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2011年2月

戦後、学校で教えずメディアも伝えなかったこと

 かったるい映画だと爆睡するかみさんが、最初から最後まで目を見開いて見入っていた。観客動員ランキングに初登場で1位、初日満足度でも1位を獲得したという。2011年2月11日に公開された『太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男』の上映館には、若い人たちの姿も目立った。

 日本とアメリカが戦っていた太平洋のサイパン島で、わずか47人の部下を統率して4万5000人ものアメリカ海兵隊をきりきり舞いさせた大場栄大尉の実話を映画化した。日米開戦70年特別企画として日本テレビが力を入れた作品だが、大ヒットしているのは、連日の宣伝キャンペーンのおかげだけではないだろう。

 ある新聞の映画評では「学校で教えなかった歴史の一面」という言葉が目についた。若者たちは、うちの子どもたちをふくめて、特に現代史で何があったのか、本当はどうだったのかを知りたがっている。

 原作は、元海兵隊員ドン・ジョーンズ氏の『タッポーチョ「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』だ。神出鬼没な戦術によって敵を翻ろうし“フォックス”と畏敬の念を込めて呼ばれた大場大尉を中心に描かれる。

 ジョーンズ氏は、実際に大場隊と戦いそのサムライぶりに強い感銘を受けた。第2次大戦後に来日し取材を重ねて書き上げたという。あとがきにはこうある。

 「(日本では)多くの人たちが、自分たちの父や祖父や叔父たちが国を守るために戦った精神について何も知りませんでした。もっと驚いたことは、その人たちがしたことに何の尊敬の念も払っていないことです」

 大場栄大尉役を演じた俳優の竹野内豊さんは、あるインタヴューでこう語っている。

 「ジョーンズさんも書かれていますよね。日本人は戦争に負けたということを恥じる気持ちでいるかわからない。でも、恥じる気持ちは知識の欠如だって。世界中の戦士のなかで、日本軍の兵隊は本当に優秀だった。その人たちが全力で戦った誇りを、決して忘れてはいけないんです」

 竹野内さんは、こうも言う。「自分たちのルーツをたどれば、どこかであの方たちの遺伝子があり、日本人としての誇りが眠っているはずだと思うんです。(ロケ地の)タイで一緒に過ごした兵隊役の役者さんたちって、すごく若いのに日本人としての強いスピリットをもっているんですよ。だから、忘れているわけではない。自分たちに備わっているということに、自分を含め気づいていないだけなのだと思いました」

 この作品は薄っぺらな反戦映画などではなく、「日本人の誇り」をテーマとしている。ふた昔も前なら、日本特有の風潮のなかで、「戦争賛美の作品だ」とか「右傾化が危ぶまれる」などとわめく者がいただろう。

 戦争を扱っている以上たくさんのが人が死んでいくが、感傷的な仕上がりではない。日本の本土で戦争を指導した大本営は、サイパン島に食料も武器弾薬も送らず兵士や民間人を見捨てた。そうした戦争指導部の無責任体質を背景に、大場大尉たちが最前線の軍人として日本人としてどう生き、どう死のうとしたかが描かれる。

 大場隊は、1945年8月15日の終戦から100日以上も戦闘をつづけた。アメリカ軍の投降呼びかけに、大尉は「我われは軍人であり上官の命令があるのなら」と条件をつけた。投降命令書が届き、アメリカ軍のジープに乗りながら、敵だった相手に対して語る。「ただ無心に戦っただけ。私はこの島で、ほめられるようなことは何もしていません」

 「とにかく学生さんや若い人たちに見てもらいたい」と、竹野内さんは言う。かみさんをふくめシネマに足を運んだたくさんの人たちが、大場大尉らの堂々とした生き様に感動し涙を流した。

 原作者のジョーンズ氏が驚いたように、戦後の日本ではなぜ「国を守るために戦った精神」について語られなかったのだろう。

 国外要因として、終戦から7年間、日本を統治したGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策がある。東京裁判で日本と日本人を一方的に断罪し、言論を統制して戦前戦中のすべてを悪とするキャンペーンを張らせた。

 国内要因としては、GHQにおもねり日本の文化や精神の伝統まで否定して“善い日本人”のふりをした転向左翼メディアやえせ平和主義者らの言動があった。

 息子は最近、ぼくに2006年発行の『永遠の0(ゼロ)』という本を推薦してくれた。日本が誇った零戦の元パイロットたちを描く。ある元戦闘機乗りは、作中の新聞記者に言う。

 「戦前、新聞は大本営発表をそのまま流し、毎日、戦意高揚記事を書きまくった。戦後、日本をアメリカのGHQが支配すると、今度はGHQの命じるままに、民主主義万歳の記事を書きまくり、戦前の日本がいかに愚かな国であったかを書きまくった。……自分こそが正義と信じ、民衆を見下す態度は吐き気がする」

 ここで、第一に糾弾されているのは、言うまでもなく朝日新聞だ。今、若い世代を中心に、国民はそのいんちきぶりに気づいている。朝日の部数は激減し、ボーナスは3分の2に減り給与の3割カットも検討されている。

 『太平洋の奇跡』が受け入れられたのは、歴史の必然だろう。

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さすらいの渡世人ジャーナリストたち

 エジプトで30年間、独裁者の地位にあったムバラク大統領が、2011年2月11日、辞任に追い込まれた。反ムバラク・デモが18日間におよび、国内は首都カイロを中心に騒乱状態にあった。民衆革命がまたしても成功した。ここでもインターネットが威力を発揮した。

 騒乱の地には、世界中からジャーナリストが集結する。「不肖・宮嶋」として知られる報道カメラマンの宮嶋茂樹さんは、ラジオの電波もとどかないある島での“浦島太郎状態”から抜け出して事態を知り、あわてて空路カイロに入ったという。

 政権が崩壊の危機にあるとき、当局はピリピリとし綱紀も乱れる。週刊文春2月17日号の手記によると、案の定、宮嶋さんは税関でカメラやメモリーカード、充電器など根こそぎ没収された。「ムバラクがこけたら、ワシのカメラはこいつらの退職金代わりになる」「不肖・宮嶋……カメラマン生活27年、最大のピンチである」

 それでも、宮嶋さんには、先乗りしていた同業者たちから「このカメラ余っているから、このレンズ使ってませんから」とうれしい申し出があったという。

 各国のジャーナリストのあいだには、何と言うか、相互扶助の精神がある。フィリピンのマルコス独裁政権を打倒した1986年「ピープルパワー革命 」は、今回の「エジプト革命」以上にドラマチックだった。マルコス大統領はアメリカの手によって国外脱出し、ついに民衆が勝ったのだった。

 ぼくは、マルコス脱出までは、新聞社の東京本社で、現地からの原稿を電話やテレックスで受けたり、アメリカなどからの情報を特派員に伝えたりする仕事をし、革命成就直後の現地に入った。

 そのときが初めての海外取材だったが、陽気なフィリピンのジャーナリストらにずいぶん助けてもらった。民衆革命の種火を熾したのは『コブラ』という名前の集団だった、という特ダネを手に入れられたのも、地元記者の協力があったからだった。

 その翌年、ニューデリー駐在の特派員となってからは、同業者のありがたみがいっそう身にしみた。

 たとえば民族紛争で血生臭い争いがつづくスリランカへ入ると、当時はインターネットなどという便利なものはなく、いま全体の情勢がどうなっているのかさっぱりわからない。ひとり現場で取材活動をしていれば、テレビやラジオのニュースをチェックすることもできないからだ。

 そんなとき、現場で知り合った地元記者たちが親切に教えてくれる。場合によっては、その記者のオフィスに行き、英文の外電を直接読ませてもらうこともある。ジャーナリストって一宿一飯を提供する渡世人みたいなもんだな、とつくづく思った。

 アフガニスタンの首都カブールでは、地元メディアなどというものは機能しておらず、各国から来た特派員同士で助け合った。

 ぼくは、英語のうまいアフガン人のガイドMさんを雇い、チャーターしたタクシーで取材していた。そこへ、「同行させてくれないか」と言ってきたのが、ニューヨーク・タイムズのジョン・バーンズ記者だった。聞けば、長年モスクワ駐在をしていたそうで、アフガンへ来たのは初めてという。彼は「好漢」という言葉がぴったりの男だった。

 「ああ、いいよ」とこちらも気軽に応じた。車中、現地情勢や各国での取材経験を話しながらあちこちを回った。

 ガイドのMさんは、驚くほど人脈が豊富なうえ、ジャーナリズム・センスがあり、政府高官から街の市場を仕切るボスまで、つぎつぎと取材のアレンジをしてくれる。バーンズ記者とぼくは、いながらにしていい情報をどっさり手に入れることができた。約10日間、ふたりでずっと、銃声や砲声が24時間聞こえるなか、取材活動を共にした。

 特派員たちは丘の上のホテルが定宿で、暇なときはレストランに集まって世間話をした。ある日、ジョンが「キサはすごくいいガイドを雇ってる。ほんとにうらやましいよ」と言った。

 すると、イギリス人のロイター通信ニューデリー支局長が言った。「いいガイドっていうのは、強い通貨の国の特派員につくもんだよ。かつてはイギリスのポンドに群がった。その次は米ドルだろ。そして、今は日本円というわけだ」。日本経済がバブルの最中にあったころのことだ。

 それから歳月を経て、日本の新聞にジョンの名前を発見した。旧ユーゴスラヴィア紛争をめぐる記事で、ピューリッツァー賞を取ったのだった! きっと、いいガイドや同業者を確保できたのだろう。

 エジプト革命は、同じ北アフリカのチュニジアで起きた政変に触発されて起きた。中東は激動の時代に入ったが、北東アジアに飛び火することはないのだろうか。

 「民衆の蜂起はやばい」と思う中国の共産党独裁政権は、エジプト情勢について事実上の報道規制をしているという。極寒の2月を迎えた北朝鮮では食糧不足が深刻で、優遇されているはずの兵士たちまで餓死し、核開発を担う部隊が空腹から作業をボイコットする事態まで起きているようだ。

 中国や北朝鮮も騒乱の季節を迎えれば、またジャーナリストが勇んで集結するのだが。

 --毎週木曜日に更新--

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お屠蘇もさめたころ、古代への妄想はふくらむ

 元旦にはお屠蘇を飲む。甘い、いかにも漢方薬の入った薬酒だ。しかし、それは西日本の伝統行事で、東日本では単に日本酒をお屠蘇と称して飲むという。

 それにしても、「屠蘇」とは正月の朝、最初に飲む祝い酒の名としてふさわしいのか。そのまま読めば、「蘇」を「屠(ほふ)る」となる。屠るとは、体をばらばらに切り裂くことだ。いかにも血生臭い。それに「蘇」とはいったい何なのか。

 図書館で調べてみると、中国の三国時代(西暦200年頃)、魏の国の名医・華陀が十数種の薬草を調合して屠蘇散を作り、酒に浸して飲んだのが始まりらしい。

 他方、「屠蘇」は元々唐時代の「そしんばく(581年~682年)」という人の庵の名前で、彼は毎年、大晦日の夕暮れに数種の薬草を入れた袋を井戸につけておき、元旦に飲んでいた。彼は不老長寿であり、それを人々が真似したという説もある。さらに、屠蘇は中国の西方地域に伝わる薬草の名という説もあるそうだ。

 平安時代の嵯峨天皇の弘仁年間(810~823年)、唐から来た和唐使の博士・蘇明が霊薬として屠蘇散を献上し、天皇が正月三が日に四方拝の儀式の後、屠蘇散を浸した酒を用いたのが日本での始まりとされる。

 1578年に明朝の李時珍が書いた有名な生薬の本『本草綱目』によると、屠は殺すという意、蘇は病をおこす鬼のことで、屠蘇は「鬼を屠る」の意とされている。そして「屠られたものも蘇る」すなわち細菌を殺すという、伝染病を予防する意味でつくったものと解説されているそうだ。まあ、これが常識として現代日本にも定着しているのだろう。

 しかし、屠蘇の語源には諸説あり来歴がはっきりしない。また、図書館の資料群には出典が記されていない。それは、真実がごまかされているからではないのか。

 宮中の儀礼はやがて庶民の間にも伝わるようになり、医者が薬代の返礼にと屠蘇散を配るようになった。現在でも、西日本では薬店が年末の景品に屠蘇散を配る習慣として残っている。ぼくも、薬局で父がティーバッグ式の屠蘇散をもらっていたことを覚えている。

 屠蘇はいかにも漢方だが、現代中国には正月に屠蘇を飲む習慣はないという。では、あれは一体何か。ぼくには、かねてからひとつの仮説があった。

 「梅原古代学」で知られる哲学者の梅原猛氏が著した『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』(新潮社、2010年)を読んで、ますます自分の仮説がふくらんでいった。

 梅原氏は、古代、朝鮮半島からやって来たスサノオが出雲王朝を建て、その6代目のオオクニヌシ(大国主命)が越(現在の新潟県など)から大和(奈良県)、瀬戸内海一帯にまで領土を広げ大王国とした、という大胆な説を論じている。

 これまで、古事記や日本書紀に書かれている出雲神話をふくむ日本の神話そのものをフィクションだとする歴史家がほとんどだった。それには、津田左右吉(1873~1961)の影響が大きかった。梅原氏自身、40年前に上梓した『神々の流竄』(集英社)で、「出雲神話なるものは、大和に伝わった神話を出雲に仮託したものである」と断じた。

 しかし、梅原氏は島根県出雲地方をはじめ各地を現地調査し、過去の自説を否定して、古代出雲王朝は実在したとする。

 学生時代から梅原古代学のファンだったぼくにとっては、待望久しい一冊だった。梅原氏はかつて、再建法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺だったとする『隠された十字架 法隆寺論』(新潮社、1972年)の末尾で、出雲大社の謎に軽く触れていた。ぼくは、氏がいつ出雲大社論を書くのか、じつに38年も待ちつづけていたのだ。

 氏はすでに80代半ばの高齢で、現地調査も完璧とは言えないが、その斬新な論は読者を知的興奮に誘うには十分だ。

 梅原氏が出雲王朝は実在したのではないかと考えたのは、1980~90年代、出雲地方の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で、歴史をひっくり返すような大量の銅剣、銅鐸などが出土したのがきっかけだった。それまで、出雲神話は虚構に過ぎないと思われていたのは、考古学上の大発見がなかったからでもあった。

 そして2000年、出雲大社境内から巨木3本を束ねて1本の巨柱としたものが発掘され、かつて高さ48メートルにもおよぶ巨大神殿があったとする伝承がほぼ裏付けられた。

 梅原氏は、その古代出雲大社を建設させた陰の人物こそ藤原不比等(659~720年)だと結論づける。再建法隆寺のケースと同様、ヤマト王朝が滅ぼしたオオクニヌシの怨霊を恐れ、鎮魂のために建てたとする。

 藤原氏の始祖は<大化の改新>で知られる中臣鎌足だった。蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした功績により、天智天皇から藤原姓を賜る。その子不比等は、律令制を確立し中央集権国家とした。天皇家の外戚となり、子々孫々まで絶大な政治権力を振るえるよう、歴史の陰に隠れて周到な手を打っていった、と梅原氏は力説する。

 そこで、ぼくの仮説は妄想となる。

 屠蘇散が平安時代に中国から入って来たのは事実だとしても、その意味、目的は藤原氏によってたくみに変えられたのではないか。不比等と同様、末裔が陰で動いた。屠蘇の蘇とは蘇我氏のことであり、屠蘇とは蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足の偉業を子々孫々まで讃え、藤原氏の栄華を祈念する儀式とされたのではないだろうか。

 --毎週木曜日に更新--

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やはり、旭日旗が問題を引き起こした

  中東カタールで開かれたサッカー・アジア杯は、2011年1月29日、ザックJAPANのFW李忠成選手が“ドーハの歓喜”を実現した。対オーストラリアの決勝で、DF長友佑都選手からのクロスをボレーでゴールに叩き込んだ。

 しかし、25日の準決勝日韓戦では、後味の悪い汚点を残した。韓国代表のMF奇誠庸(キ・ソンヨン)選手(22)が、前半23分にPKを決めた後、テレビカメラに向かって鼻の下を伸ばし、膨らませた頬を左手で掻く仕草をした。

 これに対し、韓国のネットではすぐさま、「あのサルまねは日本人を侮辱している」「韓国の恥だ」といった投稿が殺到したという。

 ぼくがビデオでチェックした限り、日本で放送された画面には、そのシーンは映っていなかった。試合から2日後に流されたニュース映像でははっきり映っているから、韓国の放送分にはあったのだろう。

 奇選手は翌26日、ツイッター上で「観客席に旭日旗があったのを見て、心の中で泣いた」とつぶやき、その5時間後には「私は選手である前に韓国国民だ」とつづけたという。これについて、「心情は理解できる」と擁護する声もあった。

 26日の韓国・中央日報(電子版)は、「旧日本軍が旭日旗を使用していたため、怒りを抑えられなかったとみられる」と指摘した。

 この行為が日本のメディアでも伝えられ騒ぎが大きくなると、奇選手は釈明した。「日本人に対してではない。所属クラブのセルティックでプレーしていて、相手のサポーターはぼくをサル呼ばわりする。そういう人種差別をする人たちに向けてやった」

 奇選手がプレーするスコットランドの新聞『The Scottish Sun』は、「日本や国際社会からの批判を逃れるために、スコットランドのファンを標的にした」とし、「日本人に対する侮蔑のパフォーマンスだとFIFA(国際サッカー連盟)などから制裁を受ける可能性が高い。ヨーロッパでの人種差別に対する抗議活動に問題をすり替え罰則から逃れようとしている」と痛烈に批判した。

 問題の引き金になったのは旭日旗だった。ぼくは、こういう日がくるのではないかと前々から危惧していた。日本のスタジアムでサッカーの国際試合があると、ゴール裏のスタンドに、日章旗に混じって巨大な旭日旗を振る輩がいる。

 旭日旗は、太陽光線を大胆に意匠化した日本古来からある旗で、1870年(明治3年)、陸軍が軍旗として正式に採用した。その19年後、海軍は陸軍の軍旗とは異なり日章位置が旗竿側に寄るデザインの十六条旭日旗を軍艦旗として制定した。そのため、一般には現在でも、旭日旗は海軍専用の旗と誤解されることも多い。第2次世界大戦に破れ、旭日旗は一度は廃止されたが、1954年(昭和29年)に陸上自衛隊と海上自衛隊が発足すると、旗も復活した。

 韓国の人々にとって、旭日旗は日本の帝国主義や軍国主義の象徴と映り、今でも嫌悪する人が多い。それをスタンドで振るのは、あまりに無神経ではないか。歴史や隣国の国民感情を知らなさ過ぎる。それとも、右翼勢力が確信犯として持ち込んでいるのだろうか。そんなゆがんだ“根性”のある右翼がいまの日本にいるとも思えないが。

 奇誠庸選手をはじめ韓国側を挑発したのは日本人サポーターだった。乱暴狼藉を働くヨーロッパのフーリガンよりややましとはいえ、旭日旗禁止運動が起きないのはなぜか。

 旭日旗といえば、1985年のユニバーシアード神戸大会の体験を思い出す。ぼくは取材中に韓国・聯合通信の記者と親しくなり、大震災で壊滅する前の三宮あたりをふたりで飲み歩いた。彼は日本は初めてだといい「今日、街で旭日旗をつけた車を見かけてびっくりした」と言った。

 それは恐らく、朝日新聞のハイヤーにつけられた社旗だった。その旗は、軍旗の4分の1に「朝」という文字を染め抜いたもので、戦前からそのまま使われている。日の丸・君が代にしつこく反対していた左翼新聞の“右翼的”体質をうかがわせる。どんなにきれいごとを書いていても、韓国国民の感情など尊大で独善的な大朝日はなんとも思ってはいないのだろう。

 朝日が主催する夏の甲子園大会でも、そんな体質がにじみでる。坊主頭の強要、連隊責任、部員の厳しい上下関係やしごきの容認など、旧軍の悪しき伝統そのままではないか。口先ではリベラルを自認する朝日が、それらを改革しようとしたためしはない。

 日教組も朝日と同じ体質を持つ。学生服は明治初期に帝国陸軍が採用したプロイセンの軍服にルーツを持つとされる。日本の高校生が学生服でパリへ修学旅行に行き、右翼集団とまちがわれたという笑えない話はよく知られる。ランドセルも軍隊の背嚢そのものだ。

 朝日は、今回の騒動をきっかけに、社旗のデザイン改革を打ち上げてもよさそうなものだ。日教組も日の丸・君が代闘争をつづけるより、朝日の社旗改訂を闘争目標にすべきだ(笑)。

 カタール・ドーハには日本人サッカージャーナリストが大挙押しかけていたが、誰ひとり日本人サポーターの旭日旗問題に焦点を当てて取り上げようとはしなかった。選手をサムライと呼ぶなら、サポーターもサムライであるべきではないか。

 --毎週木曜日に更新--

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