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2011年11月

インどイツ物語ドイツ編(22)【悲しみの午後=前編】

      95年晩夏

 ボンにしては珍しく蒸し暑かった。きのうの雷雨で地面がすっかり湿ったところへ、夏の終わりの太陽が照りつけている。

 十字架のある建物に向かって歩く。いつもうるさい子どもたちも、きょうだけは神妙だ。 優士にとって初めての担任だったフェルドマン先生の追悼ミサが行われる。とても優しく優秀な女の先生で、優士も懐いていた。病気になり地元カリフォルニアに帰って入院し、そのまま帰らぬ人となった。

 ちょっと信じられないことだが、33歳になる妻は、きょう初めてこうした悲しい儀式に参列するという。子どもたちも初めてだった。

 パイプ・オルガンのメロディが、かすかに流れてくる。通称「ボンのアメリカ村」の一画にあるチャペルには、アメリカン・スクールで顔なじみの人たちが集まってきていた。入り口に記帳台があった。その脇でマーツコスラン校長先生が一人ひとりに声をかけている。

 「サンキュー」と参列のお礼を言われたとき、何と答えればいいのか、ぼくは夕べから頭を悩ませていた。ごくふつうに使う「マイ・プレジャー」では、私の喜びとするところです、というのが本来の意味だからいかにもそぐわない。「ユー・アー・ウェルカム」もちょっと変ではないだろうか。

 「わざわざ来ていただいて、本当にありがとう」。校長先生は丁寧にあいさつしてくれた。ぼくは何も言わず、日本式に軽く頭を下げた。先生もつられるように頭を下げた。アメリカ人がペコっとおじぎをするのは、たいてい滑稽だが、この場合、無言のおじぎが一番ふさわしく思えた。

 礼拝堂には木の長椅子がずらっと並び、すでにたくさんの人たちが静かに腰をおろしている。各前列の席の背もたれに取り付けられたポケットに、ぶ厚い聖書や賛美歌集が差し込まれている。

 白い儀式用の服を着たふたりの少年に先導され、大柄な牧師さんが正面のステージに立った。その真後ろから、おだやかな顔のキリスト像が参列者を見おろしている。

 司会者らしいあご髭の男性が立ち上がり、「グッド・アフタヌーン」とあいさつを始めた。こんな時でも「グッドな午後」なのだろうか。ただ習慣で口にするのだろうか。もっともグッドには神の祝福の意味があるそうだ。フェルドマン先生も神によって天に召されたのだから、グッドでいいのかもしれない。

 2列前の席には、3原色のまだらのスーツを着た女性の後ろ姿が見える。Tシャツの先生もいた。うちの家族はわざわざ黒の服を着てきたが、ほとんどの人は買い物帰りや散歩のついでといった感じだった。

 全員が起立して賛美歌の斉唱となった。「この曲、きいたことがある」と舞が小声で言う。さまざまな国のさまざまな宗教の人たちが集まっている。賛美歌を知っている人は意外に少ないようだが、歌声は礼拝堂からあふれ出ていった。

 やがて、牧師さんが短い儀式をした後、故人をしのぶスピーチを始めた。

 <きょう私たちはここに、マリー・アンヌ・フェルドマンのために祈り、その生涯を追悼ミサによって讃えようと集いました。ボン・アメリカン・エレメンタリー・スクールの95年卒業記念アルバムには、「マリー・アンヌ・フェルドマンの速やかな回復を」との言葉があります。しかし、マリー・アンヌは不治の病に襲われ、最悪の段階にまで達していました。その病名は、私たちをもっとも恐れさせるものです。癌でした>

 チャペルの入り口でもらった黒枠の追悼プロフィールのコピーを見ると、その真ん中で遺影が微笑んでいる。

 1年半近く前、優士を初めて教室に連れて行った朝は、親も不安だった。フェルドマン先生は、やや太めの体で、優士を包み込むように迎えてくれた。だいじょうぶ、すぐに慣れるから。ひと言も英語がわからない優士でも、ついうなずくような暖かさがあった。

 アメリカの学校教育は荒廃しているなどと伝えられるが、少なくともボンの学校はちがった。それをすぐに気づかせてくれたのは、今思えばフェルドマン先生だった。

 保護者面談のとき、親バカ丸出しで自分の子どもを自慢するように、優士をほめてくれた。あれは、子どもを異国の学校に預ける親の不安を和らげるための言葉でもあったのかも知れない。

 <マリー・アンヌは、かなり控えめで自分のことはあまり話さないかただったのでしょうか。そんな重い病にかかっているとは、みなさまもほとんど知らなかったはずです。彼女は今年3月、アメリカの医師の元へ行きました。どんなに心が重かったことでしょう。きっと直感で医師が何と言うのか知っていたのでした。ボンに残した1年生たち、彼女の口癖だった「マイ・ベイビーズ」のことが気がかりだったにちがいありません。>

 礼拝堂に響く牧師の太い声を聞きながら、ぼくはこれまでに列席したさまざまな葬儀や追悼セレモニーの場面を頭に浮かべた。母方の祖父の火葬、西沢権一郎・長野県知事の県民葬、パキスタンの独裁者ジアウル・ハク大統領の国葬、アフガニスタンで反政府ゲリラのロケット弾にやられたシーク教徒の追悼式、インドのキリスト教徒の埋葬式、シンハリ人過激派のテロで死んだスリランカ仏教徒の合同葬儀・・・。

 プライベートと仕事を合わせれば何10回になるか。どんな宗教でも、花と香が添えられ、ときにはうるさすぎるほどの音楽が伴っていた。

 そういえば、息子の「優士」という名前を思いついたのは、大学の恩師の葬式に向かう新幹線の車内だった。交通事故で急死したことを知り、東京から京都へ駆けつけるところだった。新聞を開いていて、ある「脚本家」が「歌手」や「作家」を招いて対談をするというテレビ新番組の案内記事が目に入った。

 やがて生まれてくる子は、何という肩書きで呼ばれるようになるだろう。どんな職業につくか想像もできない。でももし男の子なら、優しいサムライになって欲しい。やさしいだけでも強いだけでもだめだから。

 死ぬ人がいれば、生まれてくる子もいる。こんなときに名前を決めるのも、あるいはふさわしいのかもしれない、とひとり思った。

 恩師の葬儀の翌日、兵庫県に住む妹の家から妻に電話すると、きょう病院へ行って性別が分かったと言う。「超音波の機械の画面に、タマタマがはっきり映っていたわ」。それからちょうど2か月後、大きな産声をあげて男の子が生まれた。3,260グラムだった。

 いま、その子は小学1年になり、アメリカン・スクールで学んでいる。フェルドマン先生の「マイ・ベイビーズ」のひとりとして。

 <彼女は、31年間も国防総省直属の学校で働いてきました。とくに小さな子どもたちを教える天与の才がありました。人生において最良のスタートを切らせようと努めたのです。人一倍敬謙なクリスチャンとして、ボンの教区のために尽くし、子どもたちのためには、誰よりも美しく明るいクリスマスツリーを立てました>

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(21)【キャベツ時間】

      95年夏

 「あ、いけなーい・・・」。妻の例の口癖がキッチンから聞こえてくる。

 雨模様の土曜日の昼下がりだった。お好み焼きを食べようと準備しているはずだったのだが、今日は何をミスったのだろう。

 「キャベツがなかったの。白菜ならあるけど」

 白菜入りのお好み焼きなど、水っぽくてうまいわけがない。

 ボンのわがマンションからゆるい坂道を3、4分登ったところに、ちょっとしたスーパーマーケットがある。車で3分行けば本格的な店もある。冷蔵庫の上の時計を見ると、1時半になろうとしている。

 「うーん」。ちょっとひとっ走りといきたいところだが、閉店まで微妙な時間だ。わざわざ急いで行っても、目の前で冷たい顔をした店員にシャッターを下ろされるのはしゃくだし、それにさっと家を飛び出すような天気でもない。

 「ま、今日はキャベ抜き特製ということで」

 夫婦会議で結論を出すのに、ちょっと時間がかかった。子どもたちはお腹をすかせ、その分、タマネギとニンジン入りの特製お好み焼きをいつも以上にほうばった。

 「ま、なんとかなるじゃない」と、妻はすましている。

 しかし、こうした小トラブルはドイツのどこの家庭でも日常茶飯に起こっており、場合によっては「なんとかならない」こともある。

 すべては、1956年に「商店従業員の福祉のため」に制定されたという「閉店時間法」のせいなのだ。

 小売店は、「週68時間30分を超えて営業してはいけない」とされ、こと細かに規則が決められているという。ふつう店が閉まるのは、月-金曜は午後6時半、木曜だけは午後8時半、土曜は午後2時で、日曜祭日は完全に閉まっている。

 しかも、この時間は必ずしも「買い物ができるタイムリミット」ではない。「従業員の帰宅時間」となっていて、その20~30分前にはすでに入れないケースもままある。

 例外は、空港や駅、ガソリンスタンドに併設された売店と土産品店だけだが、こうした店には生鮮食品はない。

 ちなみに、イギリスでは月-土曜は何の規制もなく、日曜祭日も大型店だけが「6時間以内の営業」とされている。フランスでも日曜祭日だけ「食料品店のみ営業可」と定められているが、他の規制はいっさいない。ちょっときびしいイタリアでは、日曜祭日は全店休みだが、月-土曜は夏季なら午後9時まで、冬季は8時まで開いている。

 ドイツのショッピング事情は、こと時間については「欧州最悪」とされ、ある調査によると、ドイツ人のストレスの第4の原因にもなっている。

 ちなみに、ワーストスリーは「親戚づきあい」「子ども」「職場の上司」だそうだ。上のふたつは分からなくもないが、職場の上司がストレスの原因なんて、ドイツ人は甘えている。日本とちがい、仕事帰りのちょっと一杯に無理やりつきあわされたり、お得意さまとの日曜接待ゴルフに駆り出されたりすることはありえない。仕事が終わればさっさと帰れるのだから、ニッポンのサラリーマンのことを思えば何でもないはずだ。でも、やっぱり上司がうざったいのは、どこの国でも同じなのか。

 閉店時間を法律できびしく決めるのはいくらなんでもひど過ぎるということで、見直しの空気が生まれたことはある。94年にも、「規制緩和」が検討されたが、この年の秋に総選挙を控えていたため、政府与党が商業団体などの反発を恐れて腰くだけになったいきさつがある。

 しかしついに、95年の夏、民間のIFO経済研究所が、画期的な見直し案のレポートを発表した。経済省が「パート労働の雇用を増やし、同時に消費者の購買意欲を高め景気に刺激を与える」ため委託していたのだ。ポイントはこうだ。

 「月-金曜は午前6時から午後10時、土曜日は午後6時まで営業してもよい」

 よその国では当たり前のことだが、もしこれが実現すれば、「戦後ドイツで最大級の規制緩和」になるのはまちがいないとされた。

 セルフサービス方式のスーパーや専門店はさっそく歓迎した。しかし、早くも小売商の経営者団体などが反対を唱えた。

 これまで、木曜日の午後6時半以降の2時間分は「超過勤務手当」として55%増の時給を払ってきた。従業員側と折り合いがつかないかぎり、営業時間が延びてもむしろ収益減になる恐れがあるからだ。

 とはいえ、このIFOレポートがきっかけになって、閉店時間法を改正する動きが軌道に乗った。総選挙の時には政府の動きを牽制していた「労働者の政党」社会民主党も、選挙が終わるとさすがに態度を変えてきた。

 さて、見直し案をたたき台に改正法案を作り、早ければ96年の半ば、遅くとも年末までに改正が実現しそうとみられていた。

 問題は、いわゆる「落としどころ」だが、ちまたでもっともらしく言われているのは、「日曜祭日をのぞき毎日午後8時まで」という線だった。

 その後、閉店時間法が改正されたかどうか、ぼくは任期を終え日本へ帰国したのでフォローしていない。いずれにしろ、午後8時よりあとになることはなかっただろう。

 午後8時は、一説によると「聖なる時刻」らしい。法律で「洗濯」や「庭の草取り」をおしまいにしなければならない時刻、と決まっているのだそうだ。

 まったく・・・。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(20)【パリの花盗人】

      95年夏

 家族4人でシャンゼリゼ通りを歩き、たどり着いた凱旋門の階段を、優士と舞が数えながらを歩いて上った日は暑かった。274段あった。

 翌日のパリは肌寒かった。ホテルをチェックアウトし、荷物をフロントにあずけてぶらぶら歩いた。フランス革命の発端、バスティーユ牢獄のあったバスティーユ広場まで10分もかからない。足を伸ばして、セーヌ川の川中島シテ島の裏町を行くと、ノートルダム寺院に出た。

 「せむし男はいないねえ」と舞に言うと、「そんなもの、ほんとにいるわけないじゃん」とばかにされてしまった。すっかり小生意気になっている。

 パリ最大のデパート「サマルテーヌ」でカニ用のはさみなど調理器具をショッピングし、気の向くまま歩いて小さな公園まできた。

 ベンチに腰を下ろして辺りを見回すと、どこかで見た覚えのある立派な建物がすぐそこにあった。透明のピラミッドもみえる。パリのど真ん中、ルーブル美術館だった。入場者の長い列ができていて、入るにはかなり時間がかかりそうだった。

 モナリザはあきらめて、パリ最後の思い出にというのも変だが、ボンにはない「日本式ラーメン屋」へでも行こうか、と再び歩きだした時だった。午後3時ごろのことで、お昼をまだ食べていないぼくたちは空腹だった。

 「あ、あれはゼッタイ赤ジゾよ!!」

 妻がとつぜん声をあげた。低いフェンスで囲まれた花壇に、赤紫の植物がたくさん植えられている。

 「うーん、どうかなあ。シソモドキっていうこともあるからなぁ」

 ボンの自宅近くのライン河畔で大葉(青ジゾ)そっくりの植物を見つけ、こりゃいいと手でちぎったら、とげが指先にいっぱい刺さってひどい目にあったことがある。

 たかがシソでも、ぼくたちが住んでいたボンで手に入れるのはなかなか大変だった。デュッセルドルフから月に1回やってくる日本食の宅配サービス会社に注文すると、大葉は100枚1パックで35マルク、2,000円以上する。一度だけ取り寄せたが、日本の田舎に行けば庭先や畑の隅で始末にこまるほど生えてくるのに、と食べていてばかばかしくなった。

 ある事情通の主婦によると、ケルンの高台にある陶芸教室をやっている家の庭にたくさんそうだが、車で1時間以上かかるところで住所もわからない。

 ルーブル美術館の公園にはぱらぱらと人がいて、大の大人が花壇に入り込むのは気がひける。

 「ちょっと、あの赤ジソの葉っぱをちぎってきて」

 妻が子どもたちに指令を飛ばした。親が何の話をしているかは、今ひとつわかっていないようだったが、「禁断の花園」に入ってもいいといわれることなどめったにない。ふだん言うことをきかないふたりなのに、こんな時は反応がすばやい。先を争うようにフェンスを越え、さっさっと取ってきて得意そうに差し出した。

 指でもむと、まちがいなくあのすっきりした独特の香りが漂ってくる。妻は、石鯛を釣り上げたアマチュア釣り師のように得意満面だ。

 「よさそうな葉っぱを何枚か持ってきて」

 妻は新たな指令を出したが、せっかくなら1株失敬した方がいい。ぼくは辺りをうかがってフェンスをほいと越え、いちばん端の小さ目な株を引き抜いた。

 ボンに赴任するとき、もちろん、わが家の鉄則として、さまざまな「ニッポンの味」を家庭菜園用に持ってきた。インド体験にもとづいている。

 以下、妻の報告による。バルコニーのプランターで育てたうち、ミョウガは最初の夏に枯れてしまったが、三つ葉は大繁殖し隣の家のバルコニーにまで種が飛んで、ペンペン草のように生えている。日当たりが良すぎるのか微妙な香りは少ないが、茶碗蒸しなどには重宝する。

 春菊、二十日大根は失敗、ニラは日本の種はだめだったが、こちらでたまたま見つけた種をまくと芽を出した。ただし、残念ながらあえて料理に使えるほど大きくはなっていない。ごくたまにわが家の食卓に乗るのは、ボンのアジア・ショップで週に1日だけ売っているものか、デュッセルドルフの日本食品店で調達したものだ。

 ゴボウだってとつぜん無性に食べたくなるが、俗に「日本人以外にとっては、単なる草の根っこ」とも言われる。これを捕虜に食べさせた旧日本軍将兵は、戦後、捕虜虐待の罪に問われたという。ドイツでは本格的な日本食品店にしかなく、妻が94年の春に買ったとき、1本22マルクした。時価1,400円のゴボウ様で恐れ入った。

 例の宅配会社の注文書を見ると、長イモ(約1キロ)が8マルクで500円くらい、栗カボチャ(約1・5キロ)が10マルク、650円ほどだ。

 「ドイツのカボチャはきれいなオレンジで一見おいしそうだけど、水っぽくて筋っぽくて煮物にはまったくだめ」と妻は嘆く。パンプキン・パイやスープ用らしい。

 ニューデリーにいた時は、プチトマトに二十日大根、大葉、カボチャが庭で大豊作だった。気候はインドよりドイツの方が日本にはるかに近いのに、「アジアの野菜はアジアで」ということなのだろうか。

 そういえば、春菊はどちらの国でも「花」として栽培されている。これを野菜として食べようと思うと、宅配でかなりの値が張る。ニューデリーのわが家の庭で、妻が青々とした春菊を収穫していると、「庭師のおじさんがけげんな顔をしていた」という。

 ボン・ライン河畔の大公園ラインアウェの花壇にも春菊が咲いていた。「よっぽど摘んで帰ろうかと思ったけど、葉が育ちすぎてたのでやめた」と妻は告白する。

 ボンでは未遂に終わったが、パリでは「花盗人」をやってしまった。

 「だから花の都って言うのかなあ」

 英仏海峡トンネルをくぐって走る開通まもない超特急ユーロスターの車内で、ぼくはつい馬鹿なことを口にした。

 パリからロンドンまで、3時間足らずで着く。アパートメント式ホテル、日本でいうウィークリーマンションのような宿に落ちついたのは、夜の10時をすぎていた。

 コンビニエンス・ストアで買ったキュウリとレタス、生ハムに刻んだ赤ジソをかけて、盗っ人の一味は舌鼓を打った。後ろめたさが、隠し味になっていた。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(19)【飛んで焼き栗、イスタンブール】

      94-95年冬

 クリスマスの翌朝、ドイツから飛んでトルコのイスタンブールへやって来た。ボンは未明に珍しく雪が数センチ積もって交通が混乱したが、地中海気候のこの都市はそう寒くもない。ただ、暖房に石炭ストーブを使うせいか、空がかすみ独特の臭いがする。

 ホテルから子どもたちを連れて街を散歩した。地中海と黒海をむすぶボスポラス海峡はすぐ近くだった。古い背広の上下にきちんとコートをはおった公務員あがりといった感じのおじさんが、毛バリで釣りをしている。小気味いいほど小アジが連れる。

 アジのたたきにするには少し小さいが、唐揚げにすればうまいだろう。

 「この細長い海の向こうに見えるのがアジア、今いる方がヨーロッパ」

 子どもたちにちょっと地理の勉強をさせた。今は理解できなくても、後で世界地図を見たとき、ここに行ったんだと思い出せばいい。

 「アジアの魚だからアジなんだね」

 優士もいつの間にかだじゃれが出てくる歳になった。

 近くでは、通勤客などを運ぶフェリー乗り場がある。その脇の屋台で焼き栗を売っている。まだ、夕食には少し時間があるので、おやつ代わりに買ってみることにした。

 先客がひとりいた。小柄の中年のおじさんで、熱々の栗が入った紙袋を受け取りお金を払うと、振り向いて優士と舞の手にそれをつかませた。

 初めての国で、ちょっとした親切がうれしかった。2万リラと書かれた料金札を確かめ、あわてて財布から札を取り出して渡そうとした。しかし、おじさんは受け取ろうとしない。初めから言葉は通じないと思っているのか、ひと言もしゃべらず、いいから子どもたちに食べさせなさい、としぐさで示す。

 少しとまどって、屋台のお兄さんを見た。そのお兄さんもひと言も声は出さないが、せっかくだからもらっておけば、という感じでにこにこしている。

 お礼を表すのに言葉はいらないが、いちおう「サンキュー」と言って、おじさんといっしょに子どもたちを立たせ、記念写真をとった。少し照れくさそうなおじさんは、別れ際に初めて口を開いた。「ヤーポン」という言葉だけが耳に残った。

 日本人の家族連れなのでとくに親切だったのだろうか。

 年間140%ものインフレの国だから、お金の価値を日本円で換算してもどれだけ意味があるかはわからない。あとで、その日空港で両替した為替レートをもとに計算すると、焼き栗1袋が約50円となった。

 丹波栗のように大きい。炭火で焼いただけの素朴な味がいい。イスタンブールで初めて口に入れたものは、とても香ばしかった。

 地中海の一部マルマラ海に面したギリシャ国境に近いリゾート・ホテルで年を越した。午後にはドイツへ帰る正月2日の午前中、海沿いを散歩した。突堤へ行ってみようとしたが、途中の地面がぬかるんでいて靴の底に泥がべっとりつき、引き返すはめになった。

 親子で草にこすりつけて落とそうと苦闘していると、太めのおじさんが大きなジョーロに水をたっぷり入れ、雑巾と一緒に持ってきてくれた。ホテルの海浜庭園を管理する庭師さんらしかった。例によって、ひと言もしゃべらず、まったく恩着せがましくない。

 空も海も灰色で靴も汚れてしまったが、思い出の中のトルコは、コバルト・ブルーになりそうだった。

 トルコに暮らしたことのある日本人に聞くと、外国人ならだれにでも親切とは限らないという。とんでもないほどの親日派の国民らしい。

 ぼくがニューデリー特派員をしているとき、インド亜大陸でさまざまな親日国を体験した。ヒマラヤの王国ブータンやネパールを筆頭に、パキスタン、スリランカ、バングラデッシュ。そしてインドだっておおむね親日的だ。

 そこには共通点がある。第2次大戦の時、日本が占領しなかった国々だ。フィリピンやタイなど東南アジアの人たちもふだんは親切だが、どうしてもぬぐい切れない傷跡がたまに表に出ることがある。

 日本が戦後、経済的に成功してアジアで初めて世界の先進工業国の仲間入りをし、ぼくたちが想像する以上に「あこがれの国」となっているのも事実だ。

 だが、もうひとつの大きな理由がある。

 インドでヒンズー教の最大の聖地ベナレス(バラナシなどとも呼ばれる)で、ある高名な学者の家を訪ねた時のことだ。いきなり「日本はすばらしい。コングラチュレーションズ(おめでとう)!」と固く握手された。きっと戦後の経済的成功をインド式におおげさに祝福してくれたのだろうと思った。

 だが、その学者の話をよくよく聞くと、日本が日露戦争でロシアを破ったことを祝福してくれたのだ!

 インド人の時間の観念は、ぼくらとはかなりちがう。「この間・・・」などと言うのでいつのことか確認すると、数世紀前のことだったりする。まさに悠久の時間が流れていた。

 それにしても、1904-05年にあった戦争での勝利を、いまごろ祝ってくれるとは。インドにとって、ロシアはそれほど憎い国だった。それ以上に、アジア人として誇りの高いインド人にとって、おなじアジアの日本が、白人のロシアをやっつけたのが何とも痛快だったらしい。

 実は、トルコで雇ったトルコ語-英語の通訳のおばさんも、おなじことを言った。「日本はすごいです。何しろロシアをやっつけたんですから」

 長らくロシアから圧力を受けつづけていたオスマン帝国の人びとは、東洋の小国日本の勝利を快挙として熱狂した。帝国の一部がいまのトルコだ。日本海海戦でロシア・バルチック艦隊を撃破した連合艦隊司令長官・東郷平八郎提督にちなんで、子どもにトーゴーという名をつけることが流行したほどだったそうだ。

 通訳さんによると、それに先立ち、トルコ人が日本びいきになった歴史的事件があった。日本人はほとんど忘れているが、トルコでは教科書にも載っており、多くの国民が語り継いでいるそうだ。

 エルトゥールル号遭難事件という。1890年(明治23年)のある夜、オスマン帝国の木造軍艦エルトゥールル号が、現在の和歌山県串本町沖の海上で遭難し、587人が死亡または行方不明となった。

 台風の強風にあおられ岩礁に激突、座礁し、機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没した。生存者が数10メートルの断崖を這い登って灯台守に遭難を知らせ、地元漁民は総出で救助と生存者の介抱に当たった。

 知らせを聞いた明治天皇は、政府として可能な限りの援助を行うよう指示した。日本の各新聞でも衝撃的なニュースとして報道され、多くの義捐金・弔慰金が集まった。結局、収容された69人がイスタンブールに無事生還することができた。

 オスマン帝国でも、新聞を通じて日本人による救助活動や日本政府の尽力が伝えられ、トルコの人びとは日本と日本人に対して好印象を抱いた。

 それが、トルコ人の超親日ぶりの起源という。

 和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、現在、「エルトゥールル号殉難将士慰霊碑」とトルコ記念館が建っているという。また、町と在日本トルコ大使館の共催で、いまでも5年ごとに慰霊祭が行われているそうだ。

 ぼくは、学生時代、串本町でクラブの合宿をしたが、そういう歴史は知らなかった。トルコへ旅をして、何だか心が温かくなった。

 優士と舞に焼き栗をくれたおじさん、泥んこの靴をきれいにするよう水と雑巾を差し出してくれたおじさんの後ろには、そういう歴史があったのだった。

 〔短期集中連載〕

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なぜ、日本には<反日日本人>がたくさんいるのか=後編

 「うちの父親は、犯罪者なんです。誰かその被害者を知りませんか? 裁判の原告になってもらおうと、いま探しているところなんですけど」

 知らない人物からこんなことを言われたら、人はどう思うだろう。「訳がわからない。この人は少し精神を病んでいるのでは」と受け止めるのがふつうだろう。

 しかし、日本社会では戦争責任の問題をめぐって、こんなことが現実にある。やや古い話だが、毎日新聞1993年9月9日朝刊「記者の目」欄には、こんなくだりがある。

「韓国人の戦争犠牲者を探している。韓国側から日本政府に謝罪と賠償を(求めて)行う裁判を起したい。韓国人犠牲者を原告にしたい」

 記者は「歴史の発掘という努力はともかく『原告を探す』という発想には驚いた」と率直に書いている。

 いわゆる従軍慰安婦騒動も、おなじプロセスで国際問題化した。祖国日本を貶めるために、わざわざ周辺国へ出向いて“犠牲者”を探し出し、日本政府相手の訴訟を起させる。

 歴史的事実ならともかく歴史を捻じ曲げてまで槍玉にあげ、日本を攻撃して快哉を叫ぶのだ。ぼくは、こういう人びとを<反日日本人>と呼んでいる。

 どんな国にも、左翼とか反体制派というのは存在する。しかし、<反日日本人>のような存在は、世界を見渡してもきわめてユニークだ。

 ろくに日本語の史料や文献を読めない外国人は、日本人がそう言っているのだから事実なのだろう、と信じてしまう。心ある日本人の歴史家らが、厳密な歴史考証に基づいて「それはちがう」とアピールしても、<反日日本人>の叫び声にかき消されてしまう。

 国のイメージは損なわれ、名誉はぼろぼろになる。国民の誇りも傷つけられる。それが日本の悲劇であり、いまもつづいている。

 なぜ、日本にはこんな特殊な人種がいるのだろうか。ぼくの知るかぎり、誰もこの難問を正面から取り上げ、的確に分析した人はいない。だが、ぼくは、第2次世界大戦の2大敗戦国の一方であるドイツの戦争責任問題を徹底取材するなかで、その謎というか<反日日本人>の心理メカニズムがわかったように思う。

 かつて上梓した『<戦争責任>とは何か 清算されなかったドイツの過去』(中公新書)で、戦後の(西)ドイツの国家的トリックをあばいた。その要点をまとめておく。

 ヒトラー時代は1933年から45年までつづいた。僕がインタヴューしたドイツ人やポーランド人、チェコ人の歴史家らによれば、ヒトラーの全盛期には、ドイツ人の85~90%はナチズムに同化しヒトラーを支持していた。ナチスとは、ナチ党に所属していたかどうかではなく、ナチズムに染まっていたかどうかで定義される。つまりドイツ国民の圧倒的多数は思想的にナチスだった。

 しかし、戦後は東西冷戦がはじまり、アメリカをはじめとする西側は西ドイツを自陣営に組み込む必要から、ドイツ国民のナチスの過去を事実上、不問に付すことにした。それに便乗し、ドイツ人たちはかつてヒトラーとナチズムに心酔していた自分の過去を隠し、あるいは忘却していった。

 戦争犯罪やホロコーストにかかわったのは<悪いドイツ人>であるヒトラーと親衛隊員などのナチ党員であり、形の上でナチ組織ではなかった国防軍の兵士や一般国民は<善いドイツ人>だった、という神話を作り上げていった。ドイツ国民はヒトラーとナチスをスケープゴートにしたのだ。戦後の大政治家である首相アデナウアーなども、そうした神話作りを意識的に進め、米ハリウッドやドイツの映画でもその神話が喧伝されていった。

 史上最大の国家的トリックといえるが、いつまでもごまかせるわけがない。まさに、戦後50年に当たる1995年を境に、音を立ててトリック崩壊が起こりいまに至る。

 ドイツの主要戦犯がニュルンベルク裁判で裁かれたように、日本のA級戦犯も東京裁判で裁かれた。それはある意味で、大日本帝国主義時代の日本と日本人を断罪することになった。国民全体が、国際社会から<悪い日本人>と決めつけられたようなものだった。

 侵略戦争をしたのも、戦争犯罪を犯したのも旧日本軍であり、日本にはドイツのようにナチ党やナチ軍事組織などのようなものは存在しなかった。つまり、戦争の罪をきせるスケープゴートが日本にはなかった。

 しかし、自己愛の強い人、自尊心の強い人は、国際社会から<悪い日本人>とみなされることに耐えられなかった。だから、戦前は軍国主義に染まっていたのに、戦後は平和主義者に変身した人びとや組織であふれた。朝日新聞が<反日日本人>の典型になったのはそのためだ。進歩的文化人と称する人びとの大半は、そういう変身組かその類だった。

 積極的に<善い日本人>になるには、日本の過去の悪を糾弾すればいい。帝国主義の犠牲となった周辺国の人びとと手を組んで、日本政府や<悪い日本人>と戦えばいい。そういう心理メカニズムが働いた。そして、手段を選ばず行動をエスカレートさせていった。

 こういう人びとのことを、日本の保守派は「自虐的だ」と批判する。そうではない。彼らの動機は自己愛、自衛本能であり、自分を“日本と日本人の外”に置く自己欺瞞なのだ。

 残念なことに、ドイツとちがって政治家の力量もなく、それを正したりごまかしたりすることができない。スケープゴートのない敗戦国ならではの病理がそこにみえる。

    ――本稿は2011年6月16日付け「前編」の完結編です。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(18)【桜は散り春がくる】

      95年春

 「フローエ・オースターン(楽しい復活際を)! あしたからあなたも連休でしょ?」

 ケルンの文房具屋のおかみさんが、店を出ようとしたとき声をかけてくれた。

 「いや。あしたも仕事ですよ。日本では復活際を祝う習慣はないから」「えっ、それじゃ月曜日も仕事?」

 そばにいた若い女の子の店員は、信じられないといったようすだ。

 日本はキリスト教の国ではないことを説明しようとして、やめた。たいていのドイツ人はそんなことにまるで関心がない。世界はキリスト教を中心に回っている、と信じ込んでいる人がほとんどだ。

 そして、こちらも偉そうなことは言えないのに気づいた。どうしてあすの金曜日から復活際の連休が始まるのか、よくわかっていなかった。

 その金曜日になり、いつも通りオフィスに出勤すると、人影はなく静まり返っている。こうしてパソコンのキーボードを叩きながら窓の外に目をやると、ライン河畔にそびえる連邦議会議事堂の高層ビルが青空を背に輝いている。

 ほんとうに何日ぶりかで、すっきりと晴れ上がった。ふたつの小型遊覧機が、蝶のペアのように絡まりあって飛び、白い機体をきらめかせている。

 英語でいうグッド・フライデー、ドイツ語でいうカール・フライターク。事典を開いてキリストが十字架にかけられた「聖金曜日」なのだと知った。文房具店の女性たちが驚いたのもむりはない。「キリストの誕生日」クリスマスと同じように、キリスト教徒にとっては大切な「命日」なのだろうから。

 知識としては知っていたはずだが、自分の生活に関係がないのですっかり忘れてしまっていた。

 しかし、もう忘れることはないだろう。おとといの夕方、「白い卵なんか、冷蔵庫にないわよ」と妻があせっていた。舞がアメリカン・スクールから持ち帰った保護者あてのメッセージには「卵を3個持参させるように」と書いてあった。針でつついて中身を出し、殻にカラフルな模様を描いてイースター・エッグを作るのだという。わが家の買い置きは赤い地鳥卵だけだった。「こんな時間、お店はもう閉まってるし」

 だれか知り合いの家に借りに行く手もないわけじゃない。「ま、絵が描ければなんでもいいんじゃないの。とくに白い卵って指定してないんでしょ」ということで、決着した。「卵騒ぎ」で欧米の風習がわが家にも飛び込んできたのだった。

 もっとも、同じキリスト教国でもドイツとアメリカはちがうのか、アメリカン・スクールは金曜も月曜も授業がある。

 ついでにオースターン(イースター)も事典で調べてみた。「春分の後の最初の満月のあとの日曜日」だという。しかし、ドイツのカレンダーでは、なぜかその次の月曜日がオースターンとなっていて休日だ。

 いずれにせよ、処刑されたキリストが復活した日のはずだが、太陽と月の運行で決まるとは。

 ものの本を開くと、ドイツではキリスト教が伝わる以前にゲルマン民族が祝っていた春の女神「オステラ」の祭りと結びついたとも言われるという。キリストが「13日の金曜日」に死んで、3日目に復活したかどうかはともかく、復活祭は春の訪れを祝う行事なのだった。

 オフィスの外のゆったりとした中庭では、パンジーやチューリップが急に満開となった。芝生の上にも小さな白い花が点々と咲き、4、5歳くらいの男の子と女の子がじゃれあっている。

 わが家のドイツでの記念写真の第1号は、家族で赴任時に泊まったボンの由緒ありそうなホテル『ケーニヒス・ホーフ』(王の宮殿)の前庭で桜の花をバックに撮ったものだ。前年の3月21日、春分の日の夜ボンに着いて、翌朝桜を見つけて感激した。数日後に入居したわがマンションの窓からも隣の庭の桜が見えた。

 以来、あちこちの桜に気をつけるようになった。品種はわからないが、少なくとも3、4種類はある。日本の山桜のように花が小さ目のもの、桃の花のように濃いピンクのもの・・・ほとんど造花のようなものさえある。

 だが、みんなあの日本の桜のように圧倒的な華やかさはない。単に木に咲いた花の一種にすぎない。しかも、3週間やそこらは平気で咲き続け、無常感などまるで感じさせてくれない。

 ドイツの桜の花がしぶといのは、春先のめちゃくちゃな天気に耐えるためなのかもしれない。この3月27日からの3日間はとくにすごかった。

 未明の雨も朝になると晴れ上がっている。そして突然暗くなり暴風雨が襲ったかと思うとふたたび明るくなり、今度はヒョウが降ってものすごい音がする。そして、白い雪に変わって横殴りの風が起こり、水平に流れる吹雪となって数メートル先も見えなくなる。

 15分もすれば、「何かありましたぁ?」といった感じで青空がとぼけて微笑みかける。日記の天気欄には「1日のうちに春夏秋冬、何でもあり」と書くしかない。

 これが1日に3回、4回と繰り返されるのだから、花のほうにも相当の根性がいる。

 ある人に「日本の桜がなつかしいなら、ベルリンの壁の跡地へ行ってみたら」と言われた。テレビ朝日が1990年から5か年計画で「ベルリンに、あなたの桜を咲かせませんか」をキャッチフレーズに桜募金を行い、1,000本以上が植えられたそうだ。壁の跡地や旧国境沿いに苗木を植えて桜並木をつくろうという計画だ。

 ベルリンの壁が崩れた翌年のことで、日独友好のシンボルとして植樹され、近くの小学校などにも贈られている。まだ樹高は低いながらも見事に咲いているのだという。

 でも、ソメイヨシノはあの“春の嵐”に耐えられるのだろうか。ちょっと心配ではある。

 復活祭がドイツの春の訪れという。でも、日本人のぼくとしては少し引っかかるものがある。桜がしっかり枝にしがみついてそろそろ飽きられているのも知らずに延々と咲いたあと、すっかり散って、それから復活祭がやって来るのだ。

 日本では、春が来て桜が咲くのに、ドイツでは桜が散って春が来る。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(17)【キティちゃんの大洪水】

      95年2月

 戦後最悪、危機管理の無策露呈、情報伝達の遅れ致命的――。「阪神淡路大震災」を報じる日本からの新聞や週刊誌にこんな言葉が踊るころ、マンション5階のわが家から下をのぞくと、「戦後最悪」の大洪水のまっただ中だった。

 1995年の新春、ヨーロッパはいつになく暖か目の日が続いていた。暮らすには楽だが、こういう時はたいていろくなことはない。スイス山系でも少し標高の低いところでは、雪ではなく雨が降り、年末に積もった雪を解かして濁流となった。

 父なるラインも一気に水かさを増した。1993年のクリスマスにも「世紀の洪水」と呼ばれる被害を出したばかりだった。「世紀の・・・」がふた冬も続いてはかなわない。洪水といっても一気に濁流が押し寄せるのではなく、こっちのはじわじわと水位が上がってくる。

 川から100メートルほど離れたわがマンションは、周囲の家より敷地が1メートル以上高く床上まで水につかる心配はまずない。地下駐車場の入り口は、すでにガードが固められていた。イタリア人の管理人さんが大工を呼んで、板できっちり塞いでビニールシートをかぶせさせ、その外側には土嚢を積んだ。さらに駐車場には染み込む水を吸い出すためのポンプも備えてあり「いつでも来い」といった気迫が感じられる。

 ぼくは、あいにくポーランドに出張しなければならず、その前の晩、わがファミリー救助隊の全隊員(約4人)を非常召集した。駐車場から夏期用ノーマルタイヤ4本と自転車大小3台、舞のお砂遊び用おもちゃ一輪車を安全な場所に移した。愛車はすでに夕方、近くの上り坂の途中にとめてある。

 3日後、出張先から電話を入れると、マンション正面にある交差点もすっかり冠水してしまったという。災害救助隊、消防隊では人手が足らず、連邦軍兵士も動員されたようだ。

 「みんな寒い中を頑張ってくれてるのに、ドイツでは差し入れや炊き出しってないのかしら」と妻は思い、魔法瓶に熱い紅茶を詰めちょうど近くにいた救命ボートの連邦軍兵士に渡した。プラスチックのコップ15個を袋に入れて添えた。

 「飲んだら玄関先に返しておいてくれるよう伝えたつもりなんだけど、返ってこないの。魔法瓶は古いのだからどうでもいいけど、コップは日本から持ってきた“ブランドもの”なのよ」

 ブランドというのは、サンリオのキャラクター、キティちゃんとケロッピーだ。

 やれやれ、出張から帰って最初の重要任務はキティちゃんたちの捜索だった。水没した道路には、組み立て式の橋状通路があちこちに通っている。住民は、その通路を歩いて帰宅したり買い物にいったりする。

 救命ボートで警戒に当たっている若い兵士に尋ねると、魔法瓶ははす向かいのマンションの庭木の陰からすぐに出てきた。しかし、肝心のコップは行方不明だ。差し入れた時の相手はきっと交代してしまっているから、どこに置いたのか確かめようもない。

 妻はドイツ語のニュース専門テレビにかじりついている。画面にキティちゃんが映るとでも思っているのか、阪神大震災のニュースの時以上に熱心だ。

 1月31日の夕方、ボンの隣ケルンでは基準点からの水位が10.69メートルに達し、観測史上最高だった1926年に並んだ。通常の水位の約3倍といい、旧市街の一流ホテルも民家も公園もすっかり水没している。前回の洪水被害からやっと店内を修理して8か月前に営業を再会したという喫茶店のおじさんが、テレビに向かって疲れた顔でしゃべっている。

 それにしても、ドイツの新聞のアバウトぶりには今さらながらあきれさせられる。部分的な被害の写真は載っているが、オフィスで取っている6紙のうち、被害地図を載せているのはひとつもない。被害にあった地域名、世帯数、避難者数などのデータもなく全体像が分からない。

 阪神大震災でのCNNテレビと同じだった。どの辺りがどの程度に破壊されたのか、高速道路の高架が崩れたのはどこなのか。CNNを見る世界中の人のうち圧倒的多数には関係ないのだろうけれど、日本人や阪神地区に関係のある人には一番重要な情報のひとつだ。

 現に、ある韓国系ドイツ人から「弟が神戸市中央区でホテルを経営しているのだが、安否が分からない」とオフィスに電話があった。彼もテレビではどこがひどいのかさっぱり分からず、日本の新聞社なら情報があるのではないかと問い合わせてきたのだった。

 オランダやベルギーからの洪水報道ではきっちりデータが入っている。ドイツでは正確な被害状況も報道されないうちに、政府が救済に3,000万マルク、ざっと20億円を出すことを決めた。報道のアバウトさとは別に、政府は空軍ご自慢の戦闘爆撃・偵察機トーネードーを飛ばして詳細な航空写真まで撮り、きっちり被害状況を調べていたのだ。

 そうした情報を流さない政府が悪いのか、情報をもらおうともしない報道機関がルーズなのか。

 洪水報道で唯一興味深い記事は、「炊き出し」の詳細を伝えた大衆紙ビルトの2月1日付の記事だった。「朝食:ゆで卵1個、丸パン2個、ジャム、バター、薄切りのハムとチーズ。昼食:炊き込みご飯(どんなのだろう?)。夕食:野菜、卵、肉団子、マカロニなどの煮込み。夜食:丸パン1個、小型肉団子、卵1個、チョコバー」

 暖かく栄養があってパワーが出そうだ。

 行方不明となったキティちゃんとケロッピーのコップを探しているうち、連邦軍の若手兵士たちと仲良くなった。優士と舞は「あの救命ボートに乗りたい」などと言い出した。

 しようがないから、ぼくは無理だろうなとは思いつつ、それでもと兵士たちに聞いてみた。

 「ああ、いま、上官がいないから大丈夫ですよ。君たちも乗ってみたいよねぇ」

 というわけで、本当に乗せてもらった。いつも車で通る道路の上をボートで移動するのだから、子どもたちは面白いに決まってる。それじゃ、とばかりぼくは橋状通路に立って記念撮影をしてやった。自宅や店などが水没して困惑している人たちがたくさんいるのに悪いな、とは思いながら。

 阪神淡路地区の被害11兆円、ドイツの洪水被害1,000億円。わが家の被害はキティとケロッピーのコップ15個、計500円だった。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(16)【第5の季節 カメレ、カメーレ!】

      95年2月

 2月も半ば、ボンの街がどことなく浮つき始めた。春が近いせいだけではない。繁華街の飾りが華やかになり、この地で生まれたベートーベンの銅像が立つミュンスター広場には、移動遊園地がやって来て、子どもたちの歓声が響く。

 ドイツ人の言う、春夏秋冬とは別の「第5の季節」がやって来た。カーニバル(謝肉祭)の季節だ。ドイツ語ではカルネヴァルといい、ファストナハトなどとも呼ばれる。

 23日木曜日、わがオフィスのニュース専用コンピューターにドイツDPA通信の速報が流れた。

 「午前11時11分、ケルン、デュッセルドルフ、ボンなどの市庁舎を仮装した女性集団が襲撃、市長室を占拠した。各市長は抵抗することなく降伏し、“市の鍵”を手渡した」

 通信社の速報は、まじめな調子で「女のカーニバル」開始を伝えた。

 この日、市長に限らず男たちはかなり注意しなければならない。道化となった女たちがハサミを持ち歩き、ネクタイをいきなりちょん切ってしまう。中には靴紐を切る者もいたりするという。

 それを事前に聞いていたので、日本のネクタイ屋さんなら商魂を発揮するところだろうなと、取材助手のクラウディア嬢に尋ねた。

 「それ用の安物のネクタイを売っているの?」

 「切られてもいいように、たいてい古いのを結んで来ます。でも、私の彼なんかはノーネクタイね」

 ライン川沿い地方のカーニバルは、正式には11月11日午前11時11分、各市長によって開始宣言が行われてスタートする。年ごとに祭りのプリンス、プリンセスが選ばれ、仮面舞踏会など色いろなイベントが断続的につづく。そして、街が盛り上がるのは、2月に行われるこの女の無礼講からという。女性は、ネクタイを切った男性にキスをしなくてはいけない、というルール(?)もあるらしい。

 なぜネクタイを狙うのか、いろんなドイツ人に聞いても由来はよく知らない。ただ、ネクタイはふだん男たちが握っている権力の象徴らしい。

 急進的に女性の権利拡大を主張するフェミニストたちに言わせれば、こんな女のカーニバルなんて「抑圧された女性たちの1日だけの憂さ晴らし」と切って捨てるかも知れない。

 ところで、デュッセルドルフでは昨年11月に初の女性市長が誕生したばかりのはずだった。この場合でも女と女の“権力抗争”が繰り広げられたのだろうか。ちょっと気になり、さっそく市の秘書課に電話した。

 「乱入した一団は大歓迎されました。市長も仮装した女性たちと一緒になって歌をうたい踊りました」

 マリー・ルイーゼ・スメーツという59歳のあの知的なおばさま市長が、ピエロの女たちと騒いでいるのはどんな光景だったろうか。本来は、この日の儀式のために大きな“市の鍵”を手渡すはずなのだが、「すでに市長が女性ですから、鍵を渡す必要はありませんでした」

 ともかくこうしてカーニバルは一気に本番となった。街角で仮装した女性を見かけると、「南欧女性のような陽気さとは無縁で、愛想がいいとも言えないあのドイツ女性たちが・・・」と、つい論評したくもなる。

 そして、メインイベントはカーニバルのパレードだ。ライン地方のカーニバルの中でも、ケルンのパレードは特に有名らしい。実行委員会が決めた今年のテーマは「ケルンがあらゆる国々の道化を呼び寄せる」だった。

 これに対抗して、というわけでもないが、ぼくはカーニバルを見物する側として「個人テーマ」を思いついた。

 「ドイツ人は、祭りでどこまで馬鹿になれるか」

 最高潮は次の月曜日だという。「ローゼン・モンターク」(薔薇の月曜日)ときれいな呼び名がついているが、もともとは「ラーゼン・モンターク」(荒れ狂う月曜日)と呼んだそうで、いかにも期待を持たせてくれる。

 本来、カトリックの祭事だったそうだが、いまでは宗教色のないカーニバルらしい。

 月曜日は仕事もあるし、とその前の日曜日にケルンで行われる学校と各種団体参加の「子どもカーニバル」を、家族連れで見に行くことにした。

 ボン駅から急行に乗り、向かいの席に座ろうとした青年の顔がちらっと見えた。

 「あれ、フランケンシュタインの仮装してるのかなあ?」。妻にささやくと、「馬鹿ね、あれ地顔よ」と言う。思わず話のタネにカメラを向けそうになったが、自重した。

 別の席には顔を紅白に塗って派手派手の服を着た親子連れなどがいて、少しずつ雰囲気が盛り上がってくる。

 20分ほどでケルンに着くと、駅は仮装の人びとでごった返していた。ラッパや太鼓が鳴り響き、お祭の世界のど真ん中だ。白い顔に赤い鼻とパチクリ目のピエロ姿が正統らしいが、目立てばいいとばかりにいろんなコスチュームで歩いている。人びとは、お互いに「アラーフ!」とケルン・カーニバル独特のあいさつを交わしている。

 大通りの舗道まで行くと、すごい人だかりだ。日本の祭りとちがうのは、見物客も仮装をしていることだ。参ったな、こんなに大男、大女が詰めかけていたらパレードを見られない。でも、親切な人はたくさんいた。ぼくたちが明らかに東洋人で髪の黒い子どもたちを連れていることに気づくと、一番前の列へ立たせてくれた。

 やがて、ラッパや太鼓の音楽とともに、趣向を凝らした山車が並んで来る。政治や時事問題を皮肉ったものが多いと聞いていたが、この日は子どもたちのためのカーニバルだから、童話などをテーマにした山車が多い。ピエロや魔女、白雪姫になった大人や子どもが、山車の上から「ヘラウ!」と叫びながら、沿道に向かってお菓子をばらまく。

 山車のわきを歩きながらお菓子を投げる人たちもたくさんいる。

 優士と舞は、両手のひらを差し出してパレードが近づくのを待ちかねていた。いよいよぼくたちの所までくると、仮装した何人もが近寄って、お菓子をどさっと子どもたちに手渡しでくれた。両手からこぼれるほどの量で、妻が持参したエコバッグの中に注ぎ込む。

 また、次の一団が来て、やはり大量のお菓子を優士と舞の手のひらに乗せてくれる。なんであの子たちばっかりにお菓子をあげるの? といった顔で、ドイツ人の子どもたちがうらやましそうにしている。

 沿道に詰めかけた大人も子どもも、日本の節分の豆まきのように、まき散らされるお菓子を手を伸ばしてつかもうとする。気がつくと、周囲のドイツ人たちはみんな、「カメレ、カメーレ!」と叫び声をあげている。

 真昼間のことでもあり沿道でビールを飲んでいる人はみかけなかったものの、お祭りはお祭りだ。みんなカーニバルを楽しんでいる。「ヘラウ!」「カメレ!」

 今年のテーマにもあるように、仮装行列にはドイツ人以外の外国人もいるのだろうが、見た目はヨーロッパ人だから区別がつかない。

 人混みの中でも、とにかくぼくたちは目立った。たとえば、京都・祇園祭りの山鉾巡行で、沿道にブロンドの外国人一家がいたら、やはり人目を引くだろう。もっとも、近年の京都では外国人など珍しくもないが。

 有名な大聖堂をのぞけばそれほど国際観光都市でもないケルンで、ぼくたちはうんと少数派の異邦人だった。だから、練り歩く仮装のみんながぼくたちのところへ来てくれる。

 優士と舞は、恥ずかしがってカメレ、カメーレ!とは叫ばなかったが、信じられないほど大量のお菓子をもらい最高にごきげんだった。

 夏が来ても、子どもたちはカーニバルの思い出を口にした。

 「パレード楽しかったね」「すごかったね」

 研究結果:ドイツ人は、ラテン系民族ほどではないにしろ、じゅうぶん馬鹿になっていた。カメレ、カメーレ!

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(15)【痛恨のフラメンコ】

     95年春

 バルセロナ市街地の中心にある大寺院の石畳の路地を歩いていると、名曲『アルハンブラの思い出』が聞こえてきた。ふたりの青年がギターを弾き、観光客が聴き入っている。いかにもできすぎたシーンだが、やはりスペインに来たという実感がわく。

 あさってには、そのアルハンブラ宮殿へ行く予定だからなおさらだった。ぼくはちょっと感動して、青年の足元に置かれた帽子に多めのチップを入れた。

 しかし、後から思えば、その直後から流れが変わった。ちょうどミサが行われている大寺院に入ると、優士が突然戻してしまった。午前中は本場の『スペイン村』や五輪スタジアムなど目いっぱい歩き回った。スペイン人風にシエスタ(午睡)をとって夕方でかけたのだが、暑さに当たったのだろう。幸い少し汚しただけだったので、ティッシュペーパーで床を拭き取り、優士を寺院正面入り口の石段で休ませた。

 家族をそこに残し、ひとりで寺院内の博物館を探し歩いた。聖母マリアがキリストの遺体を抱く『ピエタ』像があるはずだった。日本の中学の美術教科書に載っているのは、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロの作品のはずだが、ここの像もひと目みたかった。母性を究極の姿で表したものだ。

 少し胸を高ぶらせ博物館をやっと見つけた。だが、入り口には「本日閉館」の掲示があり、他の観光客も舌打ちしている。

 タクシーで動物園へ向かった。世界でただ1頭の白いゴリラがいるといい、子どもたちはずいぶん楽しみにしていた。ところが、正門前で優士がまた戻してしまった。再び通路わきに座り込んで休ませているうち閉館時間になった。

 「きょうは仏滅かなぁ」と言いながら、子どもたちに売店で白ゴリラのぬいぐるみを買ってやり、タクシーでバルセロナ随一の繁華街ランブラス通りに行った。

 カタルーニャ広場からコロンブスの塔までつづく1.2キロの歩行者天国で、花屋があり鳥を専門に売る店があり、大道芸人、カフェテリア、レストランが並んでいる。通り沿いには、世界的に有名なリセウ大劇場、サンジュゼップ市場、レイアール広場などがあり、南の終端にはアメリカ大陸に白人として初めて到達したクリストファー・コロンブスの像がある。

 午後8時からのフラメンコ・ショーを予約してあった。今のうちにと、歩行者天国わきのレストランの屋外テーブルに座り、夕食を食べた。日が暮れ初めて涼しくなり、優士も元気を取り戻している。ほっとひと安心してビールを飲んだ。

 だが、ついてない時はついてない。ほろ酔い気分でごった返す歩行者天国を散歩し、カラースプレーで絵を描く大道芸人の腕に感心している時だった。

 若い男がぼくの足元にしゃがみ込み、「マネー、マネー」と言いながら、靴と足の間に指を突っ込んでくる。変だな、コインでも落としたのかなと思ったが、次の瞬間あることがひらめき、「危ないっ!」とズボンの右ポケットを押さえた。

 もう、財布は抜かれていた。「スリだっ!」と妻に叫んで、すぐ右後ろにいた男の手首をつかんだ。男はニヤニヤしながら「何も持っていないよ」とばかりに両方の手のひらを振って見せる。

 「えーっ、誰が?」。妻は、その場からすーと立ち去ろうとする別の男の腕を取りかけた。そいつもニヤニヤしながら行ってしまった。

 「あの帽子をかぶった男よ。私見たわ」。太った若い女が雑踏の中を指さし、小走りに追いかけようとする。思わず一緒に走り出した。「どこだ?」「あの男よ、ほら、帽子をかぶった!」

 妻と、何が起こったかわけの分からない子どもたちもついてくる。10メートルほども雑踏をかき分けたところで気づいた。

 みんなグルだっ!

 太った女も雑踏の中に消えている。自分がつくづく間抜けに見えた。少なくとも3人の男が周りを取り囲んでいた。ひとりがしゃがんで靴に指を突っ込み、こっちの注意を引く。その瞬間にもうひとりが財布を抜き取り、別の仲間に手渡す。グルの女がスリを追いかけるふりをして、その間に一味はとんずらする。

 スリやかっぱらいの手口は、かつて特派員として飛び回ったインド亜大陸で知り尽くしていたはずだった。ニューデリーの中心にあって観光客が集まるコンノート広場も“名所”のひとつだった。

 金持ち日本人などをねらう連中は、たとえばウンチを少し観光客の靴の上に置いて「汚れてる。大変だ、大変だ!」と騒ぐ。ひとりが親切にも話しかけながら靴を拭くそぶりをしているすきに、もうひとりがバッグやポケットを探る。

 同じスリでも、日本の達人のように単独プレーで鮮やかにやられるのなら、その技をほめてやってもいい。だが、こんなテクニックもくそもない子どもだましの手口にやられたのが悔しい。

 インド時代のような緊張感がなくなってしまったのか。南ヨーロッパもスリの巣と知っていたのに。スリにやられたことがないというわが「栄光の記録」が絶たれてしまった。

 ランブラス通り沿いのレストランの小舞台で繰り広げられるフラメンコ・ショーは、うわの空だった。深紅のドレスのダンサーが床を踏みならす響きも、激しいギターの音色も、間抜けなニッポン人へのあざ笑いの声に聴こえる。

 途中で席を立った。タクシーを拾おうにも1ペセタもない。500マルク、約3万2,000円分をその日午後に両替したばかりだった。幸い、ホテルへはどうにか歩いて帰れる距離だった。ホテルにはある程度のマルクが残してある。

 「あの取ったお金で、連中は今ごろ宴会でもしてるんでしょうね」

 ホテルへの道すがら妻が言った。

 「今度来る時は、新聞紙のダミーの札で膨らました財布をポケットに入れておこう」

 「その時、バーカってスペイン語と英語で書いた紙を入れておいたらいいわね」

 同感だ。ちくしょう、スリグループめ。

 〔短期集中連載〕

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中央アジアにもサムライがいる

 小さいころ、将来は何になろうと思っていたか。<巨人大鵬卵焼き>の時代であり、長嶋茂雄などプロ野球選手に漠然とあこがれてはいた。しかし、ぼくにははっきりした職業観というものがなかった。

 それでも、小学3年生の時か、周囲の人たちが行ったことのない外国へ行っていろいろ調べその結果をみんなに伝えたい、と考えていた時期がある。

 だから新聞記者になったのではない。その時期のことを思い出したのは、新聞記者を辞めてしばらく経ってからのことだった。

 ぼくたちの子どものころには、まだジャーナリストという言葉が一般的ではなく、ひとつの職業としては意識しなかった。

 学校でシルクロードについて学んだのをきっかけに、何となく中央アジアのことを想像していた。ぼくにとっての「外国」というのは、その辺りのことだった。

 ニューデリー特派員になり、パキスタンへ13回、アフガニスタンへ4回入り、現地の様子を紙面でみんなに伝えた。子どものころの夢は叶っていたのだ、といま気づく。

 2011年10月11日にザックJAPANが大阪長居スタジアムでタジキスタンと対戦することになり、子どものころの思いがよみがえった。タジキスタンに行ったことはないが、アフガニスタンの北隣りであり、同じイスラム教国だ。きっと似たところはあるのだろう。いつものサッカー観戦以上に期待し、興味を抱いていた。

 タジキスタンがW杯アジア3次予選に進んだのは初めてだった。試合でアジア王者の日本代表は、面白いようにゴールを決めていった。相手はやけくそになってラフプレーに走ってもおかしくないところだ。でも、タジキスタンは汚いファウルを一切しない。

 結局、8:0で日本が大勝した。レッドカードはもちろんイエローカードさえ1枚も出ない、さわやかな戦いだった。

 試合前、タジキスタンのラフィコフ監督は、こう語っていた。「勝利できる可能性は1,000分の1だろう。謙虚に世界レベルのプレーを勉強したい」

 試合後にはこう言った。「ベストメンバーで戦ってくれた事に感謝している。日本はビッグなチーム。私たちは勉強しにきた身分だ」(サーチナから)。「ラフプレーには走らない、クリーンなプレーを心がけるというのを選手たちは理解している。日本はもっと高い目標を置いているチームなので、こんなところでけがをさせては申し訳ない」(footballnetから)

 潔く戦う精神、強い敵に学ぼうとする姿勢をみせた。まさに、武士道を思わせる。アジアの戦いでこんな言葉を聞いた覚えがない。まずは中国のサッカー関係者に聞かせたい。

 ネットをさぐると、2008年2月20日の東アジア選手権、中国対日本戦での中国のラフプレー集がアップロードされていた。その動画にはこんなコメントがついている。「アメフトや格闘技ではなく、サッカーの試合です。レッドカードは0枚です」

 えげつないプレーをする選手も選手だが、それを厳しく判定しない審判も審判だ。レフェリーは買収されているんじゃないか、と疑わせるゲームが少なくない。

 2011年4月10日、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)グループリーグ最終節で、セレッソ大阪と中国のクラブチーム山東魯能が戦った。山東は0対4と完敗した。悪質なファールを連発し、イエローカード7枚、レッドカード1枚を受けた。

 そのゲームについて、さすがの中国メディア瀋陽晩報もこんな記事を載せた。「サッカーで負けた。人間としても負けた」。半島晨報も「最も醜い敗戦」と厳しく批判した。中国にだって、実力のなさをラフプレーでごまかそうとする自国の戦いぶりを情けなく思ってはいる人びとはいるのだ。

 中国選手のひどさは世界中に知れ渡っている。かつて、フランスのジダン選手は、中国遠征を拒否したことがある。「中国のラフプレーでけがをしたくないから」

 韓国だって似たようなものだ。ごく最近でも、2011年9月27日、ACLの決勝トーナメントで、韓国の全北現代はセレッソ大阪を相手にラフプレーを連発した。セレッソの選手は頭突きで鼻骨を折られ退場した。こういう例は枚挙にいとまがない。

 スポーツ以前の国民性の問題だろう。日本人選手が決して汚いファールをしないのは、それを良しとしない文化があるからだ。

 タジキスタンのラフィコフ監督は、ザックJAPANを迎え撃つ11月11日のホームゲーム前にも、改めてこう言った。「日本は北朝鮮戦という大事な試合も控えている。応援しているし、ケガをさせないように気をつけたい」(nikkansports.comから)

 試合に入ると、守備一辺倒だった長居での戦いとは打って変わって、がんがん前にきた。ミドルシュートを2度、3度と浴びせ、そのうちの1本はゴールポストを叩いた。

 ある日本人のブログには、タジキスタンをひとり旅し、ものすごく親切にされた体験がつづられている。かの国にも特有のホスピタリティーがあるだろう。ぼくも、シルクロードの行く先々で、歓待された経験があるからよくわかる。

 テレビの前で、日本を応援しながらも、あっぱれなタジキスタンよ頑張れ、と思ったのはぼくだけではないだろう。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(14)【白雪姫と70人の小人たち=後編】

     95年早春

 子どもを車に乗せ<ボン日本語補習校>にきたパパたちも、玄関の外で立ち話をしている。あまり広くない校庭では、スポンジ・ボールでのサッカーやジャングルジム遊びをする子どもたちでにぎやかだ。

 よそ様の建物を土曜日だけ借りているので、何かとめんどうなことが多い。運営委員の引継ノートには、管理人との戦いの跡が記されている。

 「小2教室の窓ガラスが割れており、管理人が抗議にきました。状況から見て、当補習校の開校前すでに割れていた可能性が高く、ぬれぎぬであると反論しました。相手が引き下がらないため、K校長、M副校長の加勢を得て強気の交渉をしました」

 暖房の調節ノブが壊れている、外から出入りできる地下トイレにゴミが散乱していた、などと管理人から抗議を受けたこともある。

 ぼくは本業である特派員の仕事の合間に、わざともったいぶった正式書簡を、取材助手のクラウディア嬢にタイプ打ちしてもらい、管理人に送り付けた。

 「先生や子どもたちに事情聴取した結果、補修校の責任ではないことが明らかになりました。むしろ成人学校生徒の行動に問題があるのではないかと思量されるところであり・・・」。

 ボンへ赴任するとき、子どもたちのことで一番気がかりなのは日本語だった。ドイツ語も英語も、できないならできないでいい。大きくなってどこに住みどんな暮らしをすることになろうと、日本語だけはきちんとできるようにさせたかった。

 学校というと、一般には、「行くのがいやだ」とだだをこねる子どももいるだろう。しかし、この補習校には、みんな勇んでやってきた。日ごろ、ドイツ語や英語がよくわからず苦労しているなかで、補習校だけは日本語が使いたい放題だ。しかも、日本語で遊べる友だちがいっぱいいる。

 保護者にとっても、日本人同士でおしゃべりや情報交換ができる楽しみがある。ぼくの家族も、毎週土曜日をとても楽しみにしていた。

 「ねえねえ、知ってる。火曜日だけらしいけど、ニラを売ってるアジアショップがあるんだって」

 「えー、じゃあわざわざデュッセルドルフまで買いに行かなくてもいいわね」

 こんな会話があちこちで交わされていた。

 文集に載せた作文を数えると、小学生から高校生まで72人いる。そのほぼ半数が、大使館や報道関係、留学や出向中の大学の先生など、1年から長くて3、4年だけドイツに暮らす家庭の子どもたちだった。母語は日本語だった。

 残りの半数は、国際結婚や仕事の都合でドイツに長く住んでいる家庭の子どもたちだった。この子たちは、家では日本語で話していても、友だちの間や学校ではドイツ語を使う。母語はどちらかといえばドイツ語だった。小学3年のケンゾウ君のように、3つの国と言葉を頭の中で渡り歩く子どももいる。

 <ぼくはお母さんがだいすきです。お父さんは日本人です。お母さんはハンガリー人です。ぼくはだからハンガリーと日本人です。何人(なにじん)かときかれたとき、いつも日本人100パーセント、ハンガリー人100パーセント、ドイツに住んでいるのでドイツ人が50パーセントといっています。>

 日本に帰ってからも学校でついていけるよう、日本式の「国語」の勉強をさせたいと考えている親がいる。一方には、第1あるいは第2外国語として、基礎日本語を勉強させたい親がいる。補習校に求めるものは微妙に異なり、ときには軋轢が生まれる。おそらくどこの国の日本語補習校も、同じ問題を抱えているだろう。

 ドイツの学校では、授業中にお菓子を食べたり手芸をしたりしても、まわりに迷惑をかけなければ先生は気にしない。その代わり、進級試験に落ちれば小学生でも留年させられる。

 ボンの補習校は、日本式とドイツ式の間をとって、お菓子を持ってきてもいいが食べるのは休み時間と決められていた。

 ドイツは第2次大戦後、東西に分かれ、ボンは西ドイツの首都だった。ぼくたちがドイツに駐在したときには、すでにドイツは統一され名目上の首都はベルリンに移っていた。でも、人口30万人あまりの小都市ボンはまだ依然として首都機能を持っており、ドイツ連邦政府と外国公館の街だった。

 日本の商社やメーカーの駐在員はほとんどおらず、各国の都市にあるような日本商工会、日本人会のような組織はなかった。そして、補習校は日本人のコミュニティセンターだった。

 そろそろ文集作りの準備をしなければ、と思っているころ、日本からとんでもないニュースが飛び込んできた。阪神淡路大震災だった。ドイツのニュースを見ても、細かい被害の状況はわからない。新聞社だから情報が入っているだろうと、ぼくのオフィスにも電話が殺到した。

 東京本社の同僚に頼んで、試し刷りの最新紙面をファクスしてもらった。オフィスにあるニュース専用コンピューターで、TOKYO、OSAKA発のロイター通信、AP通信の英語版速報をプリントアウトした。オフィスのファクス機は、受信と送信の連続でゴム部品が加熱し、臭いを放っていた。

 <1月18日水曜日、オパとオマがドイツに8年ぶりに遊びにきました。・・・ふたりが来る1日前の朝、神戸で大じしんがありオパとオマの家は、徳島、近くなのでみんなしんぱいしてでんわしました。何回してもつうじません。りょこうがいしゃの方もなにもわからずママは一日じゅうでんわの前でまっています。>

 オパはドイツ語でおじいちゃん、オパはおばあちゃんのことだ。小学3年のサオリちゃんの作文だった。

 その週の土曜日には、補習校の廊下に震災関係の記事やファクスを張り出した。阪神地区に住む親戚や友人の安否を気づかって人だかりができた。「神戸に実家があるんですけど、まだ連絡がつかなくて」と暗い顔の人もいた。

 サオリちゃんのおじいちゃん、おばあちゃんは幸い無事だった。

 <・・・夜10時半、みんなで(空港へ)むかえに行きました。ふたりがゲートから出てきました。ウワーイ、オパとオマがきた。>

 土曜日、補習校の授業が終わり子どもや親、先生たちが帰っていく。当番の運営委員には、最後の仕事が残っている。夫婦で教室や廊下を掃除し、ゴミを外の回収ボックスに捨て、戸締まりを確かめる。

 冬なら、緯度の高いドイツでは午後4時半ごろに日が落ちる。ゴミを捨てに出ると、外は真っ暗で地面は凍りはじめている。そんなとき、優士と舞は、たいてい玄関脇の小さな図書室で待っていた。

 委員仲間のひとりが言った。

 「ほうきを持った親の後ろ姿を、子どもたちはきっと覚えている。無言の情操教育になるんじゃないかな」

 ドイツ生まれのキクちゃんは、その年の春、中学部の卒業式を迎えた。小学1年生で入学し9年間学んできた。補習校20年の歴史で初めての快挙だった。キクちゃんは、こんなユニークな作文をつづった。

 <「ボン補習校」
 低学年の時はクラスいちバカって感じだった。
 他の子はもう幼稚園で読み書きをならったのか知らんけど、最初から全部できていた。
 一体私は何をしていたのかは忘れたけど、ガリガリお勉強をしていなかったのは覚えている。・・・・・・
 そこの君! この作文を読んで、あー、やっとキクがいなくなるとか思っているかも知れないけど、フフフ、そうあまく見ちゃいけないぞー! 私は必ず来るぞォー! こんなバカな私でもこんなに書けるようになる補習校はスゴイ!!。パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチーーーーーー!>

 ボンの補習校は、「現代の寺子屋」「村の分校」と呼ばれていた。ここで学び遊べる子どもたちが、うらやましかった。でも、親たちもちゃっかり井戸端として利用していた。なにかとても大切なものが、あの学校にはあった。それをぼくは、ちょっと気どって「白雪姫」と呼んでいた。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(13)【白雪姫と70人の小人たち=前編】

     95年早春

 傘張り浪人なら日銭もかせげるけどなぁ。

 食卓で黙々と写真を台紙に張り付けているネグリジェ姿の妻に、愚痴をこぼしてしまった。夜なべで<ボン日本語補習校>の記念アルバムをかねた文集作りを始めて、1週間ちかく経っていた。

 2月の半ばとはいえ、春の兆しはない。その日は曇りから雨になり、一転晴れ上がったあと、ひょうが降った。夜になると街路は凍てついたが、部屋の中はヒーティングが効いている。

 表紙に使う予定の絵を取り出した。補習校の校庭で子どもたちがサッカーや縄跳びをしている。犬を散歩させている近所のおじさんもいる。バックに大きく描かれたカギ型の校舎に、子どもたちのにぎやかな声がこだましている。小学生の女の子の絵だった。

 小学部と中学部、高校部から成る全校の生徒が描いた応募作の中から、学校の新年会で、先生と保護者、子どもたち全員の投票によって最優秀作に選ばれた。せっかくだから、他の優秀作4点も裏表紙などで使うつもりだった。

 子どもたちの作文は、低学年から順に並べてページをふり、ワープロで目次を作った。巻頭に、1年間の行事と各クラスの写真をレイアウトして張りつける作業を、妻に手伝ってもらった。

 ようやく編集後記を書くことろまでこぎ着けた。その前に、すべての作文をじっくり読んだ。

 <ぼくは、しんねんかいのとき、おはなしあてっこあそびをしました。ぼくは、力たろうをよみました。
 1分たっておなべがなりました。10人ぐらい手をあげました。ぼくは、りょうのすけくんのおにいちゃんをあてました。「力たろう」「あたり」とぼくは、いいました。
 ・・・ぼくのおとうさんは、しゃしんをとっていました。おかあさんは、あんまりみませんでした。>

 優士は、1年間でここまで日本語が書けるようになった。

 日本語補習校の新年会では各クラスが歌や合奏、劇などを発表した。1年生は自分で選んだ物語を朗読し、その題名を当ててもらう出し物をした。持ち時間が終わり先生がお鍋をカーンと鳴らすと、ハイ、ハーイと手が上がった。講堂や体育館はなく、一番広い教室にびっしり椅子を並べて発表会場をしつらえた。

 ぼくは、文集に使う写真をとるのに忙しく、妻は発表会の中休みに開く「飲食バザー」の準備で発表を見るどころではなかった。

 日本語補習校は、ドイツの現地校やアメリカン・スクールで学んでいる日本人の子どもたちに日本語を勉強させるため、毎週土曜午後、ボン市立成人学校の建物を借りて開かれる。ほかに、ドイツに生まれ育った日独ハーフでドイツ語を母語としている子どもたちなどもやってくる。校舎は、ボン南部バートゴーデスベルクの静かな住宅街にあった。

 「どうせ新年会をやるなら、パーッとやりましょうよ」。年末の企画会議でぼくが提案すると、先生方や保護者代表も乗ってきた。前回までもおとそ代わりの缶ビールは用意したそうだ。今回は、各家庭から料理を持ち寄って「大人にも楽しい新年会」にすることにした。

 同じようなメニューだけが集まってもこまる。毎週発行する「お知らせ」にアンケート欄をつけ、どんな料理を作ってもらえるか調べて調整することにした。味つきゆで卵、揚げたて海老せんべいなど美味しそうなものがたくさん提案された。ビールのおつまみにもなるぞっ。

 一律1マルク(70数円)の小口に分けて売り、収益は補習校の備品用にすることにした。

 補習校からみてライン川の対岸には、グリム童話『白雪姫と七人の小人たち』の舞台となった七つの山(ジーベンゲビルゲ)がある。補習校で毎年発行する文集のタイトルも『七つの山』といった。

 補習校は運営委員会がすべての責任をもって運営している。優士の入学から3か月ほど経ったころ、ぼくは保護者総会で4人の委員のひとりに選ばれ、行事委員を引き受けた。いわゆるイベント屋、宴会部長で、文集の編集長を兼ねる役割だ。

 「1階のトイレに紙がないって。買い置きもないんだって。どうするのぉ」

 ある開校日、補習校の事務室に妻が飛び込んできた。

 「運営委員には校長を首にする権限だってある。けど、じっさいにはトイレットペーパーの心配なんかのほうがよっぽど大切だものねえ」。委員仲間のひとりがため息をついた。

 4人の運営委員は、毎週、ひとりずつ交代でその開校日の責任者をつとめる。学校に一番乗りして入り口の鍵を開けることから日課が始まる。一般保護者の当番ふたりの助けを借りて事務室から廊下に長テーブルを出し、資料や前週の忘れ物を置く。水道水はそのまま飲めないので、子どもたちのためにミネラルウォーターのボトルとコップも並べる。

 先生たちがつぎつぎとやってきて教材のコピーをとるころになると、狭い事務室はラッシュアワーとなる。

 妻は、コージ君やフミト君のママたちと井戸端会議をはじめ、トイレットペーパーのことなどすっかり忘れている。ぼくは棚の隅に1巻だけ残っていたのを見つけ、だまって手渡した。

 「いっけなーい。あの子まだがんばってるかしら」。妻は廊下の一番奥にあるトイレへ向かってダッシュした。

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(12)【ふたりのサンタクロース】 

       94年末記

 ドイツにはふたりのサンタクロースがいる。うまくすれば、子どもたちはクリスマスプレゼントを2回もらえる。そんな話をどこかで聞いていた。

 1994年12月2日、ボン独日協会主催のクリスマスパーティが市内の教会で開かれた。この協会は両国親善のための活動をしており、会員になると家族連れの日帰りバス旅行など楽しいイベントに参加できる。

 教会でのクリスマスパーティだからアルコール抜きの「健全」な催しかな、とあまり期待もしないで出かけると、うれしい方に予想がはずれた。

 大広間の壁際には料理やワイン、ビールなどがどっさり並んでいる。入り口でお金を払って入れば、席も飲物もまったく自由という。まず、料理に近そうな席を確保して、飲物のコーナーへ行くと、ボランティアでサービス係りをしてくれているある日本人の研究者が「どうぞ、どうぞ」とビールを2、3本も渡してくれた。

 会場は家族連れなどでにぎやかだ。200~300人はいるだろうか。お定まりの偉い人のスピーチやちょっとした出し物の後、赤い布地に白い毛の縁取りの服、白髭を付けた大柄なおじさんが登場した。

 一見サンタに似ているが、よく見るとあのハーフジャケットにズボンではなくロングコートをはおっている。これがサンタさんのお友だち(!?)、ドイツ独特の「聖ニコラウス」だ。

 10世紀ごろから舟乗りや商人、子どもたちの守護聖人として、民間習俗の中に生きているという。本来なら「聖ニコラウスの日」の12月6日やその前夜、子どもたちの前に現れるそうだが、この日は独日親善で特別に早めに来てくれたらしい。

 再び飲物コーナーに行くと「このまま持って行ったらどうです」と白ワインを1瓶そのままくれた。隣近所の席同士で注いで注がれて大人たちもけっこう盛り上がっている。なぜかワインの瓶を抱えて会場をうろついている外交官がいたりする。

 「子どもたち、みんな出ておいでーっ」。ニコラウスは明らかにドイツ人なのに、日本語も上手だ。すばしこい子はとっくにその足元にまつわりついている。プレゼントがたっぷり入った白い袋はサンタと同じだが、ニコラウスはさらに小枝の鞭を持っている。

 ドイツ通の解説によると、「本当は、子どもたち一人ひとりについて、今年1年いい子だったかどうか判決を下し、悪い子には何もくれない」と、かなり厳しいおじさんだ。

 それでも今夜は親善だから、みんなにお菓子の袋を渡してくれた。受け取った子どもたちは、駆け足で親のいる席に帰ってくる。

 「子どもたちには、さらにプレゼントがあります」。司会のおばさんは、お菓子の袋に入っていた番号札を見るように言った。これから抽選をして、ズバリ賞には会場に飾ってあるドイツ名物、手作りのお菓子の家をくれるという。グリム童話『ヘンゼルとグレーテル』でおなじみのあれだ。

 「222番」とマイクを通し1等の番号がドイツ語と日本語で読み上げられた。「おしーいっ、1番ちがいだ」と同じテーブルの小学五年のお兄ちゃんが叫ぶ。「だれも該当者はいませんか。それではもう一度。・・・333番の人」。司会者の声が終わるか終わらないうちに、5、6歳の男の子がステージへ駆け寄った。

 「やだぁ、優くん、当たってるじゃないの!」。テーブルの反対側の席で妻が叫んだ。優士は家では「ぼーちゃん」と呼ばれるくらいおっとりしたところがある。この肝心な時に自分の番号札をちゃんと見ていなかったらしい。「早く、早く、駆けて行きなさい」。妻に追い立てられ優士はステージに当たり札を持っていく。

 困ったのは司会のおばさんと、お菓子の家を作ってくれたというおばあさんだ。今さら「次点」の子に帰れとも言えないし、賞品はひとつしかない。「だいたい、すぐに次の番号を言ったりするからこんなことになるのよ」。妻は親善におよそ似つかわしくないレベルで憤慨している。

 「ここにあるお家は、最初に来た子にあげます。ぼくにはもうひとつ作って後であげるからね」。そういうことで決着した。

 お菓子作りの名人として知られたそのおばあさんは、こっちのテーブルにきてわざわざ名前と住所を聞き、ちゃんと作ってくれることを約束した。

 その10日後、日本大使主催の「天皇陛下誕生祝いレセプション」がボン市内で華やかに開かれた。その時におばあさんがお菓子の家を渡してくれることになっていた。各国外交団が詰めかけ混雑する会場で、おばあさんはわが夫婦を探しあててくれた。

 「うちの息子の車の中に置いてあるから、今持ってこさせますね」。息子というから30代くらいの男性を想像したら、紹介された人は50代も半ばくらいの上品な紳士だった。その人とぼくは、お互いグラスを手に立ち話をし、名詞交換した。

 「ではお約束の物を私の同僚に取りに行かせます」。同僚と呼ばれた筋骨隆隆、目付きのするどい偉丈夫の青年が、恭しくお菓子の家の包を捧げ来てくれた。

 帰宅して開いて見ると、庭付き一戸建ての堂々としたお家だった。「おばあさん、じょうずに作るんだねぇ」とみんなで関心しながら、壊れないうちにと記念写真を撮った。

 12月24日のクリスマス・イブ。ドイツでも「ふたり目のサンタさん」は来るのだろうか。優士は「ニンテンドーのファミコンソフト」が欲しいとお願いしていた。「でも、こっちのサンタさんは、そんな日本の物は持っていないと思うよ」と妻は予防線を張っている。

 結局サンタさんが枕元に置いていったのは、ドイツ製のテレビゲームだった。「同じようなのが、お友だちのところにもあったよ」と言いながらも、優士は喜んでいた。

 でも、聖ニコラウスのプレゼントの方がほんとは断然すごい、と知ったのはずいぶん日数が経ってからのことだった。お菓子の家を車に乗せてクリスマスパーティ会場まで運んで来てくれた「おばあさんの息子」の名詞をじっくり見た。

 「連邦刑事局長官 ハンスルートヴィヒ・ツァッヒャート」とあった! 日本で言えば警察庁長官にあたり、こっちの新聞でよく名前を見かける人だ。「お家」を恭しく運んで来てくれたのは、ドイツ警察の最精鋭SP(警護警察官)だったらしい。聖ニコラウスにはいろいろな人脈があるものだ。

 〔短期集中連載〕

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激変するインドにあって、変わらないインド

               ―― 『日本人カースト戦記 ブーゲンヴィリアの祝福』番外編

 姉の四十九日の法要で帰省した折、地元・出雲にいる高校の同窓生11人が集まって宴を開いてくれた。その際、ぼくがかつてインドに駐在し、2009年にはインド体験記の本を出したこともあって、いまや新興国となったかの国の社会情勢について、いろいろな質問をされた。

 ひと言でいえば、インドは激変したし、同時に、まったく変わっていない部分もたくさんある。

 2008年8月に、家族を連れてインドを再訪したときのことだ。1週間の滞在を終え、ニューデリーの空の玄関口、インディラ・ガンジー国際空港へ着いた。使い切らなかったインド・ルピーのお札を日本円に再両替しようと、銀行の支店へ寄った。

 「あと2,000円出してくれれば、ちょうど1万円になるよ」と、窓口の行員は言った。インド時間の深夜で、日本時間では未明のことだ。疲れ切っていたので、両替証明書をもらうこともせず、言われるままに2,000円を出して1万円札を受け取った。

 そして搭乗し機内で少しほっとしたとき、ひょっとしたら、と思った。携帯電話の電卓で計算すると、ぼくが使い残したインド・ルピーはほぼ1万円相当で、2,000円など払う必要はなかった。やられたっ。ぼくをまんまとだましたのは、民間ではなく国立銀行の行員だった。

 彼らは、そうして稼いだ金をプールしておいて、みんなで仲良く山分けするのだという。あいつらの手口は熟知していたはずなのに、スキを突かれてしまった。インド暮らしから20年近くが経ち、銀行員がダマシなど決してしない日本で平和ぼけしてしまったのかも知れない。

 昔ながらのインドがそこにはあった。いま思い出しても、あれほど簡単な手口でやられるとは悔しくてたまらない。

 国立銀行員があんなことをするなんて、国の恥以外のなにものでもない。だが、公務員の年収は少なく、経済発展にともない急増する民間の中流層との格差が広がるなか、あの手この手で“生活費”を稼ぐのだ。

 そのため、汚職も依然としてはびこっている。2011年8月には、社会活動家アンナ・ハザレ氏(74)が、ニューデリーで、強力な汚職取り締まり機関の設置を求めて断食をした。その広場には市民数万人が連日群れをなし、政府はたじたじとなった。

 たとえば、パスポートひとつ作るのにも役人に賄賂を贈らなければ動いてくれない。それを断じて拒否したあるインド人研究者は、日本での学会に参加できなかった。かつてぼく自身、日本から船便で送った家財道具を通関する際にも、税関吏に多額の賄賂を要求された。外国からの郵便物を受け取る際にさえ、小銭を要求されたことがある。

 市民みんなが役人のえげつないやり方に腹を立てているから、ハザレ氏への支持者も膨れ上がる一方なのはよくうなずける。

 ハザレ氏が断食に打って出たのは、2010年以降、携帯電話の新規周波数割り当てをめぐり前通信大臣が逮捕され、スポーツの国際大会開催をめぐる汚職疑惑でも政府高官が逮捕されたのがきっかけだった。

 断食は、イギリスからの独立を求めて闘ったマハトマ・ガンジー以来の非暴力抵抗運動の手段であり、インドの市民へのアピール力は絶大なものがある。ハザレ氏や側近も、そうした影響力を充分に知っており、断食の場にマハトマ・ガンジーの巨大な写真を掲げた。

 ハザレ氏は、4月にも、断食をして政府に汚職防止機関の設置を約束させた。しかし、政府の法案では、新機関の捜査対象から首相が外されたことなどに反発し、8月16日、再び断食に入ろうとした。

 そのとき警察当局はハザレ氏を逮捕したため、抗議デモが燃え上がり、3日後には政府も釈放を命じざるをえなかった。ハザレ氏は断食をつづけ、政府も議会も世論に屈し、ハザレ氏の求める強力な機関を設置することになった。

 ハザレ氏は、28日、断食を終えて蜂蜜入りのココナッツジュースを飲み、「インド国民の勝利である」と宣言した。集まった群衆は、音楽が鳴り響くなかで「現代のガンジー」に喝采を浴びせた。歓喜はインド全土に広がったという。

 作家でありニュース週刊誌『オープン』の編集長でもあるマヌ・ジョゼフ氏は、ニューヨーク・タイムズへの寄稿でこう評価している。

 「ドラマチックでしかも予測できた結末だった。インドのほとんどのメディアは革命だとみなしている。あるメディアは『インドの春』と呼んだ。気象庁によれば、インドに春という季節はないが」

 インドの春というのは、もちろん、中東・北アフリカの独裁政権が民衆によって次々に倒された「アラブの春」をもじったものだ。そのアラブの春も、1968年に起こったチェコスロヴァキアの変革運動「プラハの春」から来ている。

 ハザレ氏が導いた運動は、確かに革命と呼ばれてもおかしくない。でも、汚職防止機関のメンバーに役人が賄賂を渡して罪を見逃してもらう、という事態もありそうなのがインドなのだが。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(11)【ユニコーン(一角獣)】

    94年夏

 毎週土曜日のテニス仲間でもあるM日本公使の公邸で、ビールを飲んでいるときだった。近く帰国が決まっている公使夫妻のさよならパーティに夫婦で招かれた。日本大使館のいつもの面々やドイツ在住日本人の指揮者、ピアニストなど多彩な顔ぶれだ。

 「お電話が入っています」と、公使自ら伝えてくれた。こんな時間にかけてくるのは、ぼくの勤めている新聞社の東京本社にちがいない。日本時間で午前4時前だ。そのころは携帯電話もなく、留守番の子どもたちに公邸の電話番号を教えておいたから、こっちへかけ直したのだろう。隣にいていた外交官が「何か事件ですかね」と言った。

 受話器を取ると、舞の声がキンキン響いてきた。

 「今、ビデオ見てるの。そっちはどうなってんの」「・・・」

 5歳の娘に「どうなってんの」と聞かれても答に困る。

 「お仕事の集まりでここへ来てるんだからね。もう寝なさい」

 考えて見れば、今夜初めて子どもたちだけで留守番している。声を聞いて安心したのか、舞は「じゃね、ばいばい」と素直に電話を切った。深夜、帰宅するとちゃんとビデオのスイッチを切って寝ている。

 記録的猛暑が少し和らいだ8月29日、舞はアメリカン・スクールの幼稚園部に入った。午前中はここで遊びながら勉強する。英語はもちろん、体育や図画工作、週に2回はドイツ語の時間もあるそうだ。11時半になると近くのプレ・スクール(就学前学校)へ歩いて移動する。アメリカの制度では幼稚園は義務教育だが、プレ・スクールは乳幼児なども面倒もみてくれ、日本の保育園に近い。

 ここで持参のお昼を食べて遊んで過ごすはずなのだが、よく何も食べないまま帰ってくる。「だってえ、忙しくって」

 売れっ子タレントみたいな口ぶりに、妻も叱る気を一瞬そがれてしまう。工作とかに夢中になって、お昼を食べる時間がなくなるというのだ。本当のところは、飽食の時代の子なのか、食べることに執着がない。お友だちの家でお菓子を出されても、うちの子どもだけは手も出さないこともしょちゅうらしい。

 「舞ちゃんて、不思議な才能があるのねえ」

 プレ・スクールで週に2、3度、子どもたちの世話係をしているR夫人が、妻にしみじみ語ったという。彼女は東京の下町の生まれの日本人でアメリカ人を夫に持ち、4人の子どもをアメリカン・スクールに通わせている。ボンのアメリカ社会については、ずば抜けた事情通だ。

 プレ・スクールには、職員仲間でさえどこの国から来ているのか分からない男の子がひとりいる。「英語がきちんと話せないから、だれもコミュニケーションが取れないのに、舞ちゃんだけはお話してるのよ」

 男の子がブランコに乗って何か口にした。そこにいた大人は何と言ったかさっぱり分からなかったが、舞が後ろから押してやると男の子はうれしそうに揺れている。

 「舞ちゃん、あの子、何て言ってたの?」

 R夫人が日本語で聞くと「たぶん、プッシュ、プッシュ(押して、押して)って言ってた。ブランコに乗ってるんだから押して欲しかったんでしょ」

 相手の言おうとしていることを、言葉だけでなくしぐさや状況から判断する。ふたりは英語がほとんどできないプレ・スクールの少数派同士だから、かえってコミュニケーションの原点でつき合っているのかもしれない。

 舞は、アルファベットもかなり書けるようにはなったが、言葉として読み書きするのはまだまだだ。したがって耳からだけの英語を口にする。「ハッピー・バースデー」が「ハッピ・バーデー」になるくらいならかまわない。

 数字の6の発音だけは何度なおしても変わらなかった。シックスのシがはっきりした「セ」の音になってしまう。確かに、アメリカ人にはシとセの間のように発音する人もいる。でもスーパーの店内などで、娘によく通る声で片仮名の「セ」から始まる発音をされると、妻は顔を真っ赤にして回りを見回すことになる。

 日本語の場合も、あまり頭で考えず感覚で覚えるたちだから、用法はおかしくても妙にグサッとすることを口にする。食事の後、自分の食器を片づけなさいと妻が言った時の答はこうだった。「何のために大人がいるのかわかりゃしない」

 アメリカン・スクールの女傑の先生たちと雑談をしている時、やたら「ユニコーン」という言葉が出てきた。何のことかと思えば、舞のニックネームだった。下っ端のお相撲さんのチョンマゲのように髪を一つに束ねるスタイルで学校へ通っていた。それが不思議に似合い「一角獣」と呼ばれているらしい。

 「あの子はドールよ」「そうね、ほんとにドールね」というやり取りもあった。日本人形の「童女」のような顔立ちで、小さな唇をとがらせるようにしゃべる。それもアニメのような声だから、校内のどこにいても目立ってしまう。

 12月9日、舞の6歳の誕生パーティを盛大にやったころには、「6」の発音もかなり良くなった。

 〔短期集中連載〕

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韓国のあまりにも馬鹿げたウリジナル

 ベルリンの特派員をしていたころ、繁華街クーダムにある韓国レストランで、料理が出てくるまでのあいだ、子どもたちと花札を楽しんでいた。やがて料理を運んできた韓国人のおかみさんが「あら、日本人もおなじカード遊びをするのね」と言った。

 これはまぎれもなく日本の伝統文化だろ、と内心思ったが、ここで事を荒げることもない。おかみさんは、ベルリンの壁があった時代、韓国から西ベルリンへ看護師として出稼ぎに来た人だった。この店には何回も通っているので、すっかり親しくなっていた。

 それにしても、花札を韓国のものと思い込んでいる韓国人のメンタリティはどうなんだろう。ちょっと気になるところではあった。

 その日から1週間ほどあと、ぼくと同期のソウル特派員が、偶然にも、韓国における花札をめぐる事情を特集記事にした。

 韓国では、花闘(ファトゥ・Hwatu)と呼ばれ、現在でも年齢や階層を問わず幅広く親しまれている。国民は韓国起源と信じている。しかし、元をただせば、日本の花札が1900年前後の李氏朝鮮末期に伝わり、その後の日本統治時代(1910年-45年)に朝鮮半島全土に広まった。

 花闘のデザインは花札そっくりだが、短冊の文字がハングル表記で、雨の光札に描かれているのが、小野道風ではなく韓国風の人物になっている。日本の花札は絵の裏に紙を貼り合わせて補強するが、韓国の花闘はふつうプラチックで作られている。

 おなじような例はいくらでもある。

 剣道でさえ韓国人は自国の伝統武術だと主張するのにはあきれる。日本の剣道界があえて海外に普及させないでいるのをいいことに、世界剣道連盟なるものを設立し“韓国文化”として国際社会に広めつつある! だが、『朱蒙(チュモン)』や『トンイ』など韓流時代劇をみても、かの国の殺陣が剣道とはおよそかけ離れているのは明らかだ。

 ある日本人の韓国史研究者によれば、朝鮮半島での伝統的な武器は弓矢と短刀で、太刀はほとんど使われなかったという。剣道は日本統治時代に朝鮮半島へ導入されたとするのが通説だ。

 ソウル特派員に言わせれば、韓国人は自分たちに都合のいいことは韓国がやったことに、都合の悪いことは日本帝国主義、彼らの言う決まり文句<日帝三十六年>のせいにして自己を正当化する傾向が強いのだそうだ。

 その典型的なのが、治山・治水問題なのだという。ある年、洪水によって大きな被害が出た。そのさい、韓国の政治家やマスメディアがこぞって主張したのは、日帝三十六年によって山が荒らされ治水も省みられなかったため今日の災厄を招いた、というものだった。

 実際はまったく逆だった。日本は朝鮮半島を植民地にすると、治山・治水に問題があるとみて山に植林し川にダムや堤防を作るなど懸命の努力をした。だが、韓国は独立を果たしたあと、引き続いて治山・治水に力を注がなかったので、水害が起きやすくなったというのだ。

 週間ポスト2011年10月28日号は、「『何でも韓国起源』と言い張る困った隣人の珍妙な論理」というタイトルの特集をした。

 その記事で、「ウリジナル」という言葉を紹介している。ハングルで「我われの」を意味する「ウリ」とオリジナルを合わせた造語で、「○○は、我が韓国(朝鮮)が起源だ」と主張することだという。

 柔道についても、中国発祥の武術が高麗王朝時代に韓国で「ユド」に発展しその後日本に渡った、と主張しているのだそうだ。

 そもそも、武術やお茶、お花などを「○○道」として精神修養の手段とする発想が韓国にあるわけがない。

 ポスト誌があげた韓国のウリジナル説はまだまだある。歌舞伎、和歌、演歌、折り紙、忍術、寿司、納豆、ソメイヨシノ、秋田犬……。

 問題は、こうしたトンデモ説が若者の戯言などから人の口の端に乗っているのではないという事実だ。権威ある学者、識者が大真面目に主張し、それをマスメディアが取り上げ一般に広まるケースが後を絶たない。

 なぜ、こんな現象が起きるのか。ひとつには日帝三十六年の被害者意識が異様に強く、日本へのコンプレックス、ライバル意識が根底にあるためとされる。日本を叩けば愛国者として評価される風潮があるという。

 おなじく日本の植民地だった台湾が非常に親日的なのと好対照だ。

 韓国人は、「活版印刷も韓国人が発明した」などと世界の非常識を次々主張する。

 ハングルを全面採用し漢字を使わなくなったため、近代の史料でさえ読める人が極端に少なく、文献学が弱くて正確な歴史認識が確立できにくい事情があるようだ。

 花札程度のことなら笑ってすませられるが、いわゆる“従軍”慰安婦や竹島(独島)など高度に政治的な問題も、実はウリジナルと言えるだろう。

 そんな国の人びとに「歴史認識がまちがっている」などとは言われたくないなぁ、とつくづく思う。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(10)【ベートーベンの舌はどうだったのだろう】

    94年夏

 ボンの中心部に、『ベートーベンの生家』がある。この街ただひとつの世に知られた観光スポットで、各国から観光客がやってくる。そのせいか、となりの中華レストランは『国際酒家』という。

 ミニ博物館となっている生家に、妻は一度も入ったことがない。日本から友だちが来たとき一緒に行けばいいと思いながら、まだそうした機会がなかった。今日こそはと、ふたりそろって役所へ出かけたついでに連れてきた。

 でも、空腹には勝てず、あと数歩のところで「楽聖より団子」と『国際酒家』で食べることにした。店の前の道路端にならぶ白い丸テーブルの青空席へ、妻と座った。

 店のメニューには、観光地のせいか日本語も書いてある。妻はさんざん迷ったあげく五目そばを頼んだ。こっちは「それならチャーシュー麺」と決めた。わが家のしきたりにより、交換してそれぞれをチェックした。どちらも日本のよりこってりしているが、味はいい。

 となりの丸テーブルに、栗色の髪の男性がふたりやってきた。ちょっと目立つイントネーションの英語に身ぶり手ぶりを交え、中国系のウェートレスにオーダーした。ウェートレスが席を離れようとすると、「ちょっと待って」とこちらのラーメンどんぶりをのぞき込んだ。

 「あれ、何?」と聞いているのだが、ウェートレス嬢はうまく説明できない。ぼくが助け船を出すと、「まったく同じのを」とあっさり最初の注文を取り消した。

 「スープに入った麺をチョップスティックス(箸)で食べるというのは珍しい。今のはどれとどれ?」

 年輩の方が、メニューを開いて質問し、手帳に英語版とドイツ語版の料理名をメモした。その熱心さにちょっと驚き、物書きなのかと尋ねると、イタリアのミラノで小さな機械メーカーをやっているという。中小企業の社長さんなのだ。連れは経営学を専攻する大学生の息子さんだった。ボンの隣ケルンでのメッセ(見本市)を見に、ふたりではるばるドライブ旅行してきたそうだ。

 「中華料理ってよくは知らないが、すばらしい。大体、ドイツ料理でこれというのに出会ったことがない」

 社長が、料理には一家言を持つイタリア人のプライド丸出しでしゃべり始め、青年も大きくうなずく。お箸の使い方を講義すると、麺を先っぽにひっかけるようにしながら、うまそうに食べ出した。

 「イタリア人ってドイツ人とちがってネアカでいいわね。単純といえば単純だけど」

 まわりの客が日本語を知らないのをいいことに、妻があけっぴろげにいう。気がつけば、ぼくのチャーシュー麺はほとんどのびていた。

 ボン暮らしをはじめてちょうどひと月経った時、ドイツ連邦政府の新聞情報局が各国の新来特派員と各大使館の広報文化担当官(プレスアタッシェ)を招いてパーティを開いてくれた。ビールグラスを片手にライ麦パンのオープンサンドをぱくつきながら、話は自然「美味いもの」にいきついた。

 話題に乗ってきたのはイタリア、フランス、スペインの記者に中国系のフリーカメラマンなどなどで、お国柄が想像できる。韓国大使館のSさんは「これぞという韓国料理店のリストをファクスしてあげますよ」と、うれしい約束さえしてくれた。

 シンガポールに妻子を残して逆単身赴任中というドイツ外務省の官僚は、ひたすらビールをあおっていた。「ドイツ料理はいかにまずいか」を口の悪いジャーナリストらに例証され、口をはさむ余地はなかった。単身赴任のトルコの広報文化担当官は、そばで黙って聞いていた。

 ドイツでは、動物虐待に反対する市民グループが、「フォアグラの生産を禁止させろ」と叫んで6万5,000人もの署名を集め、フランス政府に送りつけたことがある。ガチョウや鴨に機械でむりやり餌を食べさせ、肝臓を太らせてフォアグラを作る。動物虐待といえば確かにそうだ。でも、あるフランス人は、「食文化のない民族にとやかく言われる筋合いはない」と逆に馬鹿にする。

 ドイツにも食文化はあるだろうが、ドイツ人が食べ物にお金をかけないのは確かなようだ。1995年の調査によると、一家4人の平均的家庭で飲食費は家計全体の18.5%だった。「余暇や旅行のために食費を削る」という答が目立ったという。

 同じ年、日本人が1年間に使った外食費はひとり当たり2,000ドル(約22万円)にものぼり、2位アメリカの950ドルの倍以上だった。かといって、日本の食のレベルがものすごく高いとは思えない。知り合いのドイツ人は「家が狭いから、外食したがるんじゃないの」と珍説を披露した。

 イギリスでは、あるスーパーがカナダ産の活ロブスターを輸入し、水槽に入れて販売しようとしたところ、動物愛護団体から激しいクレームがついた。「活きたままゆでることになるから無慈悲だ」という。業者は「ロブスターは水槽の中では幸せだ」と変な弁解をした。

 ベルリンの有名デパート『KaDeWe(カーデーヴェー)』やドイツ各地の鮮魚卸市場では、鰻、鯉など川魚は必ず水槽に飼って売っている。あれもイギリス人に言わせれば、無慈悲なのだろうか。

 食文化のちがいは、宗教と同じくらい微妙な問題になりかねない。ロンドン駐在の同僚特派員はこう言っていた。「欧米人としゃべるとき、どんなに親しい相手でも、捕鯨問題だけは避けた方がいいよ」

 報道関係のパーティの翌週、高級ホテルチェーン『シュタイゲンベルガー』の営業担当者ふたりが、わがオフィスを訪ねてきた。男性の方は物静かにソファに座り、キャリアウーマンといった感じのお嬢さんが身を乗り出してドイツ語でまくしたてた。

 「・・・ですから、私どものホテル・レストランでは、新しいドイツ料理をご用意しておりまして・・・」。

 あまりに早口で耳がほとんどついていけないが、そこのところだけは引っかかった。

 「新しいドイツ料理って何ですか?」

 ソファ横の机で新聞の切り抜きをしていた取材助手のザビーネ嬢も、とつぜん振り向いて言った。

 「そう、私もそれ聞きたい!!」。

 セールス嬢はソファに座りなおし、いちだんと語気を強めていった。

 「ですから、塩をひかえめに、量も少なく、低カロリーの食事をご用意いたしまして・・・」

 それを聞けば、ふつうのドイツ料理がどんなものか、多くの説明はいらない。96年初め、コール首相とハネローレ夫人が『ドイツ中の料理旅』という本を出した。豚の内臓を抜き出し詰め物をして丸ごと煮込む料理など、350種類ものレシピが紹介されている。

 首相夫妻は地元プァルツ地方の別荘に賓客を招き、こうした料理でもてなした。相手は、この本によると、現役時代のアメリカのブッシュ大統領、ソ連のゴルバチョフ大統領、イギリスのメージャー首相といった体格の「大物」ぞろいだ。

 コール首相ご本人も、身長190センチ以上、体重は推定で130キロとも150キロともいわれる。巨漢を作りだした料理など、われわれ日本人が太刀打ちできるものではない。レシピと顔ぶれを聞いただけで、胸焼けがしそうになる。

 塩といえば、高名なジャーナリスト、テオ・ゾンマー氏を思い出す。ゾンマー氏はシュミット元首相とともに高級週刊紙ツァイトの共同発行人を務めている。北海とエルベ川で結ばれるハンブルクの執務室でドイツ政局について話を聞き終えると、氏は街角のしゃれたレストランに案内してくれた。

 「私はここの常連で、先週もシュミットさんと来ましたよ。ちょうどあなたの席にシュミットさんが座ってね」

 ハンブルクは魚介類の水揚げでドイツ随一の港町だからと、ゾンマー氏はシェフお任せ料理を注文してくれた。やがて「ヒラメのオリーブオイル焼きライス添え」が運ばれてきた。この国で「米飯」は野菜扱いされ、テーブルにはパンとバターもある。

 端正な顔立ちのゾンマー氏は、ジョギングを日課とし、引き締まった体をしている。絵に描いたようなゲルマン風ジェントルマンだ。寿司やすき焼きも好みとかで、たまに日本へいくのが楽しみという。そんな話を聞いていたら、氏はヒラメの上で塩の小瓶を思いきり振りだした。

 「まったく、ドイツ料理はこれだから!!」

 端正な顔をやや赤くして、言い訳でもするように独りごとを言っている。確かに、塩味が薄すぎてせっかくの鮮魚がかわいそうだった。

 ドイツ南部バイエルン州の北端にあるホーフ市は、老後こんなところに住むのもいいかなと思わせる静かなたたずまいを見せる。旧東ドイツのザクセン州とチェコに接し、東西ヨーロッパを隔てていた「鉄のカーテン」が開いた後、東西交流の拠点になろうとしている。地元紙「フランケンポスト」の編集長にそんな話を聞いたた後、「勘定はこちら持ちで」と街一番のレストランへ連れていってもらった。

 「バイエルンの典型的な料理といえば、まずこれから」と、ミンチボール入りのスープ『フライシュクネーデルズッペ』を薦めてくれた。ひと口飲み、スプーンが止まってしまった。塩の分量が、こちらの舌の耐えられる限界の少なくとも倍は多かった。

 「新しいドイツ料理」の評判は、その後、どうだったろうか。『ベートーベンの生家』に加え、ボン名物になっていることを祈る。

 〔短期集中連載〕

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