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2011年4月

ダスターのタチブルメ

 「マスター、ぼく誰だかわかりますか?」「おおーっ、キサちゃんじゃない!」

 ちょうど30年ぶりの再会だった。店はもうきっとなくなっているだろうな、と思っていたが、マスターの店は善光寺の西に流れる裾花川のほとりにそのまま残っていた。隣りにあった商店は駐車場に変わり、向かいの雑貨屋もなくなっていた。ぽつんと一軒、すっかりくたびれた居酒屋が立っている。

 店名は『若葉』という。小雨のなかを歩いてきて、その看板を見つけたときにはほんとに驚いた。外から見たかぎり改築した様子もない。3坪半しかなく、カウンターと小上がりを合わせても10人で満席となる。

 今でもマスターの池田さんはいるのだろうか。ちょっと緊張して引き戸を開けると、まぎれもない池田さんの顔があった。客用のカウンター席に座り、テレビを観ながら早めの夕食を摂り終えたところだった。髪はすっかり白くなっている。しかし、今でも街で会えばすぐわかるだろう。

 「よく来てくれたねぇ。そうかい、もう30年も経ったかい。まあ、座ってよ」

 マスターの人懐っこい笑顔もそのままだった。

 ぼくのかみさんは長野市の出身だから、夫婦で年に2、3回は帰省する。しかし、実家は市内の南部にあり、北にある善光寺や県庁界隈を訪れる機会はあまりない。

 今回は、かみさんの姪の結婚式でやって来た。ぼくは式に出席しなかったから、善光寺門前の会場ホテルで姪の家族にお祝いを言ったあと、ひとりで散策することにした。善光寺に参り、東側に隣接する桜が満開の城山公園をぐるっと回った。その足で、裁判所や県庁などを見ながら、懐かしのアパートがあった辺りまで足を伸ばした。

 ぼくは東京に本社を持つ新聞社に入り、初任地として長野市にきた。支局や取材先の県警本部、県庁、地検などに歩いてでも行ける小柴見というところにアパートを借りた。1978年のことだ。『若葉』はその通勤路にあった。住宅街で、地元の人の日常をまかなう商店がぽつぽつとあり、住むのにはいい環境だった。

 今では様変わりし、商店らしきものはほとんど残っていなかった。『若葉』を見つけたときには、いったん素通りした。取り壊す寸前のようなぼろぼろの店構えで、入っていくのがためらわれた。もう営業はしていないだろうなと思ったが、期待はいいほうに裏切られた。

 焼酎のお湯割りを注文した。「今でも、焼きとんをやっているの?」「ああ、豚ロースがお勧めだね」「じゃ、それを」。カウンターのロースターで焼きながら昔話をした。

 「タカハシさんって、たしか権堂のほうで大きな書店を経営していたよね。こんな離れた店まで、わざわざタクシーで来てたもんね。権堂で飲むよりこっちのほうがよっぽど落ち着くって言って」

 権堂というのは、JR長野駅と善光寺の中間あたりにある長野県一の飲み屋街だ。

 「イケさんて覚えてるかい? あの人、10年くらい前にがんで3か月ほど入院してぽっくり逝っちゃったよ」

 常連はほんとに仲が良かった。そろそろ閉店のころになると、マスターにがんがん酒をおごる。マスターが酔いつぶれ小上がりで寝てしまうと、みんなで後片付けをして、それぞれの勘定をノートに書いてから帰る。ぼくも皿洗いなどをしたことがある。

 ドラマ化もされたビッグコミックオリジナル(小学館)の『深夜食堂』を思わせる店だった。みんな、マスターのことを冗談で「ダスター」と呼んでいた。「ダスター、酒がこぼれたからマスター取ってよ」などと言うのだった。

 ぼくが長野市に住んで3年目の夏、郷里の島根県から両親が旅行に来た。父は長野市の出版社から本を出したことがあり、その会社を訪れた。かつての担当編集者は課長になっており「ぜひ、歓迎宴を一席もうけます」と言った。ぼくは「水入らずで飲みますから」と断って『若葉』へ両親を連れてきた。常連さんたちは大歓迎し、マスターは目一杯のサービスをしてくれた。

 池田さんとはふたりで、未明の権堂を飲み歩いたこともある。仕事の愚痴を聞いて励ましてくれた。マスターのアパートにも寄った。料理人は美的感覚も鍛えておかなくちゃいけないんだ、と華道や書道をつづけていた。

 そんな池田さんも、もう67歳になったという。「キサちゃん。じつはおれも4年前に大腸がんやっちゃってさあ。痔の治療に病院へ行ったら、ポリープが見つかってこのまま入院だって言われて。あわててタクシー飛ばして、店に『当分、休業します』って張り紙してね。でも、こうして生還したよ」

 池田さんのことを忘れたことはなかった。ぼくが転勤になっていよいよ長野市を離れるとき、常連を集めて歓送会を開き、大きな金目鯛の姿造りをご馳走してくれた。ひとりで飲んで食べて2000円かそこらの安酒場の稼ぎで、こんな料理を奮発してくれるなんて。

 「おれの田舎では、タチブルメって言うんだ」

 旅立ちの振る舞いのことらしかった。

 『若葉』は、いまも常連さんでもっているという。ダスターの人柄が最高のつまみだ。

 --毎週木曜日に更新--

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あの日あのとき、何をしていたか

 2011年3月11日午後2時46分は、多くの人にとって、そのときどこで何をしていたか、一生忘れられない記憶となった。

 大震災からひと月あまりも過ぎ、落語家・春風亭昇太師匠の独演会へ行くと、ご本人がまずジーンズ姿で「前説」に登場し、そのときのことを語った。496席の9割以上が埋まっており、自粛ムードの時節にしてはお客さんがよく入っている。

 昇太師匠は、あの日、長野県下諏訪町の蕎麦屋の2階で開かれるミニ落語会に行くため、主催者から新宿発午後2時の列車のチケットをもらっていた。しかし、ちょっと早めに11時の電車に乗って下諏訪に向かった。

 「目的は、えへへ、趣味の城を見に行くためですよぉ」。観客らがどっと笑う。お城マニアぶりは、『笑点』ですっかりおなじみだ。「落語会の主催者は、ぼくを“釣る”のに城の話を持ち出せば何とかきてくれるという魂胆で」。地元の人が駅で迎えてくれて、その城址に向かった。

 「案内してくれるなら、季節というものを考えればいいのに、まだ雪がどっさりあって、城めぐりという雰囲気じゃなかったんです」

 早々に落語会場へ着くと、なんだかざわざわしている。安否を尋ねる携帯メールもたくさん入ってくる。東北で大きな地震があったという。昇太師匠はその時刻、城跡へ向かう車のなかで、しかも諏訪地方は震度2だったからまったく気づかなかった。

 「午後2時の電車に乗っていたら、山梨県の大月あたりで立ち往生していたところでした。あの偉大な噺家・三遊亭小遊三師匠を生んだ町でね」。客席は爆笑する。

 下諏訪町は地震に関係ないから、集まった30人ほどの人を大いに笑わせた。首都圏の電車は不通とかで、講演後、地元でホテルをとってもらった。じゃあ打ち上げでもしますか、ということになり、落語会関係者と居酒屋へ繰り出した。

 その後、久しぶりに会った東海大学の後輩と2次会へ行った。「海」を省略すれば東大だからたいしたもんだ。後輩が連れて行った店は不思議な構造だった。

 店を入るとすぐにカウンターがあり、バーかと思えば、その左手奥には畳敷きの座敷があり居酒屋だ。さらに首を左へ回すと、ソファーが並びなんとクラブの作りになっている。その3種の店が仕切りもなくワンフロアに集まっており、なんとなく落ち着かない。師匠はちょっといやな予感がしたが、まあ飲めればいいやと、畳の席に座った。

 日本酒を飲んでいると、胸を“寄せて上げて”むりやり谷間を作りミニのワンピースを着たクラブのママさん風が乗り込んできた。「地震騒ぎでお客さんもさっぱり来ないから、ご一緒させてもらっていいかしら」。フロアつづきだから、居酒屋もクラブも関係ない。

 そのうち、ママさん風は「お店の若い子たちも呼んでいいかしら」ときた。春風亭昇太、今さら断るのもなんなので、ああいいよ、と言うと、自称「若い子」がどやどやとやって来て、昇太師匠の両側に座った。

 左から注がれ、右から注がれしているうちに、なんかまずいことになったなぁ、と内心ぼやいた。むりやり場を盛り上げて、ではお勘定となったとき、請求書を見てびっくりした。これはていのいいぼったくりバーではないか。

 その日、東北では大津波にいっさいがっさいさらわれた人が無数にいた。昇太師匠は“寄せて上げて”の夜の蝶に、財布の中身をむしりとられたのだった。まあ、そのくらいですんだから幸運というべきか。

 「このごろでは、地震のときになにしてた? が挨拶代わりになってますよね」。昇太師匠は『笑点』司会の桂歌丸師匠のケースを披露した。ちょうど、横浜の歯科クリニックで治療をしてもらっていた。歯を削っているところでぐらっと来た。あわや流血だ。

 横浜は震度5強のなかでも特に強い揺れだった。歌丸師匠はほうほうのていで外へ逃げ出した。道路もぐらぐらしているので、立っておられず四つんばいになって地震がおさまるのを待った。周囲にいた人たちは、不謹慎にも師匠の姿を見てげらげら笑っている。

 ふと我の姿を見ると、年寄りがよだれかけをつけたまま四つんばいになっていた!

 昇太師匠は、人情噺より滑稽噺を得意とする。「前説」だけで、客席を津波ならぬ爆笑の大波に巻き込んだ。このところ沈んでいた気持ちが、独演会で上向きになれた。

 さて、ぼくはあのとき何をしていたか。オフィス兼自宅にいてトイレへ立とうとして、あ、めまいでもしたのかな、と思ったら大きな横揺れがきた。

 リビングでかみさんが「神さまぁ、神さまぁ」と泣きそうな声を出して、高級食器棚を押さえている。いつも沈着冷静、泰然自若のかみさんが、取り乱した姿をはじめて見た。

 揺れはしだいに強くなり、こりゃ首都圏直下型か、と思った。揺れはほんとに長くつづいた。食器棚のワイングラスや皿が音を立てて割れる。ドイツで大枚はたいて買って帰ったお気に入りだったのに。本棚が倒れ床に本が投げ出された。家は激しくきしみ、ガラスの家族写真立ても砕け散った。

 テレビをつけると、東北の想像を絶する光景が映し出されていた。巨大地震が3つもつづけざまに起こり、6分以上も揺れた、とあとで知った。

 百円ショップで買ったコップ類は、1脚も壊れず生き残った! 人生、そんなもんだ。

 --毎週木曜日に更新--

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消費者は、闘わなければ

 娘は、首都圏のX市でアパート暮らしをしている。職場とたまに帰る実家のパソコンを使っていたが、自分のがないと不便だということで、前から買いたがっていた。

 とはいっても、仕事の都合でいつ引っ越すかもわからず、光回線やADSLなど有線のものは契約しづらい。

 ある日、X市のショッピング・モールへ行くと、一見、うってつけのキャンペーンをしていた。<ソフトバンク ポケットWiFi>という公衆無線LANサービスの一種を契約すれば、モバイルパソコンがただでついてくるという。

 パソコンにてのひらよりも小さい装置をつなぐと、無線でインターネットが使え、ネットを接続するプロバイダーとの契約も不要という。セキュリティソフト代を入れても、最大で月額5000数百円だ。有線方式の6割くらいでネットが使い放題という計算になる。

 販売員に自分の住所を伝えると、「ああ、その場所なら十分使えます。山の中などではむりですが」と言われ、クレジットカード払いで契約した。

 娘は、アパートに持ち帰り、わくわくしながら説明書とおりにセッテングした。しかし、携帯電話とおなじように無線のアンテナが立つはずなのに、1本も立たない。泣きそうな声で実家に電話してきた。

 話を聞いて、ただより高いものはないっていうからなぁ、と思った。セッテングがまちがっているのか、機械的なエラーがあるのか、それとも無線が弱いかだ。

 職場に持ち込んで試させると、オフィスでも1本も立たないが、建物の入り口付近なら1本か2本立ち、かろうじてインターネットにつながったという。でも、そんな場所で私用のパソコンを使うわけにもいかない。

 今度の休みの日に実家へ持ってきて試してみて、それでもだめだったら、解約するようアドバイスした。

 わが家で電源を入れると、アンテナは2本立ち、速度はやや遅いがネットを使えないことはない。娘はしばらく、お試しで何件か検索をした。だが、アパートで使えなければ意味がない。実用に耐えないから解約しよう、ということになった。

 契約書をよくチェックすると、ソフトバンクそのものではなく、販売代理店J社の名前が載っている。娘では軽くあしらわれる恐れがあるから、ぼくが交渉することにした。

 代理店に電話すると、若い女性が出た。「よほどの僻地でもないかぎりつながるはずです」「でも、げんにアンテナが立たないんだから、欠陥システムじゃないですか」「それでは、アパートの住所を教えてください」

 その住所なら、ソフトバンクWiFiのサービスエリアに入っているという。「エリア内でも、実際には空白域があるんじゃないですか」「ソフトバンクの携帯がつながるところなら、大丈夫なんですけど」「うちはソフトバンクは使ってないから、わかりません」

 都心から10キロほどのわが家でも、アンテナ2本がせいぜいということは、かなり電波が弱いことをうかがわせる。かつて、日本で携帯電話が普及し始めたころ、銀座のど真ん中でも電波の強いところを探して通話しなければならないような時期があった。<ソフトバンク ポケットWiFi>は、いままさにそういう段階にあるのじゃないか。ただでモバイルパソコンをつけるというのも、実験台にするつもりからじゃないのか。

 らちが明かないので、ちょっと強い口調でと要求した。「ソフトバンクに直接、娘の住所を伝えてほんとにサービスエリアに入っているかどうか確認してください」

 しばらくして、折り返し電話がありトーンが変化してきた。「ビルの陰などでつながりにくい可能性はあるようです」
 「そんな使えない商品、キャンセルが相次いでいるんじゃないですか」「ええ、まあ」

 ぼくは別の分野の営業マンに聞いたことがあるが、ノルマがきびしく、商品がほんとにその人に有用か、実際に使えるかなんてことは気にしないで、とにかく売りつけるのが第一だという。

 X市でキャンペーンをしていたJ社販売員もそうしたたぐいだろう。代理店の女性はこんなことを言う。「お使いになった電話料を払っていただければ、返品に応じます」

 ぼくは少し頭にきて、「実際に娘が使った電話料なんてたかがしれているけど、それもお試しでやった分だから、こっちが払うというのは筋がちがうんじゃないですか」

 がんがん言ってやると、相手は「もう一度、ソフトバンクに相談してみます」ときた。こういう馬鹿げたことに費やす時間と労力がもったいない。

 結局、機種本体と付属品など一式を着払いで返送すれば、電話料金も請求しないという当たり前のことで落着した。面倒臭い話だが、これも娘にとっては人生勉強になった。

 後日、日本最大の家電売り場面積を誇る某量販店へ、娘と行った。「ああ、ソフトバンクはまだ無線網が弱くてだめです。実用的なのはやっぱりドコモですね」。半年前の型落ちパソコンを格安で買い、ドコモの無線LANを契約した。そのほうが、“ただのモバイル付き”より実は安い。

 娘のアパートでも、ネットはサクサクと動き、モニターでテレビも観られて快調という。消費者は闘わなければならない。

 --毎週木曜日に更新--

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神田川のほとりで

 京都へ日帰り出張したおり、賀茂川のほとりを歩いてみた。東日本大震災が起きるより前のことだ。北大路橋を渡り出身大学のキャンパスへ向かった。近道の南門があるが、あえて正門から入った。実に、35年ぶりだった。

 キャンパスにはいろいろな建物が増えていて、記憶よりせまい気がした。各クラブの部室が立ち並ぶ通称BOX街にも行ってみた。クラブ名はところどころ変わっているが、場所も建物も昔のままだった。

 わが「生物愛好会」というサークル名みたいな正式クラブのボックスも、かつての位置にちゃんとあった。学園祭の準備で大騒ぎをしたり、合宿や新入生歓迎コンパの打ち合わせをしたりした日々がよみがえる。

 再び賀茂川を渡って、ぼくの下宿屋があったところを訪ねることにした。途中、「李白」という中華料理店がいまもあった。あのころ隣にも中華の店があったが、いまはない。

 たしかこの辺に銭湯があったはず、と歩いていると、車数台をとめるガレージになっている。でも、柱には「若葉湯」の看板がかかっていた。持ち主が、銭湯を閉めた後にも、記念として残したのだろう。通いつけた銭湯の名もすっかり忘れていたが。

 大学2回生の夏のとても暑い日、ぼくは銭湯が開くのを待ちかねるように入っていった。ゆっくりと汗を流し、大型扇風機で涼んでから出てゆくと、玄関先で彼女が待っていた。驚いているぼくに彼女は言った。

 「こんな日は、きっと銭湯に飛び込んでいるんだろうと思って待っていたの」
 「でも、ぼくが入ってるってよくわかったね」
 「貴方の下駄がそこにあったから」

 そのころの男子学生の流行ファッションは、Tシャツとベルボトムのジーンズに下駄履きだった。ぼくは下駄に印をつけていた。

 彼女は、相当長い時間、炎天下で待ち続けていたようだった。すでに日も傾き始めており、ふたりで賀茂川の岸辺を歩いた。同じようなカップルがいくつかいた。賀茂川はいつもそうだった。

 彼女は大阪から京都のある女子大に通っていたから、中距離恋愛だった。ぼくの下宿屋は男子学生専用だったし、彼女と同棲することもなかったが、そのころ学生のあいだで「同棲」と言えば、ちょっと秘めたような甘酸っぱいイメージがあった。

 ぼくが大学に入った1972年から、『週刊漫画アクション』(双葉社)に上村一夫さんの『同棲時代』が連載された。主人公は学生ではなくOLと無名のイラストレーターだったが、この漫画は学生たちのあいだで評判を呼んでいた。

 学生運動が挫折し、若者たちが日常の小さな幸せを求める時代になりつつあった。ぼくの母校でも政治的なアピールをするタテカン(立て看板)があり、ブント系など過激派の残党が拡声器で檄を飛ばしたりはしていた。しかし、それはもう名残りでしかなく、学生たちは内向きの暮らしに入っていた。

 翌1973年、フォークグループ『南こうせつとかぐや姫』が『神田川』をリリースし、爆発的なヒットとなった。結局、160万枚を売り上げた。

 あえてテレビを持たず、よくラジオを聴いていたぼくは、深夜放送でこの歌を知り衝撃を受けた。同棲経験はなくとも、そのころの日本の若者なら誰でも、ああそうだね、と思う歌詞とメロディだった。

 ♪貴方はもう忘れたかしら 赤い手拭いマフラーにして
  二人でいった横丁の風呂屋 一緒に出ようねって言ったのに
  いつも私が待たされた・・・

 京都を訪れたあと、以前に録画しておいたNHK-BS2の『ザ☆スター 南こうせつ』を見た。そこでは、『神田川』を作詞した喜多条忠さんが出演し、誕生秘話を語った。ぼくの彼女の友だちの家庭教師をしていたという人だ。こうせつさんと電話でこんなやりとりがあったという。

 「アルバムを作るので作詞して下さい」「締め切りはいつ?」「あの、今日です」

 喜多条さんはあわてて書いて、電話でこうせつさんに伝えた。こうせつさんはそれを書き取り、途中からメロディをつけ出した。

 電話を切って2、3分後、こうせつさんから電話がかかってきた。歌詞の1番と2番の行数をまちがえたかな、と思ったら、もう曲ができたという。こうせつさんは受話器を前に、その場でギターを鳴らしながら歌ってみせた。

 喜多条さんは「愛という言葉を使わずに激しい愛の歌を書いてみたかった」と言う。こうせつさんは「詞の言霊を自分のアンテナで読み取るんです」と言う。

 ♪窓の下には神田川 三畳一間の小さな下宿
  貴方は私の指先見詰め 「悲しいかい」って聞いたのよ・・・

 ぼくの下宿は6畳一間で6000円だった。その場所を訪ねると、瀟洒な一戸建てになっていた。道路向かいのネギ畑だった土地にも家が連なっていた。

 学生時代、ぼくは心のなかを流れる神田川のほとりで生きていたのだった。

 --毎週木曜日に更新--

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