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お屠蘇もさめたころ、古代への妄想はふくらむ

 元旦にはお屠蘇を飲む。甘い、いかにも漢方薬の入った薬酒だ。しかし、それは西日本の伝統行事で、東日本では単に日本酒をお屠蘇と称して飲むという。

 それにしても、「屠蘇」とは正月の朝、最初に飲む祝い酒の名としてふさわしいのか。そのまま読めば、「蘇」を「屠(ほふ)る」となる。屠るとは、体をばらばらに切り裂くことだ。いかにも血生臭い。それに「蘇」とはいったい何なのか。

 図書館で調べてみると、中国の三国時代(西暦200年頃)、魏の国の名医・華陀が十数種の薬草を調合して屠蘇散を作り、酒に浸して飲んだのが始まりらしい。

 他方、「屠蘇」は元々唐時代の「そしんばく(581年~682年)」という人の庵の名前で、彼は毎年、大晦日の夕暮れに数種の薬草を入れた袋を井戸につけておき、元旦に飲んでいた。彼は不老長寿であり、それを人々が真似したという説もある。さらに、屠蘇は中国の西方地域に伝わる薬草の名という説もあるそうだ。

 平安時代の嵯峨天皇の弘仁年間(810~823年)、唐から来た和唐使の博士・蘇明が霊薬として屠蘇散を献上し、天皇が正月三が日に四方拝の儀式の後、屠蘇散を浸した酒を用いたのが日本での始まりとされる。

 1578年に明朝の李時珍が書いた有名な生薬の本『本草綱目』によると、屠は殺すという意、蘇は病をおこす鬼のことで、屠蘇は「鬼を屠る」の意とされている。そして「屠られたものも蘇る」すなわち細菌を殺すという、伝染病を予防する意味でつくったものと解説されているそうだ。まあ、これが常識として現代日本にも定着しているのだろう。

 しかし、屠蘇の語源には諸説あり来歴がはっきりしない。また、図書館の資料群には出典が記されていない。それは、真実がごまかされているからではないのか。

 宮中の儀礼はやがて庶民の間にも伝わるようになり、医者が薬代の返礼にと屠蘇散を配るようになった。現在でも、西日本では薬店が年末の景品に屠蘇散を配る習慣として残っている。ぼくも、薬局で父がティーバッグ式の屠蘇散をもらっていたことを覚えている。

 屠蘇はいかにも漢方だが、現代中国には正月に屠蘇を飲む習慣はないという。では、あれは一体何か。ぼくには、かねてからひとつの仮説があった。

 「梅原古代学」で知られる哲学者の梅原猛氏が著した『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』(新潮社、2010年)を読んで、ますます自分の仮説がふくらんでいった。

 梅原氏は、古代、朝鮮半島からやって来たスサノオが出雲王朝を建て、その6代目のオオクニヌシ(大国主命)が越(現在の新潟県など)から大和(奈良県)、瀬戸内海一帯にまで領土を広げ大王国とした、という大胆な説を論じている。

 これまで、古事記や日本書紀に書かれている出雲神話をふくむ日本の神話そのものをフィクションだとする歴史家がほとんどだった。それには、津田左右吉(1873~1961)の影響が大きかった。梅原氏自身、40年前に上梓した『神々の流竄』(集英社)で、「出雲神話なるものは、大和に伝わった神話を出雲に仮託したものである」と断じた。

 しかし、梅原氏は島根県出雲地方をはじめ各地を現地調査し、過去の自説を否定して、古代出雲王朝は実在したとする。

 学生時代から梅原古代学のファンだったぼくにとっては、待望久しい一冊だった。梅原氏はかつて、再建法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺だったとする『隠された十字架 法隆寺論』(新潮社、1972年)の末尾で、出雲大社の謎に軽く触れていた。ぼくは、氏がいつ出雲大社論を書くのか、じつに38年も待ちつづけていたのだ。

 氏はすでに80代半ばの高齢で、現地調査も完璧とは言えないが、その斬新な論は読者を知的興奮に誘うには十分だ。

 梅原氏が出雲王朝は実在したのではないかと考えたのは、1980~90年代、出雲地方の荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で、歴史をひっくり返すような大量の銅剣、銅鐸などが出土したのがきっかけだった。それまで、出雲神話は虚構に過ぎないと思われていたのは、考古学上の大発見がなかったからでもあった。

 そして2000年、出雲大社境内から巨木3本を束ねて1本の巨柱としたものが発掘され、かつて高さ48メートルにもおよぶ巨大神殿があったとする伝承がほぼ裏付けられた。

 梅原氏は、その古代出雲大社を建設させた陰の人物こそ藤原不比等(659~720年)だと結論づける。再建法隆寺のケースと同様、ヤマト王朝が滅ぼしたオオクニヌシの怨霊を恐れ、鎮魂のために建てたとする。

 藤原氏の始祖は<大化の改新>で知られる中臣鎌足だった。蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした功績により、天智天皇から藤原姓を賜る。その子不比等は、律令制を確立し中央集権国家とした。天皇家の外戚となり、子々孫々まで絶大な政治権力を振るえるよう、歴史の陰に隠れて周到な手を打っていった、と梅原氏は力説する。

 そこで、ぼくの仮説は妄想となる。

 屠蘇散が平安時代に中国から入って来たのは事実だとしても、その意味、目的は藤原氏によってたくみに変えられたのではないか。不比等と同様、末裔が陰で動いた。屠蘇の蘇とは蘇我氏のことであり、屠蘇とは蘇我氏を滅ぼした中臣鎌足の偉業を子々孫々まで讃え、藤原氏の栄華を祈念する儀式とされたのではないだろうか。

 --毎週木曜日に更新--

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