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2011年10月

インどイツ物語ドイツ編(9)【絶品の平和カレー】

    94年夏

 「いくら日本製のカレーのルーを入れても、とろっとならないわ」。妻がぶつぶつ言いながら鍋を引っかき回している。「きっと、ドイツのジャガイモが煮込んでもとけないせいよね。……これで終わり」。皿に盛りつけはじめた。

 日本の北方四島より緯度が北にあるボンでなんでこんなに暑いんだ、と7月のある朝、夕食はカレーを頼んでおいた。猛暑=インド=カレーと実に安直な連想だったが、献立を考えるストレスを除いてやるだけでも妻孝行になる。

 ドイツの新聞によれば、前日は37度、その日は38度までいった。もともとこの国で暑さ対策など考えてもいないから、超がつきそうなわが高級マンションでも、クーラーはおろか扇風機もない。それでも何とかしのげるのは、緑が豊かで窓を開いておけばさわやかな風が通り抜けるためだ。湿気がうんと低いのがいいのだろう。

 ずっと前日本で、「インド人はなぜ辛いカレーを食べるのか」といったテレビの実験番組を観たことがあった。インドの夏なみの温度に上げた実験室で激辛カレーを食べると体温がさがる。逆に「甘ったるいジャパニーズ・カレーなど食べる気になれない」と、被験者が答えていた。

 さて、わが家のカレーはとビールで口を清めてからひと口食べ、うなってしまった。

 「どうしたの、なんかヘン?」。妻が真顔で心配している。「いや、なんでこんなにうまいんだぁ。これ、絶品だぞ、絶品!」

 エビとイカが入っている。どっちもボンのスーパーで買ったものだというから、鮮度などいいわけがない。「エビの方は、前にお澄ましにいれて大失敗だったものの残りよ」。

 そう言われて思いだした。ゆでて冷凍したエビを椀ダネにしたら、なんとも言えない変な味で、さすがに「もったいながり屋」の妻も、さっさと捨ててしまったことがあった。

 「でも、あのエビでこんなカレーができるなんてなぁ」

 素材の取り合わせと料理法の相性なのだろう。

 「隠し味もさんざんいれたのよ。日本の辛口と甘口のルーに、醤油に砂糖にケチャップに中濃ソースにコショウ。それに、長野から奪還したインドのカレー粉が効いたんでしょう」

 妻は、世紀の傑作をものにした巨匠のようにご機嫌だ。4年前にインドから日本へ帰国したとき、おみやげにカレー粉とダージリン紅茶をあちこちに配った。だが、カレー粉の方は「平均的日本人主婦には使いこなせない」とかであんまり評判がよくなかった。妻の実家でも使いかけのままだったので、ドイツへくる前、勝手に取り返してきたのだ。

 隠し味と言えばちょっと聞こえがいいが、じつは料理の味がびしっときまらないとき、妻はほとんどやけくそで手あたりしだいに調味料をいれるくせがある。もちろんカップで計るなんて細やかなことはしないため、仮に傑作ができても根本的な課題が残されてしまう。

 二度と同じ味は再現できない。

 とはいえ「やっぱり猛暑にはインド・カレーか」と変に感心しながら、「絶品、絶品」を連発してスプーンを往復させた。そこへ、妻が「ゆでかたはこれくらいでいいかしら」とパスタを持ってきた。

 ナポリ・サミットの取材でイタリアへ出張したとき、地元ナポリ県が報道陣にくれた特産品セットにはいっていたものだ。「もうちょっとゆでたほうが」と指示して、「味付けは」と聞かれ、何も考えないまま「カレーをかけてみようか」と答えた。

 これがまたいける。

 ナポリの食文化のレベルは、「同じヨーロッパなのにドイツやイギリスはどうした」とはっぱをかけたくなるほど高かった。さすがにおみやげのパスタもちがう。

 日本のカレールーでドイツのエビ・イカを煮込みイタリアのパスタにかける。ちょうど半世紀前に崩壊した日独伊三国同盟を思い、「これぞ枢軸カレーだ」と勝手に名付けた。

 すると、妻が「パスタの横のライスは、確かカリフォルニア産よ」と言う。そう言えば、インドのカレー粉も効いている。「大戦も冷戦も遠くなり、みんな仲良しの平和カレーか」。

 ダイニングには、ベルリンのロシア人コミュニティーでロシア革命当時から作られているというウォッカも置いてある。ビールが終わったら飲もうかとも思ったが、やめておいた。ちょっと甘口なのが絶品カレーに合いそうもない。

 銘柄は、冷戦を終わらせた人物と同じ『ゴルバチョフ』という。

 〔短期集中連載〕

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ブータン 幸せの秘密はどうなっただろう

               『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編

 ヒマヤラの小王国ブータンで、ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュク国王(31)が、一般人のジェツン・ペマさん(21)と結婚した。2011年11月には、日本を国賓として訪問する予定で、事実上の新婚旅行となる。

 この慶事にさいして、日本のマスメディアはブータンを「幸せの国」と呼んで盛んに報道している。あるテレビ局は、首都ティンプーで道行く市民に「あなたは幸せですか?」と問いかけ、すべての人が「はい」と答えるようすを伝えていた。そして、「国民の9割以上が自分の人生を幸福と感じている」と紹介した。

 今、必ずしも国民的に幸せなばかりではない状況にある日本で、そうした報道に接すれば、「ああ、うらやましい」と思う人も少なくないだろう。しかし、いつものことながら、こうしたテレビ局のやり方はちょっと単純すぎる。

 たしかに1970年代、現国王の父であるジグメ・シンゲ・ワンチュク国王が、国民総幸福(GNH)という言葉を発明した。かつて世界は各国の経済力を国民総生産(GNP)で計っていたが、国王は「幸せはカネやモノだけではない」と、文化や伝統、環境などに配慮した暮らしをするよう国民を導いて来たのだった。

 ぼくも、ニューデリー特派員をしていた80年代末、ブータンを訪問し、王宮へ出向いて当時の国王から直接、その言葉や政策の狙いを話してもらったことがある。

 一方であの国には、テレビなどで報道できにくい“幸せの秘密”があった。

 日本人のある国家公務員からこんな体験を直接聞いた。あるとき、職務でブータンに長期滞在した。地元の青年たちとすっかり親しくなり、いよいよ帰国するときになると、盛大なお別れパーティを開いてくれた。その席には、何人かの若い女性もいた。

 お酒もすすんだころ、青年たちはこう申し出たという。「ぼくたちには、何も気のきいたお土産をあげることができません。せめてもの友情の記念に、ここにいる女の子の誰でもお好きな子を選んで抱いてやってください」

 その公務員も若い盛りで、実はひとり気になっていた女の子がいた。「では、この方を」。くだんのお嬢さんは、ちょっとはにかみながらもむしろ嬉しそうで、情熱的な一夜を過ごしたそうだ。

 この公務員の話は100%事実だと思う。ブータンでその種の話はよく聞いた。昔は日本でもおおらかなセックスはあった、と高校の地理の先生が話していたのを覚えている。地方によっては妻や娘を客人に喜んで差し出したのだそうだ。

 結婚や離婚も日本みたいにおおごとではなく、お互いに連れ子で仲良く暮らしている夫婦がふつうにいた。チベット文化圏であり、一夫一婦制ではなく4人まで妻をもらうことができる。姉妹をまとめて妻にする風習もある。事実、今も健在な前国王は4姉妹を妻としている。多夫一妻の例もある。

 だから、ぼくが取材した限りでも、あの小国では、親子や男女の関係が、現代の日本ではちょっと想像できないほどゆったりしていた。それは、峻険なヒマラヤに囲まれた地理的な条件と無関係ではないだろう。まあ、桃源郷のようなものだ。

 前国王は、国民の幸福度を維持、アップするには外界からの情報を断する必要があると見抜いていたようだ。だが、不完全な遮断しかできない状態では逆効果であり、情報解禁に踏み切ったとみられている。1974年に鎖国状態を解いた。

 1999年、テレビがブータンに入り、2003年にはアダルトサイトの閲覧が解禁された。2005年度にはブータン全域で携帯電話が使えるようになった。テレビを夜遅くまで楽しんで朝起きるのが遅くなり、朝食抜きの人も増えているらしい。

 読売新聞によると、2011年8月には、国内初のショッピング・モールが誕生した。携帯電話ショップ、ゲームセンターなど49のテナントが入っている。首都の人口はこの10年で約3倍にも増え、就職難の若者があふれている。都市部では車も急増して渋滞さえ見られるという。土地をめぐる争いが起き、住む家を追い出される人も出ている。2010年の経済成長率は7.4%に達し、バブルの恐れさえあるそうだ。

 かつて、前国王はGNHについてぼくにこう語っていた。「たとえば、5年、10年ごとに、自分たちの暮らしを振り返ったとき、少しずつよくなっていると国民の多くが考えるかどうかです」。つまり、ごくゆっくりとした経済成長を望んでいた。

 しかし、経済をコントロールするのは容易ではなく、バブルを生んだのだろう。それがはじけたときが怖い。

 ブータンでは、近年、識字率も平均寿命も飛躍的にのびている。一方で、都市化と貧富の格差、勉強のきびしさなどを背景に自殺、うつ病が増えている。特に農村の自殺率が目立ち、その率は女性のほうが高いとされる。

 2008年のデータをみると、ブータンのひとり当たりのGDPはアメリカの約24分の1だが、自殺率(人口10万人当たり自殺者数)はアメリカの約半分だ。その意味では、まだ、ブータン国民のほうが先進国よりいくらか幸せかもしれないと想像はできる。

 幸せの秘密はどうなっただろう。新婚国王は、重婚しないと決めているそうだ。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(8)【ナポリタンを追え=後編】

    94年夏

 ぼくが、イタリアのナポリでスパゲッティナポリタンについて取材してから数年後、ある日本の新聞が、その起源について伝えた。

 横浜市山下町にあるホテルニューグランドの第2代総料理長・入江茂忠さんが最初に考案したという記録が残っているそうだ。

 ネット上の百科事典ウィキペディアによると、いきさつはおよそ次のようだった。

 ホテルニューグランドは、戦後まもなくGHQに接収され、7年間、アメリカ軍に使われた。当時のアメリカ軍では、スパゲティをトマトケチャップで和えた物が、一般的な兵営食であるとともに缶詰の戦闘食になっていて、ホテル駐在の兵士たちも軽食や夜食としてよく食べていた。

 そのため、接収が解除された後のホテル倉庫には、保存の利くスパゲティーの乾麺と瓶詰ケチャップが大量に残されていた。そこで入江さんは、当時の日本では珍しかった両者を組み合わせた料理をホテル再出発の看板にしようと思い立った。

 そのパスタ料理は、かつてナポリの屋台でトマトソースのスパゲティーが人気だったことに因み「スパゲッティナポリタン」と命名された。ただ、入江さんのレシピでは、トマトケチャップが一切使われず、一般的なナポリタンとはちがうトマトソースのスパゲティとなり、現在まで伝えられているという。

 しかし、第1次世界大戦で、地中海に派遣された日本艦隊がイタリアに寄港してトマトベースのパスタを知ったという説や、大正時代には日本海軍ですでに今のナポリタンと同様の料理が出されていたとの説もあるそうだ。

 昭和30年代に国産スパゲッティが開発され、デモンストレーション用に調理が比較的簡単なトマトケチャップ和えのスパゲッティ、つまりナポリタンが選ばれた。学校給食や喫茶店、列車食堂などでも提供され、全国的に定着していった。

 ナポリタンは、こうして日本の子どもたちの心のフードとなったが、ナポリとは関係なかった。

 ぼくが、ナポリでスパゲッティナポリタンを追った前年、優士が5歳、舞が3歳の秋だった。埼玉県大宮市の氷川神社へ七五三のお参りに行ったとき、「大阪焼き」とのれんを出した露店があるのに驚いた。お好み焼き屋なのだが、本場の大阪でこんな呼び方をするわけがない。

 つまり、そんなものだ。

 ドイツで暮らしているころ、ヴッパータールにいる日本人医師のクリニックへ、家族連れで健康診断にいった帰りのことだ。駅前の中華料理店で、メニューをにらんでいた妻が「スキヤキ・ア・ラ・東京」というのを発見した。だめもとで注文すると、牛肉、筍、カリフラワー、白菜をこってりの油と醤油、砂糖で炒めてあった。その後、各地の中華料理店で「スキヤキ」のメニューを見ても、挑戦する気にはなれなかった。

 ナポリにナポリタンはなかったが、決して日本独特の呼び名でもなかった。その後、ぼくのフィールドワークによって、次々と使用例が見つかった。ドイツのハノーファー、ベルリン、スウェーデンのストックホルムにもあった。

 チェコのプラハで発見したときには、思わず「ヤッター」とテーブルをたたいて隣の学生グループを驚かせた。ドイツ語を少し話すそのイタリア料理店のマスターに聞いてみた。

 「ずっと前からこう呼んでいたの?」

 マスターの答えは、そっけなかった。

 「共産党の時代に、こんなレストランがあったはずがないでしょ」

 ミュンヘン国際空港2階のレストランには「スパゲッテイ・ナポリ」というのがあった。トマトケチャップ和えのスパゲッティにはちがいないが、これは死ぬほどまずかった。

 ナポリにナポリタンがないのなら、フランクフルトにもフランクフルト・ソーセージはないのだろうか。日本のスーパーでもおなじみだが、個人的体験としては、やはり縁日の「フランクフルト焼き」ののれんがなつかしい。

 フランクフルトへ出張に行ったとき、同行していた助手のクラウディア嬢に聞いた。ドイツのヤングの間で流行っているというメキシコ料理店でタコスや激辛のオムレツをほうばりながらの会話だった。小学生のころからテニスで鍛えている彼女は、体育会系のさっぱり目で言った。

 「そんなの、たぶんないでしょ」

 ところが、じっくり取材してみると「フランクフルト・ソーセージ」は、あるないの問題どころではなかった。その由緒正しさは並ではない。

 フランクフルト・ソーセージ何とか連合会というのがあり、その会長が胸を張って言った。

 「アメリカで開かれた世界でもっとも権威のあるソーセージ品評会で金賞を取ったことがきっかけで、一躍、世界中に知られるようになりました。豚の腸に豚のひき肉を詰めたもので、太さは20ミリ以上36ミリ未満と厳格な規格があります。もちろん、フランクフルトで作られたものに限る名前で、レストランでは必ずペアで提供することになっています」

 日本の屋台でおなじみの「フランクフルト」は、本場ものとは似ても似つかない。

 ところで、ドイツ第2の都市ハンブルク、つまり英語読みでハンバーグに、ハンバーガーやハンバーグ・ステーキはあるのだろうか。

 一説によると、1850年ごろ、ハンブルク湾からアメリカへ向かう移民船で、積み込んだ薫製の肉があまりにも硬く、たたいて食べたのが起源だという。

 でも、ハンバーグ・ステーキのことをアメリカではふつうジャーマン・ステーキと呼ぶ。

 ハンブルクへ初めていったとき、地元在住の日本人Mさんに胸の疑問をぶつけてみた。Mさんは、世界的な刃物の本場ゾーリンゲンを抱えるドイツに、なぜか日本から刃物を輸出する仕事をしている。ゾーリンゲンの刃物地場産業は、人件費が上がり後継者がいなくなって国際競争力を失った。中小メーカーがばたばた倒れ、かつての栄光はないという。彼はナイフ、フォークも扱っているというから、食べる方もまんざら無縁ではない。

 「うーん。ハンブルクのハンバーグ。そりゃ、食べる人は食べるでしょうけど、決して名物ではないですね」

 ヨットの浮かぶアルスター湖の脇を通ってハンブルク中央駅まで歩いていくと、駅のまん前に例のアメリカ系ハンバーガーの店がどんとあった。じっと看板を見たが、「本家」や「元祖」の文字はさすがになかった。

 ハンブルクで一番うまかったのは、牛の生肉を香辛料や調味料とあわせてたたき、ハンバーグ状にしたタルタルステーキだった。

 さて、ナポリタンとは何語なのか。なぜかドイツ語の大きな辞書には載っていた。その意味は「小さな板チョコ」だという。由来はわからない。

 所変われば品変わる。サミットの取材が終わりナポリを去るとき、空港のルフトハンザ航空のチェックインカウンターで聞いてみた。「このチケットで、フランクフルトからケルン・ボンまで、どうやって行くか知ってる?」

 「・・・・・・?」

 「列車で地上を行くんだよ、列車で」

 濃紺のルフトハンザの制服で決めたお兄さんは、自分の会社のことなのに「まさか!」と言った。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(7)【ナポリタンを追え=前編】

    94年夏

 ナポリに、スパゲッティの「ナポリタン」はあるか。

 ヨーロッパへ赴任することになって、密かにこんな研究テーマを思いついた。というか、本場イタリアでうまいスパゲッティを食べたい一心からの発想だった。

 ナポリ行きのチャンスは、思いがけず早くきた。7つの先進工業国首脳が集まるナポリ・サミットのカバーのため、出張することになった。日本からは、まさかの首相になった社会党の村山富市おじいさんが出席し、はしゃいだあげくに倒れ、世界に名を知られたあのときのサミットだ。

 世の常として、うまい話には簡単にありつけない。ナポリへの道のりはとんでもないトラブルから始まった。

 ケルン・ボン国際空港のチェックイン・カウンターで手続きをしようとすると、ルフトハンザ航空のお姉さんが冷たく言い放った。

 「このフライトはボン中央駅からの出発です」

 「そんな馬鹿な。鉄道の駅を“離陸”する飛行機なんて聞いたことがない」

 「でも、この便はそうなんです」

 にこりともしない。チケットをよく見ると、確かにBONN Hbh(ボン中央駅)と印字されていた。ルフトハンザ航空がチャーターしたフランクフルト空港駅直行の特急車両があるという。“離陸時刻”まであと40分しかない。スーツケースをひっつかんでタクシーに飛び乗った。

 「中央駅まで!」

 でっぷりとした運転手は「あいよ(アレス・クラール)」と、ドイツ名物の高速道路アウトバーンをぶっとばした。スピード制限はない。

 方向がちょっと変だ。そのうち、遠くにケルン大聖堂の2本の尖塔が見えてきた。

 「ケルンじゃなくてボンの中央駅!」

 「空港はケルン市内なんだから、駅と言われりゃケルンの駅に行くさ」

 「何でもいいから、ボンに回って!」

 一般道路に降りると、渋滞していて、とても間に合いそうにない。

 「お客さん、フランクフルトに行くんでしょ。このまま乗って行けば。だいじょうぶ、列車よりたぶん先に着くよ」

 400マルクちょうどでいい、という。3万円弱のよけいな出費だが、乗り換えの国際線に遅れるわけにはいかない。再びアウトバーンに乗ると、運転手は目つきが変わった。前を走る車をすべて追い抜いて行く。旧西ドイツでは、客はたいてい助手席に乗る。時速185キロまでは横目でちらちらスピード・メーターを見ていたが、そのうち恐くなって持参の新聞を読むことにした。

 「お客さん、新聞でサイドミラーが見えないよ」

 ほかに気のまぎらわしようがない。目をつむって観念していると、本当に、特急よりずっと早く着いてしまった。

 「いい旅を(グーテ・ライゼ)!」。運転手は自分のハンドルさばきに満足して戻って行った。

 ドイツの空の玄関口・フランクフルト国際空港のターミナルでは、ロビーを空港職員が自転車にまたがり、くわえたばこで走っている。

 一路南へ飛んで、着いたナポリは32度と真夏だった。しかも海端だから蒸し暑い。夕方には日本外務省のご一行がビュッフェ形式の食事に招いてくれた。水牛のミルクから作った地元特産のモッツァレラチーズなどがどっさり並んでいる。

 「この土地は、いわゆるナポリタンの本場なんでしょうかねえ」

 ローマからやってきた日本大使館員や記者連におそるおそる尋ねてみた。

 「さあ?」

 みな自信がないようすだ。ナポリのことはナポリっ子に聞くしかない。

 翌朝、顔写真つきの記者カードをもらうため、発行場所に指定されたヌオーヴォ城に行った。城は、サンタ・ルチア港沿いにあった。伝統的なナポリ民謡カンツォーネ・ナポリターナの、あの有名な曲のタイトルはここからきている。

 にこやかに応対してくれたイタリア美人は、波型ストライプのコスチュームをまとっている。ブルー、海老茶、白、黒、グレーなどの色が大胆に組み合わされ、これぞイタリア・ファッションだった。笑顔と南欧の陽光がなければ、まず似合わない。

 笑顔と派手なファッションはタブーみたいになっているドイツとは、大ちがいだ。

 まぶしい照り返しの石畳を歩いていると、一緒にいたローマ駐在の同僚特派員に、サンダルばきの小柄なおねえちゃんがマイクを向けてきた。『地中海ラジオ』のリポーター、アントネラ・シノポリと名乗った。

 同僚は、イタリア語が堪能だ。「日本では、どうして野党第1党の党首が、与党にかつがれ首相になったのか」と、村山さんを自民党が担いだことを聞かれたという。

 一通りのインタヴューが終わりアントネラ嬢がテープレコーダーのスイッチを切ったところで、同僚に通訳を頼んだ。

 「ナポリに、スパゲッテイのナポリタンというのはありますか?」

 相手は一瞬、質問の意図が分からなかったらしい。同僚が汗をふきながら説明してくれる。

 「トマトソースをまぶしたのを、日本なんかでは一般にナポリタンと呼ぶんだけど」

 「私はそんな呼び方、聞いたこともないわ」

 アントネラ嬢はきっぱりと答えた。

 「だいたい、ナポリタンで何語なの。英語の形容詞ならニアポリタンだし、イタリア語ならナポリターノよ」

 ミートソースのボロニェーゼというのはあるという。ボローニャ地方で生まれたかららしい。

 ナポリ滞在中、レストランで食事をするたびにメニューをチェックした。「トマト・スパゲッティ」というのはあっても「ナポリタン」は見つからなかった。この話をワシントンからきていた同僚に話した。

 「子どものころ、洋食屋へいけばカレーライスとナポリタンは定番だったのにね」

 彼は自分の半生が否定されたような悲しい顔をした。

 この項、つづく 〔短期集中連載〕

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超光速ニュートリノ ドラえもんはもう古い

 2011年は、「ついにこの日が来たか」と思わせられる出来事が3回あった。最初は東日本大震災で、次は姉の死だった。

 3つ目は、9月23日、世界の素粒子研究でもっとも権威のある機関のひとつCERNが「光より速い素粒子を観測した」と発表したことだ。

 1905年、アインシュタインが「物質は、光速を超えられない」という、有名な特殊相対性理論を発表した。その後、相対論の“正しさ”は、数々の実験や宇宙観測で確認されてきた。

 でも、ぼくは少年時代から宇宙論のファンで、いずれアインシュタインの相対性理論が破られる日も来るのじゃないかと夢想していた。

 光速より速く飛ぶ物体は、理論上、時間をさかのぼる。マスコミでは「すわっ、タイムマシンができるか!?」と大騒ぎしている。たしかに、そういう話はわかりやすい。

 超光速ニュートリノの存在が事実とすれば、100年に一度の大発見で、現代科学の基本原理がくずれる。自然科学にとどまらず、哲学や文学にも計り知れない衝撃を与えることになる。

 この大発表に当たっての科学者の反応が興味深い。CERNの国際研究グループのメンバーである小松雅宏・名古屋大学准教授は実験結果に自信を見せる。一方、グループのなかでも丹羽公雄・名古屋大学名誉教授らは、発表論文に名を連ねることを拒否したという。常識にもとづいた慎重さといえばそれまでだが、信じてきた相対論が否定されることになれば、人生を否定されることになると感じるのかもしれない。

 ぼくはどうしても、地動説を唱えたコペルニクスやガリレオ・ガリレイへの拒否反応を連想してしまう。旧約聖書の記述を疑うことなどありえず、天体は地球を中心として動いていると信じてきた人びとにとって、地球のほうが動いているという学説は受け入れがたかった。今起きていることは、そういう“神学論争”に発展する可能性も高い。

 たとえば、ユークリッド幾何学は、家を建てるのには何の問題もないが、地球規模では使えない。少年のころ読んだ本には、こんな例があげられていた。

 仮に、直角に曲がって飛べる飛行物体があったとする。ある地点を飛び立ち、東へ真っ直ぐ1,000キロ飛び、次に南へ1,000キロ、さらに西へ1,000キロ飛ぶ。そして、北へ1,000キロ飛んだらどうなるか。

 ユークリッド幾何学で考えれば、元の地点にもどるはずだが、実際には決してそうはならない。この距離になると、<まっすぐに飛ぶ>こと自体が不可能だ。地上を同じ高度で飛べば地球の丸さに沿って飛ぶことになり、空間に対してまっすぐではない。

 ニュートン力学も地球やせいぜい太陽系のことを考えるのに少しは使えるが、宇宙規模ではお手上げだ。

 太古の人びとにとっては、今でいう遺跡を作るのに、ユークリッド幾何学でじゅうぶんだった。近代科学もニュートン力学のおかげで発達した。そして、アインシュタインが登場し、現代科学の基礎を作った。

 つまり、今、アインシュタイン理論を超え新しい宇宙論が生まれようとしていると考えれば、不自然ではない。いつの時代でも、それまで自分が信じてきたものがくずれるのに耐えられない頭の固い人はいるものだ。

 高名なホーキング博士は、かつて、一般論としてこう述べている。

 <実験結果はやはり事実であるということが分かっても、そのモデルは捨てずに、(理論に)変更を加えることによって生き永らえさせる道を模索することがよくあるのです。物理学者も自分たちが認めた理論に固執し、まずそれをなんとか救えないか努力します>

 CERNが観測したニュートリノについて、「観測結果が事実なら、我われの知る次元を超光速で飛んだというより、異次元を飛んだのでは」という見方も出ている。

 我われは、前後、左右、上下の3次元空間に時間をあわせた4次元時空に生きていると考えられてきた。しかし、近年、一部の理論物理学者のあいだでは、その時空の陰にふつうは感知されない複数の未知の次元(extra dimensions)があるのではないか、とされている。

 ニューヨークタイムズ9月25日付けは、アメリカ政府系高エネルギー素粒子物理学研究機関Fermilabの専門家Joe Lykken氏のこんなコメントを紹介している。

 「特殊相対論は、フラットな宇宙にだけ当てはまる。だからもし、ワープした第5の次元があれば、光速も異なる可能性がある」

 ワープは曲がっていることを意味し、松本零士さんのアニメ『宇宙戦艦ヤマト』で描かれるワープ(超光速航行法)がよく知られる。まさに、アニメ、SFの世界が現実になるかもしれないのだ。

 ぼくはさらに空想をふくらませる。新しい次元が発見され、神、霊魂や輪廻転生、未来予知や遠隔透視、UFOなども“科学的”に解明される日が来るのではないかと。

 超光速ニュートリノは、ぼくたちの人生観、世界観、宇宙観を変える強烈なエネルギーを秘めている。四次元ポケットのドラえもんは、もう古いのだ。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(6)【川のある街】

    94年初夏

 ♪ねえ君 二人でどこへ行こうと勝手なんだが
  川のある土地へ行きたいと思っていたのさ♪

 井上陽水さんの歌『桜三月散歩道』に、こんな歌詞があった。京都には鴨川が、金沢には犀川があるからさまになる。

 知り合いのドイツ人から、東京の裏町で初めて神田川を見た時の印象を聞いたことがある。「水洗式のごみ処理施設かと思った」。それでも、名曲『神田川』で、窓の下に川があるから歌になる。

 ♪三畳一間の小さな下宿 窓の下には神田川♪

 ボンにはすてきな川があった。森と湖と川の国ドイツのなかで、最も長く「父なる川」と呼ばれるラインが街の真ん中を流れている。わがマンションは、ライン川から100メートルの閑静な場所に立っていた。

 引っ越して間もなく、まだ春風の冷たい川岸へ子どもたちを連れて探検に行った。マンション前の道路をぶらぶら下ると、フェリー乗り場があった。川幅は200メートルぐらいだろうか。車を10台も乗せれば満杯になる小さなフェリーが、汽笛を鳴らし向こう岸へ向かって行く。特に時刻表があるわけではなく、ある程度車や人が乗ると、適当なところで出航するらしい。水位で上下する鉄製の桟橋のわきに鴨が群れている。

 ふたりの中年男が釣りをしていた。「わー、いいな。舞も釣りがしたーい」。

 子どもたちはたった一度の経験で釣りファンになっていた。埼玉県の国営武蔵丘陵森林公園へ家族で旅行したとき、自然の大きな池の釣り堀で40~50センチはある鯉を2時間のうちに28匹も釣り上げ、すっかり味をしめてしまった。以来、竿を持つ機会はなかったのだが。

 ライン川で釣りをする男たちの顔つきは西ヨーロッパ人には見えない。ロシアか東欧だろうか。むっつりとしたまま、麦の実のような餌を針に引っかけ船付き場のわきに無造作に投げ込む。

 「こんな場所で釣れるのぉ?」。優士がもっともな疑問を口にする。30センチはありそうな鮒に似た魚が釣り上がった。「すごーい」。水は決してきれいとは言えない。釣った魚をどうするのだろう。男は魚の頭を石で一発叩き、水の入っていないバケツに放り込んだ。

 2、3分に一匹は釣れる。「天才だね」。桟橋の手すりにもたれた舞がつぶやく。気絶した魚がバケツの3分の1ほどになると、男たちはむっつりしたまま引き上げて行った。自分たちで食べるのか、仲間にも分けてあげるのか。

 天気のいい週末など、散歩といえばライン河畔へ行くようになった。流れに沿って細長く公園が伸びている。無粋な護岸コンクリートなど無論なく、天然石が敷き詰められている。自転車専用レーンがあり、さらに一段高いところに遊歩道がある。

 週末はもちろん、平日でも結構人がいる。サイクリングを愉しむグループがさっそうと走っていく。炒めたソーセージにカレー粉をかけたカレーヴルストが、インビス(売店)の名物だ。流れを臨むベンチに腰かけ、それをつまみに缶ビールをぐびぐびやっているおばあさんがいたりする。

 芝生の間に雑草が伸びる緑地で、子どもたちとサッカーボールを蹴っていると、お腹の周りが思いきりたっぷりしたおばさんが話しかけてきた。

 「東洋人の子どもが珍しくて、とっても可愛いわぁ」

 熊のように大きな犬と子猫のような犬を連れて散歩中らしい。子どもたちはボールをほったらかし、小さな犬を追いかけ始めた。そこへ大きな犬がじゃれかかる。子どもたちは驚いていったん逃げ出したが、ちっとも恐くないと分かると、一緒になってじゃれあった。

 「主人がベルリンからこっちへ転勤になって、しかたなく着いて来たんだけど、あっちに行きつけの美容室があるから4週間に一度は車を飛ばして行くんですよ」
 ご本人の髪のセットかと思えば、犬の美容室だという。

 ライン川と同じく、ドイツの時間はゆったりと流れている。ぼくたちの家族が以前住んでいたインドの悠久の流れともまたちがうが、東京のような生き急ぐさまは誰からも感じられない。

 ドイツ人はヨーロッパ一勤勉・勤労だといわれる。しかし、ウィークデーでも日の明るいうちに自宅へ帰り、地元のスポーツクラブで汗を流したり、壁や塀のペンキ塗りに精を出したりする。ペンキ塗りは日本の日曜大工とおなじで、ドイツ人にとっては趣味に近い。金曜日の午後に役所へいくと、ほとんど人気がない。職員は週末を愉しむために、さっさと帰宅してしまっているのだ。

 それでも、ヨーロッパ随一の経済大国としてやっていけている。日本とのどこがちがうのだろうか。ドイツの社会でもっともうらやましいのは、こういう時間の使い方だった。

 郷に入っては郷にしたがえで、ぼくもできるだけ家族との時間を持つように心がけた。しかし、仕事は東京のスピードで要求されるため、時間の流れのズレが一番のストレスにもなった。

 子どもたちも、ライン川のようなドイツの時間を愉しんでいた。アメリカン・スクールに慣れたころ、優士も舞も「日本には帰りたくなーい」というようになった。

 〔短期集中連載〕

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21世紀の床屋人情噺

 床屋談義という言葉がある。かつては、今でいう理髪店で常連がぐだぐだして、ああでもないこうでもない、と世間話で盛り上がり、濃密な人間関係が培われていた。近ごろは、野田佳彦首相だって速くて安い1,000円カットにいくとかで、ゆとりも人情もなくなった。

 わが家から歩いて5分ほどの住宅街に、「大人1,800円」という理髪店Rを見つけたのは、散歩の途中だった。それまで通っていたのは3,600円の店だったので格段に安い。1,000円カットにいったこともあるが、仕事が荒くて髪がぼさぼさに伸びてくるので、もういかないことにしていた。

 1,800円でどこまでサービスをしてくれるのだろう。まさか、カットのみということはなかろうと、ドアを開けて入った。50歳くらいのマスターが、ひとりでやっている。10分ほど待ってぼくの番となった。

 ヘアスタイルやもみ上げの位置など希望を聞き、手際よくハサミを動かしていく。「ここに、こんな店があるとは知りませんでしたよ。よくこの前を通るのに」「いや、ここには以前から床屋があったんですよ。もともとは、障害のある夫婦のかたがやっていたんですがだめになって、その後は他の店から理容師が入れ替わり立ち替わりしながらつないでいました。それでも、お客さんは激減してしまい、私が買い取ったんです」

 マスターは、大阪で大手理髪店の雇われ店長をしていた。しかし、一念発起、東京へ出てきて自分の店を持つことを目指し、2010年5月に上京した。しばらくは雇われ店長をしながら街に慣れ、この店が売りに出ていることを知って思い切って買ったのだという。

 カットにシャンプー、マッサージに髭剃りとフルコースでやってくれた。腕もなかなかいい。これで1,800円なら安いと2,000円を出すと、お釣に400円くれた。「え、1,800円じゃないんですか?」「いや、平日はさらに200円サービスしてるんです」

 全国理容生活衛生同業組合連合会(全理連)に加盟していない独立系の店だから、こんなに格安でできるのだろう。

 すっかりその店が気に入って、月に一度くらいは通うようになった。あるとき、カットをしているマスターのそばで、ほうきを手に床に落ちた髪を掃いているおじさんがいた。年のころは40歳代の後半といったところか。

 次にいったときには、そのおじさんがシャンプーをしてくれた。マスターの手馴れた指づかいとはちがってどこかぎこちないが、一生懸命なのは伝わってくる。このおじさんは何者なのか。この年で理容師の見習いをしているのだろうか。ご本人に聞くのも悪いような気がして、そのままにした。

 翌月Rへいったときには、ふたたびマスターひとりで立ち動いていた。「この前、シャンプーしてくれた人は、新しく雇った助手かなんかですか?」「ああ、あいつのことね。実は、本業は内装なんです」

 東京へ出てきて間もなく、ある小さな会社の社長に紹介されたのがその男性だった。しばらくは、お客さんとして店にきてくれていたが、マスターが新しい店を持ったころ、内装業がうまくいかなくなり、失業状態になった。

 「社長が、1日1,000円でもいいから下働きとして雇ってやってくれないか、っていうもんですぐにうちへきてもらったんです。床屋の経験はまったくないんで、日当を2,000円払って最初は掃除やタオルの洗濯からはじめさせました。今は私もひとり暮らしなんで夕食はたいてい外で食べるんですが、あいつも連れて行って食べさせてやってるんです。ビールもいっしょに飲んだりしてね」

 理髪店Rは、6階建て1LKマンションの1階に入っている。マスターも単身赴任のような形で、上階のせまいマンションに住んでいる。その部屋へ、大阪からかみさんが出てくるまで、という条件で内装業の彼を同居させているのだという。

 マスターは、毎晩、店をしめて食事に出る前、その男性にシャンプーやマッサージの仕方を仕込んでいる。あまり器用なほうではなさそうだが、性格が素直なので、1か月ほどでどうにかシャンプーを任せられるまでになったという。

 「店が軌道に乗るまではと思い、かみさんとは別々に暮らしてきましたが、家賃を二重に払うのはきついので、来月にはこっちへ呼び寄せます。するとあいつの居場所がなくなるんで、どっか安いアパートを探してやらなきゃ」

 なんという面倒見の良さか。知り合いの友だちというだけで助手として雇ってあげ、食事を提供し同居させてあげるとは。ひとり1,600円じゃ、日に平均10数人やったところで稼ぎは知れている。それでも、マスターは算盤などはじかない。

 マスターの人徳はそれだけじゃなかった。首都圏を台風15号が直撃した2011年9月21日、お客さんが来るわけもなく、早々に店じまいすると、友人から電話がかかってきた。「電車が止まって身動きがとれない。いま浦和駅前にいるから、車で迎えにきてくれないか」

 マスターは、暴風雨のなか、すぐマイカーのハンドルを握った。道路は大混乱で、ふだんより倍の2時間以上かかって、友人をピックアップした。すると、友人の奥さんは池袋駅で足止めされているという。マスターはためらいもせず、そのまま池袋へ向かった。

 大都会の片隅で、21世紀の今も、こんな古典落語のような人情噺が聞けるとは。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(5)【5歳の浪人生】

    94年春-夏

 妻がキッチンにいると、紙の帽子をかぶった舞がやってきて敬礼をした。バッグを肩にかけ、「これ手錠とピストル」といって自信作を差し出した。前日、車の中から見たドイツの婦人警官の格好を、そのまま紙とはさみとセロテープで再現したのだった。

 日本とドイツの教育制度のギャップで、舞は5歳にして浪人の身となってしまった。

 3月末、日本で幼稚園の年中組を終え、さてボンにきたが、こちらは9月が新学年で春はふつうの学期の変わり目にすぎない。優士をアメリカ系のスクールに通わせる関係で、どうせならアメリカンの幼児部にいれる手もあった。でも、まず優士がちゃんと学校に慣れるまでは、と編入手続きを先延ばしにしているうち、そのままになってしまった。アメリカ式では幼稚園は義務教育となっており、5歳の秋からで、舞にとって中途半端なタイミングだった。

 朝8時半、妻の車に同乗してアメリカン・スクールへ行き、お兄ちゃんに「ばいばい」と言ったあと、舞の暇な1日が始まる。帰りがけ、妻の買い物にくっついて1、2時間はつぶれるとしても、家に帰ってからはすることがない。日本にいた3月までは、同じマンションのお友だちの家へさっさと行って、お友だちがいなくてもその家のおじちゃんといい子で遊んだりして遊び相手にはこと欠かなかった。ボンでは、まだ仲良しの子供がいない。

 しかし、持て余す時間が、舞のユニークな才能を引っ張り出した。

 日本人形のような顔と体型の舞が、婦人警官きどりで立っているのを見て、妻は感心しながらも「いったい誰の子かしら」と思ったという。夜、ぼくが帰宅すると、もう一度子ども部屋でこっそり扮装をして登場した。紙の帽子はちゃんとひさしがあり頭のてっぺんは平と、ドイツ式にまちがいない。ほんのちらっと見ただけなのによく観察したものだ。でも、交通警官で手錠は持っていなかったはずだから、こちらの方は別の予備知識から、それらしい小道具として作ったらしい。

 妻によると、舞の図画工作の自習作品はこれがはじめてではない。前の日にはありあわせのボール紙と画鋲でルーレットを作り、「回して回して」と妻や優士のところに持ってきてディーラーきどりだったという。色紙の裏に動物の絵を描いての紙芝居や、その動物を切り取って割り箸に張っての人形劇もあった。

 婦人警官の次の日は、季節はずれのサンタクロース姿で現れた。とんがり帽子とひげにまゆげまで紙で作って顔につけ、「これプレゼント」と差し出したのは紙のウサギとクリスマスツリーだった。肩にかける大きな袋も中に詰めものをしてふくらませ、芸が細かい。

 そんな浪人暮らしも、6月下旬に終わった。「1年生」をたった3か月で終えた優士といっしょに、「アメリカ大使館友の会」が主催する4-9歳対象の「サマーキャンプ」に参加した。キャンプといっても、月-金曜の午前9時から午後2時までの日帰りコースで、ゲームやプール遊び、舞お得意の工作などをしてすごす。

 キャンプ初日、保護者兼通訳として妻子をつれて行くと、もちろんアメリカ人の子どもが多いが、一見してアジアやアフリカ系とわかる子もけっこういる。某国外交官の子どもらしい男の子は道路脇にとめた車のことろで泣きじゃくって動こうとせず、付き添いのお母さんを困らせている。

 こんな光景に舞もびびるかなと横顔をのぞくと、さすがにいつものようなきゃっきゃきゃっきゃの悪ふざけをする余裕はないが、べそをかくほどでもない。年齢別でいくつかのグループにわかれ、ローマ字の名札をつけてもらって手続きはあっけなく終わり、親たちは引きあげる。ほかに日本人は大使館員の家の4年生の女の子と5歳の男の子のきょうだいがいる。だが、優士もその子たちもグループは別で、舞はいきなり「国際社会」にひとり放り込まれた。

 「英語わかーんないから、つまんなーい」と言いながらも、とくにだだをこねることもなく、毎日、元気に通いはじめた。先生役はアメリカ本土からバイトでやってきた大学生らしいお兄さん、お姉さんたちだ。「アメリカ人でも若者はあどけなくて可愛いなあ」と変なところで感心させられる。

 6週間のキャンプも終わりに近づいたある日、ふたりを迎えにいった。背高のっぽのお兄さん先生にぶらさがって、離れようとしない子どもがいる。まさかと思ったが、やはり舞だった。「あの人なつっこさは、誰の子だ?」。妻と顔を見合わせてしまった。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(4)【ボンの神さま】

    94年春

 突然静かになったかと思うと、机につっぷして涙を流している。赤ん坊のときは別として、外面のいい優士が人前で泣くのは、たぶん初めてだった。「だいじょうぶ、何も心配ないからね」。やさしいアメリカ人の女の先生が語りかけてくれる。

 欧米の学校は9月から新学年がはじまるため、ぼくたちがドイツへきた3月下旬には、第2学期も終わりに近かった。ボンに正規の日本人学校はなく、どうせ外国語で勉強するなら、と世界中の子どもたちが英語で勉強するアメリカ系インターナショナル・スクールを選んだ。

 学校は、アメリカの国防総省が直接運営している。東西冷戦のさなかには、ドイツとその周辺国に30万人もの米軍が駐留していた。その数は1995年までには10万人に減るが、この学校も冷戦の遺物だった。

 ボンへきて3日目、一家で編入のための面接にでかけた。先生は、まず、いろいろな紙を示して、色の名前を答えさせた。「赤」「レッド」、「緑」「グリーン」とこちらがいちいち通訳しなければ、先生には正解かどうかわからない。紫の色を見せられたとき、優士はすこしためらった。横で舞が答えてしまい、調子を少し崩された。基本図形の名前や3桁までの数字の読み方、ひと桁の足し算あたりまではほとんどできた。面接といいながらこれは本格的な試験じゃないか。優士はかなり緊張している。ふた桁の足し算がつづいて、ついに顔を伏せてしまった。

 日本で通っていた幼稚園は遊びと体力づくりが主で、いわゆるお勉強は習ったことがなく無理もない。こんなテストがあると知っていれば、特訓してやるのだったが。

 妻の日記から拝借すると、初登校の前夜、こんなやりとりがあったという。

 「あした学校に行きたくない」と優士が泣き出した。「神さまに早く英語がわかるようお願いしておくからね」となだめると、「ぼくもお願いする」。舞もつられて「英語の幼稚園には行きたくない。さくら組になりたい」と泣く。舞も日本の幼稚園の年中組で退園し、年長組に入れなかった。

 登校初日の朝起きて、優士はまた泣き出した。「おなかが痛い。学校へ行きたくない」「神さまにお願いしてあるからだいじょうぶ」。「ぼくも泣かないようお願いした」。車に乗るまでぐずぐず言っていたが、乗ったら落ちついた。退校時間に妻が車で迎えに行くと「ぼく泣かなかったよ。涙が出そうになったけど、神さまにお願いして、がまんしたよ」。「おとなりのゲーリー君とお友だちになった」と意外に元気だった。「赤とか青を英語で答えたら、みんなワーとほめてくれた」。

 その後も、優士は寝る前になると、かってに自分の神さまを創り上げていった。「神さまって世界中の言葉がわかるのかな。ぼくもお願いして英語が日本語に聞こえるようにしてもらいたい」。「ジャングルジムとシーソーは英語でも同じ呼び方するんだよ。お父さんにも教えてあげてね」と、少し調子がでてきたようだ。

 初登校の翌々日、児童は休みで保護者との個別懇談会が行われると知り、ぼくは午前中の仕事をほうり出して学校へいった。「新年度の9月からは担任を変わらなければなりませんが、ユーシを離したくない」。先生が、目をうるませ、抱き締めるようなしぐさをしながら言う。言葉がわからなくても友だちに声をかけていたのはとてもいいことです。お友だちとボーリング・ゲームで遊んでいて、自分の番になったら「Can I play?」(やっていい?)と聞いていました。お友だちが英語でどう言うか、ちゃんと耳を傾けています。

 数字も20まで、アルファベットもLまで書けました。

 先生は、教室の隅にある教材のコンピューター・ゲーム専用機を見せてくれた。画面に並ぶアルファベットのカードを2枚ずつ当てていく。トランプの「神経衰弱」と同じで、「ユーシは百戦百勝」と言う。「20年以上教師をしていますが、あんなに頭がいい子はほとんどいなかった・・・」。

 帰り道、おれの息子だからなあ、と口元がゆるむ。「きょうは、ドイツへきて一番いい日だった」と夜、妻に叫んだ。

 優士は猛然と算数の勉強をはじめた。同級生が半年以上かけて習ったことを2、3週間でやってしまった。そして、ぱったり鉛筆を握らなくなった。日本から送ったアニメのビデオやテレビゲームに熱中し、妹と組んでのいたずらか、きょうだいげんかで日々が過ぎていく。やっぱりおれの息子だからなあ、とため息がでる。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(3)【不惑のヘアヌード】

     94年春

 ドイツへきたころから、ウェストが目だって細くなりはじめた。ズボンがぶかぶかになり、情けない話だが、腹巻きをつけなければ腰骨のところまでずり落ちてしまう。それでもまだゆるいようになり、ここ数年の間に仕立てた背広はまったく着られなくなってしまった。リフォームに出せばいいのだろうが、まだ街に慣れず、どこの店に持って行けばいいのかわからない。

 日本の田舎の母に電話でサイズを伝え、デザイン、色柄はお任せで送ってもらうことにした。やがて国際郵パックで届いたズボンを取り出し「これで当分はしのげるぞ」とはいてみると、なぜかぶかぶかだ。ウェストサイズの表示は注文通りの「79」。「インドじゃあるまいし、日本の洋服屋がサイズ表示をまちがえてる!」と妻に当たってみたが、何か変だ。試しに他のぶかぶかズボンと合わせてみるとぴったり合う。82と思っていたのが、じつは79で、もともと年の割にはそう太くなかったのだ。

 では、いま、ウェストはいったい何センチなのか。測ってみると「76」だった。

 話は、ドイツに赴任する前の、妻といっしょに渋谷の日帰り人間ドックにいった去年9月にさかのぼる。その前年の秋、会社の健保事務局で「痛くなく、時間があまりかからず、ちゃんとチェックしてくれるところ」を聞くと、「××ホテル1泊ドックなんての人気ありますけど、医学的にはちょっと」と、渋谷のここを教えてくれた。

 外来もあるが、人間ドック専用フロアでは、看護婦さんならぬピンクのワンピース姿の「エスコート嬢」が、患者さんならぬお客さまをにこやかに案内してくれる。どうみても容姿優先で採用したとしか思えない粒ぞろいで、とりわけ胸の豊かなお嬢さんが多い。男性更衣室では「半年に一度、ここへくるのが楽しみでねえ」という常連のおじさんもいた。

 採血、眼圧測定、バリウムを飲んでの胃部レントゲン、肛門に指を突っ込まれての直腸・前立腺検査などひととおりが、お昼過ぎに終わる。外で食事をして帰ってくると、いよいよ医師の「総評」となる。人によっては死刑宣告にも似た時間なのだろう。こっちはそう深刻でもないが、ひょっとして何か、と考えればあまり愉快なものではない。

 妻は「なーんの問題もありませんね」のひと言でおしまいだったが、こっちはやはり、前回につづいて「中性脂肪」がひっかかった。数値はいちだんと悪く、正常値上限のざっと3倍にまで上がっている。悪玉コレステロールと同じように動脈硬化につながり、成人病の元という。原因はカロリーの取りすぎ、早い話が暴飲暴食だ。インドから帰って3年半、ニッポンの味をあじわい尽くした結果なのだが、言い訳にはならない。

 それでもいちおう「これくらいの数値ならだいじょうぶなんでしょう?」と聞いてみた。中年男性の担当師は「本来なら1か月後に再検査するんですが、節制する気のない人にはむだですね」と陰険に言う。

 喧嘩わかれのような感じで家に帰ったものの、陰険ドクターの顔が浮かんで夜眠れない。「ちくしょう、明日から節制するぞぉ」と妻に宣言した。玄米ご飯に野菜たっぷり、肉魚はごく小量にし、もちろん酒はご法度で、気分はヒンドゥー教の修行者となった。

 そして1か月後。顔も体もほっそりと引き締まり「あのドクターと再対決だ」と息まきながら、今度はひとりで渋谷に降りたった。ところが、再検査後の担当はおばさん医師で、数値をくらべながら「ひと月でこんなに下がるんですねえ。お酒をひかえればいいんですよね。はい、ご苦労さま」。

 69キロまでいった体重が、ひと月で6キロ減った。以来、64キロちかくまで戻ることはあってもそれ以上にはならない。身長からみれば理想体重だろう。忘年会、新年会、送別会と宴会つづきで、それなりに暴飲暴食してきたはずだが、潜在意識に焼き付いた陰険ドクターがコントロールしてくれているのだろうか。

 とくにドイツで、本場のビールとソーセージ攻めにあっているのに、腰がますます締まり胸や腿の筋肉はちゃんと残っているのが不思議でたまらない。わが家の大浴場の大鏡に全裸を映し、われながらうっとりする日々がつづいている。「いっそ、ヘア・ヌード集でも出せば」と妻が言う。

 この話を友人にしたら、「その陰険ドクターは名医ではないか」と言う。内科医としての腕は知らないが、心理学のほうはすごいのかもしれない。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(2)【もだえる洗濯機】

     94年春

 浴室の方から、道路工事でも始まったような騒音が聞こえてきた。

 「ちょっと、早くぅ」。妻の叫び声がつづいた。あわてて入っていくと、タイル張りの床を洗濯機が激しく振動しながら動き回っている、妻はその上に覆いかぶさっていた。

 「早く乗ってぇ」。洗濯機と一緒にもだえながら妻が叫ぶ。わけが分からないまま、妻の上にかぶさり、洗濯機を押さえつけようとした。それでも、まるで止まらない。暴れる洗濯機はしだいに壁ぎわから遠ざかり、固定したホースが引きちぎれそうだ。

 「スイッチを切ろよ。スイッチを!!」

 「それが、どうすれば切れるか分からないのよ!!」

 ネグリジェ姿の舞が「なにやってるのぉ」と入ってきた。「遊んでるんじゃないんだよ。プラグをひっこ抜いてっ。そこにあるだろ、そこ!!」

 洗濯機といっしょにもだえながら、あごでコンセントを指すと、舞は「うん、分かった」と引き抜いた。

 道路工事の掘削機が止まったように、とつぜん浴室が静まりかえった。壁の大鏡に、白い箱の上で折り重なった男と女が映っている。間の抜けた姿にがっくりし、洗濯機から降りてタイルの上にしゃがみこんだ。

 「おもしろかったー。もう一度やってみようか」。舞がプラグを差し込もうとする。

 「馬鹿なことやめてよ」。妻は肩で息をしながらたしなめた。

 「どうしたのぉ」。優士が寝ぐせで逆立った髪のまま現れた。「洗濯機を回したら、途中からいきなり暴れだしたのよ」。妻は浴槽の縁に腰を下ろしため息をついた。

 「しつけが悪いね」。生意気な優士のせりふにも、妻は力が抜けて反応する気もない。「こんなに洗濯物がたまってるのに、どうすればいいの」。

 洗面台の時計を見るとまだ午前7時前で、階下の住人から文句を言われそうだった。

 たかが洗濯機だが、指折り数えれば、前日、引っ越しから41日目にしてやっと備えつけが完了したところだった。ないないづくしの新居で、“文化的生活”に必要な電化製品を少しずつそろえ、いちおう最後のものがこれだったのだが。

 ボンへ着いた翌日、前任者との仕事の引き継ぎもそこそこに家探しを始めた。取材助手のクラウディア嬢が不動産会社にアポイントをとってくれていたので、半日で3軒を見て回ることができた。子ども連れでのホテル暮らしをいつまでもつづけたくはない。その日のうちに、3番目に下見した新築のマンションに決めた。

 ライン川に近い5階建ての最上階だった。ゆったりした玄関ホールがあり、ホールの端にある螺旋階段をあがるとホビールーム用の屋根裏があった。玄関ホールから廊下に続くドア、廊下とキッチンやリビングを仕切る壁は全面ガラス張りで、やたら明るい。キッチンとバスルーム以外はすべて明るいグレーのカーペットが敷き詰めてある。廊下の脇にはまっすぐ伸びる階段があり、もうひとつの屋根裏へつながっている。そこには子どもの遊び場にできそうな空きスペースがあり、両側に小部屋と広いバス・トイレがしつらえてあった。

 ワンフロア全部がわが家で、日本のトレンディドラマにでも出てきそうなメゾネット式マンションだった。

 「おもしろーい。優士君、隠れんぼしたらなかなか見つからないよね、きっと」。舞がはしゃいだ。子どもたちがとくに気に入ったのは、ふたつの階段と屋根裏だった。

 次の日、クラウディア嬢を伴ってもう一度訪れ、入居契約書にサインした。改めて各部屋を回ると、リビングのバルコニーの下には緑が広がり、その向こうにライン川が見える。真正面には桜の木が枝を伸ばしている。日本種とちがい花は地味目のピンクで、景色を一変させるような華やかさはない。でも、ほとんど満開で、わが家を歓迎してくれているようだった。

 その翌日の早朝、ホテルをチェックアウトし、ドイツ人が「コンビ」と呼ぶワゴン型タクシー2台に手荷物を積み込んで引っ越した。子どもたちはさっそく隠れんぼを始めた。よくよく見ると、廊下の天井に小さなライトが数個ついているだけで、備えつけの照明はいっさいない。天井にむき出しのコードがのぞいているだけだった。水道と電気、暖房は使えるのが救いだった。

 「夜になったら、トイレもキッチンも真っ暗でどうするの」。妻がもっともな心配をしている。「雨露はしのげるけど、これじゃほとんどホームレスだなあ」。

 飛行機のチェックイン手荷物でどっさりもってきたようでも、仕事用のパソコン一式や着替え、当座の食器、日用品、食料くらいにすぎない。

 オフィスに顔を出し仕事の引き継ぎもそこそこに、マイカーを持っているクラウディア嬢に頼んでボンの中心部にある市場(マルクト)へ出かけた。

 何がなんでも照明器具を買わなければ、トイレだって月明かりでしなければならない。まだ「うんのつき」などとジョークを飛ばす元気はなかった。

 ボン大学の近くにある照明専門店へ飛び込み、フロアスタンドを物色した。ふつうスタンドと傘は別々に買うのだという。店のおじさんは傘用の布地サンプルを持ち出して、「3、4週間でできます」とのんきなことを言う。「今夜いるんですけど」と、ディスプレー用の傘をそのまま売ってもらった。

 別の店で羽毛布団を3枚買い、何とか夜をすごす準備ができた。通りがかりの銀行で1000ドルをマルクに両替したが、すでにそれは飛んでいった。

 家中に照明がついたのは約2週間後だった。デパートや家具インテリア専門店を回り、財布と相談しながら14個買いそろえた。そして「電気マイスター」を呼びひとつずつつけてもらう。

 「シャンデリアみたいに好みのちがうものならともかく、トイレにも風呂にも照明がついてないないなんて」。

 マイスターの仕事ぶりを観察しながら愚痴をこぼすと、ドライバーをくるくる回しながらあっさり言った。「この家はまだいいよ。キッチンに何もない家だってあるんだから」

 ずいぶん後になって聞いたことだが、日本人の科学者Tさん一家は、やはりライン川の近くに中古の家を借りたが、流し台も何もなかった。注文品が届いて配管工事が終わるまで、奥さんは洗面所の水道と電気コンロ1台で炊事をしていたという。しかも、半年もの間だ。

 わが家の子ども用ダブルベッドも一筋縄ではいかなかった。郊外の大型家具店で本体部品とマットレスを注文し、届いた日の夜、子どもたちといっしょに組み立てた。ふたりは喜んで寝たのだが、やがて優士が起きてきてわけの分からないことを言う。

 「舞がベッドに頭をはさんでウンウンうなってる」。

 マットレスの角が大きくくぼみ、舞の頭がベッドの木枠との間にすっぽり入っていた。

 翌日、クラウディア嬢に相談すると、にやっと笑って言った。

 「ホルツロストも買いました?」

 「何、それ?」。

 辞書には「ベッドのマットレスを支えるスノコ状の台」とあった。

 さて、洗濯機はもともと前任者が「水漏れするけど、しばらくなら使える」とただで譲ってくれたのがあった。東京へ帰った後、奥さん手書きの使用マニュアルをファクスで送ってくれたのだが、とても2、3年はもちそうになかった。新品を買うことにし、ボン南部バートゴーデスベルクのデパートで注文すると、6日後に届いた。トイレや浴室など水回りを専門に扱う「衛生設備マイスター」でなければ取り付けられないという。配達日に合わせてよこすよう店員に頼んでいたのだが、現れたのはそれから5日後だった。

 妻によれば、マイスターは「機体が水平になっていないとバランスが悪く、振動でずれてくる」と、ドイツ語を話さない妻を相手に身ぶり手ぶりで講釈を垂れた。水準器を使い、本体の脚とタイルの間にプラスチックの調節マットをはさみ、「これでよし」と引き上げていった。

 水洗いのテストしたときは問題がなかったが、翌朝、実際に洗濯物を入れ脱水まできたところで暴れだした。

 ドイツでシャワーを浴びれば、髪がバリバリになる。そんな硬度の高い水で汚れを落とすためには、それなりの装置が要る。洗濯機の水の温度はたいてい最高90度まで設定でき、水圧も高く、1回の洗濯に2時間はかかる。平均的な日本人とドイツ人では、体格、力ともに大きな開きがある。この洗濯機も重さは日本製の倍以上はありそうだった。

 したがって、凶暴性は想像を絶した。

 古い洗濯機は、デパートの配達の際、お金を払って持ち帰ってもらった。何とかこの新品を手なづけて使うしかない。タイルが滑りやすいからかもしれないと、屋根裏にあったカーペットの切れ端を敷いてみた。今度はカーペットごと動き回る。やむなく、本をどっさり詰めたダンボール箱をカーペットの両端に一つずつ置くと、ようやく暴れ方がおとなしくなった。

 しかし、いつまでもそのままにはしておけない。トイレやシャワーの調子が悪く近所の「衛生設備マイスター」を呼んだ時、洗濯機をついでに診てもらった。

 「ああ、これじゃだめだね」。マイスターはあっさり言うと、連れてきていた見習いのお兄さんに何か命じた。2、3分の作業の後、マイスターがダイヤルを脱水に合わせてスイッチを入れると、洗濯機はすっかりおとなしくなっていた。洗面台の上にずっしりとした金属製の枠がはずして置いてある。

 「これ? 運搬するときのモーター部のガードだよ」。最初のマイスターが、取り外すのを忘れたまま帰ったのだ。ドライバー1本で素人にも簡単にはずせる。なにがマイスターだ。プロ意識のなさに腹が立った。しかし、2番目のマイスターにはもっと腹が立った。後日届いた請求書には、「洗濯機“修理代”」として信じられない額が記載されていた。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(1)【ドイツのジャイアンツ】 

 ぼくは、新聞社の特派員として、1987年から90年までインドのニューデリーに駐在した。息子は生後半年で海外生活をはじめ、娘はインドで生まれた。家族とともに日本へ帰ったぼくは、東京本社で4年間勤め、次にドイツで駐在することが決まった。

 家族そろっての夕食に海外再赴任の話をすると、幼稚園の年長組だった息子が言った。「尻取りだね」。インド→ドイツ。ドイツでは、1994年から97年まで暮らした。

 日本へふたたびもどり、海外ふたつの国での体験記を『インどイツ物語』として連作エッセイの粗い原稿にまとめた。そのインド編は、2008年の家族でのインド再訪記とあわせ、『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』として2009年秋に上梓した。

 このたび、のこっていたドイツ編を『インどイツ物語ドイツ編』として、RABタイムリー・ブログに短期集中連載することにした。

      ****************************

 【ドイツのジャイアンツ】 1995年春 

 体の大きなドイツ人を見るたびに、日本航空の美人のお嬢さんを思い出す。

 わが一家がドイツへ引っ越すときのことだ。大、中のスーツケースのほか、段ボール10箱ほどを東京・箱崎にあるシティエアターミナル(CAT)のJALカウンターに持ち込んだ。

 引っ越し荷物の大半は船便で送り出した。一部は別送の航空便(アナカン)にしたが、それでもとどくのに一週間はかかる。会社が費用を出してくれる送料はほんのわずかで、当座いるものはお金のかからない「預け入れ手荷物」として自分で持っていくのが一番だ。

 ビジネスクラスの場合、一人30キロまでは無料で運べる。半額料金の子どもでもこの場合は一人前で計算してくれるので、一家4人で120キロまでは大丈夫だ。しかし、わが妻は目一杯詰め込むにちがいない。あらかじめチケットを手配してくれた旅行代理店を通じ、航空会社に超過分をただにしてくれるようたのんでおいた。

 何しろ、超過分が100キロなら、ファーストクラス料金と同じ料金をとられる。成田からパリ経由でケルン・ボン空港まで飛ぶのだから、100万円はかかるだろう。

 JALのCATカウンター嬢は、これから日本を離れるのが惜しくなるくらい美人だった。しかもにこやかにチェックインの手続きをしてくれたが、計量台にどっと乗った手荷物の山を見て目を丸くした。

「超過分が106万円となります」と申し訳なさそうに言う。「250キロまでは認めてもらえるよう、頼んでおいたのですが」。カウンター嬢はコンピューターのキーボードをちょこちょこと叩いて、メッセージをチェックした。

 「確かに承っておりますが、それは当社分のパリまでで、その先の分はこちらで払っていただきます」。

 旅行代理店は、パリで乗り換えるルフトハンザ航空には頼んでくれなかった。そんな大金を払えるわけがない。手持ちの日本円はほとんどなく、ドルに替えてしまっている。

 「大丈夫。ルフトハンザ航空には知り合いもいろいろいますから、自分で何とかします」

 ゆったり、堂々と、強引に言った。ニューデリー特派員時代、インド亜大陸でさんざん鍛えられてマスターした奥義だった。嘘も方便、家計を救う。昔は純真な青年だったのに、と心の中ではため息が出る。

 「でも、規則ですからこちらでお支払いいただかないと」。順番を待つ搭乗客の列も長くなり、まじめなカウンター嬢は少しあせっている。責任者らしい男性のところへ行って相談してもどって来た。

 「では、もしパリでルフトハンザから請求されたら、そこでお支払いただくということで」

 搭乗券を4枚受け取り、振り向いて妻にVサインをした。「どうしたの?」。ノー天気な妻は子どもたちの相手をしていて、わが死闘にちっとも気づいていなかった。

 JALで西へ飛び、次の“戦場”パリのシャルル・ド・ゴール空港に着いた。乗り換えカウンターでチケットを出すと、ルフトハンザ航空のパリジェンヌは、裏に預け入れ手荷物の控え券が12枚も張り付けられているのに目をむいた。コンピューター画面で超過料金が払われていないことを確認し、フランス語なまりの英語で、米ドル建ての金額を請求してきた。

 「ノーノー、成田でフルトハンザのマネージャーと話がついてます」。

 出まかせも、外国語でなら良心を痛めずすらっと使える。あれはなぜだろう。だれか心理学者で研究している人はいるのだろうか。

 「何という名前のマネージャーですか」。敵は一歩踏み込んできた。

 「名刺をもらわなかったし、ドイツ人の名前なんか覚えられませんよ。あなただってそうでしょ」

 敵は一歩しりぞいた。箱崎のJAL嬢よりルックスがぐっと見劣りするルフトハンザ嬢は、カウンター奥にいた上司のおばさんとむずかしい顔で相談をはじめた。

 その時、巨漢のドイツ人がぞろぞろとチェックインにやってきた。どう少なく見ても、彼らはこちらよりひとり当たり20~30キロは重い。

 「あのドイツ人たちから超過料金を取ればいいのに。体重制限ってないのぉ」。

 “箱崎の戦い”のいきさつを機内で聞いていた妻は、ぼくと同じことを考えている。

 すぐ後ろのドイツ人夫婦なら、わが家より計60キロは超えている。パリジェンヌに、その不公平さを言ってやろうと思ってやめた。アメリカの航空会社が、ひとり分の席ではお尻のおさまらない女性にふたり分の料金を請求し、人権侵害で訴えられたことがあった。欧米の「ジンケン」はぐっと重く、相当気をつけなければならない。

 ぐちゃぐちゃ話し合ってるおばさんとパリジェンヌを手招きして、正攻法にでた。

 「ご覧のように、家族4人子どもたちをふくめノーマル料金を払ってます。この便のお客さんで、これだけのお金を払っている人がどれだけいますか。たかが数10キロの超過分くらいサービスできますよね」

 国際航空運賃のディスカウント合戦は、ヨーロッパでも激しいはずだ。「極端に言えば、同じ機内で自分と同じ料金を払っている客を探すしても、まずいない」と旅行代理店の人から聞いたことがあった。わが家だって会社が払ってくれないときは目いっぱい安いチケットを探す。

 「これだけの荷物を乗せたところで、飛行機が落ちることはないでしょ」

 後ろに並ぶドイツ巨人軍にわざとちらちら目をやりながら、最終回の攻撃にでた。

 「うーん、いいでしょう」。

 おばさんは、少しもったいをつけて延長戦をあきらめた。となりのパリジェンヌがとつぜん可愛く見えた。

 パリから飛んだフルトハンザの座席は、ビジネスクラスもエコノミークラスも同じで、日本の路線バスなみに狭かった。巨人たちが窮屈そうに座っているのは、ちょっと気の毒だが、超過料金を払わないのだからしかたがない。

 ドイツ人はたしかに大きい。カールスルーエ大学人類遺伝学研究室は、過去75年間、男子学生2000人の体格についてサンプル調査を続けている。ゲオルク・ケントナー教授は「10年でだいたい1.6センチずつ背が伸びている」と言う。1920年には平均1メートル71だったが、94年には1メートル83となった。平均で183センチだから、ぼくらにはかなわない。日本の最近の男子大学生は、ヒトラーが少年だったころのドイツ人並みということになる。教授は、体格がよくなった理由として、糖分の摂取量が増え肉体労働が減ったことをあげ、気候が温暖になったことも関係しているとする。

 バルト海西部の港町にあるキール大学人類学研究室では、約3000人の子どもたちの足のサイズを測ることになった。どんな形とサイズの靴を作ればいいか、正確なデータを求める靴メーカー業界に頼まれたそうだ。大人の靴を脱がせて測るのは何かと問題もあるから、リゾート海岸で裸足ではしゃぐ子どもたちをねらったらしい。集計はまだだったが、ハンス・ユルゲンス室長は「旧東ドイツの子どもたちの方が、サイズは小さいががっしりしている。ドイツに生まれ育った外国人の足も大きくなりつつある」と話す。

 そんなデータを知ったのは、もちろん、ドイツで取材活動をはじめてからのことだ。

 ルフトハンザ航空のパリジェンヌと上司のおばさんは、話が分かるほうだった。自分の給料が増えるわけでも、重くて飛行機が飛べないわけでもないのだから、まあうまく交渉すれば、そんなものだろうが。

 それでも、相手がドイツ人ならこういう融通はまず絶対にきかない。ボンに暮らしはじめてからそれを思い知らされることになる。ドイツ的合理性を追究するなら、「体重別料金制」があってもよさそうだが、そんなものはあるわけがない。

 〔短期集中連載〕

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<よすみちゃん>は、卑弥呼のお友だちか

 <よすみちゃん>が、全国約7,800の博物館、美術館の情報を集めたサイト「インターネットミュージアム」のマスコット人気投票で1位になり、2011年9月18日、表彰式が行われた。

 <よすみちゃん>は、コバルトブルーの勾玉の頭と4足ヒトデのような体を持つ。島根県出雲市が昨年オープンした「出雲弥生の森博物館」のマスコットキャラクターだ。

 弥生の森は、約1,800年前の弥生時代の終わりごろから500年間にわたって古墳がつくられた西谷墳墓群の地を史跡公園として整備したものだ。

 ぼくは、偶然、表彰式の日にそこを訪れた。博物館では、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)西谷3号墓の10分の1のジオラマを中心に展示されている。

 この墳丘墓は、台形の盛り土の四隅が足のように伸びた出雲独特の古墳で、見方によっては、ヒトデともこたつに布団をかけた形ともいえる。日本の古代史をテーマとする書物を読むと、必ずといっていいほど、この墳丘墓のことが出てくる。おなじ型の古墳は、山陰や吉備(岡山県)、長野県、福島県などで計約100基が見つかっている。古代出雲王朝の勢力圏または交流圏と考えるのが自然だろう。

 だから、博物館のキャラクターとして<よすみちゃん>が誕生したわけらしい。

 とくに、西谷3号墓は最大級で、前代未聞の珍品とされるコバルトブルーのガラス製「異形勾玉」が、発掘された。時代は、まさに邪馬台国で卑弥呼が女王となったのと同時代かそのちょっと前の紀元2世紀後半とされる。博物館のジオラマには、想像される当時の光景が人形などによって再現され、具体的なイメージを描くことができる。

 それを感心して見ていると、若い女性スタッフが勾玉の希少価値などについて説明してくれた。シルバーウィーク初日だったが、来館者は少なかった。墳丘墓からは、2体の被葬者が並んで発掘されたという。ぼくが2、3質問すると、「ちょっと待ってください」と、30代らしき男性学芸員を連れて来てくれた。

 中央展示室の壁際には、3号墓の被葬者について「男王」「女王」と説明書きがある。管玉などの副葬品から考えると、古代出雲に君臨した王と考えられなくもない。だが、遺骨などは残されていないようで、なぜ「男王」「女王」と断定できるのかわからない。

 学芸員は言う。「ひとつの木棺には鉄の短剣が副葬されていたので、男性と考えられます。もうひとつの棺からは何重にもなった首飾りなどが出土し、女性と考えています」

 しかし、ジオラマの説明板には、『魏志』倭人伝によると卑弥呼を政治面で補佐した男性がいたことが記述されており、この墳丘墓に埋葬されたふたりも夫婦ではなく女王とその補佐役と考えられる、との趣旨で書かれている。

 たしかに、『魏志』倭人伝には「男弟有りて国を治めるを佐(たすく)」とある。

 それでは、「男王」ではなく「男性補佐」として展示説明したほうがより良いのではないか。その点をつくと、学芸員は言葉を濁し明確に答えられなかった。

 それにしても、この時代の古墳で男女ペアが埋葬されているケースはとても珍しいはずだ。仮に、女王と補佐だとすれば、まさに、邪馬台国の統治形態そっくりとなり、考古学的な価値は計り知れない。とりわけ、卑弥呼の墓の可能性が高いとされる奈良県桜井市纒向遺跡の箸墓古墳(はしはかこふん)は宮内庁が発掘を許可していないだけに、西谷3号墓のペア被葬者がきわめて貴重なモデルケースとなるはずだ。

 少なくとも、この古墳が卑弥呼とほぼ同時代のものであることは確認されている。それなのに、博物館のパンフレットなどでは、「邪馬台国」や「卑弥呼」にはいっさい触れていない。何がアピールポイントなのか、博物館の関係者にはわかっていない。せっかく、税金で立派なハコモノを作ったのに、これではもったいないではないか。

 さらに、1984年から85年にかけ、358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土した簸川郡斐川町大字神庭の荒神谷遺跡からもほど近い。この世紀の大発見と四隅突出型墳丘墓との関係はどうなのか、時間と空間と歴史的関係性を整理して展示してほしいものだ。

 想像をたくましくすると、仮説が浮かびあがってくる。――弥生時代、出雲地方には有力な一族が現れ、現在の鳥取県や北陸地方、さらには関西、信州、関東、東北南部にまで勢力を拡大した。そして、少なくとも弥生時代の終わりごろ、その出雲王朝は女王をかつぎ、邪馬台国と同様、政治の補佐をする男性をつけた。ふたりが亡くなると、紀元前後から出雲の伝統となっていた四隅突出型の墓を造り並べて埋葬した。しかし、王朝は何らかの理由で急速に衰退し、その記憶が神話として記紀や出雲国風土記に書き残された――。

 博物館の発掘記録ビデオによると、「男王」の木棺を埋めた上部に4本の柱を立てた直径約40センチの穴があった。ジオラマでは、柱を立てる様子が再現されてもいる。

 それはまさに、信州諏訪の御柱そのものの光景だ。御柱祭では山の斜面に巨木を滑らせて落とす「木落し」があまりにも有名だが、そうして山奥から運ばれた巨木は諏訪大社の四隅に立てて柱とされる。信州の他の神社でも、こうした神事が根強く残っている。

 博物館の展示やパンフレットでは、そうしたロマンあふれる比較考証にも触れられていない。わが郷里の出雲人よ、奮起せよ。せっかくの出雲ならではの文化遺産をもっとアピールしないでどうする!

 --毎週木曜日に更新--

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