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華麗なる花園に包まれ、姉は逝った

 祭壇を目にした瞬間、これはすごい、と思った。純白の大輪を咲かせ「ユリの女王」と呼ばれるカサブランカや青紫のリンドウなど華麗な花々がびっしりと、微笑む姉の遺影を取り囲んでいる。

 姉は、生命のもっとも美しい形である「花」が大好きだった。京都で小学校の教員をしていた40歳のとき、体調をくずし退職に追い込まれた。2年後、郷里の出雲へ帰り、難病で特定疾患のパーキンソン病と診断された。

 手が振るえ、スムーズに動けなくなり、言葉もしだいに不明瞭になっていった。脳内物質ドーパミンの不足などが原因とされている。意識はしっかりしているのに体が思うようにならない。

 それでも、姉は前向きに生きようとした。花の写真を撮るため、アナログの軽い一眼レフカメラを買ったのは、発症してからだった。体が不自由になり、もともと鋭かった感性が、いちだんと研ぎ澄まされた。

 季節季節のもっとも美しい花をさがし、シャッターを切った。その作品をはがきにして京都時代の同僚教師に送ったところ、月替わりの卓上カレンダーとして不特定多数の人たちに買ってもらうことを勧められた。

 作品は、年を追うごとに評判を呼び、NHKをはじめ数々のメディアに取り上げられた。最盛期には800部もさばけた。結局、病態が悪化して撮影もままならなくなるまでの10年間、毎年発行した。その陰には、母と妹の献身的な介護があった。

 2011年8月7日、島根大学付属病院に肺炎で緊急入院した。どうにか快復し退院予定だった9月12日、一転、呼吸困難で危篤となった。退院の世話をするため滋賀県から帰省していた妹は、そのままHCU(高度治療室)に泊り込んだ。

 ぼくは、翌13日に、東京から空路かみさんと飛んで帰った。「ちーちゃん、どっか痛い?」と聞くと、姉はかろうじて「大丈夫」と答えた。82歳の母も毎日のように病床を見舞ったが、とても徹夜する体力はない。妹とぼくは交代で付き添いをした。

 HCUには最新鋭の医療機器が整えられている。モニター画面の左下には赤い字で血圧が、画面右の上から緑で心拍、青で酸素、白で呼吸のデータが表示され、刻々と数値が変わっていく。数値が下がると、黄色のランプが点滅しアラームが鳴る。さらに数値が悪化すると、赤いランプになりアラームの音も激しくなる。泊り込んでいても、その音でほとんど仮眠できない。

 呼吸の数値が「0」になると、主治医や看護師が飛んできてアンビュバッグと呼ばれる手動の呼吸補助器で回復させる。それによって、かろうじて姉は生きつづけていた。14日午後、高齢者施設に入っている父を病室に連れて行った。その日午前には意識も薄く言葉が出なかった姉が、家族の前で奇跡的に目をあけた。「一杯(だけ)飲んでね」と、アルコールで体を壊したことのある父を気づかった。母と妹にも感謝の言葉を口にした。

 家族は「延命治療はしない」ことで合意していた。家族の体力が限界に近づいた15日夜、ぼくは主治医とふたりきりで話し合った。「自然な形で寿命を終わらせてやってください」「わかりました。これ以上、アンビュバッグを使うのは控えます」

 不思議なことにそれでも数日間、姉の呼吸が止まることはなく、仕事が気にかかるぼくたち夫婦は、空路でいったん自宅へ帰った。その前に、地元の人から万一の場合のしきたりを聞いておいた。兄が海外出張中で、ぼくが喪主代行をすることになっていた。

 妹から泣き声で電話が来たのは20日夕だった。結局、妹ひとりで姉を看取った。享年59。全国には10万人以上のパーキンソン病患者がいる。大学病院が研究のため病理解剖することを望み、ぼくたちは快く応じた。

 21日午後には台風15号が首都圏を直撃する見通しで、家族も親戚もぼくたちが帰れるかどうかを案じたという。深夜ニュースで台風情報を見て、急きょ、予約したのよりひとつ早い便にネット上で変更した。幸運にも空席がわずかに残っていた。羽田空港へ駆けつけると、ぼくたちのフライトよりあとの便はすべて欠航だった。

 出雲空港までは揺れながらもなんとか飛んだ。宍道湖の湖畔が窓外に見え、もう大丈夫だと思った瞬間、機体は急上昇した。「強風のため、上空で旋回します。最悪の場合は羽田へもどるか伊丹空港に降ります」。機長の声が冷酷に聞こえた。でも、一瞬のタイミングをとらえて強行着陸した。その瞬間、機内では拍手が起きた。

 姉が所属していた写真クラブのY会長が、たまたま葬儀社の社長だった。Yさんは、通夜の席にススキなど季節の草花をあしらったすばらしい花篭を持ってきてくれた。葬儀ばなれした華麗な祭壇も、Yさんの指示だった。

 故人の生涯を振り返るナレーション用の長文原稿は妹が書き、その夫の毎日新聞編集委員が手を入れて、葬儀当日の午前2時半に完成した。「カレンダーになった花の写真は、木佐さまのお母さまと妹さまが写真集として発行されることになりました。……写真集は完成まであど10日ほどというところでした」

 Y社長と友人代表のOさんは、完璧な弔辞をメモも見ないで述べてくれた。数え切れないほどの供花も飾られ、葬儀場は花園と化していた。「ちーちゃんに見せたいほどだね」。会葬者は200人を超えた。ぼくは最後にお礼のあいさつをした。

 「19年間の闘病生活を支えたひとつ目の柱は家族です。とくに母と妹は想像を絶する介護の日々を送ってきました。ふたつ目は地元の方々、親戚の皆さま、ご友人です。たとえばご友人は、姉を励ますためのコンサートを開いてくださり、400人以上が入場料を払って参加してくださいました。3つ目は花の写真です。それは単なる趣味ではなく、生きる証でした。4つ目は書道です。病気になり引きこもりがちだった姉を、母が自分の通う書道教室に引っ張り出しました。そのお仲間にどれほど優しくしていただいたことか」

 葬儀が終わり、5人の僧侶に控え室でお布施を渡した。「祭壇もナレーションも、弔辞も最後のあいさつも素晴らしかった。これだけの葬儀は記憶にないですよ」。妹はぼくにこっそり言った。「大成功だったね」

 なかでも町内会の機能には驚かされた。葬儀社との連携、受付、会計、駐車場の整理などてきぱきと役割りを果たした。香典はノンブルをふり10通ずつ輪ゴムでとめ、帳簿に会葬者名を順番に書いて渡してくれた。

 通夜から葬儀、お斎まで、誰も一滴のアルコールも飲まずにこなしたのも特筆すべきことだった。母は、遺族、親族、友人、町内会、葬儀社、そして会葬者が一体となった事実に感動、感謝していた。「なでしこJAPANみたいだったね」

 --毎週木曜日に更新-- (先週は、葬儀のため休載しました)

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