぼくはイタリアで2回、のべ2週間滞在したことがあるが、たしかに、アルデンテではないゆで方のスパゲッティも何回か食べた覚えがある。日本の和食店だって、板前さんの腕の良し悪しに加えいろんな調理法があるのだし、まあ、そんなものかとあまり気にもしていなかった。

 でも、考えてみれば、日本の本格イタリアレストランを標榜する店では、必ずと言っていいほどアルデンテにこだわっている。客もそれを求めている。だから、番組は意外性を狙ってこんな企画を立てたのだろう。

 イタリアからのリポートによると、そもそも、アルデンテの古里は南部のナポリだという。この港町には漁師が多く、粉をこねて熟成させただけの生スパゲッティではなく、乾燥したものを船に持ち込んで食べる慣習があった。ところが、乾燥スパゲッティを完全にゆであげるには60分もかかるといい、速く食べる方法としてアルデンテが考案された。

 そうすると、アルデンテは漁師料理で、どちらかと言えば邪道に属する調理法だということになる。

 とは言っても、日本人はいつのころからか知らないが、なぜかアルデンテを好むようになった。

 アルデンテというと、ベルリンで知り合った日本人シェフ青木栄弘(ひでひろ)さんの顔が目に浮かぶ。

 青木さんは、札幌市の実家が食堂で、高校生のころから包丁を握っていた。大学を卒業してから伯母の中華料理店を手伝ったが、「どうせやるならパリに行ってフランス料理を」と考えた。そしてまず、札幌のホテルで西洋料理の基礎を身に着けた。

 「北海道の人はパイオニア精神が旺盛というか、若い料理人は研究熱心でとても刺激された」

 「スパゲッティのシンを残してゆでようとしても、なぜかうまくいかない」などの疑問を、仲間で口にしあった。

 25歳の誕生日の直前、親類のいたベルリンに渡り、まず日本料理店で働いた。1974年秋、超一流店「ベルリン・リッツ」へドイツ語の履歴書を持って行くと、「明日から働いてくれ」と言われた。美食家で知られた世界的指揮者、故・カラヤン行きつけの店だった。

 そこのシェフ、ベルナーフィッシャーさんは、恐らくドイツ人で唯一、個人でミシュランの2つ星を持っていて、青木さんは以前から憧れていた。

 「ぼくは日本人で得をした。ヨーロッパにない食材を知っているし、魚や野菜の鮮度も見分けられる。それに札幌のホテル時代、結婚式用の飾り料理でデコレーションも勉強していたから」

 青木さんは、国際的な料理コンクールで通算4回も金メダルを取っている。ぼくの家族がベルリンにいたころは、旧東ベルリンに自分の店を構えていた。ぼくがそこへ妻子を連れて行くと、地中海直送のマグロをさばいてカルパッチョにして食べさせてくれた。

 ドイツ人のボーイさんは「サミシィ、サミシィ」と訳の分からないことを言う。しばらくして、「刺身」と言いたいのだと分かった。
 手のあいた青木さんと雑談していて、日本でアルデンテにするのが難しい理由がやっと分かった。
 「水のちがいですよ。こっちのはすごい硬水だから」

 では、なぜ日本人はアルデンテにこだわるのか。たぶん、蕎麦やうどんにコシを求めるのが一般的になってきたことと無縁ではないだろう。

 --毎週木曜日に更新--


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