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インどイツ物語ドイツ編(19)【飛んで焼き栗、イスタンブール】

      94-95年冬

 クリスマスの翌朝、ドイツから飛んでトルコのイスタンブールへやって来た。ボンは未明に珍しく雪が数センチ積もって交通が混乱したが、地中海気候のこの都市はそう寒くもない。ただ、暖房に石炭ストーブを使うせいか、空がかすみ独特の臭いがする。

 ホテルから子どもたちを連れて街を散歩した。地中海と黒海をむすぶボスポラス海峡はすぐ近くだった。古い背広の上下にきちんとコートをはおった公務員あがりといった感じのおじさんが、毛バリで釣りをしている。小気味いいほど小アジが連れる。

 アジのたたきにするには少し小さいが、唐揚げにすればうまいだろう。

 「この細長い海の向こうに見えるのがアジア、今いる方がヨーロッパ」

 子どもたちにちょっと地理の勉強をさせた。今は理解できなくても、後で世界地図を見たとき、ここに行ったんだと思い出せばいい。

 「アジアの魚だからアジなんだね」

 優士もいつの間にかだじゃれが出てくる歳になった。

 近くでは、通勤客などを運ぶフェリー乗り場がある。その脇の屋台で焼き栗を売っている。まだ、夕食には少し時間があるので、おやつ代わりに買ってみることにした。

 先客がひとりいた。小柄の中年のおじさんで、熱々の栗が入った紙袋を受け取りお金を払うと、振り向いて優士と舞の手にそれをつかませた。

 初めての国で、ちょっとした親切がうれしかった。2万リラと書かれた料金札を確かめ、あわてて財布から札を取り出して渡そうとした。しかし、おじさんは受け取ろうとしない。初めから言葉は通じないと思っているのか、ひと言もしゃべらず、いいから子どもたちに食べさせなさい、としぐさで示す。

 少しとまどって、屋台のお兄さんを見た。そのお兄さんもひと言も声は出さないが、せっかくだからもらっておけば、という感じでにこにこしている。

 お礼を表すのに言葉はいらないが、いちおう「サンキュー」と言って、おじさんといっしょに子どもたちを立たせ、記念写真をとった。少し照れくさそうなおじさんは、別れ際に初めて口を開いた。「ヤーポン」という言葉だけが耳に残った。

 日本人の家族連れなのでとくに親切だったのだろうか。

 年間140%ものインフレの国だから、お金の価値を日本円で換算してもどれだけ意味があるかはわからない。あとで、その日空港で両替した為替レートをもとに計算すると、焼き栗1袋が約50円となった。

 丹波栗のように大きい。炭火で焼いただけの素朴な味がいい。イスタンブールで初めて口に入れたものは、とても香ばしかった。

 地中海の一部マルマラ海に面したギリシャ国境に近いリゾート・ホテルで年を越した。午後にはドイツへ帰る正月2日の午前中、海沿いを散歩した。突堤へ行ってみようとしたが、途中の地面がぬかるんでいて靴の底に泥がべっとりつき、引き返すはめになった。

 親子で草にこすりつけて落とそうと苦闘していると、太めのおじさんが大きなジョーロに水をたっぷり入れ、雑巾と一緒に持ってきてくれた。ホテルの海浜庭園を管理する庭師さんらしかった。例によって、ひと言もしゃべらず、まったく恩着せがましくない。

 空も海も灰色で靴も汚れてしまったが、思い出の中のトルコは、コバルト・ブルーになりそうだった。

 トルコに暮らしたことのある日本人に聞くと、外国人ならだれにでも親切とは限らないという。とんでもないほどの親日派の国民らしい。

 ぼくがニューデリー特派員をしているとき、インド亜大陸でさまざまな親日国を体験した。ヒマラヤの王国ブータンやネパールを筆頭に、パキスタン、スリランカ、バングラデッシュ。そしてインドだっておおむね親日的だ。

 そこには共通点がある。第2次大戦の時、日本が占領しなかった国々だ。フィリピンやタイなど東南アジアの人たちもふだんは親切だが、どうしてもぬぐい切れない傷跡がたまに表に出ることがある。

 日本が戦後、経済的に成功してアジアで初めて世界の先進工業国の仲間入りをし、ぼくたちが想像する以上に「あこがれの国」となっているのも事実だ。

 だが、もうひとつの大きな理由がある。

 インドでヒンズー教の最大の聖地ベナレス(バラナシなどとも呼ばれる)で、ある高名な学者の家を訪ねた時のことだ。いきなり「日本はすばらしい。コングラチュレーションズ(おめでとう)!」と固く握手された。きっと戦後の経済的成功をインド式におおげさに祝福してくれたのだろうと思った。

 だが、その学者の話をよくよく聞くと、日本が日露戦争でロシアを破ったことを祝福してくれたのだ!

 インド人の時間の観念は、ぼくらとはかなりちがう。「この間・・・」などと言うのでいつのことか確認すると、数世紀前のことだったりする。まさに悠久の時間が流れていた。

 それにしても、1904-05年にあった戦争での勝利を、いまごろ祝ってくれるとは。インドにとって、ロシアはそれほど憎い国だった。それ以上に、アジア人として誇りの高いインド人にとって、おなじアジアの日本が、白人のロシアをやっつけたのが何とも痛快だったらしい。

 実は、トルコで雇ったトルコ語-英語の通訳のおばさんも、おなじことを言った。「日本はすごいです。何しろロシアをやっつけたんですから」

 長らくロシアから圧力を受けつづけていたオスマン帝国の人びとは、東洋の小国日本の勝利を快挙として熱狂した。帝国の一部がいまのトルコだ。日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃破した連合艦隊司令長官・東郷平八郎提督にちなんで、子どもにトーゴーという名をつけることが流行したほどだったそうだ。

 通訳さんによると、それに先立ち、トルコ人が日本びいきになった歴史的事件があった。日本人はほとんど忘れているが、トルコでは教科書にも載っており、多くの国民が語り継いでいるそうだ。

 エルトゥールル号遭難事件という。1890年(明治23年)のある夜、オスマン帝国の木造軍艦エルトゥールル号が、現在の和歌山県串本町沖の海上で遭難し、587人が死亡または行方不明となった。

 台風の強風にあおられ岩礁に激突、座礁し、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没した。生存者が数10メートルの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせ、地元漁民は総出で救助と生存者の介抱に当たった。

 知らせを聞いた明治天皇は、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。日本の各新聞でも衝撃的なニュースとして報道され、多くの義捐金・弔慰金が集まった。結局、収容された69人がイスタンブールに無事生還することができた。

 オスマン帝国でも、新聞を通じて日本人による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、トルコの人びとは日本と日本人に対して好印象を抱いた。

 それが、トルコ人の超親日ぶりの起源という。

 和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、現在、「エルトゥールル号殉難将士慰霊碑」とトルコ記念館が建っているという。また、町と在日本トルコ大使館の共催で、いまでも5年ごとに慰霊祭が行われているそうだ。

 ぼくは、学生時代、串本町でクラブの合宿をしたが、そういう歴史は知らなかった。トルコへ旅をして、何だか心が温かくなった。

 優士と舞に焼き栗をくれたおじさん、泥んこの靴をきれいにするよう水と雑巾を差し出してくれたおじさんの後ろには、そういう歴史があったのだった。

 〔短期集中連載〕

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