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続・葬式仏教をぶっとばせ!

 その告別式には、祭壇や遺影、読経もなく、参列者が献花をするだけのセレモニーだったという。2011年4月25日に東京都内の自宅で首をつり亡くなった俳優・田中実さん(享年44)を送る儀式は、密葬という言葉さえ当てはまらないものだった。

 それが、故人の遺志か遺族の意向かはわからない。ただ、棺に眠る田中さんを囲むように、粛々と式は進んだそうだ。

 近年、マスメディアで死をめぐる特集がよく組まれている。社会の停滞期にあって、自分や家族の死のあり方を考える人が増えているのかもしれない。『おくりびと』がアカデミー賞最優秀外国語映画賞をとった2009年ごろから、その傾向は目立ってきた。

 そして、東日本大震災によって、一段と身につまされる人が多くなったのだろう。

 このブログを始めてもうすぐ2周年を迎える。ブログはアクセス解析すれば、どの記事にアクセスが多いかなど数字とグラフで一目瞭然だ。

 人々の反響は、書き手の予想を往々にして裏切る。2009年8月6日に掲載した「葬式仏教をぶっとばせ!」はそのひとつで、ぼくの記事のなかでいまもトップクラスのアクセス数を誇っている。死者を送る儀式のありかたに疑問を抱いている人が、それだけ多いのだろう。

 かみさんの父親は、2008年10月に長野市の自宅で他界した。その3か月後には義祖母が満98歳で大往生した。当然、通夜・葬儀、新盆、1周忌と仏事がつづく。檀那寺の住職は、義父の葬儀の布施に120万円も要求した。義祖母の死のときは、50万円に負けてくれた。足元をみて適当にお布施の額を決めているとしか思えない。

 そうしたいきさつを書いたブログ記事では、インドの仏教聖地サルナートで釈迦の教えだけにしたがって修行し布教する、ある日本人僧侶のことを紹介した。もうふた昔も前になるが、ぼく自身が現地を訪れ、ふたりっきりでロングインタヴューした体験に基づく。

 その僧侶によると、釈迦は「死後のことなどわからない」と、葬儀などについては何も言い残してはいないという。それなのに、釈迦を崇拝する弟子たちや後世の一般信者は、釈迦の遺骨をありがたがる。現在、各地で釈迦の骨、つまり仏舎利としてあがめられている骨を集めれば、2トントラックで運ばなければならないほどという。鰯の頭と大差ない。

 仏教は、真に釈迦の教えを守る宗教であるべきなのに、現在の仏教はまったく堕落している。サルナートの日本人僧侶は、とくに日本の葬式仏教に嫌気がさして、仏教の原点にもどるべく、かの聖地へ渡ったのだった。死者に戒名などというものをつけ、しかも、それに法外な料金を課す仏教国は日本だけとも聞いた。

 義父などの葬儀や法事には、当然、親戚が集まる。ほとんどみな首都圏に住んでいるので、長野市へ往復するだけでも大変だ。義母も2010年に亡くなり、かみさんの実家は3年連続で葬式を出すはめになった。義母の49日のお斎の席上、住職は言った。「ご親戚のみなさんも、供養疲れされているでしょうから、新盆は簡略化してはどうでしょう」。親戚一同に異論はなく、跡取りの義弟夫婦が代表してお墓とお寺に参ることになった。

 この住職発言には伏線がある。その前の回のお斎をお寺で開いたとき、ぼくと義兄は住職の奥さんにわざと聞こえるように話をした。「このお寺の布施の相場は非常識だよね」。たぶん、そのひと言が効いたのだろう。

 それにしても、“供養疲れ”という言葉を初めて聞いた。法外な布施の足しに少しでもなれば、と香典や法事のご仏前を、毎回、多めに包んできた。こっちは供養疲れというより、丸儲けの坊主のために“出費疲れ”しているのだ。

 2010年春に義母の1周忌が行われた。宗派は禅宗の曹洞宗で、法事には必ず『般若心経』を読む。僧侶がお経の本を参列者に配り、みんなで声を合わせて唱える。

 ぼくの実家も禅宗の臨済宗だから、般若心経には子どものころから慣れ親しんでいる。しかし、義母の法事が終わってから、自宅へ帰り、ネットで般若心経の現代語訳を読んで考えさせられてしまった。

 般若心経は、三蔵法師玄奘が古代インドのサンスクリット語から中国語に訳したものという。それをほとんどの日本人は、意味も知らずありがたがって唱えているわけだ。

 古くから困ったとき日本人のお守りとして使われてきた。アニメのちびまる子ちゃんも困ったとき般若心経を唱えていた、などという解説のあと、故花山勝友氏の訳がつづく。

 <観音菩薩が、深遠な知恵を完成するための実践をされている時、人間の心身を構成している五つの要素がいずれも本質的なものではないと見極めて、すべての苦しみを取り除かれたのである。そして舎利子に向かい、次のように述べた。(中略)形あるものはそのままで実体なきものであり=色即是空=、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ=空即是色=>。

 これは、哲学であり宇宙論でもあるのではないか。葬儀に際して唱えるのにふさわしいものだろうか。人も死して空に帰るだけ、と遺族をなぐさめるためのものだろうか。少なくとも、因業僧侶の法外なお布施と相容れない。

 葬式仏教なんてぶっとばしたほうがいい。田中実さんの葬儀ほど徹底したものではなくとも。

 --毎週木曜日に更新--

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