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もう大見出しで国民をあおる時代ではない

 「プロフェッショナルな報道。大地震のあと、日本のメディアは専門的でレベルの高い報道力を発揮し、冷静かつ着実に各地の被災状況を伝えていた」

 東日本を襲った2011年3月11日の巨大地震に関し、『中国網』日本語版は、台湾の有識者・王栄霖氏のコメントとしてこう報じた。日本のメディアは、この国難に際して全体としてはよくやっていると思う。

 しかし、読売新聞で21年間、記者をしていた経験から言わせてもらえば、こと原発報道に関しては余りにもセンセーショナルではないか。特に、読売がひどい。

 3月12日午後、福島第1原発の1号機で水素爆発が起きると、読売は号外を東京都内で発行した。「福島原発で放射能もれ」という2段ぶちぬきの大見出しが踊っていた。ここから、各マスメディアは原発に関しやや冷静さを欠いていったのではないか。

 翌13日の読売と朝日の朝刊には、最高度に大きな見出しでまったく同じ文言が使われていた。

 「福島原発で爆発」

 これは、大筋においてまちがいではない。しかし、事実を丁寧に追えば、原発1号機の建屋内に水素が充満し、爆発して建屋の上部が吹き飛んだ「だけ」だ。テレビ各局に登場した原子力の専門家はいずれも、5重構造になっている原発の一番外側が吹き飛んだものであり、ただちに大量の放射性物質が噴出す恐れはないことを冷静に解説していた。加えて、大気中に漏れた放射性物質の量も少なく、健康に被害が出る程度ではないことを強調していた。

 だが、一般読者は大見出しから、原発そのもの、つまり原子炉が爆発したかのように誤解してしまいがちだろう。事実、うちのかみさんも、「原発で爆発」と「原発が爆発」のちがいが分からなかった。

 たとえば、大災害にあって「死者1,200人」のところ「死者2,000人」と報じても、被災者にそう大きなパニックが起きることはない。しかし、ことは「核」をめぐる報道であり、慎重な上にも慎重な表現をしなければならない。

 また、新聞だけでなくテレビでも、安易に「ヒバク」という言葉を使っている。ヒバクには「被曝」と「被爆」があるが、ふたつの意味はまったくちがう。被曝は量の多少にかかわらず放射性物質を浴びることであり、被爆は原水爆による攻撃を受けること、また、その放射能の害をこうむることだ。広島、長崎の悲劇から、日本人はヒバクという言葉を聞けばどうしても被爆だと思ってしまう。

 原発事故は、もちろん被曝のほうであり、メディアは事実に即して「ごく微量の被曝」などと、丁寧な言葉遣いをするべきだ。

 テレビ各局の特番を観ていて気づいた人も多いかもしれないが、キャスターがことを大きくしたがり専門家がそれを抑える、という構図がつづいた。テレビの場合は、その場で専門家の声が伝わるから、視聴者はいくらか安心する。だが、新聞が複雑な事実関係をはしょって大見出しを掲げると、パニックを引き起こす。

 読売でも朝日でも記事をよく読めば、日常でも放射性物質は浴びており、いますぐに大騒ぎする必要はないとわかるはずだ。しかし、読者は見出しに引きずられてしまう。

 読売は、同じ13日の夕刊社会面にセンセーショナルな見出しで、追い討ちをかけるような記事を載せた。

 「『どこへ逃げたら』 住民 不安極限に」

 不安を極限にしているのは自分たちが作っている新聞だと気づいていない。

 大災害や大事件、戦争などが起きると、一線の記者は命がけで取材をする。記者たちは、自分の記事が採用され、できるだけ大きく扱ってもらいたい。だから、どうしても事実以上に迫力を出そうとする。各記者、各報道セクションが“迫力合戦”をすることになりがちだ。それを抑え、冷静な報道にするのが編集局幹部の職務だが、読売は伝統的にそこが弱い。

 さすがに、読売でも、15日朝刊の社説では「相次ぐ爆発にも冷静な対処を」の見出しで、当面、放射能による健康への影響はないことをくり返し書いている。社説は論説委員会が担当するが、報道記事を書くのは編集局に所属する社会部や政治部などで、社説の抑えたトーンが伝わりにくい。

 16日の一面トップは「超高濃度の放射能観測」と、またしても暴走気味の見出しをつけた。原発3号機の近くで「身体に影響を及ぼす」放射線量を一時的に観測したことを伝える記事だが、まだ住民に悪影響が出る事態ではない。「超高濃度」という言葉がどこから出てきたのかチェックすると、2面の「政府、原発危機に焦燥感」という記事に一か所だけ使われている。政治部記者の筆がつい走っただけなのに、大見出しになってしまった。

 もう、見出しで読者を引きつける時代ではない。ぼくは現役だった10数年前、すべての見出しを同じ大きさにすることを提案したが、上司、同僚はその意義が理解できなかった。

 その後、ネットメディアが登場し、ヤフーニュースなど見出しは一律で伝える。ニュースの価値判断は、メディアではなく受け取り手各自がすればいいのだ。

 --毎週木曜日に更新--

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