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インどイツ物語ドイツ編(22)【悲しみの午後=前編】

      95年晩夏

 ボンにしては珍しく蒸し暑かった。きのうの雷雨で地面がすっかり湿ったところへ、夏の終わりの太陽が照りつけている。

 十字架のある建物に向かって歩く。いつもうるさい子どもたちも、きょうだけは神妙だ。 優士にとって初めての担任だったフェルドマン先生の追悼ミサが行われる。とても優しく優秀な女の先生で、優士も懐いていた。病気になり地元カリフォルニアに帰って入院し、そのまま帰らぬ人となった。

 ちょっと信じられないことだが、33歳になる妻は、きょう初めてこうした悲しい儀式に参列するという。子どもたちも初めてだった。

 パイプ・オルガンのメロディが、かすかに流れてくる。通称「ボンのアメリカ村」の一画にあるチャペルには、アメリカン・スクールで顔なじみの人たちが集まってきていた。入り口に記帳台があった。その脇でマーツコスラン校長先生が一人ひとりに声をかけている。

 「サンキュー」と参列のお礼を言われたとき、何と答えればいいのか、ぼくは夕べから頭を悩ませていた。ごくふつうに使う「マイ・プレジャー」では、私の喜びとするところです、というのが本来の意味だからいかにもそぐわない。「ユー・アー・ウェルカム」もちょっと変ではないだろうか。

 「わざわざ来ていただいて、本当にありがとう」。校長先生は丁寧にあいさつしてくれた。ぼくは何も言わず、日本式に軽く頭を下げた。先生もつられるように頭を下げた。アメリカ人がペコっとおじぎをするのは、たいてい滑稽だが、この場合、無言のおじぎが一番ふさわしく思えた。

 礼拝堂には木の長椅子がずらっと並び、すでにたくさんの人たちが静かに腰をおろしている。各前列の席の背もたれに取り付けられたポケットに、ぶ厚い聖書や賛美歌集が差し込まれている。

 白い儀式用の服を着たふたりの少年に先導され、大柄な牧師さんが正面のステージに立った。その真後ろから、おだやかな顔のキリスト像が参列者を見おろしている。

 司会者らしいあご髭の男性が立ち上がり、「グッド・アフタヌーン」とあいさつを始めた。こんな時でも「グッドな午後」なのだろうか。ただ習慣で口にするのだろうか。もっともグッドには神の祝福の意味があるそうだ。フェルドマン先生も神によって天に召されたのだから、グッドでいいのかもしれない。

 2列前の席には、3原色のまだらのスーツを着た女性の後ろ姿が見える。Tシャツの先生もいた。うちの家族はわざわざ黒の服を着てきたが、ほとんどの人は買い物帰りや散歩のついでといった感じだった。

 全員が起立して賛美歌の斉唱となった。「この曲、きいたことがある」と舞が小声で言う。さまざまな国のさまざまな宗教の人たちが集まっている。賛美歌を知っている人は意外に少ないようだが、歌声は礼拝堂からあふれ出ていった。

 やがて、牧師さんが短い儀式をした後、故人をしのぶスピーチを始めた。

 <きょう私たちはここに、マリー・アンヌ・フェルドマンのために祈り、その生涯を追悼ミサによって讃えようと集いました。ボン・アメリカン・エレメンタリー・スクールの95年卒業記念アルバムには、「マリー・アンヌ・フェルドマンの速やかな回復を」との言葉があります。しかし、マリー・アンヌは不治の病に襲われ、最悪の段階にまで達していました。その病名は、私たちをもっとも恐れさせるものです。癌でした>

 チャペルの入り口でもらった黒枠の追悼プロフィールのコピーを見ると、その真ん中で遺影が微笑んでいる。

 1年半近く前、優士を初めて教室に連れて行った朝は、親も不安だった。フェルドマン先生は、やや太めの体で、優士を包み込むように迎えてくれた。だいじょうぶ、すぐに慣れるから。ひと言も英語がわからない優士でも、ついうなずくような暖かさがあった。

 アメリカの学校教育は荒廃しているなどと伝えられるが、少なくともボンの学校はちがった。それをすぐに気づかせてくれたのは、今思えばフェルドマン先生だった。

 保護者面談のとき、親バカ丸出しで自分の子どもを自慢するように、優士をほめてくれた。あれは、子どもを異国の学校に預ける親の不安を和らげるための言葉でもあったのかも知れない。

 <マリー・アンヌは、かなり控えめで自分のことはあまり話さないかただったのでしょうか。そんな重い病にかかっているとは、みなさまもほとんど知らなかったはずです。彼女は今年3月、アメリカの医師の元へ行きました。どんなに心が重かったことでしょう。きっと直感で医師が何と言うのか知っていたのでした。ボンに残した1年生たち、彼女の口癖だった「マイ・ベイビーズ」のことが気がかりだったにちがいありません。>

 礼拝堂に響く牧師の太い声を聞きながら、ぼくはこれまでに列席したさまざまな葬儀や追悼セレモニーの場面を頭に浮かべた。母方の祖父の火葬、西沢権一郎・長野県知事の県民葬、パキスタンの独裁者ジアウル・ハク大統領の国葬、アフガニスタンで反政府ゲリラのロケット弾にやられたシーク教徒の追悼式、インドのキリスト教徒の埋葬式、シンハリ人過激派のテロで死んだスリランカ仏教徒の合同葬儀・・・。

 プライベートと仕事を合わせれば何10回になるか。どんな宗教でも、花と香が添えられ、ときにはうるさすぎるほどの音楽が伴っていた。

 そういえば、息子の「優士」という名前を思いついたのは、大学の恩師の葬式に向かう新幹線の車内だった。交通事故で急死したことを知り、東京から京都へ駆けつけるところだった。新聞を開いていて、ある「脚本家」が「歌手」や「作家」を招いて対談をするというテレビ新番組の案内記事が目に入った。

 やがて生まれてくる子は、何という肩書きで呼ばれるようになるだろう。どんな職業につくか想像もできない。でももし男の子なら、優しいサムライになって欲しい。やさしいだけでも強いだけでもだめだから。

 死ぬ人がいれば、生まれてくる子もいる。こんなときに名前を決めるのも、あるいはふさわしいのかもしれない、とひとり思った。

 恩師の葬儀の翌日、兵庫県に住む妹の家から妻に電話すると、きょう病院へ行って性別が分かったと言う。「超音波の機械の画面に、タマタマがはっきり映っていたわ」。それからちょうど2か月後、大きな産声をあげて男の子が生まれた。3,260グラムだった。

 いま、その子は小学1年になり、アメリカン・スクールで学んでいる。フェルドマン先生の「マイ・ベイビーズ」のひとりとして。

 <彼女は、31年間も国防総省直属の学校で働いてきました。とくに小さな子どもたちを教える天与の才がありました。人生において最良のスタートを切らせようと努めたのです。人一倍敬謙なクリスチャンとして、ボンの教区のために尽くし、子どもたちのためには、誰よりも美しく明るいクリスマスツリーを立てました>

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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