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21世紀の床屋人情噺

 床屋談義という言葉がある。かつては、今でいう理髪店で常連がぐだぐだして、ああでもないこうでもない、と世間話で盛り上がり、濃密な人間関係が培われていた。近ごろは、野田佳彦首相だって速くて安い1,000円カットにいくとかで、ゆとりも人情もなくなった。

 わが家から歩いて5分ほどの住宅街に、「大人1,800円」という理髪店Rを見つけたのは、散歩の途中だった。それまで通っていたのは3,600円の店だったので格段に安い。1,000円カットにいったこともあるが、仕事が荒くて髪がぼさぼさに伸びてくるので、もういかないことにしていた。

 1,800円でどこまでサービスをしてくれるのだろう。まさか、カットのみということはなかろうと、ドアを開けて入った。50歳くらいのマスターが、ひとりでやっている。10分ほど待ってぼくの番となった。

 ヘアスタイルやもみ上げの位置など希望を聞き、手際よくハサミを動かしていく。「ここに、こんな店があるとは知りませんでしたよ。よくこの前を通るのに」「いや、ここには以前から床屋があったんですよ。もともとは、障害のある夫婦のかたがやっていたんですがだめになって、その後は他の店から理容師が入れ替わり立ち替わりしながらつないでいました。それでも、お客さんは激減してしまい、私が買い取ったんです」

 マスターは、大阪で大手理髪店の雇われ店長をしていた。しかし、一念発起、東京へ出てきて自分の店を持つことを目指し、2010年5月に上京した。しばらくは雇われ店長をしながら街に慣れ、この店が売りに出ていることを知って思い切って買ったのだという。

 カットにシャンプー、マッサージに髭剃りとフルコースでやってくれた。腕もなかなかいい。これで1,800円なら安いと2,000円を出すと、お釣に400円くれた。「え、1,800円じゃないんですか?」「いや、平日はさらに200円サービスしてるんです」

 全国理容生活衛生同業組合連合会(全理連)に加盟していない独立系の店だから、こんなに格安でできるのだろう。

 すっかりその店が気に入って、月に一度くらいは通うようになった。あるとき、カットをしているマスターのそばで、ほうきを手に床に落ちた髪を掃いているおじさんがいた。年のころは40歳代の後半といったところか。

 次にいったときには、そのおじさんがシャンプーをしてくれた。マスターの手馴れた指づかいとはちがってどこかぎこちないが、一生懸命なのは伝わってくる。このおじさんは何者なのか。この年で理容師の見習いをしているのだろうか。ご本人に聞くのも悪いような気がして、そのままにした。

 翌月Rへいったときには、ふたたびマスターひとりで立ち動いていた。「この前、シャンプーしてくれた人は、新しく雇った助手かなんかですか?」「ああ、あいつのことね。実は、本業は内装なんです」

 東京へ出てきて間もなく、ある小さな会社の社長に紹介されたのがその男性だった。しばらくは、お客さんとして店にきてくれていたが、マスターが新しい店を持ったころ、内装業がうまくいかなくなり、失業状態になった。

 「社長が、1日1,000円でもいいから下働きとして雇ってやってくれないか、っていうもんですぐにうちへきてもらったんです。床屋の経験はまったくないんで、日当を2,000円払って最初は掃除やタオルの洗濯からはじめさせました。今は私もひとり暮らしなんで夕食はたいてい外で食べるんですが、あいつも連れて行って食べさせてやってるんです。ビールもいっしょに飲んだりしてね」

 理髪店Rは、6階建て1LKマンションの1階に入っている。マスターも単身赴任のような形で、上階のせまいマンションに住んでいる。その部屋へ、大阪からかみさんが出てくるまで、という条件で内装業の彼を同居させているのだという。

 マスターは、毎晩、店をしめて食事に出る前、その男性にシャンプーやマッサージの仕方を仕込んでいる。あまり器用なほうではなさそうだが、性格が素直なので、1か月ほどでどうにかシャンプーを任せられるまでになったという。

 「店が軌道に乗るまではと思い、かみさんとは別々に暮らしてきましたが、家賃を二重に払うのはきついので、来月にはこっちへ呼び寄せます。するとあいつの居場所がなくなるんで、どっか安いアパートを探してやらなきゃ」

 なんという面倒見の良さか。知り合いの友だちというだけで助手として雇ってあげ、食事を提供し同居させてあげるとは。ひとり1,600円じゃ、日に平均10数人やったところで稼ぎは知れている。それでも、マスターは算盤などはじかない。

 マスターの人徳はそれだけじゃなかった。首都圏を台風15号が直撃した2011年9月21日、お客さんが来るわけもなく、早々に店じまいすると、友人から電話がかかってきた。「電車が止まって身動きがとれない。いま浦和駅前にいるから、車で迎えにきてくれないか」

 マスターは、暴風雨のなか、すぐマイカーのハンドルを握った。道路は大混乱で、ふだんより倍の2時間以上かかって、友人をピックアップした。すると、友人の奥さんは池袋駅で足止めされているという。マスターはためらいもせず、そのまま池袋へ向かった。

 大都会の片隅で、21世紀の今も、こんな古典落語のような人情噺が聞けるとは。

 --毎週木曜日に更新--

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