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2010年12月

アナーキストでなにが悪い

 2010年の世界を振りかえると、もっとも重大なニュースはウィキリークス事件ではないか。後世の歴史家は「あの事件が世界史の分水嶺だった」とつづるかもしれない。

 日本の国民のあいだではいまひとつ関心が低いようだが、世界ではすごいことが起きている。「情報をめぐる世界大戦」だと呼ぶ人さえいる。

 インターネットを駆使し、内部告発や情報提供を求め、それをチェックした上で公開する。誰でも考えつきそうなことで、実はぼくも、2001年に日本初の有料ウェブマガジン『RABタイムリー』を創刊したとき、それを究極の目標にしていた。しかし当時は、まだインターネットの普及率も低く、有料コンテンツなどほとんどなかった。それもあって事業はうまく行かなかったが、方向性としてはまちがっていなかった、と自負している。ウィキリークスなる破壊力抜群のサイトが登場して、その意を強くした。

 ウィキリークスは、2006年に創設されちょこちょこと国際社会を騒がせてきたが、「世界大戦」の火蓋を切って落としたのは2010年11月末だった。約25万件にものぼるアメリカ外交公電を入手し、それを小出しにしてアメリカ外交の内実を暴露し始めた。アメリカや同盟国の当局者はたまったものじゃない。

 アメリカ議会は、ウィキリークス創設者のジュリアン・アサンジ氏(39)を「ハイテク・テロリスト」と呼んだ。「非国民」という声が上がったのには笑わせられた。アサンジ氏はオーストラリア人だから、もともと非国民なのだ。「スパイとして軍事法廷にかけるべきだ」という強硬意見も聞かれる。ロシア政府は「アサンジにノーベル平和賞を」と提案し、自称「言論・報道の自由の国」を皮肉っている。

 アサンジ氏は、旅芸人の両親の影響で反権力思想に傾倒し、16歳のころから天才ハッカーとして大手のネットワークに侵入した経歴を持つ。だからか、アメリカでは「アナーキスト」と非難する者もいる。つまり、無政府主義者だというわけだ。アナーキストにもいろいろいて、本当のテロリストも少なくないが、アサンジ氏は、合法的にというか盲点を突いて、ドン・キホーテのように超大国に立ち向かっている。

 ぼくはウィキリークスのことが日本でも少しずつ報道され始めた4月ごろから、誰がこの画期的なサイトに援護射撃をするか注目していた。

 アサンジ氏は、スウェーデンでふたりの女性を「強姦」したとして滞在中のイギリスで逮捕された。アノ最中にコンドームがはずれた、女性がコンドームをつけてするよう求めたのにつけなかった、というあきれる容疑だ。それでも、かの国では微罪になるらしい。

 公電の暴露そのものでは罪に問えないということを意味する。イラク戦争の告発ドキュメンタリーで知られるマイケル・ムーア監督が保釈金を出し、保釈された。「ウィキリークスがあればイラク開戦はなかったかもしれない」と監督は言う。かつて機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」をニューヨークタイムズにリークしたダニエル・エルズバーグ博士もアサンジ支持を表明した。

 世界のネットユーザーの多くとかなりの割合の報道機関も支持しているようだ。約400人のハッカーがサイト運営に協力し、「アノニマス」と名乗るゆるやかなハッカー集団が、当局からの圧力を受けてウィキリークスとの提携を断ち切ったアマゾン社などに、のべ数千件のサイバー攻撃をしかけている。

 ぼくは外交公電の暴露と聞いて、ボン特派員時代に知り合ったアメリカ大使館の通信技官のことを思い出した。技官は、1994年のクリスマスにぼくの家族を自宅に招待し、巨大な七面鳥を自分で焼いてご馳走してくれた。

 その彼が、通信技官になるための採用テストについてこっそり教えてくれた。アメリカ人の外交官が作成した公電を暗号化して国務省に送る職務だから、当然、内容に触れることになる。中身が絶対に漏れないよう、テストでは個人の人格や交友関係、家族、親族などの実情についても徹底的にチェックされる。

 そこまではぼくも想像していたが、それから先がすごかった。1週間の泊り込みテストがあり、寝言で情報をもらしたりしないかを試されるのだという。夫婦の寝物語で秘密を漏らしてはならないのはもちろん、寝言さえ言ってはいけないのだ。その代わり待遇は破格で、夫婦と子ども4人で400㎡(!)の官舎が与えられていた。

 そこまでしてガードが固められている公電の山が、いとも簡単に、当局共有サイトからダウンロードされ、ウィキリークスに持ち込まれた。陸軍上等兵(23)の行為とされる。

 ジャーナリストの上杉隆氏は、この事件が「現在のパックス・アメリカーナともいうべき世界秩序の崩壊を意味する」と書いている。しかし、もっと高いところから俯瞰すれば、大アメリカ帝国の覇権の終わりというだけにとどまらない。ウィキリークス事件が示しているのは、「このインターネット時代にあって、どんな機関のどんな情報もときによってはだだ漏れする」という現実ではないか。寝言をチェックして済む話ではない。

 第2、第3のウィキリークスは次々と現れるはずだ。日本でも、そういうサイトが出てきて欲しい。アナーキストと呼ばれれば、それはそれでいいではないか。

 アサンジ氏、早くUFOがらみの情報を暴露して。そうすれば、援軍も世界中でぐっと増えるだろう。

 --毎週木曜日に更新--

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1泊2食109円! の家族忘年合宿はアリか

 愛車は東名高速を快調に飛ばし、御殿場ICを下りて箱根方面へ向かった。「この乙女峠から仙石原にいたる付近には、埋蔵金伝説があるんだよ」。車内は一気に盛り上がった。時代劇の悪役で知られる徳川幕府の金山奉行・大久保石見守が、佐渡金山や石見銀山で発掘し幕府に納める金銀の一部をくすねて埋めたという。キーワードは<黒つつじ>とされるのだが、果たしてどこに――。

 師走の××日、ぼくは入念な仕事の打ち合わせをして、そのまま忘年会に突入するはずだった。それが突然延期になった。そこへ1本の広告メールが届いた。いつもなら読みもせずに削除するが、ちょっと目を引くタイトルだった。「1泊2食109円~」

 ほんとかよ。R社の箱根、京都、伊豆、軽井沢などの人気リゾート施設に、1日20組限定で体験宿泊できるのだそうだ。ぼくのスケジュールがぽっかり空いたので、かみさんに相談すると「いくいく!」。彼女もその日はちょうど休みだった。

 「だめもとで、子どもたちにも電話してみようか」。都合を聞くと、たまたまふたりとも連休だという。シフト勤務だから年に1度くらいは家族の休みが一致することがある。「ちょうどその夜は、ふたご座流星群がピークだそうだからばっちり見られるかもよ」。こどもたちは、それに食いついた。

 R社に電話を入れると、すぐに予約が取れた。師も走る時節だからだろう。

 指定のリゾート施設は、仙石原高原にある。枯れ草の野原をゆっくり進んでいくと看板があってすぐにわかった。担当の営業マンが部屋へ案内してくれた。

 「福西さんにそっくりだね」と息子がささやく。サッカー元日本代表MFで解説者の福西崇史さん(34)のことだ。つまり、かなりのイケメンでもある。

 通された部屋は、3LDKに本格的ジャグジールームもついていた。聞くと100㎡あり、箪笥などはないから相当ゆったりしている。一休みしてから、「リゾートクラブのご説明」がある。それに90分間つきあうのが、宿泊の条件だった。

 「ま、子どもたちは同席しなくていいんじゃない」。息子は温泉大浴場に入ったあと、周辺を一眼レフで撮影しにいくという。娘は、ベッドルームのドアを閉めて昼寝をした。

 まず、R社のシステムと施設紹介のビデオを30分間見なければならない。たいくつで眠くなったころ、福西さん風が立て板に水でセールストークを始めようとした。

 「ちょっと待って。こっちの個人情報は御社のアンケートで開示しているわけだから、あなたの情報も教えてください」

 年はいくつ? どこに住んでいるの? ノルマはどれくらい? 社歴は? それで年収は?……。カウンターアタックを繰り出すと、福西さん風は出鼻をくじかれてリズムを狂わせた。サッカーに限らず、真剣試合はこうやらなくちゃいけない。

 「当社は2004年に設立しまして、現在12の施設があります。キャッチフレーズは“日本をまるごと別荘に”でして、車1台分のコストで高級コンドミニアムを利用できる会員になれます。ペットや飲食物の持ち込みは自由です」

 まあ、いちおう熱心に聞くふりをしておいて、肝心のコストを尋ねた。施設利用はポイント制で、当然ながら盆正月、週末や連休はポイントが高い。1年に平日8泊利用するとして、試算してもらった。

 「それですと、入会金が260万円、会員登録料が10万円、年会費は毎年8万円ずつですから、当初費用は286万円ほどになります」

 素泊まりの値段だから、実際には食材費や清掃費がかかる。調理の手間などを考えると、ホテルや旅館に泊まったほうがはるかによくはないか。「ご説明」は60分で終わった。「何しろ109円でご提供していますので、夕食はあまり期待しないでください」

 部屋に運ばれてきた夕食は和風御膳で、ハードルを下げられていた分、結構いける。食後、娘が「ねぇ、みんなでカラオケに行こうよ」と携帯電話で探すと、箱根に1軒だけあるという。真っ暗な山道を探し探しいったが、ついに見つからなかった。曇っていて星も見えない。

 あきらめて引き返し、持参の牌で麻雀をすることにした。リビングのテーブルはたまたま正方形でうまくできている。ぼくは、忘年合宿だから、とトップ賞の金一封を用意していた。抜きつ抜かれつの展開から、オーラスで息子が上がり賞金をゲットした。

 睡眠時間が極端に少なく“信州のナポレオン”の異名を持つかみさんは、午前2時に廊下の窓から、ふたご座流星群をばっちり見たという。

 翌朝、子どもたちは「なんで起こしてくれなかったの。そのためにきたのに」。福西さん風が、入会するかしないか決断を聞きにきた。「会員にはなりません」。てっきり成約を取れると思っていたようで、ぼくの言葉に顔が引きつった。

 「ご家族の集いのきっかけを提供するのが、当社のモットーですが」。でも、こんな退屈な山中施設のリピーターにはなれない。2回目からはわくわく感もないし。妻子も「こんなマンションなら、家にいるのと同じじゃない。旅行のほうがいい」」と言った。

 「ところで、なぜ109円なんですか?」。「はあ、10+9でトクです」。徳川の埋蔵金探しより、宿泊体験のほうが確実にトクではあったが。

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沈滞ニッポンに元気の出るエールを

 「失われた30年」という見出しをみて、おいおい、いい加減にしてくれよ、と思った。2010年12月10日、朝日新聞の朝刊株式欄の下にある小さなコラムだった。バブル崩壊からこれまでの日本経済を「失われた20年」と呼ぶ。それはまあしかたがない現実だが、さらに10年もこの状態がつづくというのか。

 「政府も民間も、自らリスクをとることなく、他者や将来世代の負担・犠牲の下で、現在の自らの利益を守ろうとしている」。政府も企業も個人も現状を拒否しそれを変える大きな戦略を持ち、自らできることを地道にやりつづけなければ、日本は失われた30年になってしまう、とコラムは指摘する。

 その通りだとしても、見出しがあまりにネガティブではないか。メディアの伝えるそういう負の観念が、知らず知らずのうちニッポン人に刷り込まれていく。

 シンガポールのリー・クアンユー公共政策大学院長で、元国連大使のキショール・マブバニ氏は、来日して2日間滞在しただけで、日本を覆う悲観的な空気に驚いたという。「平和で安定した社会と、素晴らしい文化。アジアの繁栄という大きな波に乗る準備が最も整っているのは日本だ」とエールをくれた。

 この列島の人びとには、世界を冷静に大局的にみる意識があまりにも欠けている。ぼくがベルリンに駐在しているとき、東京から労働界のトップがやってきて、「日本は小国ですからねぇ」と嘆いた。

 日本のどこが小国なのか。その人は、どうやら日本中心の世界地図にだまされて、祖国を矮小化して考えているらしかった。ぼくは<日本大国論>をぶった。

 たしかに、日本でふつうにみる地図では、北にロシアと中国、東にアメリカ、南にオーストラリアとたまたま大きな国に囲まれている。でも、子どもたちの教育用にわが家の廊下にあえて掲げてきた、ヨーロッパ中心の世界地図をながめればどうか。

 日本は堂々とした大国だ。ヨーロッパ随一の国ドイツと面積では互角であり、人口でも国家予算、GDPでも1.5倍だ。防衛力も、楽々世界の10指に入る。

 海外視察というのは、外国事情を肌で感じ、いいところは参考にすると同時に、祖国の国際社会での立ち位置をたしかめる機会のはずだ。正当な自国評価ができず真の国際感覚がない人には、トップになって欲しくない。

 あるドイツ人歴史家は、戦争責任と現代ドイツ社会について取材しているぼくに、こんなことを言った。「ドイツには、コップにまだ半分も水が残っている、という考え方があります。コップの水が半分に減ってしまっている、と考えるよりずっと前向きでしょ」

 英国ケンブリッジ大学の「奇才」とも「鬼才」とも呼ばれ、ノーベル経済学賞にもっとも近い男とされるハジュン・チャン准教授は、邦題『世界経済を破綻させる23の嘘』で、日本をとても肯定的に評価している。一般に「日本には起業家精神がない」とされるなか、チャン氏は「終身雇用の下で全従業員に発案させ、起業家精神を組織化させている」とし、「経済学の特定の流派を過信せず、経済政策を経済学者ではなく、法学や工学の分野出身の官僚が担っている」点に注目する。

 持ち上げすぎかもしれない。でも、チャン氏が、なにかと言えば反日に傾きがちな韓国人である点が面白い。ぼくたちは、コップにはまだ半分も水が残っている、と楽天的になればいいのだ。

 週刊現代は、2010年11月以降、“日本の応援歌”を相次いで特集している。いわく「円高も中国も怖くない 本当は凄い日本の底力」とタイトルでぶちあげる。

 「10月25日に中国政府直属のシンクタンク『中国社会科学院』が発表した報告書で、日本の国際競争力はアメリカ、EUに次ぐ世界第3位とされた。中国は17位。報告書は日本について『アジアでは絶対的なトップの地位を保っている』と記している」

 この特集記事では、資源小国と思われがちな日本が、たとえば海水からウランを抽出する技術で抜きん出ていることを紹介する。黒潮が毎年日本に運んでくるウランは、国内の全原発で消費する量の600年分以上だという!

 筑波大学の研究チームは、12月14日、化石燃料の重油に相当する炭化水素を作り、細胞内にため込む性質がある藻類を沖縄で発見し特許申請した、と国際会議で発表した。従来知られていた藻類より10倍も石油の生産能力が高い。「国内に約2万㌶の生産施設を作れば日本が石油を輸入する必要はなくなる」とし、「車の燃料として1㍑50円以下で供給できる」と試算している。こんな画期的発見をメディアがあまり伝えないのはなぜか。

 「平和で安定した社会と、素晴らしい文化」というシンガポール人識者の声に、自信を持って耳を傾ければいい。1985年、神戸でユニバーシアード大会が開かれたとき、ぼくは会場間を走るシャトルバスでカナダの選手団と乗り合わせた。彼らは、街中に自動販売機がたくさんあるのに感嘆していた。「カナダだったらすぐに壊されて中のお金を盗まれるだろうに、日本ってなんて平和な国なんでしょう」と言った。自販機はその後、増えることはあっても減ることはない。さりげない景観にも、日本の国力が表れているのだ。

 半面、平和ボケがボケ政治家を量産してきた。でも、日本と日本人の底力を信じて、楽観的にいけばいい。まちがっても、失われた30年、などという見出しを使ってはいけない。

 --毎週木曜日に更新--

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幻のうどんで、日本人の甘さを知る

 北信濃に<おしぼりうどん>なるものがある、と聞いた。キーワードは<ねずみ>だという。おしぼり、うどん、ねずみがどうつながるのか。まるで、落語の三題話だ。

 それは、埴科郡坂城町中之条地区に限ってあるという。「場所はわかりづらいよ」と言われていたが、うまいものなら必死で探す。小春日和の昼過ぎ、かみさんの運転で迷うことなく着いた。背後に関越自動車道が走っているのをのぞけば、畑だらけの田舎だった。

 聞いていた店の名前は『かいぜ』という。柿や林檎がたわわに実る畑のあいだの小径を進んで、その民家風の食堂に着いた。

 ものすごく混んでいて、別室で待たされた。和室のテーブルの上には、お客さんが自由に書くノートがある。「東京都国立市から来ました」「兵庫県姫路市です」。千葉県袖ヶ浦市、新潟、愛知、遠いところでは山形やわが郷里・島根から来た人もいる。

 「久しぶりに脳が刺激された」「あの辛味と口のなかに残る甘みは、この暑い夏の食欲不足を解消してくれる」「辛い!! けどうまい!! だから、くせになります」「うどんの概念をひっくり返されるような感動を受けました」「不器用な味にほれました」

 いったい、どんなうどんなのか。20分ほど待たされたあと、女将さんが、食事をする部屋へ案内してくれた。和室に4人掛けのテーブルが6つほど並んでいる。

 おしぼりうどん800円、十割そば1000円、うどんとそばのわがままセット1000円とある。うちのかみさんは「それなら、うどんとそばを一つずつ注文して分け合うほうが安いんじゃない?」と言う。でも、ノートを丹念にチェックすると「わがままセットのほうが、絶対にお勧め」とあった。

 「じゃ、わがままセットをふたつ」。作るのも運んで来るのも女将さんひとりでやっている。片山しさ子さんという。旦那さんは農業に専念しているそうだ。

 おしぼりとは、この地方特産で信州伝統野菜にも指定されている<ねずみ大根>をおろしたしぼり汁のことだった。その大根はずんぐりしていて短く、根が長い。あとで庭先に積んである姿をみたら、たしかにねずみだった。

 「最初はおしぼりになにも入れないでうどんを食べてみてください」。片山さんのアドバイスに従ってひと口いってみた。「なんだ、これ、辛味大根と同じじゃないの」とかみさんは言う。その通りだ。口コミかマスコミのせいかは知らないが、全国から食べに来る“幻のうどん”は、辛味大根の汁につけて食べるのだった。好みで自家製味噌を混ぜる。

 ちなみに、『かいぜ』は地区の小字名で、おしぼりうどんは町興しにひと役買っており、同様の店が他に7軒あるという。

 たしかに、手打ちうどんの水準は高くうまい。でも、世の中の人は、辛味大根を知らないのだろうか。わが家の近くのスーパーにも、1本160円くらいで売っている。それをおろしてざるそばなどの薬味にすると、ピリッとうまい。

 ぼくが初めて辛味大根を味わったのは、1993年の大晦日に開いたホームパーティだった。福岡県出身の友人が、都心の有名な蕎麦屋へわざわざ辛味大根付きのざるそばを買いに行き、持って来てくれた。「年越しそばはこれしか食べたことがない」と彼は言った。

 『かいぜ』で出されたおしぼりうどんをすすりながら、かみさんが言う。「この程度の辛さって、騒ぐほどのことかしら。昔はふつうの大根おろしだって、舌がひん曲がるほど辛いのがあったわ。そもそも、日本人ってだんだん甘くなってるんじゃないの」

 おしぼり、うどん、ねずみの三題話が、日本人論になってきた。日本人の舌は甘く、辛さに弱い。東京で「激辛」などというメニューを頼んでも、ものすごく辛かったためしはまずない。基本線が大甘の平均的日本人向けに調理されていて、グローバルスタンダードの辛さにはとうていおよばない。

 とは言っても、ぼくだって生まれつき辛さに強かったわけじゃない。きっかけは、1986年に新婚旅行で行った韓国だった。現地の人に案内された食堂の、韓国式で食べる刺身がすごかった。サンチュに魚の刺身と生の激辛青唐辛子、水にさらさないにんにくスライス、コチュジャンを乗せ、くるっと巻いて口に放り込む。最初はしゃっくりがとまらない。

 東京に帰ってから、近所の本格韓国料理店へ通いつめ辛さと格闘した。舌と喉は慣れてきても、腸が受け入れられず、そのたびにお腹をこわした。やがて、少しずつ腸もきたえられ、どうにか世界で戦えるまでになった。

 それでも、韓国料理は辛さのトップクラスとは言えない。1988年ソウル五輪のアーチェリー競技にブータン王国代表で出場したある選手は、辛いと評判の韓国料理を楽しみにしていた。しかしそれほどでもなく落胆し、持参の唐辛子粉をどさっとかけて食べたという。

 ぼくも、ニューデリー特派員のとき、そのヒマラヤの王国に入った。レストランで八宝菜のような料理が出てきて、ああこれピーマンのざく切りかなとふつうに噛んだら、超激辛の青唐辛子で悶絶した。

 世界の壁は、辛さでも厚い。ぼくは特定の人物の国際性を「どれだけ辛さに耐えられるか」で推し量るくせがついた。

 おしぼりうどんは、美味だがそう辛くはない。この程度の刺激には日本人も慣れてもらいたい。特に、政治家のみなさんには。

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平成ニッポンに龍馬はいない

 わが家から少し離れたところに、江戸時代の宿場町を継ぐ古い商店街がある。ウォーキングでそこを歩いていると、坂本龍馬の例の全身写真をプリントしたのぼりが立っていた。

 ここは寺田屋か、と思ったわけではないが、のぼりをよく見ると、下に「司牡丹」と書かれていた。そこは酒店の前だった。ぼくはすぐに納得した。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』にこんなくだりがあったのを、覚えていた。

 「『ささ、一つ、一つ』と、馬と為は注いでまわる。酒は、土佐の佐川郷で吟醸される司牡丹である。土佐人ごのみの辛口で、一升半のんでからやっとほのかな甘味を生じ、いよいよ杯がすすむという酒豪用の酒である」(文庫版第2巻233ページ)。

 馬と為は、龍馬の同志、おどけの甲藤馬太郎と唄上手の川久保為之介のことだ。

 「司牡丹」は、高知市の西に位置する佐川町で醸造されている。佐川出身の維新の志士、明治新政府の宮内大臣も務めた田中光顕伯爵が、この酒を愛飲し、「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」と言って「司牡丹」と命名したという。田中は、海援隊長・坂本龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎亡き後の陸援隊副隊長を務めた。つまり、司牡丹の名は明治に入ってからつけられたもので、司馬の記述は、厳密に言えば誤りと言える。

 しかし、司牡丹を造っている竹村家の屋号は黒金屋と言い、慶長8年(1603年)から佐川の地で酒造りをしていた。また、龍馬の本家・才谷屋も、質商、諸品売買などと併せて酒造りを営んでいた。古文書などから、黒金屋と才谷屋には深い交流があり、姻戚関係があった可能性もあるという。

 龍馬が、黒金屋の酒を飲んでいたのはおそらくまちがいない。

 ぼくは、のぼりにつられるように酒店へ入り、迷うことなく司牡丹を買い込んだ。2キロの帰り道、重い一升瓶を抱えて歩いたのだった。

 司牡丹の味を覚えたのは、なんとドイツのボンに住んでいるときだった。日本の銘酒を冷蔵のままパリまで空輸し、パリからヨーロッパの主な日本食品店に届ける会社があった。値段は日本で買うより3倍以上はしたが、たまに飲む日本の味はたまらなかった。

 さて、龍馬は、2010年11月28日に死んだ。NHK大河ドラマ『龍馬伝』のことだ。全48回の平均視聴率は、関東地区で18.7%だったという。前作『天地人』より約2ポイントも低い。

 日本近代史のスーパースターを当代屈指の人気俳優・福山雅治さんが演じた割には、ドラマを観る人が少なかった。福山さん自身、最終回前夜、パーソナリティをしているニッポン放送の深夜ラジオ番組で、「視聴率がなぁ」とため息をついていた。

 司馬遼太郎は、単行本で全5巻、文庫版で全8巻の分量を費やし、龍馬の33年の生涯を書ききった。それを、各45分、全48回のドラマで描くのには無理があるのかもしれない。

 幕末という時代の状況はあまりに複雑で、『太閤記』や『赤穂浪士』のように分かりやすい物語にはなれない。大ざっぱに言えば、天皇親政を実現しようとした勤王派と、徳川幕府を支持する佐幕派に分かれていたが、竜馬はそのどちらとも言えない。

 事実、幕臣・勝海舟に師事して世界情勢を学び、幕府の海軍操練所で訓練を受けていた。その龍馬が、幕府を倒すというドラマなのだから、ある程度予備知識がないと訳がわからなくなる。

 豊臣秀吉のように天下を武力で取るよりも、戦をすることなく天下を明け渡させるほうが、よほど難しい。龍馬は、幕末の時点で世界に例をみない無血での政権返上、<大政奉還>を成し遂げた。そして、新政府の構想を練り、薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の桂小五郎などに送った。だが、龍馬は無私の人であり自らの名を要人リストに連ねようとはしない。

 そういう裏方の革命家だっただけに、龍馬の桁はずれのスケールと深さ、幕末の老若男女を魅了した独特の力を知っていなければ、ドラマの面白さも半減するだろう。ドラマより小説向きの物語かもしれない。

 それにしても、龍馬が幕末・明治維新で果たした決定的な役割りは、いつ世人の知るところとなったのだろう。

 司馬遼太郎は、単行本第5巻の「あとがき」で、不思議なエピソードをつづっている。

 明治37年(1904年)、日露戦争の前夜、陸軍は互角に戦えるとしても、日本海軍はロシア海軍に太刀打ちできないのではないか、という悲観論が広がっていた。時の皇后(昭憲皇太后)も神経を病むほど深憂されていたが、日露断交当日の2月6日、夢をみられた。

 白装束の武士が現れ、「南海の坂本竜馬」と名乗った。皇后はその名前を知らなかったが、武士は「海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、(中略)勝敗のことご安堵あらまほしく」と語った。翌日も同じ武士が夢に現れた。

 「司牡丹」と命名したあの田中光顕・宮内大臣がその件を聞き、龍馬の写真を皇后に届けると、「まぎれもない。この人である」と言われた。この話は「皇后の奇夢」として東京都下のすべての新聞に載り、龍馬を一躍スターダムに押し上げた。

 翌年、日本軍連合艦隊はロシア・バルチック艦隊を圧倒して殲滅し、戦争に勝利する。

 平成のいまの日本に、龍馬が欲しい。よみうり時事川柳にこんな句が選ばれた。

    【秀】幕末に例えど悲し龍馬居ぬ

 注)司馬遼太郎は「竜馬」と書き、大河ドラマなどでは「龍馬」と表記されている。

 --毎週木曜日に更新--

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