インどイツ物語ドイツ編(14)【白雪姫と70人の小人たち=後編】
95年早春
子どもを車に乗せ<ボン日本語補習校>にきたパパたちも、玄関の外で立ち話をしている。あまり広くない校庭では、スポンジ・ボールでのサッカーやジャングルジム遊びをする子どもたちでにぎやかだ。
よそ様の建物を土曜日だけ借りているので、何かとめんどうなことが多い。運営委員の引継ノートには、管理人との戦いの跡が記されている。
「小2教室の窓ガラスが割れており、管理人が抗議にきました。状況から見て、当補習校の開校前すでに割れていた可能性が高く、ぬれぎぬであると反論しました。相手が引き下がらないため、K校長、M副校長の加勢を得て強気の交渉をしました」
暖房の調節ノブが壊れている、外から出入りできる地下トイレにゴミが散乱していた、などと管理人から抗議を受けたこともある。
ぼくは本業である特派員の仕事の合間に、わざともったいぶった正式書簡を、取材助手のクラウディア嬢にタイプ打ちしてもらい、管理人に送り付けた。
「先生や子どもたちに事情聴取した結果、補修校の責任ではないことが明らかになりました。むしろ成人学校生徒の行動に問題があるのではないかと思量されるところであり・・・」。
ボンへ赴任するとき、子どもたちのことで一番気がかりなのは日本語だった。ドイツ語も英語も、できないならできないでいい。大きくなってどこに住みどんな暮らしをすることになろうと、日本語だけはきちんとできるようにさせたかった。
学校というと、一般には、「行くのがいやだ」とだだをこねる子どももいるだろう。しかし、この補習校には、みんな勇んでやってきた。日ごろ、ドイツ語や英語がよくわからず苦労しているなかで、補習校だけは日本語が使いたい放題だ。しかも、日本語で遊べる友だちがいっぱいいる。
保護者にとっても、日本人同士でおしゃべりや情報交換ができる楽しみがある。ぼくの家族も、毎週土曜日をとても楽しみにしていた。
「ねえねえ、知ってる。火曜日だけらしいけど、ニラを売ってるアジアショップがあるんだって」
「えー、じゃあわざわざデュッセルドルフまで買いに行かなくてもいいわね」
こんな会話があちこちで交わされていた。
文集に載せた作文を数えると、小学生から高校生まで72人いる。そのほぼ半数が、大使館や報道関係、留学や出向中の大学の先生など、1年から長くて3、4年だけドイツに暮らす家庭の子どもたちだった。母語は日本語だった。
残りの半数は、国際結婚や仕事の都合でドイツに長く住んでいる家庭の子どもたちだった。この子たちは、家では日本語で話していても、友だちの間や学校ではドイツ語を使う。母語はどちらかといえばドイツ語だった。小学3年のケンゾウ君のように、3つの国と言葉を頭の中で渡り歩く子どももいる。
<ぼくはお母さんがだいすきです。お父さんは日本人です。お母さんはハンガリー人です。ぼくはだからハンガリーと日本人です。何人(なにじん)かときかれたとき、いつも日本人100パーセント、ハンガリー人100パーセント、ドイツに住んでいるのでドイツ人が50パーセントといっています。>
日本に帰ってからも学校でついていけるよう、日本式の「国語」の勉強をさせたいと考えている親がいる。一方には、第1あるいは第2外国語として、基礎日本語を勉強させたい親がいる。補習校に求めるものは微妙に異なり、ときには軋轢が生まれる。おそらくどこの国の日本語補習校も、同じ問題を抱えているだろう。
ドイツの学校では、授業中にお菓子を食べたり手芸をしたりしても、まわりに迷惑をかけなければ先生は気にしない。その代わり、進級試験に落ちれば小学生でも留年させられる。
ボンの補習校は、日本式とドイツ式の間をとって、お菓子を持ってきてもいいが食べるのは休み時間と決められていた。
ドイツは第2次大戦後、東西に分かれ、ボンは西ドイツの首都だった。ぼくたちがドイツに駐在したときには、すでにドイツは統一され名目上の首都はベルリンに移っていた。でも、人口30万人あまりの小都市ボンはまだ依然として首都機能を持っており、ドイツ連邦政府と外国公館の街だった。
日本の商社やメーカーの駐在員はほとんどおらず、各国の都市にあるような日本商工会、日本人会のような組織はなかった。そして、補習校は日本人のコミュニティセンターだった。
そろそろ文集作りの準備をしなければ、と思っているころ、日本からとんでもないニュースが飛び込んできた。阪神淡路大震災だった。ドイツのニュースを見ても、細かい被害の状況はわからない。新聞社だから情報が入っているだろうと、ぼくのオフィスにも電話が殺到した。
東京本社の同僚に頼んで、試し刷りの最新紙面をファクスしてもらった。オフィスにあるニュース専用コンピューターで、TOKYO、OSAKA発のロイター通信、AP通信の英語版速報をプリントアウトした。オフィスのファクス機は、受信と送信の連続でゴム部品が加熱し、臭いを放っていた。
<1月18日水曜日、オパとオマがドイツに8年ぶりに遊びにきました。・・・ふたりが来る1日前の朝、神戸で大じしんがありオパとオマの家は、徳島、近くなのでみんなしんぱいしてでんわしました。何回してもつうじません。りょこうがいしゃの方もなにもわからずママは一日じゅうでんわの前でまっています。>
オパはドイツ語でおじいちゃん、オパはおばあちゃんのことだ。小学3年のサオリちゃんの作文だった。
その週の土曜日には、補習校の廊下に震災関係の記事やファクスを張り出した。阪神地区に住む親戚や友人の安否を気づかって人だかりができた。「神戸に実家があるんですけど、まだ連絡がつかなくて」と暗い顔の人もいた。
サオリちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんは幸い無事だった。
<・・・夜10時半、みんなで(空港へ)むかえに行きました。ふたりがゲートから出てきました。ウワーイ、オパとオマがきた。>
土曜日、補習校の授業が終わり子どもや親、先生たちが帰っていく。当番の運営委員には、最後の仕事が残っている。夫婦で教室や廊下を掃除し、ゴミを外の回収ボックスに捨て、戸締まりを確かめる。
冬なら、緯度の高いドイツでは午後4時半ごろに日が落ちる。ゴミを捨てに出ると、外は真っ暗で地面は凍りはじめている。そんなとき、優士と舞は、たいてい玄関脇の小さな図書室で待っていた。
委員仲間のひとりが言った。
「ほうきを持った親の後ろ姿を、子どもたちはきっと覚えている。無言の情操教育になるんじゃないかな」
ドイツ生まれのキクちゃんは、その年の春、中学部の卒業式を迎えた。小学1年生で入学し9年間学んできた。補習校20年の歴史で初めての快挙だった。キクちゃんは、こんなユニークな作文をつづった。
<「ボン補習校」
低学年の時はクラスいちバカって感じだった。
他の子はもう幼稚園で読み書きをならったのか知らんけど、最初から全部できていた。
一体私は何をしていたのかは忘れたけど、ガリガリお勉強をしていなかったのは覚えている。・・・・・・
そこの君! この作文を読んで、あー、やっとキクがいなくなるとか思っているかも知れないけど、フフフ、そうあまく見ちゃいけないぞー! 私は必ず来るぞォー! こんなバカな私でもこんなに書けるようになる補習校はスゴイ!!。パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチーーーーーー!>
ボンの補習校は、「現代の寺子屋」「村の分校」と呼ばれていた。ここで学び遊べる子どもたちが、うらやましかった。でも、親たちもちゃっかり井戸端として利用していた。なにかとても大切なものが、あの学校にはあった。それをぼくは、ちょっと気どって「白雪姫」と呼んでいた。
〔短期集中連載〕
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