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インどイツ物語ドイツ編(28)【香り高きスニーカー】

      96年春

 日本に一時帰国する日がきた。2年ぶりの日本だった。「何といっても温泉よ」と妻が言えば、舞は「おいしいお肉が楽しみーっ」と叫んでいる。

 ヨーロッパの国々では、今や、それなりにうまい寿司や刺身は食べられる。だが、牛肉、豚肉のたぐいは質より量といったところか、たいてい硬いかぱさぱさでうまみに欠ける。高級和牛の霜降り肉など、夢のまた夢だった。

 ベルリン・テーゲル空港へ向かおうと、自宅にタクシーを呼んだ。おみやげや着替えを詰めたふたつのスーツケースを運び、「早く、早く」と子どもたちをせかして乗り込もうとしたときだった。

 「フンを踏んじゃったぁ」

 優士が泣きそうな声をあげた。タクシーの後部ドアを開けたちょうどその場所に、立派なモノが落ちていた。それをスニーカーでまともにつぶしてしまった。

 「こんな時にどうすんのよぉ」。

 妻は時計を見ながらあせっている。ティッシュペーパーでふいても、臭いまで落ちそうにない。ハンチング帽をかぶった運転手さんは「そのまま乗るなんてじょーだんじゃない」といった顔をしている。

 家の外に洗い流せるような水道はない。妻は、優士の靴を脱がせると、わが家のあるメゾネット・マンションに飛び込んでいった。

 なかなか出てこない。じりじりと、霜降り牛の夢が夢のままになりそうな絶望感におそわれる。

 「優士、いつもフンには気をつけろと言ってるだろ」

 「お父さんだって、この間、踏んじゃって、車の中が何日も臭かったじゃない」

 そう言われれば、返す言葉がない。

 犬のフン害は、ドイツ7不思議の筆頭格にあげられる。

 ほんらい、ドイツは、マナーや社会のルールを守ることについて、信じられないほどきびしいお国柄だ。

 たとえば、車で一方通行を逆から入ったりすれば、大通りを走るトラックがわざわざ止まり、運ちゃんが窓をあけて注意する。「関係ないでしょ、よけいなお世話!」と言いたくなる。

 ボンに住むようになって間もないころ、マンションのオーナー会社から正式な手紙がきた。

 「貴宅の洗濯物は近隣の景観を損なうため、すみやかに善処されることを望みます」

 馬鹿ていねいに堅苦しいドイツ語で書いてあった。5階建ての屋根裏部屋の窓ガラスの内側に干していたのに、だれがそんなところを見上げて文句をつけたのだろう。

 そんな国なのに、お犬さまは「たれ流し後免」だった。犬を散歩させている人が、持ち帰り用の袋を持っている姿など見たこともない。

 優士に音楽や体育を教えてくれる日本人学校の美人のS先生も「1日に続けて2回も踏んじゃいましたよ」とフンガイしていたことがある。

 ドイツでは猫はめったに見かけないのに、こと犬に関しては博覧会場のようだ。毎日毎日、ドイツ全土で人間より多いかもしれないという数のお犬さまが散歩に連れ出され、たれ流しているさまを想像すると、ぞっとさせられる。

 300万頭いるとされるロンドンでは、外で飼い犬にふんをさせると最高500ポンド、ざっと7万円の罰金を取られる。公園の近くなどには、始末用のビニール袋の自動販売機があり、10ペンス(10数円)硬貨を入れると2枚入りの小箱がでてくる。それ専用のごみ箱もあり、専門業者が処理する。

 パリではオートバイにバキューム式装置を積んだ犬のフン処理部隊がいるそうだ。総勢75人いて、毎日ひとり平均50キロくらいを吸い取って回るという。

 ベルリンでも小型車に積んだフン収集機が導入されると新聞に出ていたが、一度も見かけたことはない。

 ドイツでは、たばこのポイ捨てもひどい。歩道を歩いていて、車の窓から火のついたままのたばこを足元に投げ捨てられ、頭にくることもしょっちゅうある。わが家のある地区「緑の森(グルーネヴァルト)」は街路樹が繁り、落ち葉の季節などよく火事にならないものだと思っていた。

 1995年の夏、デュッセルドルフに近いレムシャイトでアパートが燃え、トルコ人など20人ほどがけがをして4人の子どもが入院する事件があった。この市は2年前、トルコ人一家5人がネオナチの放火で焼け死んだゾーリンゲンの隣にあり、一時は「またもネオナチの外国人攻撃か」と騒ぎになった。

 火元は玄関前にあったベビーカーで、車の窓から投げられた吸いがらで燃え上がったことがわかった。良識派はネオナチの動きには敏感でも、ぽい捨てを法律で禁止しようとの声はあげない。

 タクシーの中で数世紀にも感じられるほど時間がすぎたころ、妻がやっともどってきた。手に別のスニーカーを持っている。

 「あんなの簡単に洗い流せないわよ」

 「じゃあ、あれ、どうしたの」

 「玄関わきの階段のところへ置いてきたわ」

 わが家の玄関わきといえば、お隣の玄関の真正面でもある。内階段だから臭いがこもって大変かもしれない。

 「だって、外に出しておいたら、だれか持っていっちゃうかもしれないでしょ」

 はき古しのフンつきが取られるとも思えないが。

 2週間後、日本から帰ってくると、スニーカーはそのままあった。お隣のクルップさん一家には、ささやかなおみやげを渡した。妻の実家でもらった香りの高い信州りんご2個だった。

 〔短期集中連載〕

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