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2011年7月

中国人って意外に…なでしこJAPANの快挙から

 中国人の対日感情といえば、1980年代後半から「反日」というのが相場だった。ところが、近年では、若い世代を中心に<クールジャパン>に憧れる人たちも結構いると聞く。テレビゲーム、漫画、アニメなどのポップカルチャーだけでなく、自動車、オートバイ、電気機器などの日本製品、さらには料理、武道など日本のあらゆるものが関心、憧憬の対象となっているという。

 日本ではいま、なでしこJAPANのW杯優勝、国民栄誉賞で話題が沸騰しているが、じつは、なでしこの快挙にもっとも関心を寄せ、うらやましがり、自国の現状を憂えているのが中国人なのだそうだ。

 中国メディア・環球時報(電子版)のアンケートには1万人近いネットユーザーが参加し、その61%が「なでしこJAPANの優勝をうれしく思う」と回答したという。あの反日感情はどこへやら、中国の若者はけっこう素直なのだ。

 ある中国人ネットユーザーは、こんなコメントを寄せた。「中国人にできないことを日本人はやる。しかも現在の女子サッカーレベルの高さの中で!」

 新浪網も、決勝終了直後、アンケートを実施した。なでしこの優勝は「実力によるもの」とする人が88%にのぼり、「運が良かった」「ひとつの大会だけでは何とも言えない」とする声を大きく引き離した。かつては強豪だった中国女子サッカーとの差に関しては「差は歴然」と答えた人が95%と圧倒的だった。

 中国女子チームは、1999年のW杯で決勝戦まで進み、アメリカにPK戦で惜敗した。これが女子サッカーでのアジア最高の成績だった。2003年、08年はベスト8まで進んだが、今回は予選で敗退した。

 国営の新華社通信まで、なでしこ優勝について詳しく伝え、称賛した。「疲れを知らぬ走りと2度追いついた強靱な精神は、女子サッカーの斬新なイメージを打ち立てアジアの地位を高めた」

 なでしこが準決勝でスウェーデンを破った模様を中継した中国中央テレビ(CCTV)で、解説していた元中国男子サッカー代表の徐陽氏はこう語ったという。「日本のスタイルは先進的で世界をリードしている」「私は本当に日本がうらやましい。中国は日本サッカーの発展から学ぶべきだ。正しい発展の道、方向を見つけなければ」

 徐陽氏が日本をうらやしがるのはもっともだろう。日本の女子サッカー人口は3~4万人とされる。アメリカの300万人、オーストラリアの12万人に比べればとても少ないが、中国はたった400人余りの選手がいるだけという。

 人口13億の国で、この数字は異常だ。共産党独裁国家であり、スポーツは国民の健康増進手段、生きがいなどではなく、国威発揚のためだけにあるといっても過言ではない。こんなことで、仮に世界で勝っても、国民は心から喜べるだろうか。

 新民網はなでしこが決勝に進んだ時点で、「なでしこはどうやって鍛造されたか」という分析記事を載せた。

 選手層の薄さをカバーする「真面目な組織づくり」を第一にあげ、日本サッカー協会は1980年に女子サッカーの大会を初めて以降、「厳しいリーグ戦制度や堅実な人材育成体系を築いてきた」と評価した。

 次に、「技術の差を一貫方針で克服したこと」を指摘し、佐々木則夫監督の「女子サッカー発展はシステマティックなもの。私の功績ではなく、これまでの路線を踏襲して来た結果」というコメントを紹介した。3つ目として海外移籍の奨励方針をあげた。

 中国では言論、報道がきびしく制限されており、国家方針への直接的な批判記事はみあたらない。しかし、日本のサッカーの現状をくわしく伝えることで、暗に自国批判していることがうかがえる。

 中国の女子サッカー人口も、もともとはかなりあったが、減っていった。最大の原因は、中国サッカー協会の体質にあるようだ。「小利をむさぼり、長期的な展望も欠落」する風潮が広がり、八百長などの不正に手を染める幹部も続出して、自ら首を絞めたという。観客は減り、収入不足から待遇も悪化し、選手や監督、コーチが安心して臨める状態ではなくなった。成績悪化がさらにファンを減らす悪循環となった。ここにも、“中国病”が表れている。

 なでしこは、今大会、参加国で唯一、全試合でボール保持率が50%を超えた。平均支配率は56.5%だった。メディア・網易はこのデータが「2006-07シーズンのFCバルセロナを上回っている」とし、「女子サッカー界のバルサというのはちっとも言い過ぎではない」と評価した。そして、日本の武器は体格やパワー不足を補う「ボールコントロールとパス」にほかならず、積極的に動いて相手にプレッシャーをかけつつ前線で一撃を放って相手を倒すというスタイルは「まさにバルサの成功哲学だ」と論じた。

 日本では、「なでしこを世界最高の華麗なパスサッカーを展開する男子のバルサに比較するのは、過剰評価」とする声も少なくない。だが、反日だったはずのお隣中国では、素直に比較して絶賛しているのだ。

 さて、なでしこは、2011年9月の五輪予選で中国人をさらにうならせられるか――。
       (本稿は、サーチナ、Record Chinaなどの記事を参考にしました)

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ピッチは光り、なでしこは輝く

 スペースが光って見えたので、そこへ思い切り走りこみました――。美形スーパーサブのFW丸山桂里奈さん(28)は、そう語った。それを比喩と受け止める人も多いだろう。しかし、そうなのだろうか。

 2011年7月9日、サッカー女子W杯準々決勝の対ドイツ戦で、丸山さんは途中から出場した。0:0の延長後半3分、バックからのロングパスをちびっこFW岩渕真奈ちゃん(18)が、ポンと主将のMF澤穂希(32)さんに渡した。澤さんもワンタッチで、右サイドの相手ディフェンス裏にあったスペースへ浮かし球を送った。

 丸山さんは、すでにその光りのなかへ突進していた。トラップし、角度のないところから右足を一閃させた。ボールは、タックルしてきた相手DFとGKをかすめ、ゴールのサイドネットに突き刺さった。

 世界ランク4位のなでしこJAPANにとって、グループリーグ突破はまあ予定通りだった。しかし、突破を決めたあとの3戦目でイングランドに0:2と完敗し、決勝トーナメントのドイツ戦でどこまで建て直せるかが注目された。

 ドイツは優勝候補筆頭であり、日本はまだ一度も勝ったことがなかった。丸山さんのゴールは決勝点となったが、それだけではない。大会をふりかえれば、なでしこが優勝するための最大の突破口だった。あれは、絶対に必要不可欠の1点だった。

 ピッチの特定の場所が光るなんてことがあるだろうか。

 ぼくは、新聞記者4年目だった1981年の体験を思い出す。長野県箕輪町で町長以下役場ぐるみの不正が行われているという情報をつかみ、取材をはじめた。役場の外で十分な周辺情報を集めたあと、町役場で最高幹部に取材しているときだった。町の事業一覧書を出してもらい、それを端から見ていった。そこには事業名と場所、予算額、概要などしか書かれていない。相手の幹部は、そんなものを見ても不正がわかるはずはない、とたかをくくっていたのだろう。

 ぼくは、この事業一覧のどこかに不正があるはずだと確信していた。上から見ていくと、ある事業のところがぽっと光った。ぼくは迷うことなく言った。

 「この事業の詳しい資料を出してください」

 幹部は、その瞬間、青ざめた。国からの補助金の不正受給をしていた典型的なケースが、まさにその事業だったのだ。幹部はぼくのひと言で“落ちた”。それをきっかけに、不正がいもずる式に出てきた。

 ぼくはその町での調査報道に丸2年をかけ、ある日の朝刊1面トップでスクープした。不正は数十件におよんでおり、溜めにためたネタを次々に特報していった。会計検査院が入り、長野県警も動いて幹部は逮捕され、町の悪名は全国に知られた。

 事業一覧書の一画は、たしかに光ったのだ。

 スポーツで、超一流の選手はある体験を「ゾーンに入る」と呼ぶ。厳しい練習に耐え本番にのぞんでぎりぎりの勝負をしているとき、神がかりのような感覚に入ることがあるのだ。ぼくの体験も、スポーツではないがまさにそれだったのだろう。取材でそんな体験をしたことは、後にも先にもそれ1回きりだが。

 だから、「スペースが光って見えた」という丸山さんの言葉は、実感としてわかる。その瞬間、サッカーの神さまが降臨し優勝が約束されたのかもしれない。なでしこJAPANは、準決勝でスウェーデンを3:1で撃破し、決勝戦では、女子サッカー界に君臨するアメリカをPK戦の末破った。

 なでしこJAPANという素敵な名は、2004年、公募されたなかから当時の川渕三郎・日本サッカー協会会長が選んだ。「期待せずに名づけた」と、今になって川渕さんは本音を明かしている。

 でも、かみさんとぼくは、そのころからずっと、なでしこの熱心なファンだった。「横パスばっかりでゴールに向かわない岡田JAPANなんかより、ずっと面白い」とかみさんは言いつづけていた。

 しかし、マスメディアは冷たかった。重要な大会でもあまり中継されない。今回のW杯も、当初は、かろうじてNHKのBS1とフジのCSが扱っただけだった。メキシコ戦で、澤さんがハットトリックをしたときも、テレビ朝日系『やべっちFC』なんか、映像も使わずスチール写真1枚を見せ、「澤選手すごいですね」のひと言で片付けた!。「日本サッカー応援宣言」をしているこの番組でさえ、つい数日前までそうなのだった。

 テレビ局は、BSやCSなどいたずらにチャンネルをふやし「いい番組ソフトが少ない」と嘆いている。でも、たとえばすごい努力で実績をあげているなでしこJAPANをもっとフィーチャーすればいいではないか。肉弾戦のサッカーで、身長10センチ、体重10キロも上回る敵を相手に、世界ランク4位ってほんとにすごいことなのに。

 それが、ドイツ戦に勝ったあたりからとたんに大騒ぎし、なでしこチームが凱旋帰国すると各チャンネルが争奪戦をくり広げている。

 なでしこの勢いが一過性に終わってほしくない。輝きつづけろ。かみさんとぼくは、心からそう願っている。

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オージービーフを龍馬が食えば

 七夕の日に、仙台では素麺を食べる習慣があるという。一説によると、麺を糸に見立て、織姫のように機織(はたおり)や裁縫がうまくなりますように、と祈るのだそうだ。2011年7月7日のわが家の夕食では、牛肉のたたきを食べた。織姫の彼氏・牽牛にはちょっと悪い気もしたが。

 100グラム79円のオージービーフモモ肉を、かみさんが近所のスーパーで買ってきたのだ。輸入牛肉は年々安くなっている。わが家で買ったこれまでの最低価格は88円だったが、それを9円も下回った。

 モモ肉は表面をあぶり焼きにしてたたきにするのが手軽でうまい。わが家では、オニオンスライスを添え、ポン酢かわさびしょう油で食べる。息子によると、ごま油と岩塩という手もある。サシが入った和牛のたたきもたまにはいいが、オージーのモモ肉は脂身がほとんどなく、ヘルシーなのが中高年にはうれしい。

 肉といえば国産ものしかなかった子どものころ、なかでも牛肉は高級品で、誕生日にすき焼きが出るのがとても楽しみだった。アルゼンチンでは「牛肉を食べなくてもいいような豊かな生活」に人びとは憧れている、という話を小学生のときに知り、びっくりしたことがある。

 わが国で、外国産の牛肉はずっと、割り当て制によって細々と輸入されていた。オーストラリアへ出張や旅行でいった人が、お土産にステーキ用のブロック肉を買ってくる光景がテレビで報じられたりしていた。

 それが、いま日本では、国産鶏肉よりもむしろ安くて結構うまい牛肉がふつうに売られている。

 ぼくが初めてオージービーフを口にしたのは、1990年だったと記憶している。新聞社の外報部(現・国際部)で記者をしていたころで、東京のオーストラリア大使館から牛肉試食パーティの招待状がとどき、同僚と出かけた。

 日米間では、長いあいだ「牛肉・オレンジ自由化交渉」というのが行われてきて、やっと1988年に決着した。それを受け、オーストラリア産の牛肉も91年から日本への輸入が解禁されることになった。

 オーストラリア政府では、日本人の舌にあう牛肉とはどんなものなのか、自由化を目前に情報収集したかったのだろう。

 試食会場とされた大使館のホールのテーブルには、ステーキ、ローストビーフ、ストロガノフ、シチュー、スープ、すき焼き、肉じゃが、しゃぶしゃぶなどの皿がずらっと並んでいた。

 オーストラリア人の担当者が、牧草で育てた<グラスフェッド>と穀物を餌にした<グレインフェッド>の2種類の牛肉があることを説明した。

 ぼくたちは、端から料理を試していった。グラスフェッドは赤身で一見うまそうだが、硬くて日本食にはあまりあわない。ミンチにしたりスープで煮込んだりするのに適しているようだ。グレインフェッドのほうは、牛肉としての旨みもあり、どちらかといえば柔らかくて、日本人ならこちらを選ぶだろう。

 試食した日本人のほとんどは同じ感想だったと思う。ぼくたちはアンケート用紙に記入して会場をあとにした。「問題は、値段だね。自由化されて牛肉がどれだけ安くなるか」

 1991年以降、牛肉の関税は段階的に下げられ、いまは38.5%という。そのおかげで、ついに100グラム79円のオージービーフがわれわれの食卓に上るまでになったのだ。日本のスーパーで売られるのは、やはりすべてグレインフェッドだという。

 半面、1991年以前、日本全国には22万1000戸の肉牛農家があったが、いまでは3分の1まで減り、7万4000戸しかないそうだ。しかし、肉牛農家は生き残りのためにコスト削減や高品質化に取り組んでいる。

 朝日新聞2011年2月6日朝刊は、鹿児島県薩摩川内市で黒毛和牛4500頭を育てている農業生産法人のケースを紹介している。その社長(62)は、1989年、ベルリンの壁が崩れるのをニュースでみて「経済がグローバル化し、安い牛肉が入ってくる」と直感した。父親から買い取った肉牛を増やしてそれを担保に銀行から融資を受け、いまでは年商20数億円という日本有数のブランド牛畜産家になった。

 日本にはアメリカやオーストラリアのような大農場はないが、智恵と勤労の文化がある。
 農産物にかぎらず、日豪間のEPA(経済連携協定)や多国間のTPP(環太平洋経済連携協定)の交渉が進められている。牛肉の関税がゼロになることもありうる。国内は「開国か鎖国か」と、まるで幕末のように国論が二分されている。

 あの坂本龍馬でさえ、当初は海外との通商に反対し外国を撃退して鎖国を通そうとする攘夷論だった。だが、勝海舟などに影響されて開国派となり、自ら船団をしたてて世界を駆け回り貿易することを夢みるようになった。

 軍鶏(シャモ)が好きだった龍馬が、いまオージービーフを食べれば、どんな意見を口にするだろう。「安い牛肉は外国にまかせ、わしらはブランド牛で勝負するぜよ」と言うような気がする。

 --毎週木曜日に更新--

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メロンと銃弾 アフガニスタンの戦乱は悲しい

          -『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編-

 アフガニスタンからのニュースに、ぼくはショックを受けた。2011年6月28日深夜、首都カブールにあるインターコンチネンタルホテルに、少なくとも6人の武装グループが侵入し、銃撃戦のすえ、グループ全員とホテル従業員など計12人が死亡した。

 ついに、あのホテルにまで戦火が届いたのか。ふた昔前、ニューデリーに特派員として駐在していたころ、アフガニスタンに4回入った。定宿が丘の上にあるそのホテルだった。

 ぼくが滞在していたころ、カブール盆地を取り囲む山岳地帯にひそむ反政府ゲリラが、ロケット弾を時おり首都の市街地へ撃ち込む程度だった。

 それでも、治安がいいというわけではない。ホテルではツインルームをひとりで使うのだが、チェックインのとき、フロントマンは必ず、廊下側のベッドに寝るようアドバイスしてくれた。窓側は危険なのだ。「万一、銃撃戦になったら、バストイレルームに逃げ込んでください」

 あるとき、ホテルの屋上にロケット弾が着弾した。その直後にチェックインしたぼくが、現場へいってみると、ロケット弾は屋上のコンクリートをぶち抜き、上階の客室まで達していた。

 こんなことがあるから、ホテル側は、上階に宿泊客を泊めないのだった。それでも、当時まだ、インターコンチネンタルホテルは比較的安全な場所だった。

 国連関係者や世界中から集まった特派員たちが宿舎にする。誰ともなくレストランに集まり、食事をとりながら情報交換や雑談をした。ボーイが持って来る立派なメニューをながめ美味そうな料理を注文しても、「それはありません。それもいま品切れです」

 肉類は、ちょっと硬いマトンか、よくて子羊のラムがある程度で、野菜も種類は少なかった。1週間も滞在していると、うんざりしてくる。

 イギリス人のロイター通信ニューデリー支局長がいった。「こんな場所で、まず最初に食事で音をあげるのはフランス人だね。つぎにイタリア人や日本人、スペイン人といったところかな」

 世界をまたにかけ大英帝国を築いたイギリス人のエリートは、どんなまずい食事にも耐えるられるよう小さいころから鍛えられているらしい。おなじアングロサクソンのアメリカ人も、食べることには案外むとんちゃくだ。美食の国からアフガニスタンのような国へ来た者はもろい。

 しかし、夏場には、戦火のアフガニスタンにも信じられないほどうまいものがあった。マルコ・ポーロの『東方見聞録』にも書かれているとされるアフガンメロンだ。北部にある地方都市マザリシャリフなどから首都へやって来た長距離バスの屋上の荷台には、そのアフガンメロンが山と積まれている。

 巨大なラグビーボールのようで、1つ数キロから10キロもあり、両手にずっしりと重い。値段はおどろくほど安かった。もっとも、戦火で通貨アフガニは大暴落しており、ドルや円に換算すればただみたい、ということなのだが。

 ある日、それを市場で買って丘の上のホテルに帰り、隣室の特派員といっしょにバルコニーで食べた。夜の街を見下ろすと、ライフル銃やピストルを空に向けて撃つ光の線が美しい。どこかで銃撃戦が行われているかもしれないが、若者たちが気晴らしに引き金を引くことも多いという。

 マルコポーロが、そのメロンのことをわざわざ書き留めたのがよく分かる。いまふり返っても、半生で食べたフルーツのなかでもっともうまかったと思う。

 そのころは、侵攻していたソ連軍が去り、カブールに残ったナジブラ共産主義政権と、それを倒そうとする反政府ゲリラ組織との戦いが繰り広げられていた。アメリカや日本など西側は反政府勢力を支援していた。しかし、その後、ナジブラ政権は倒れ、イスラム教原理主義のタリバンが政権をとった。

 2001年に9・11同時多発テロが起きると、アメリカは、国際テロ組織アル・カーイダの犯行と断定し、彼らをかくまったとしてアフガニスタンのタリバン政権へ戦争をしかけ、崩壊させた。

 やがて、カルザイ氏が大統領となり政権をあずかった。いま、アメリカ軍を中心とする国際治安支援部隊(ISAF)は、アフガン政府に治安を任せ撤退を始めている。

 一方で、タリバンは、2006年ごろから勢力を盛り返してきた。今回、治安を混乱させるため、インターコンチネンタルホテルまで襲撃したのだ。死をまったく恐れない武装グループは、多くの宿泊客を人質にして立てこもる作戦だったらしい。

 本来なら、アフガン政府治安部隊が掃討するべきところだが、その能力に欠ける。結局、ISAFに武装ヘリ出動を要請してグループを片付けてもらった。

 アフガニスタンの景色がぼくは気に入っている。砂漠ではなく土漠が広がり、ところどころにオアシスがある。その褐色とわずかの緑の世界では、これまでもずっと、そしてたぶん、これからもずっと戦火が絶えないだろう。

 ガイドのMさんなどかつて親切にしてくれた人びとは、どうやって生きているのだろう。

 --毎週木曜日に更新--

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