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2011年1月

海は死にますか 山は死にますか

 ♪おしえてください この世に生きとし生けるものの
  すべての生命に  限りがあるのならば
  海は死にますか  山は死にますか
  風はどうですか  空もそうですか

 この『防人の詩』は、日露戦争の激戦を描いた1980年の映画『二百三高地』の主題歌として、さだまさしさんによって作られた。

 ぼくの祖父も、陸軍士官学校出身の職業軍人で、二百三高地の戦いに参加し、三日三晩泥沼の中で立ち尽くして戦った経験を持っていた。そのため体を壊し、若くして病死した。

 映画では、ロシア文学を学んでいたあおい輝彦さん演じる小学校教師が召集され、小隊長(少尉)として戦う一方で、ロシア国民との友好を願う。しかし戦場は苛酷で、やがてロシア兵を心の底から憎むまでに変貌する。そして――。

 ぼくの実家に残る軍の礼服は、スクリーンで小隊長が着ているものとまったく同じで、映画を単なるフィクションとしては観られなかった。祖父は、戦後、国家から勲章ももらったが、父に「職業軍人にだけはなるな」と言い残して逝ったという。

 映画は、日本が勝った戦いを扱っているため、戦争を肯定する作品だという誤解が公開前から広まっていた。予告編などで『防人の詩』も戦闘の悲壮感を盛り上げるように使われ、戦争を感傷的に美化する歌と受け止める人たちもいた。

 さだまさしさんは「右翼だ」と批判された。しかし、歌詞をよく聴き映画をじっくり観れば、戦争の悲惨さと命の尊さ、儚さを描いたものであることはすぐにわかる。この映画が物議をかもした背景には、第2次大戦後の日本社会独特の風潮、つまり戦争アレルギーがあった。

 ♪海は死にますか  山は死にますか

 映画を観たぼくには、この言葉が深く胸に残った。人は死ぬが、海や山が死ぬことはあるのだろうか。その答えらしきものを、2010年秋の読書で知った。

 『宇宙は何でできているのか』(村山斉著、幻冬舎新書)という本だ。新聞の広告で知り、すぐに買った。2011年1月の時点で、すでに25万部のベストセラーになっているという。

 ぼくは高校時代、数学や物理を得意とし理数科で学んでいた。その1970年前後、級友のあいだでは理論物理学をベースとした宇宙論が流行った。ぼくも講談社ブルーバックス・シリーズで、アインシュタインの相対性理論や4次元、素粒子、統一理論などについて読みふけった。

 エネルギーは質量に光の速度の2乗をかけたものに等しい、というアインシュタインの有名な公式や、宇宙には「同時」という概念はない、光や空間は質量によって曲がる、などという話に心をときめかせた。

 だから、『宇宙は何でできているのか』という作品を手にとったとき、あれから40年経って物理学と宇宙論はどう変わったかを知りたくて一気に読んだ。

 宇宙の誕生についてはビッグバン(大爆発)理論がすっかり定着したようだ。1946年にこの理論の基礎となるモデルが発表され、65年には予測とぴたり当てはまる<ビッグバンの残り火>が発見された。最新学説で、宇宙は137億年前にできたとされているという。

 しかし、高校生のぼくたちが読んでいた一般向けの本には、まだビッグバン理論は紹介されていなかったように記憶している。

 宇宙創生は明らかになっても、それなら宇宙の終わりはどうなのか、が知りたくなる。われらが地球は太陽系にあり、太陽系は天の川銀河に属している。その天の川銀河は、45億年後にアンドロメダ銀河と衝突するという。

 地球の終わりはそれより前か、その衝突のときか。そして海や山が死ぬのだろうか。

 個々の星は寿命を終えると爆発し、それによってばらまかれた物質でまた次の星が生まれるのだという。この「超新星爆発」は万物流転、あるいは生きとし生けるものの輪廻転生を思わせる。「つまり、私たちの体は『星くず』でできているのです」と著者は書く。

 宇宙の73%は、まだ正体の解明されない「暗黒エネルギー」と呼ばれるものでできている。それが増えると宇宙の膨張が加速度を増し、やがてスピードが無限大に達する。それをビッグリップ(大引き裂き)と呼ぶという。

 「それは一体、何を意味しているのか。私自身もよくわからないのですが、『宇宙が終わる』のだとしか思えません」

 宇宙は死ぬ、というのだ。『防人の詩』の歌詞は、『万葉集』第16巻第3852番に基づいているそうだ。

  鯨魚(いさな)取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ(大意:海は死にますか 山は死にますか。死にます。死ぬからこそ潮は引き、山は枯れるのです。

 7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた万葉集は、すでに21世紀の宇宙論を先取りしていたようだった。

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ドイツの国家的トリックが崩れる

 ベルリンのドイツ歴史博物館で、2010年10月15日から2011年2月6日まで、『ヒトラーとドイツ人』という特別展が開かれている。

 事情をよく知らない人は、「さすがにドイツは、第2次大戦から65年経ったいまでも、戦争責任についてきちんと取り組んでいる」と思うかもしれない。

 展示では、ヒトラーがなぜ一般ドイツ人の支持を集めたか、というところに焦点が当てられている。しかし、ヒトラーを正面から取り上げる展示が戦後ドイツで初めてと聞けば、驚く人もいるだろう。

 日本で、軍国主義と国民などという展示はごくありふれたものだった。戦時中は、子どもたちでさえ「軍国少年」「軍国少女」と軍事色に染まり、その史実を明らかにし反省することが繰り返されてきた。

 では、なぜ、ドイツではそうではなかったのか。ヒトラーは、あくまでも選挙によって政権を取った。つまり、一般国民の広い支持があったから、結果として独裁者になれた。

 ドイツが過去を反省するとすれば、まずヒトラーと一般国民の関係を明らかにしなければならないはずだ。それなのに、今ごろになって初めて、やっとこんな特別展を開催したのだとしたら、ドイツの過去への反省とは何だったのか、という疑問がわく。

 実は、そこに戦後ドイツ社会の問題点がある。このテーマをめぐる展示は、2004年にも一度企画された。だが、「展示によって、ヒトラーが再びドイツ人を魅了する恐れがある」と見送られたという。

 日本で、『軍国主義と国民』という展示をしたからといって、国民が再び軍国主義に染まるなどという恐れがあるだろうか。日本はすでにはっきり、戦争の過去と決別している。しかし、ドイツではどんな世論調査をしても、国民の10数パーセントは右翼的思想の持ち主というデータが出る、という話をぼくはあるドイツ人歴史家から聞いたことがある。

 ドイツには、5000人くらいすぐに動員できる極右・ネオナチ組織がいくつかある。それに比べれば、日本の右翼など大人しい。実態は暴力団対策法をのがれるために右翼団体を名乗っている組織もたくさんある。ドイツでは街頭に数千人もの極右が集結し大騒ぎしたりするが、日本でそんな事態があるだろうか。

 ヒトラーと一般国民についての関係がこれまでタブー視されてきたのには、もう一つの理由がある。一般国民は独裁者ヒトラーに煽られた「被害者」だったという意識が根強く、実は国民が積極的にヒトラーを支持していた側面がある、という史実は歴史研究のなかだけでとどまっていた。

 ぼくは、2001年、『<戦争責任>とは何か 清算されなかったドイツの過去』(中公新書)を上梓し、ドイツの言う過去の清算は、国家的トリックによるごまかしだったことを明らかにした。

 ぼくが、ドイツのトリックに気づいたのは、ベルリンの特派員をしていたときだった。ちょうど戦後50年の節目に当たり、さまざまなイベントが展開されたが、その中身や国民の反応に不審なものを感じたのがきっかけだった。それに関していくつかの取材をし、新聞の記事として載せたが、十分ではなかった。

 やがて新聞社をやめフリーとなってから、2年以上かけ、ベルリン在住のドイツ人取材助手を遠隔操作して情報を集め、その上で自らドイツ、ポーランド、チェコを取材旅行して本にまとめた。

 ドイツのトリックはふたつある。ひとつは、<善いドイツ人>と<悪いドイツ人>を区別して過去の清算をしたことにするというものだ。<悪いドイツ人>はヒトラーとナチスで、典型的なスケープゴートにされた。<善いドイツ人>には一般国民だけでなく、なんとドイツ国防軍も含まれていた!。軍隊でさえ、戦後のドイツでは<善いドイツ人>として戦争責任をほとんど問われなかったのだ。

 その背景には、東西冷戦があった。戦後、ドイツは東西に分断され、西ドイツは自由主義陣営の最前線国となった。そこで、アメリカをはじめとする西側諸国は、西ドイツの軍隊を再編成させ東側と対峙した。その作業のなかで、旧軍の戦争責任は棚上げにされた。

 アメリカのハリウッド映画でさえドイツ国防軍を<善いドイツ人>として描き、冷戦を側面援助した。だから、「ナチ党員ではなかった軍人」は、戦後の国際社会で<善いドイツ人>として認識されたのだった。

 ましてや、一般国民は、ホロコーストなどと関係のない<善いドイツ人>であり独裁の被害者だった、としてすましていた。

 ぼくは、取材旅行で、3国の歴史家らに「ナチスの定義とは何か」を質問しつづけた。どんな人がナチスだったかを学術的に規定しなければ、トリックは明らかにならない。すべての答えは一致していた。「ナチ党員に限らない。ナチズムに心酔するか感化されていた者たちのことです」。ヒトラーが政権を取った1933以降、45年の敗戦まで、国民の圧倒的多数は一時にせよナチズムを信奉していたから、ナチスそのものかその支持者だった。

 特別展『ヒトラーとドイツ人』で、国民はその事実にやっと“少し”目を向けた。ドイツの国家的トリックのひとつは、今ようやく崩れつつある。

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有毛論、無毛論

 えっ、そうなの!? ぼくは心底びっくりした。そんなことになっているとは、知らなかった。

 ドイツのサッカー1部リーグ、ブンデスリーガで活躍するMF香川真司選手は、専門誌『キッカー』が行ったプロ選手286人へのアンケート調査の結果、2011年1月10日、「今季の新星」に選ばれた。リーグ前半のMVPにもなっている。現在、中東カタールで開催中のアジア杯でも、ザックJAPANのなかで最も注目を集めるホープだ。

 その香川選手が、テレビ朝日系『やべっちFC』で、ドイツのサッカー選手はみんな下のヘアを剃っていることを明らかにした。シャワールームでひとりだけ黒々とさせているのは変なので、彼も剃って「トゥルン」となったという。

 ドイツ2部リーグで得点を重ねている在日コリアン・北朝鮮代表のFW鄭大世(チョン・テセ)選手も、その番組に乱入し、「ぼくもトゥルリンコですよ」とカミングアウトした。最初、「おれは男だから」と剃るのには抵抗があったそうだが、みんなのなかで自分が浮いている感じがし、クラブに入って2日目には剃り上げたという。

 ぼくは、かつてドイツに3年間暮らし、いろいろな友人もできたから、ドイツの習俗にはかなり明るいつもりでいた。しかし、それは10数年前のことだから、ヘア事情は激変したのかもしれない。

 ドイツにいて、下のヘアを生で見る機会は意外に少なくなかった。フランクフルト近郊の有名な温泉保養地バーデンバーデンのスパへ家族で出かけたときには、流れる大温泉プールで子どもたちと遊んだ。水着を着て泳ぐのだが、併設されているサウナではすっぽんぽんになる。サウナは100人は楽に入れそうなほど大きく、しかも男女混浴だった!

 家族いっしょに何となく前のほうを隠して恐る恐る入ると、みな堂々と室内を歩いたりしている。トップ女優かと見まがう若い女性に目が釘付けになった。抜群のスタイルで頭も下もきれいなブロンドに輝いている。恥ずかしそうな様子はまったくなく、かえってこっちが照れてしまった。男たちも、もちろん、ヘアのあたりを隠すことはない。当時、小学生だったうちの子どもたちには、かなり強烈な体験になっただろう。

 ベルリンの森を家族で散歩していたときのことも思い出す。小径を歩いていると、目の前を真っ裸のおじさんが横切った。わが目を疑いながら先に進むと、湖のほとりに着き、あたり一帯にいる人たちはみんな一糸もまとっていない。

 そこはヌーディストビーチだったのだ。小さな子どもたちが水辺できゃっきゃと遊び、全裸の大人たちは砂浜でゆったり寝そべったり、飲み物を飲んでいたりする。女性も胸や股間を隠すようなしぐさはまったくない。ヨーロッパ近代絵画で見たことのある光景が、眼前で繰り広げられている。

 服を着たままのぼくたちは、何だか恥ずかしくなり、すぐに小径を引き返した。そのヌーディストビーチでも、ヘアを剃っている人などいなかった。

 子どもたちがボンのアメリカンスクールへ通っているとき、日本人スタッフから興味深い話を聞いた。水泳の時間、プールサイドに整列した子どもたちのちょうど目の高さに、長身の女性教師の股間がくる。その水着の脇からは、黒いものがちょろちょろとはみ出しているという!

 何でも、アメリカ本国でのウーマンリブ運動の影響で、体毛を処理しない風潮が女性のあいだで流行していると聞いた。一度、水泳の授業参観をしてみたいものだと思っていたが、ついに実現しないままとなった。

 もうひとつ、同僚のモスクワ特派員が話した下ネタも記憶に生生しい。ロシアの10代後半から20歳過ぎの女の子には、輝くようなブロンド美人が少なくない。その誰かといい仲になり、さぁ一線を超える段になる。すると、下のヘアが黒や茶色で思わず萎えてしまうことがあるという。頭髪は染めても、Vの部分はさすがに染められない。

 つまり、ほんの10数年前まで、ドイツ人もアメリカ人もロシア人も、下のヘアの処理などする習慣はなかった。それだけに、香川真司、鄭大世両選手の話は、ぼくにとって衝撃だった。

 “トゥルン”状態は男子サッカー選手だけには限らないだろう。ヘアをきれいに剃りあげる習慣が、若者たちのあいだで急速に広まっていると考えざるをえない。いまドイツのサウナにいけば、トゥルンとした男女に迎えられることになるのだろうか。想像するだに、胸がざわめく。

 日本で有名なトゥルン派と言えば、叶姉妹の姉・恭子さんだろう。あそこのヘアを完全脱毛し蝶のタトゥーを彫っているそうだからすごい。男女お笑いコンビ『フォーリンラブ』のバービーさんは、それなりの容姿にもかかわらず、やたら男性にもてるのだという。その秘密は、「Vライン、Iライン、Oラインをきれいに処理しているから」と他の女性芸人たちがばらしていた。

 思い返せば、ぼくの母たちの世代の女性は、昭和30年代ごろまで、脇の毛を処理する習慣がなかった。ヘアをめぐる身だしなみも進化している。

 日本列島に、トゥルン・ファッションが上陸する日は近いのかもしれない。

 --毎週木曜日に更新--

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<絆>をめぐり、母は跳ぶ

 2011年の年頭にあたり、天皇陛下は「家族や社会の絆を大切に」というメッセージを発表された。ここ数年、<絆>という言葉が日本社会のキーワードになっている。

 朝日新聞は、年をまたいで、『孤族の国』という連載をつづけている。家族も友だちも恋人もいながら本当に話したいことを話せず、10分1000円の有料電話サービスで面識のない人に話を聞いてもらう青年のエピソードなどを紹介し、今の社会のありようをつづっている。「孤族」という造語は、絆を失いつつある人たちを示しているのだろう。

 ぼくの家族にとっても、この3年、絆という言葉はキーワードとなってきた。

 「NHKのテレビで『私の絆』の投稿を読んでくれたよ!」。2010年12月28日夕刻、郷里・出雲の母からはずんだ声の電話がかかってきた。NHK松江放送局は、「私の絆」というテーマで投稿を募集していたそうだ。かつて板東英二さんのラジオ番組に電話出演し長々としゃべったこともある母は、好奇心が強く何にでも挑戦したがる。

 「私の絆」の原稿を便箋に書き、年末のくそ忙しいときにぼくのところへファクスしてきて、手直しをしてくれと言う。

 ぼくは、2008年、父の短歌と母の俳句、書を編集して『おもひで絆』という本にした。タイトルは母が「うちは子どもや孫が遠くにいるから絆を大切に」とつけた。

 1922年(大正11年)生まれの父は、誰かの姓名の字を短歌に盛り込んで詠む特技があった。それを自分では「名字歌(なじか)」と呼んでいた。例えば、1959年(昭和34年)の皇太子ご成婚に際しては6首を作り、美智子妃殿下の実家に送ってご母堂からお礼の葉書をもらった。

  明るくて 仁義しもあれ 貞節に 睦びて国の 平和成しとぐ
  昭く和し 仁に厚くば 貴き身に 成るとも正に 裕かにて良し

 この2首には、裕仁、良子両陛下、明仁、正仁両殿下、成子、和子、厚子、貴子各内親王の計8人の字が織り込まれている。

 1929年(昭和4年)生まれの母は、40代半ばから俳句と書道を始め、西中国俳句大会で特選になったこともある。パーキンソン病に苦しむ姉の介助を詠んだ。

  虫の夜の 口述筆記 はかどらず

 母は、書道師範の免状ももらった。

 ぼくは2010年、両親にロングインタヴューし家族の歴史を『続・おもひで絆』という一冊にまとめた。タイトルはいろいろ考えたが、絆という言葉をもう一度使ったほうがいいだろうと思った。

 そのいきがかり上、「私の絆」の投稿原稿もささっと手を入れてファクスで送り返した。

 12月28日の放送日、母は家事を早々に片付けてテレビの前に座った。地域情報番組『しまねっと』の年末スペシャルだった。

 番組では、まず、地元の1年のニュースを振り返った。最年少で将棋の女流三冠を勝ち取った里見香奈さん(18)、日本テニス界のプリンス錦織圭選手(21)、幕内力士の隠岐の海関(25)の活躍が紹介された。つづいて、自伝『ゲゲゲの女房』で知られる武良布枝さんの、島根県安来市の実家から中継された。

 そして、視聴者からの「私の絆」の投稿をスタジオで女性キャスターが読む段にいたった。母が固唾を呑んで観ていると、2番目に母の投稿が読まれたのだった。やった!!

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    私の絆(投稿)

 平成二十年十一月、私たち夫婦は結婚六十年のダイヤモンド婚を迎えました。それを機に身の回りを振り返ってみようと思い、主人が書き溜めていた短歌、私の俳句と書を整理して本を作りました。

 子や孫たちはほとんど県外にいて離れています。短歌や俳句は家族を詠んだものも多く、本の題は『おもひで絆』としました。家族が少しでもつながっていることを望んでつけました。

 子や孫たちはもちろん、教師をしていた主人の知人や教え子、私たちの兄妹、私の句友、書道仲間の人たちに届けました。それらの方々との関係も、私たち夫婦にとっては大切な絆です。

 その後、息子が「家族の歴史を本にまとめておきたい」と申し出、私たち夫婦に長時間の聞き取りをし、生い立ちから戦争体験、現在に至るまでを本にしてくれました。この二十二年秋に完成したその本の題名は『続・おもひで絆』としました。最初の本の続編、完結編です。

 木佐家や私の実家の系譜、私たち夫婦の親兄妹のことなども書かれているので、本が一族の絆を確かめました。親戚の方たちからも喜んでもらえたのが何よりと思っています。

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 --毎週木曜日に更新--

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