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2011年12月

インどイツ物語ドイツ編(36・終章)【愛兎RAB、絶体絶命】

      97年春

 ドイツを離れる日をXデーとし、わが家はてんてこ舞いの毎日を送った。仕事の引き継ぎの資料を作り、荷造りをし、車2台の処分も考えなければならない。

 妻が子どもたちの送り迎えとショッピングなどに使っていた仏ルノー社製の赤いクリオを、まず、中古車ディーラーで査定してもらった。最初のディーラーは、車が盗難未遂事件に遭い配線カバーがちょっと傷ついていることに難癖をつけてきた。

 そんな値段か、とちょっとがっくりしながらも、翌々日、別のディーラーに妻を連れて訪れた。すると、ろくにチェックもしないで「クリオは、何と言ってもヨーロッパのカー・オブ・ザ・イヤーになった人気車ですからねぇ」と、最初のディーラーの2倍近い買い値をつけてくれた。

 妻とぼくは顔を見合わせ、即、売ることに決めた。なんと、営業マンはぼくたちを待たせ、金庫からキャッシュの束を持ってきた。その場で愛車を引き渡して、取引はすぐに終わった。

 ボンで買い3年間乗りつづけた車だけに愛着もあったが、別れを惜しむ間もなかった。ぼくたちには、まだ、山のように処理すべきことが残ってもいた。

 95年の夏に買ったメルセデス・ベンツは、意外にも、売りさばくのがむずかしかった。ディーラーが言うには、サンルーフがついていないことと色がポーラーホワイトなのがネックという。ドイツ人は、日本人とちがって白い車はあまり乗りたがらないそうだ。

 「それだったら、どうせ日本でも車がいるんだから、持って帰ればいいんじゃない」

 妻のひと言が背中を押して、引越し業者に日本への個人輸出の手配を頼んだ。そのコストは、日本で改めて車を買うことを考えれば、数分の一ですむようだった。

 国際引越しの最大の難題は、またも、わが家のスーパースター、ウサギのRABだった。ボンからベルリンに移ったときも、結果として、こっそり飛行機のキャビンに乗せて運んだ。

 今回もその手でいくしかない。うわさに聞くと、まともに持ち帰れば、成田空港で検疫のために数日間、預けなくてはならないようだ。その手間とお金がもったいない。

 いよいよXデー当日、RABを小さ目のダンボール箱に入れ、それをバッグに納めた。ベルリン・テーゲル空港で、日本人学校のシノハラ校長とマツノ事務局長などに見送られ、国内線に搭乗した。ここでのセキュリティではX線にばっちり映ってしまったが、無事通過した。

 そして、フランクフルト空港で成田行きの国際便に乗る時だった。ぼくは持ち込み手荷物のノートパソコンのチェックを受けるため、家族とは別のカウンターへ行っていた。妻によると、大柄でがっしりした体格の中年のおじさん係官が、バッグの中にウサギが入っていることに気づいた。

 妻や子どもたちがどきどきしていると、係官はナイフかハサミのような刃物をどこからか持ってきた。

 わっ、RABちゃんが殺されちゃう!

 胸がどきんと鳴ったとき、警備員は、RABのダンボール箱に、ブスッ、ブスッと穴を開けた。

 なんだ、息がしやすいようにしてくれたんだ。親切なドイツ人はここにもいた。

 RABは無事、成田空港に着いた。税関では、子どもたちが問題の“密輸バッグ”を乗せたカートを押してすーっと通り抜けた。1歳と8か月のRABは、ついに日本の土を踏んだのだ。

 RAB用の大きなケージは、船便で運んだ。東京近郊に新居が決まり、ケージもやがて到着して、RABは元気な日々を送った。

 優士は、自宅から1キロ以上離れたところにある公立の小学4年生となった。東京のベッドタウンで人口急増地帯のため、クラス転入生は他に5人もいて、自然に溶け込んだ。「ベルリン日本人学校から来ました」と自己紹介したら、みんなエーッと驚いた。

 舞は3年生のクラスに転入した。あこがれのランドセルをしょって通学するのがうれしくてたまらなかった。

 ドイツからの生きたお土産となったRABは、のちにピーターラビット種の真っ白なお嫁さんをもらい、6人の子をもうけ、10歳と半年も生きて大往生した。

 ――完

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インどイツ物語ドイツ編(35)【焼き鳥注意報】

      97年早春

 「国際映画祭のパーティがあるんだけど、いっしょに行く?」

 どちらかと言えばミーハー系の妻は、「行く、行くっ!」と叫んだ。

 当日、子どもたちも連れて出かけると、ベルリンに10数件ある日本レストランの中でもっとも大きい店だったが、東京の終電くらいに込んでいる。

 店内のどこにどう行けばいいか分からない。

 「こんな所で迷子になったらみっともないよ」

 子どもたちの手を引いて進んで行った。人混みにぽっかりあいた穴の中へ迷い出ると、タカハシ大使夫妻が目の前に立ち、隣に浅黄色の和服を着た女性がいた。そこへ何台ものカメラが向けられている。あわてて脇へどくと、フラッシュがいっせいに光った。

 和服の人は、女優の岩下志麻さんだった。妻は知り合いにわが家のカメラを手渡し、岩下さんといっしょに撮ってもらおうと必死だ。でも、あたりはミーハー系であふれかえっている。

 テーブルには食べ放題の日本食が並んでいるが、ここもラッシュだった。優士と舞は、かろうじてタレつきの焼き鳥を手に入れてもどってきた。

 やっと岩下さんの横があくと、子どもたちがつつーと近づいた。

 「焼き鳥、焼き鳥ッ!!」。

 妻が岩下さんの顔のまん前で、押し殺した声で叫ぶ。いかにも上等そうなお召し物にタレでもつけられたらたまらない。

 ぼくが映画関係者に取材をしているあいだ、妻はマネージャーらと食事をしていた岩下さんに頼み込んで、舞との写真を撮らせてもらった。

 妻は、今度は飲み物、食べ物の確保で忙しい。いつのまにかそばを離れた子どもたちを探すと、トイレに通じる廊下でだれかとおしゃべりをしている。

 「日本人学校のこと聞かれたよ」「あのおじさん、とてもやさしそうだった」

 最近の日本のテレビ・ドラマなど見る機会もないから、優士も舞も相手がだれか全然知らない。「やさしいおじさん」は、俳優の長塚京三さんだった。長塚さんも、子どもたちとの写真におさまってくれた。

 パーティは、ベルリン国際映画祭に参加した篠田正浩監督作品『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』のキャンペーンの一環だった。

 翌日曜日の朝、上映会を観に繁華街の映画館へ行った。日本人学校のアカミネ先生一家といっしょになった。ゲートで招待券を見せたが、細身の若い女性係員は「ちょっとここで待って」と通してくれない。しばらく立ったまま待つ間に、ドイツ人らがどんどん中へ入っていく。

 「どうして入れてくれないんだ」

 詰め寄ると、女性係員はドイツの典型的接客調でそっけなく言った。

 「18歳未満は、指定映画以外は観られないと法律で決まってますから」

 日本の映画配給会社が雇っていたドイツ人通訳もいっしょになって交渉してくれた。

 「きのうの上映会では、子どもも入れたじゃないですか」

 「きのうのことは知りません」

 こうなると、ドイツ人はテコでも態度を変えない。アカミネ夫人が「子どもたちはうちであずかってますから」と申し出てくれた。

 作品が、もしグランプリの「金熊賞」でも獲得すれば、ぼくは記事を送らなければならない。そのとき、どんな映画か観もしないで書くわけにもいかなかった。結局、アカミネ先生とわが夫婦だけが中に入った。

 日本では、原則として誰でも映画館に入れ、「成人向け」が例外としてある。ドイツはまったく反対で、未成年向けの指定映画があるらしい。いわゆる教育上よくない作品を子どもたちから遠ざけるためだが、民放テレビを観れば、そんなルールがあるとは信じられない。

 週末の深夜に限られてはいるとはいえ、下のヘア丸出しの過激番組がいくつもある。いわゆる本番のバッチリ映った番組が流れることもある。夜のパーティに親が出かけた後、子どもたちがこっそりチャンネルを合わせているかもしれないではないか。男女の愛欲の極地を描いたとされる日仏合作映画『愛のコリーダ』が、ノーカットで放送されたこともある。

 庭の芝刈りは昼寝時間帯はだめ、洗濯は夜8時まで、と何でもかんでも法律で決められている。もともとはドイツ式合理主義から生まれたのだろう。その合理性が時の流れとともに失われても、一度決めたことはちょっとやそっとで変えようとしない。

 逆に、社会でいろいろ不都合があっても、「法律にないから」と変な理由であまり問題にならないことも少なくない。

 『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』は、篠田監督渾身の力作で、戦後の混乱期に戦死した長男の遺骨を郷里に埋葬するため、家族で旅に出る物語だ。描写はノスタルジックで、成人向けどころか文部省推薦にさえなりそうな作品だった。

 日本での一般公開より3か月近くも早く、しかも招待券で観ることができた。前夜のパーティでは「ミーハー写真」を撮り、おいしい日本食までごちそうになった。それでも、映画館を出るとき、未成年締め出しですっきりしないものが残ったのは事実だった。

 ぼくたち一家は、もうすぐドイツでの任期を終え、日本に帰ることになっていた。ボンとベルリンでの日々は、文化のちがいは痛感しながらも、実に面白く楽しかった。

 引越しと後任への引継ぎ準備でほとんど寝る暇もないある日、タカハシ大使夫妻が、ぼくたち夫婦を大使公邸でのさよなら昼食会に招いてくれた。タカハシ夫妻とは、もともと、ボンの週末テニス仲間で、いっしょにテニス合宿に行ったこともある。そして、偶然、同じ時期にベルリンへ転勤になった。

 昼食会のメインディッシュはフォアグラのソテーだった。大使に、ドイツでの取材と生活の感想を聞かれた。ぼくは赤ワインのグラスを手にしたまま、即座に答えた。

 「ひと言で総括すれば、“Nicht schlecht”ですね」

 この言葉が大使夫妻に大受けした。「そうですか。ニヒト・シュレヒトですか。言い得て妙だな」

 英語で言えば“Not bad”、悪くない、という意味だ。

 正直に言って、かつてインドを離れるときには、これでやっと日本へ帰れる、と思った。今回は、子どもたちも「もう2、3年はいた~ぃ」と言っている。いろいろあったが、さまざまな人たちと知り合い、親切なドイツ人もたくさんいた。ドイツ暮らしは、確かに、悪くはなかった。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(34)【夢の学校 白雪姫も大人になる】

     97年早春

  「ツーガーベ、ツーガーベ!」

 ステージに勢ぞろいして終演のあいさつをする日本人の児童生徒に、ドイツの子どもたちからアンコールを求める大合唱が飛んだ。

 ベルリンのドライリンデン小学校。近所にある日本人学校が、全校でドイツ語劇『白雪姫と7人の小人』を熱演したのだ。

 全校といっても、小中学生合わせてわずか10数人。ドイツ統一の熱狂の中で創設準備が進められ、4年前開校した。だが、その後、日本企業の撤退が相次いだため、首都機能が99年にボンから移ってくるまで、日本人社会も学校もこぢんまりしたままだ。

 日本では最近、クラスや学年の枠を超えた「タテ割り教育」が学校改革の一環として試みられているが、ここではそれがいやおうなしに実現した。大きな子は自然に小さな子の面倒を見、下の子は上の子に刺激されて伸びて行く。家族的な、いじめも不登校も無縁の世界だ。

 『白雪姫』はもともと、学校祭で上演された。週に2時間、ドイツ語の授業があるが、低学年や転入間もない子にドイツ語のせりふは難しい。本番ひと月前、Mちゃんは練習でべそをかいていた。でも、1週間ほどに迫ったある日、発音などの指導にあたる事務局長に、自分からせりふを口にしてみせた。「これでいいでしょ」と笑顔を添えて。

 学校祭に招かれたドライリンデン小学校の副校長は、全員参加のドイツ語劇に舌を巻き、即座に自校への「出張公演」を依頼した。

 当日、開演を前に、副校長はこうスピーチした。

 「日本人の子どもたちにとって、ドイツ語のせりふを覚え、劇を演じるには大変な努力があったはず。そのことを考えながら見て下さい」

 ドイツの子どもたちは一般的に、劇場などで行儀がいいとは言いがたい。だが、幕が開くと静まりかえった。「ドイツ語でも私にはあんなにうまくできない」。3年生のウリーちゃんは幕あいに興奮していた。

 「ドイツ人には学校間交流という発想がなく、開校以来、すれ違いと試行錯誤の連続でした」と、日本人学校のある関係者は語る。それでも毎年、日本式の運動会などにドイツの先生と児童を招いてきた。

 昨年来、ドライリンデン小学校の4年生全員が担任の先生に連れられ、突然、日本人学校にやってきて、先生も含め全員に手作りの「お菓子の家」をくれた。日本の遊びや食事を一緒に楽しむ「交流会」に招待したことへのお礼だという。「4年かかってようやく大きな手ごたえがあった」と先生たちは感激した。

 「ドイツの子は乱暴で、欲張りだなどと、うちの学校の子どもたちにも偏見があった。劇をこれほど真剣に見てもらい、それもなくなるでしょう」

 アンコールの大喝さいに包まれ、舞台衣装の「小さな外交官」たちはほおを染めて立ち尽くしていた。ステージのそでで、先生や事務局長は目を潤ませていた。

 (読売新聞1997年2月24日付けから)

    ☆★☆★☆★☆★    ☆★☆★☆★☆★    ☆★☆★☆★☆★

 ベルリン日本人学校の元在籍生は、西暦で「0」と「5」のつく年の夏、東京で大同窓会を開いている。卒業生だけでなく、親の仕事の関係で数か月だけ在籍した者でも、参加資格がある。

 出身地は全国にまたがり、海外で活躍する者も少なくない。幹事団は、大学2年生の世代が担当することになっている。

 2005年夏、第1回が信濃町のレストランを貸し切って開かれた。出席した卒業生は約50人だった。一番の特徴は、保護者たちが元在籍生以上にたくさん参加することで、広いレストランは人であふれた。

 子どもは都合がつかなくて出席できなくても、親だけが参加するケースもある、珍しい同窓会だ。

 幹事団は、元在籍生にメールで連絡をとり、欠席者をふくめた名簿を作成、会場で手渡してくれた。そこには、各自のコメントが集められていた。

 「自分探しの途中です」(ユキ)「大学生活をエンジョイしてます」「都内の大学で2年生です。勉強よりも趣味のオーケストラに夢中、目の前の今を楽しむ毎日です」(フウコ)

 成長したんだなぁ。

 「 卒業生第1号結婚しました」(ユキ)というのもある。もうそんな年ごろになった人もいるのか。

 「ハンガリーのリスト音楽院に通学しております」(ケント)。将来が楽しみだ。

 先生たちからは、こんなコメントが寄せられた。「ぎりぎりまで日程を調整したのですが、出張や会議やらで出席できなくなりました。北海道の空から乾杯!」(シブカワ)「懐かしかった。なんかウルウルきましたよ。ヴァンゼーの公園で遊びたいね」(オグラ)

 そのオグラ先生は、ベルリンの現地採用で、学校創設準備以来のメンバーだ。同窓会には妻子を連れての一時帰国中で、参加してくれた。日本人学校では、先生と子どもたちの仲もすごく良かった。オグラ先生は個人的に、ある夏、ケンゴ君、コウスケ君、コウジ君と森のなかでキャンプをし、カヌー遊びをしたという。子どもたちも、その時のことをもちろんよく覚えている。

 タカシ君は、学校のすぐそばにあった湖ヴァンゼーが全面凍結した時のことが印象に残っているという。「みんなで氷の上を歩いて、かなり遠くまでいってみた」

 トモコちゃんは、小5から中1まで在籍した。ドイツ語劇『白雪姫』でヒロインの白雪姫を演じた。王子様が最後のシーンでキス(のふり)をするとき、ドキドキした。いまでは、銀行員となった。

 2010年夏には、信濃町の同じレストランで、第2回大同窓会が開かれた。前回以上の参加者で、会場はわいわい大にぎやかとなった。

 キヨシ君は、この同窓会に出るためだけに沖縄から弾丸で参加した。卒業生第1号結婚したユキさんは、母親4年生になった。非常勤でホテルの専門学校の英語講師をしている。ガーデニングにはまっていて、庭でのんびり娘とお茶をするのが何よりの楽しみという。

 コウジ君のように、ほんの短いあいだしか在校しなかったが、「人生のなかで決定的な体験になった」という者たちも少なくない。

 北海道大学大学院の1年生カオル君は、空路、飛んできてくれた。カオル君と同じクラスだった優士は欠席したが、こんなコメントを寄せた。

 「社会人1年目です。日本で最初に作られた知的障害者施設で働いています。常盤貴子さん主演で映画化もされた施設です。最近は趣味で写真撮影をよくしています。ミクシィで公開したりしています」

 センダ先生も、一度日本にもどった後、ふたたびベルリンで暮らしているが、わざわざ同窓会に参加してくれた。

 ブラジルのリオデジャネイロ日本人学校に赴任していたアカミネ先生も、任期を終えて帰国し、大分から家族連れで参加した。閉会前の先生のあいさつで初めて知ったことがある。

 ベルリンにいるとき、ぼくが先生に「日本に帰ったあとも、みんなで集まれる親子同窓会を開けば楽しいでしょうね」と提案したのだという。言い出しっぺはぼくだったのか。

 ぼくは、ボンで日本語補習校の運営委員をしていた関係から、ベルリンの学校でも保護者会長兼理事をさせられていた。日本人学校へ顔を出す機会も多く、アカミネ先生とそんな話をしたのだろう。本人はすっかり忘れていたのに、それが実現した。

 実は、同窓会の第0回というのがあり、その時は、アカミネ先生たちが主導して開かれた。席上、次回からは子どもたち自身が幹事役になることが決められ、こうして2回の本番を重ねたわけだ。

 そして、第2回の同窓会でも、次回の幹事団が決められた。いまは高校生だが、幹事になるときには大学生の年代で、きっとうまくやってくれるだろう。

 新旧の幹事団に拍手!

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(33)【晴れのち晴れ=後編】

      96年晩夏

 「日本の運動会みたいに、明け方から場所取りするなんてことなくていいわね」「日本では、校庭のフェンスを乗り越えて入って、厳重注意される人がいるくらいだものねえ」

 お母さんたちがぺちゃくちゃやりながら、長机ひとつの「本部席」の横にシートを並べる。とはいえ、大人も出番が次々あり、席を暖めている暇がない。

 「ラジオ体操第1」も全員参加だ。「30年ぶりくらいかなあ」と言いながら、体を動かすと、それだけで結構疲れる。ドイツ人親子も見よう見まねでぎこちなくやっている。

 大人だけの競技では、わが夫婦がAチームの主将にさせられた。竹篭を背負って走っていき、ドッジボールを地面にワンバウンドさせて篭に入れる。コーンを折り返して帰ってきて、ボールを取り出し篭を次の人に渡す。

 オグラ先生がお手本を見せてくれた。「先生、よく似合ってますよーぉ」。ぼくが声をかけると、妻が調子に乗って「お猿のかごやみたーい」と言う。「私もそう思ったけど、悪いから口にしなかったのに」とアヤコちゃんのママがつぶやく。

 トップバッターはかなりのプレッシャーがかかる。何とか一発でボールが入り、内心「よかったーぁ」と叫びながら折り返した。Aチームの面々や子どもたちからの大歓声が快感だ。

 つづいて妻も一発で決め、意気揚々と帰ってきた。Bチームの主将になったカオル君のパパは何回やっても入らず、すっかりあせっている。2番手のママも大苦戦だった。これなら、Aチームは圧勝しそうだ。

 わが夫婦は、日本にいたとき、子どもの幼稚園の運動会でも「賞品稼ぎ」で鳴らした。優士が年小組の時、2人3脚縄跳びで1等賞になり本部席で受け取ったのは、なぜか醤油の小瓶2本だった。しばらくの間、わが家のキッチンにはのし紙を巻いた醤油瓶が誇らしげに飾られていた。

 ベルリンの運動会で、わがチームはいつの間にか大逆転されてしまった。それでも体を動かしたから、お昼の缶ビールがうまい。隣の席はアカミネ先生一家で、奥さん手作りの豪華弁当を広げている。先生に缶ビールを渡そうとしてやめた。「勤務中ですもんねえ」と言うと「本当は飲みたいんだけど」と恨めしそうだ。

 わが家の弁当も負けてはいない。妻はいつも行楽弁当に関しては、実家の母親の流儀を受け継ぎ、こだわりを見せる。巻き寿司、稲荷寿司、鶏の唐揚げに必ずおでんが付く。練り物はもちろんうずらの卵や筍の水煮など、外国では手に入りにくいものをどこかで見つけ、2、3日前から気合いを入れて仕込む。

 「優士、アルミちゃんのお父さんに渡して」と1缶を持たせた。「“文部省後援”の行事だからアルコールはまずいかなと思って持って来なかった」と言っていた。金属の研究で博士号を取った人で、石部金吉かと思えばとんでもない。金属に入れ込むあまり、長女にアルミニュームからアルミと名付けた。本名はもちろん漢字で、とても可愛い感じの名前だ。次女が生まれ「ニューム」と付けようとして、さすがに奥さんに反対されたという。

 子どもたちはさっさとお昼を済ませ、グラウンドで遊んでいる。ドイツ人の子どもたちは1輪車に挑戦しているが、そう簡単にはいかない。タロー君や舞が得意そうに乗り回している。

 雷鳴が急に近くで聞こえ出した。遠くの雲も一段と黒くなったようだが、頭上の空はまだ青い。

 午後の最初のプログラムは綱引きだった。参加者全員がふた組に分かれ、ドイツ製らしいちょっと細目のロープを持った。ちょうど日本総領事館のタカハシ大使夫妻が激励に来てくれた。「今ごろグリーン上かと思っていましたのに、わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」

 とても気さくなおふたりだから、ぼくが綱引きに誘うとふたつ返事だった。「えっ、いっしょに引いてくれるの!」。よその奥さんたちが驚いている。

 理事長が「ツィーエン(引けっ)で引くんだよ」とぼくたちのチームに声をかける。日独合同だからかけ声はドイツ語だ。たかが綱引きでも、ホイッスルが鳴ればみんな真剣になる。3回戦い、1対2で負けてしまった。

 次の子どもたちの競技の写真を撮ろうとして、手に力が入らない。「明日はひどい筋肉痛かなぁ」という声があちこちで聞こえる。

 運動会の定番、玉入れ競争は今回初めて取り入れられた。先生たちがベルリン日本語補習校から借りてきてくれた。篭はひとつしかないから赤白対抗とはいかない。来賓もドイツ人親子もふくむ参加者全員をその場でふたつに分け、1回戦勝負となった。

 「ひとおつ(アインス)」、「ふたあつ(ツヴァーイ)」と2か国語のカウントが続く。35対42。優士たちのチームから歓声があがった。

 ハイライトはリレーだ。大人たちの参加を呼びかけるアナウンスがあると6、7人のドイツ人が、集合場所へ歩いていく。高めのヒールの靴をはいた女性もいる。日本人はひとりも出ない。日本人学校の運動会なのにドイツ人だけが走るのをながめるのは悔しい。しかも最後のプログラムだ。

 全力疾走などしばらくしていないからひっくり返るかもしれないが、ひとりでも参加することにした。集合場所から保護者の応援席に手招きすると、タロー君とマユミちゃんのパパたちがきてくれた。アルミちゃんのパパも「ビールの借りがあるから」と加わった。
 まず、日本人の児童生徒が紅白戦をした。人数合わせでシノハラ校長先生は舞と一緒に走った。マツノ事務局長も重そうな体で力走した。

 いよいよドイツ人親子と日本人の大人の番だ。適当に分かれると、たまたまぼくが列の最後に立っていたのでアンカー用の青いベストを渡された。係りのセンダ先生が白鉢巻をたくさん持っている。ぼくは「どうせなら雰囲気を出したいから」と1本もらい頭を締めた。

 スタートのホイッスルが鳴り、ドイツ人のちびっこが飛び出していく。しゃがんで順番を待っている間、じわっと緊張感が湧いてくる。リレーで走るなんて中学校以来か。

 ぼくたちの組は快調でぐんぐんリードしている。気がつくとタロー君のパパが走っている。次がアルミちゃんのパパで、もうアンカーにくる。

 バトンを受け取った時、相手チームは最後から2番目の選手がまだゴールラインで待っている。何かおかしいな、と思いながら走りだした。若いころのイメージで走ると下半身がついていかずころんでしまうと言われる。7割ぐらいの力で、と言い聞かせ走っていると意外に早くゴールが近づいてきた。

 「もう1周、もう1周」という声が聞こえる。え、やっぱり人数が合ってなかったのか。ゴールに飛び込んだままもう一度コーナーを回った。胸が痛い。2周も走るんならやめておけばよかった。振り向くと差は詰められていない。ゴールではセンダ先生たちが白いテープを張って待っている。万歳しながら走り込むと足がよろけそうになった。子どもたちの歓声が初めて耳に入った。

 閉会式で校長先生があいさつしていると、雨が落ち始めた。空はなんとか持ってくれた。学校もどうにか続けていけるだろう。人口350万人を抱えるヨーロッパ屈指の大都会の片隅に、大人たちもドイツ人も巻き込んだこんな寺小屋のような学校があった。伝説になる日はそう遠くないだろう。

 〔短期集中連載〕

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北朝鮮を嗤えない すぐそこにもある独裁メカニズム

 読売グループをめぐる“清武の乱”が世間を騒がせている。これを横目でみていて、1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件を連想した。

 第2次大戦中、敗色濃厚となったドイツ国防軍のシュタウフェンベルク大佐が、ヒトラーのいる総統大本営会議室に爆弾をしかけた。爆発はしたものの、ヒトラーは危うく難を逃れた。実行者の大佐や同志の反ヒトラー派将兵グループは、身柄を拘束され、惨殺された。

 戦後、ヒトラーは<悪いドイツ人>の象徴=絶対悪とされ、それを排除しようとしたグループは、(西)ドイツで<善いドイツ人>として英雄視された。

 国防軍は正規軍であり、ナチス親衛隊などナチ組織とは、いちおう一線を画していた。したがって、シュタウフェンベルク大佐らはナチスではなかったが、生粋の軍国主義者であり、ヒトラー亡きあとも民主的な国家再建を目指していたわけではない。ヒトラーがトップにいる限り敗戦は免れない、とし国防軍が戦争を主導するため決起しようとした。

 そういう意味では、どっちもどっちだ。しかし、トム・クルーズ主演の米映画『ワルキューレ』(2008年)でも、大佐らを美化して描いていた。

 “乱”に失敗し巨人軍の代表兼GMを解任された清武氏とは、ぼくは30歳前後のころ机を並べて仕事をした。敏腕記者として鳴らし、巨人軍に移ってからも数々の新機軸を打ち出してきた。

 清武氏は、ナベツネこと渡邉恒雄・読売グループ会長のコーチ人事介入に耐えられず、その独裁体制に風穴をあけようと決起し、つまづいた。

 世界の独裁体制には、大きく分けて北朝鮮型とナチス型があると思う。北朝鮮では、抗日パルチザンのリーダーだった金日成が、大戦終結直後、ソ連の支援を受けて北朝鮮労働党を組織し、北朝鮮の指導者となり、やがて72年に独裁者となった。2011年12月19日に急死した金正日は、父親の独裁権力を世襲した。

 つまり、北朝鮮では、民衆があずかり知らないところで、上からの独裁体制が築かれた。 これに対し、ヒトラーは一兵卒からのなり上がり者だった。巧みな演説と不思議なカリスマ性で人心を掌握し、選挙によって第1党の党首となり、首相の座についた。ナチ党を基盤として国民をつぎつぎとナチ化し、独裁体制を固めていった。出世しようと思えばナチになるになるのが一番であり、一般国民のほとんどもナチズムに酔った。

 つまり、ナチスドイツは、下からの独裁だった。

 ナベツネ独裁体制は、ナチス型だ。もちろん、読売新聞が戦争や大虐殺をしたわけではない。あくまで、組織論から考えればパターンがよく似ているということだ。

 ナベツネが大学生時代、共産党員だったことは一般に知られている。ある事件で宮本顕治の逆鱗にふれ、党を除名された。その後、保守に傾くようになった。

 読売に入ると政治部に所属し、自民党・大野伴睦の番記者となった。中曽根康弘氏とも盟友関係となり、政界、社内で影響力を持つようになった。そのころ「組織は5%の人間を押さえれば、全体を牛耳れる」と語っていた、とぼくはある人物から聞いたことがある。それは、共産党のシンパ作りの手法そのものだという。

 ナベツネは、まず、政治部の5%を確保し、それから部全体を掌握した。つづいて、経済部を手中に収めた。社会部とはまだ敵対していた。

 だが、社長になって少し経ったころからか、社会部、社会部出身の幹部を篭絡していった。出世しようと思えばナチになるになるのが一番、という原則がここにもある。

 清武氏も、その当時は「あの人も、ナベツネの軍門に降ったか」などと言っていたのを思い出す。編集局でも、ぼくがいた外報部(現国際部)をふくめ、大多数の記者はナベツネに反感を持っていた。

 なにしろ、言論機関でありながら、紙面には言論の自由などなかった。なにか核心を突くスクープ記事の原稿を書いても、社論や社の政治利権に反すれば、ナベツネ自身ではなくナベツネ体制の尖兵となった幹部が握りつぶしてしまう。清武氏も社会部などにいてそういう経験をしたことを、本人の口から聞いたことがある。

 社内で出世するということは、ナベツネの軍門に降ることとほぼ同義語だった。そして、社内にはミニナベツネがいくらでもいた。

 ナベツネは、ぼくもメンバーだった社内の「憲法研究会」にほぼ毎週顔を出した。頭のキレはずば抜けていたが、権力志向があまりにも強く、方向性をまちがえていると思う。

 ある週刊誌は今回の“乱”をめぐり、「清武氏が巨人軍内でミニナベツネになっていた」と報じた。彼自身は、ナベツネの軍門に降ったわけではない、と思っていたのかもしれないが、はたから見ればヒトラーの威を借るナチ幹部と同じだっただろう。

 独裁体制下で、人がどんどんナチになっていくのは、読売に限ったことではない。たとえば、創業家出身の前会長が不正に106億円もの借り入れをしていたとして大騒ぎになった大王製紙でも、「絶対的に服従する企業風土があった」と朝日新聞は伝えている。

 権力者の軍門に降るのは、人の習いなのだろう。つまり、ナチはあなた自身かもしれない。少なくとも、あなたのそばには、ナチがたくさんいる。

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(32)【晴れのち晴れ=前編】

                96年晩夏

 遠くに黒い雲がのぞき、かすかに雷鳴も聞こえる。頭の上には、どうにか青い空が広がっている。

 グラウンドでは運動会がたけなわで、「人間ムカデ」がうごめいていた。白組の舞は1、2年複式クラスの同級生タロー君とのペアだった。ふたりのお腹と背中でドッジボールをはさみ、のろのろと進んで行く。「白組、ボールがはずれて苦戦しています」。ラジカセからBGMが流れ、低学年の担任で放送係のリカ先生が解説を入れて盛り上げる。

 「国語の先生なのにリカっていうんだよ」

 この春、新しい担任になった先生のことを舞は口をとがらせながら話していた。ジョークなのか本気なのか。舞の考えていることは、いつものように親にも分からない。

 舞とタロー君はよちよちながらどうにかコーンを折り返し、次の子どもたちにバトンタッチした。赤組の2番手で登場した優士はタカシ君、ドイツ人の女の子と3人で2つのボールをはさんで進んだ。3、4年の中学年クラスだから難易度が高い。最後の高学年と中学生のチームは4人で3つのボールを運んで行く。両組の人数が合わないので、一番若いオグラ先生が加わっている。

 8月最後の土曜日、ベルリン日本人国際学校の第4回運動会が、微妙な空の下で始まった。「皆さんが一生懸命がんばれば、お空の神様はきっと雨を降らすのを待ってくれるでしょう」。来賓代表の学校理事長があいさつした。

 小学5年のコージ君は、ちょうどこの日、日本に帰らなければならなかった。お父さんの研究留学にくっついて来て5か月ほどベルリンで勉強したが、楽しみだった運動会にはぎりぎりで間に合わなかった。前日、「来年は日本の夏休み中に開いてください。きっときます」と先生たちに言い置いて帰って行ったという。

 小中学生の数は、マイナスひとりで16人になった。あとひと月するとさらにふたり減る。入れ替わりが激しいから、きっとまた子どもたちは増えるはずだが、当分はさみしくなる。

 運動会でも、児童生徒以外の数の方がはるかに多かった。保護者、先生の家族に、理事長夫妻や日本総領事館からの来賓もいる。会場を貸してくれたドライリンデン小学校の子どもと親も20人ほど来て、オープン競技にどんどん参加してくれた。

 グラウンド脇のフェンスには、中学生たちが描いた万国旗が張られ、ささやかな大運動会に華をそえている。児童生徒会の体育委員が用意した横断幕も「全力をつくし、力を合わせてがんばろう!」と喝を入れている。

 1学期の終わりごろ、ひとりだけいた中3の男の子が帰国し、小1から中2までの8学年となった。プログラムの出場者欄を見ると、子どもたちの出番はすべて「全児童生徒」となっている。運動能力はまちまちなはずなのに、どうやってひとつの競技をさせるのだろう。「人間ムカデ」を見てうなずいた。工夫すれば何とかできるものだ。

 「なわとび」というあっさりしたタイトルのプログラムもあった。子どもたち全員が縄跳びをしながら登場し、低学年から順番にテクニックを披露していく。舞たちはふつうの縄跳び、優士たちは両手を体の前で交差させる「綾飛び」、高学年と中学生はその2重飛び「ハヤブサ」に挑戦する。

 先生が長縄をぐるぐる回すところへ小さい子から順に飛び込んで行く。1年坊主のカオル君がぴょこんと飛んで出ていくと、舞は長縄のリズムに合わせて飛びながら自分の両手に持った短縄で縄跳びをするという高等テクニックを見せてくれた。

 「とてもじょうずにリズムを取っていま~す」とリカ先生がマイクで声援してくれた。見物席から拍手が起こった。「よくあんなことできるわねえ」。妻が写真を撮るのも忘れて見ている。

 優士は長縄を飛びながらパートナーとバスケットのようにボールをパスをして見せた。その周囲を4、5年生の女の子たちが1輪車に乗りながら縄跳びをして回って行く。

 子どもたちのチームワークの良さには定評がある。1学期の最後、学校近くのヴァンゼー湖畔にある研修センターで、全校参加の「夏期学校」が2泊3日で開かれた。中学年の男の子が体調を崩し階段のところで戻してしまった。そばにいた子どもたちは、すぐにティッシュペーパーで後始末した。先生を呼びに行ったのはその後だった。

 4月のある昼休み、たったひとりの新入生サトル君が初めて1輪車に乗ったとき、2年生の女の子ふたりが両手を持って練習につきあっていた。九州から着任したばかりのアカミネ先生は、父親参観の日に保護者全員の前でわざわざその目撃談を披露した。

 2年生の女の子と言えば、そのひとりは舞のことだ。家ではお兄ちゃんと喧嘩ばかりしているのに、やるじゃないか。

 大きな子が小さな子の面倒を見る。困っている時は助け合う。当たり前のことが当たり前にできるのは、子どもたちも先生方も、日本の学校に比べずっとゆったりしているからだろう。

 89年11月9日、ベルリンの壁が崩れる現代史のドラマが起きると、ドイツに熱狂ムードが生まれた。日本などにも飛び火し、ベルリンがヨーロッパの中心都市になるような錯覚が生まれた。企業が相次いで殺到し、駐在員の数が壁のあったころとは比べられないほど増えた。

 家族を呼びよせるとなれば日本人学校がいる。できたばかりの日本商工会が設立準備を始め、日本政府に申請した。「統一ドイツの首都に日本人学校がないわけにはいかないだろう」と、あっさり認められた。子どもの数がどれくらいになるか予測もつかないままだった。統一の熱狂がハプニングのように生んだ学校だった。

 ベルリン市教育省が認可した私立の学校法人で、商工会の一組織、学校理事会が運営に当たる。日本からはプロの教師6人が派遣され、93年4月に開校した。

 子どもの数がさらに減って自然閉校になってしまう恐れもないわけじゃない。今日の空模様のように、いつも心配がつきまとう。唯一の希望は、首都機能がボンからベルリンへ移る世紀の変わり目に日本人家庭が一気に増えることだ。

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(31)【さみしい天然ブリ】

  「いい時に来ましたねえ。あなたはほんとに運のいい人だ」

 シェフの青木栄弘(ひでひろ)さんが、ニコニコ顔で現れ、鮮魚のショーケースの前へ連れていってくれた。氷を敷き詰めた中から舌ビラメやカレイがのぞいている。子どもたちも初めてのレストランで知らない人たちばかりだから神妙だ。

 青木さんがスイッチを押すと、透明ガラスのケースカバーがゆっくり開いた。

 「わあー、おもしろーい」

 舞が声をあげる。奥の方に大きな魚が横たわっている。

 「これ、今日入ったばかりの天然ブリですよ。こんなにいいのは滅多に入らないです。3匹仕入れてさっき1匹さばいてあるから刺身にしましょうか。フォーア・シュパイゼ(前菜)にちょうどいいでしょう」

 魚の頭をなでるように青木さんが言う。

 「イタリア料理の刺身なんてどんなのかしら。海鮮中華みたいに塩コショウと香味野菜で食べるとか」

 テーブルで妻は待ちきれなさそうにしている。そのころ、まだカルパッチョという料理は、日本では一般的でなく、ぼくたちは洋風刺身を食べたことがなかった。

 あの青木さんが自信を持って出してくれるというんだから、きっとうまいんだろう。こっちだって、さっきからやたら唾が出てきて困っている。

 「ねえ、ナイフとフォークでお刺身食べるのぉ」

 真っ白いナプキンをいじりながら、優士がもっともな質問をした。

 ベルリンの象徴ブランデンブルク門からほんのちょっと南の旧東側へ下ったところに青木さんのイタリア・レストランがある。かつてシュタージ(旧東独秘密警察)要員などが住んでいた高級アパートの1階だ。1年近くかけ、自分たちで床のタイルを張り壁を塗って、110席の店舗を完成させたという。

 もともと札幌の食堂の息子として生まれ、高校生のころから包丁を握っていた。大学卒業後、伯母の中華レストランを手伝ったが、「どうせやるならパリに行ってフランス料理を」と考えた。まず、札幌のホテルに勤め、西洋料理の基礎を学んだ。

 25歳の誕生日の直前、親戚のいたベルリンへ渡った。そこからフランスのビザ取りを狙ったが難しいと分かり、日本料理店で働いた。

 74年秋、美食家で知られた指揮者カラヤンも行きつけの超一流店『ベルリン・リッツ』へドイツ語の履歴書を持って行くと、「明日から働いてくれ」と言われた。

 「その店のシェフ、ベルナーフィッシャーさんは、個人でミシュランの2つ星を持っていた恐らくドイツで唯一の人で、以前からあこがれていたんです」

 そんな話を、この前きた時に聞いた。海外で活躍する日本人を紹介する欄のためインタヴューを申し込んだらふたつ返事でOKしてくれた。「記事が出たら持ってきます」というと「じゃ、家族連れできてください。何か適当に作って出しますから」と言ってくれていた。

 土曜日の夕方、電話もしないでやってきたのだが、どうやら大当たりの日だったらしい。

 シェフお薦めのイタリア産白ワインをちびちび飲んでいると、やっと前菜が出てきた。

 「わー、きれいね」。妻が盛りつけの華麗さにまず関心する。

 レッド・オニオンのスライスに薄緑のチコリ、飾り包丁を入れた真っ赤なラディッシュをアクセントに添え、その上に桜色の大きな切れのブリが6枚盛りつけられている。皿の脇には緑鮮やかな西洋タンポポの葉が敷かれている。これもサラダにすると結構うまいものだ。皿の端にはキノコのようなものがある。よく見るとビー玉のように丸めたワサビがゆでパスタの傘をかぶっている。

 青木さんは「札幌のホテル時代、結婚式料理の飾り付けなどでデコレーションの修行をしたのも役だってますよ」と言っていた。料理はまず目から、なのだ。ドイツ料理はそうでもないが。

 まったく同じ前菜の皿が子どもたちの前にも並べられ、しょうゆベースのドレッシングが出てきた。小さなスプーンで魚にすくってかけ、おもむろにナイフを入れて口に運ぶ。適当に乗った脂が口の中で広がっていく。

 「役得よねえ。なんか申し訳ないわね」

 その役得のおこぼれに預かっている妻が、いちばん不遠慮に桜色の切れ端を口へ運んでいる。誰にということもないが、確かに申し訳ないような気がする。

 「お刺身の左側から切って食べなさい」

 妻の忠告も、舞の耳にはほとんど入っていない。最近ステーキを自分で切って食べるのが気に入ってナイフ、フォークの使い方には慣れているはずなのだが、ときどき「左右音痴」になる。2年生になった今でも漢字を鏡に写したように左右逆に書いたりするプッツン嬢なのだ。

 もっとも、どう切ったってうまい。ふだんの舞なら「こんなにたくさん、食べられなーい」と言うところだが、今はそんなそぶりもない。優士は早くもほとんどを平らげ、舞が残すに決まってる野菜に手を出した。

 「どうですか」

 青木さんが厨房からやってきた。まだ時間帯が早くお客さんの入りが少ないから、シェフも余裕がある。感想を聞かれても、こういう至福感を表す形容詞はない。どこで取れたのか聞くと、トルコ沖だという。

 「値段はマグロの3倍くらいしますけどね。いいものはいいから」

 ふつうはバターで香味焼きにして出すそうだ。妻が思わず「火を通すなんて、もったいない感じですね」というと、青木さんは「いや、それがまたいけるんですよ」という。

 ベルリン・リッツにいたとき、青木さんは国際料理コンクールで4回も金メダルを取っている。

 「第2の父」と仰ぐ師匠ベルナーフィッシャーさんから「料理人は常に新しいものに挑戦しろ」と教えられたという。受賞作のひとつはこうだ。

 日本から持ち込んだ旬のタケノコをミキサーでムース状にして生クリームをまぜ、それで煮たヒラメの周りを飾りつけた。

 どんな味、どんな舌触りかイメージが浮かばないが、西洋の料理人をびっくりさせたことは想像できる。

 「日本人で得をしました。ヨーロッパにない食材を知っているし、魚や野菜の鮮度も見分けられる」

 作る方も超一流のプロだが、食べる方、飲む方も相当の道楽者らしい。奥さんの和子さんとオーストラリアまでカンガルーを食べに行き、ドイツやイタリアのワイン醸造元に何度も足を運んで、門外不出の秘蔵ワインを味わったりしてきたという。

 アフリカの動物もかなり食べたそうだ。ぼくが、「在日コリアンの人がやっている御徒町の焼肉屋で、牛の脳味噌の刺身を食べたことがありますよ」というと、身を乗り出して「それは知らないなぁ。日本でもそんなもの食べれるんですねぇ」と、ちょっと悔しそうに言った。

 ベルリンの壁が崩れてまもないころ、雇われシェフをしていた西ベルリンのイタリア料理店に、東側から若い母親が幼い子どもを連れてやってきた。わずかの西ドイツマルクを差し出して「これで何か食べさせて欲しい」と言う。

 やっと手にいれたお金のはずだった。金額分よりちょっとサービスし、ピザにエビを乗せて焼いて出すと「こんなにおいしいものは食べたことがない」と喜んだ。

 そのころ、あるイタリア人に腕を見込まれ、イタリア料理店の共同経営を持ちかけられていた。母子のことが心に残り「どうせなら、安くてうまい料理を東の人たちにも」と、旧東ベルリンに店を構えた。

 イタリア料理は「70歳くらいのおばあさんに教わった」という。雇われシェフとしてスカウトされた時、経営者から「うちのお袋のところで勉強してきたら」と言われ、夏季休暇の5週間、トリノへ行った。

 「毎朝、そのお袋さんについて市場へ行って、庭先にあるローズマリーやオレガノの生の香辛料なんかを使って料理を作るんです。普通の主婦なのに料理の腕や知識はすごかった」

 青木さんにそんな話を聞きながら、ぼくはやっと気づいたことがあった。イタリア人ウェーターが、前菜をサービスするとき、「サミシー、サミシー」と訳のわからないことを口走っていたのだ。

 優士は首をかしげて「どういう意味?」とぼくに聞く。「あんなのドイツ語でもイタリア語でもないんじゃない」

 その意味がやっとわかったのだ。ウェーター君は、ぼくたち日本人に気を使って「刺身、刺身!」と言っていたのだ。うろ覚えというのは、時に人を困惑させる。

 それにしても、サミシー天然ブリは最高だった。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(30)【風に揺られて=後編】

      96年夏

 セザンヌやルノワール、マチスは、森の中で全裸でくつろぐ人びとの姿を繰り返し描いている。絵画の世界が、目前にあった。これが日本ならなどと思わなければ、べつにどうということもない。子どもたちがヌーディストたちに何の反応も示さなかったのが、それを物語っている。

 「裸で日光浴――どんな場所ならいいか、いけないか」。大衆向けの全国紙ビルトが、ある猛暑の日、実例の特集をした。

 銀行員のライナー・ガイスさんがハンブルクの公園の屋外プール脇で全裸で横たわっていると、警官が飛んできた。屋外プールでの全裸行為は「家宅不可侵権」により禁じることができるとされる。違反した場合、「反秩序法第108条」により罰金刑となる。

 フランクフルト大学の学生クリスティーネ・シュナイダー嬢(23)は、アパートのバルコニーで上も下もなしで講義ノートを読んでいいると、隣のおばさんに「警察を呼ぶわよ」と文句を言われた。この場合、法的に問題はなく警察は関与しない。文句があるなら、アパートの持ち主から言ってもらうしかない。

 デュッセルドルフに住むミハエラ・フィルメニッヒ嬢(22)は自宅の庭で全裸で日光浴していた。隣人がバルコニーから「ふしだら娘。うちの子どもたちをだめにする!」とののしった。警察は「自分の庭なら問題はない」と取り合わなかった。

 ベルント・ディットヒッヒ君(25)は、ハノーファーのプールで恋人のベアーテ嬢の胸にクリームを塗っていた。彼女がうめき声を出したため、周りから文句がでた。警察の見解はこうだ。性的行為は「刑法典183条a項」の「公序良俗違反」で最高1,000マルクの罰金。人前でいちゃつきすぎると、7万円以上を取られたうえ、前科がついていまう。

 記事は外国での例もあげている。

 秘書のエレンさん(32)がイタリア中部トスカーナ地方で全裸日光浴をしていると、カービン銃を持った騎兵隊が現れ、「反倫理的行為」として約400マルク、ざっと3万円の罰金を払わされた。

 北アフリカ・チュニジアの地中海岸で全裸でいたドイツ人カップルは、土地の人間に石を投げられ、さんざんに殴られて大けがをし病院に運ばれた。

 特集は、「他の危険な国」として、ギリシャ、エジプト、モロッコ、マレーシアをあげる。「アメリカ(フロリダ、ハワイ)もおつにすましており、胸をさらすのはだめ」としている。

 どぎまぎさせられるのは、露出度とは関係ない。ボンにいたとき、オフィスが同じフロアにあるフランスの高級紙ル・モンドから、いらなくなった電話の権利をもらい受けることになった。名義変更のため、ヘミ・ド・ブレソン特派員とドイツ電話公社(テレコム)の支店へいった。ベートーベンの銅像が立つミュンスター広場の脇にあった。

 やはり7月初めの暑い日のことで、担当の20代半ばの女性はノースリーブを着ていた。その腕の付け根からは、黒いものが伸び放題に自生している。ブレソン特派員は気にとめるようすもないが、こちらは「異文化の溝」に転落して、電話の手続きどころではなかった。

 そのころ、土曜日の日本語補習校で優士と同級のM君のママがこんなことを言っていた。

 「水泳の時間に若い女の先生が子どもたちをプールサイドに整列させるでしょ。子どもたちの視線は、ちょうど先生の水着のVラインあたりにいくんだけど、そこから雑草みたいにえんりょなく伸びてるものがあるわけよ。息子の教育にどんな影響があるかなあと心配になっちゃう」

 ミニスカートの下に伸びた足がふさふさしているのを見かけることもある。体毛をそのままにするのは、ドイツの女性にとってそれなりの歴史があった。

 事情通によれば、戦後、アメリカから体毛を処理する文化が入ってきた。ところが、1968年、反米を叫ぶ学生運動や女権拡張主義(フェミニズム)の活動が燃え上がり、「アメリカ人のまねをすることはない」と自然に任せる風潮がいっきに広がったという。

 ドイツ語には、自由肉体文化(フライケルパークルトゥーァ)という言葉がある。略語のFKKもよく使われる。ビルト紙の特集記事は「トップレスでも問題ないところ」として、スペイン・マジョルカ島、クロアチア、モルジブなどのほか「もちろん、北海、バルト海のFKK海岸」と書いていた。

 夏の終わり、ベルリンのわが友人宅でのホームパーティでは、この話題で盛り上がった。
 「ヌーディスト・スポットなら、同じ緑の森(グルーネヴァルト)の中でも、もっとすごいところがあるよ」

 日本の大手家電メーカーの駐在員Nさんは、ビールを飲み干し得意そうに言った。妻がババロアをすくったスプーンを空中に止めたまま聞き入った。

 「そうなの、この人、家から遠いのに、わざわざ自転車で見に行ったのよ」

 N夫人はそう言いながらも、事情にかなり詳しいようだった。その場所はわが家からならすぐという。

 「今年はもうシーズン終了か。来年の夏、異文化研究のためみんなで行こう」

 Nさんと固く誓いあった。しかし、両家族とも、次の夏を待たず帰国することになった。

 〔短期集中連載〕

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『人は死なない』を読み、ジョン・レノンを思う=後編

 矢作直樹氏の著書『人は死なない』は、電子や光子を観測しようとすると、それらの状態に影響を与えスピードと位置を同時に確かめることはできない、という量子力学の世界にふれる。いわゆる不確定性の原理だ。

 「精神と物質はまったく別の概念で互いに直接関係することはないとする精神と肉体の二元論は、量子力学の実験的証拠によって揺らぐ」

 たしかに、物質が精神によって影響されるという考え方は、東洋では昔からあった。最先端の科学である量子力学の研究者にも、仏教、ヒンドゥー教、道教などを見直そうという姿勢がみられるようになってきた。

 著者が、気功などの代替医療に関心を広げるのもそうした状況からだろう。宗教にもかなり踏み込んで書いている。

 神道には明確な経典を持たず体系的な教義もなく、仏教やキリスト教、イスラム教といった宗教とは異なる、と指摘したうえで、「神々(自然)の計らいに添って森羅万象や心霊に対して畏敬の念を抱きながら、あるがままに生きよとする神道、そしてそれを信仰して生きてきた日本人の感性に、私はとても大きな魅力を感じるのです」

 「あるがままに」という言葉は、ザ・ビートルズの『レット・イット・ビー』("Let It Be")でマリアが告げる<賢明な言葉>そのものだ。

 ♪私が悩んでいると マリア様がやってきて 賢い言葉をおっしゃる

 「あるがままにしておきなさい(Let It Be)」♪

 オノ・ヨーコさんの従兄弟で日本を代表する国際通の加瀬英明氏は、著書『ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたか』で書いている。「私は『イマジン』は、神道の世界をうたっているにちがいないと、思った。そして、そうジョンにいった」

 じっさいには、ジョン・レノンに神道の深い知識があったわけではなかったようだが、『イマジン』を作ったあと、ジョンはヨーコにうながされ靖国神社や伊勢神宮を参拝したそうだ。ジョンは、インドで<超越瞑想>の修行をするなどもともと東洋思想に関心を抱いており、一神教を否定するような『イマジン』の歌詞が湧き出るように生まれたらしい。あるがままに、という意味での"Let It Be"という言葉も同じ文脈からだろう。

 ぼくも、ニューデリー特派員をしているとき、ビートルズの追体験をしようと<超越瞑想>の道場に体験取材を申し込んだが、断られ、とても残念な思いをしたことがある。

 『人は死なない』は、著者自身と母の霊との交霊の記録でハイライトを迎える。ひとり暮らしをしていた母は、風呂場で孤独死し数日後に発見された。霊能力が非常に強い60歳代の知り合いの会社経営者が、平成21年3月、著者に電話してきた。「あなたのお母様が矢作さんのことを心配されて、息子と話したい、と私にしきりに訴えてこられるのです」

 矢作医師は心霊研究の文献で「交霊」についての知識はあったが、自分のこととなるとやはり驚いた。2週間あまり後、その女性経営者を霊媒役として母の霊と会話する。

 「『直樹さん、ごめんなさいね。心配をかけてごめんなさいね。ごめんなさいね』。私は、ずっと昔、まだ母が若かった頃の感情的になったときのような口調に驚きました」

 矢作氏は、どうして亡くなったか尋ねた。「心臓発作らしいの」。検視した警視庁の刑事が言っていたことに符合した。亡くなったとき結婚指輪をしていなかったことには「あなたは気が付かなかったかもしれないけど、私がこちらに来る二ヶ月以上前よ。(中略)箪笥の上に置いた通知用の葉書もそのときいっしょに置いたの」

 誰にも話しておらず親子でしか知らない死亡通知用葉書のことなどの事実がつぎつぎと語られた。女性経営者の体を借りて現れた母の立ち居振る舞いは生前の母そっくりで、性格も口調も仕草もそのままだった。

 交霊が終わると、女性経営者は元の口調にもどり「よかったですねえ。それにしてもすごくサッパリした方ですね」と感動したように言った。交霊中は体の8割方が霊によって占められ、霊媒はかろうじて意識だけがあるような状態で、霊が勝手にしゃべるのを横でふつうに聞いている感じだそうだ。

 これまで霊的現象について(著者が)接してきた人たちは、ちゃんとした生業を持ち、自分の霊力を公言公表することなく、組織も作らず、自らの理念を他者に強要したり能力を見せ付けて金品を要求したりする人びとではない、と矢作氏は念を押す。

 著者は、巻末でスピリチュアリズムに触れ、欧米ではノーベル賞科学者らをふくむ自然科学の第一人者が研究してきたが、日本では立ち遅れていることを指摘する。

 本書で述べられ、紹介されていることを、絵空事と片付ける人が日本にはまだ多いかもしれない。しかし、もう一度、強調しておく。

 この本は、東京大学医学部の現役の教授で、いまは救急治療、集中治療に当たっている矢作直樹氏が書いたものだ。日常的に現代医学では説明のつかない現象に直面し、一方で自身が死者の霊と言葉を交わすといったスピリチュアルな体験をしたという事実は重い。

 死とは、寿命がきて肉体が朽ちて無くなることであり、それ以上でもそれ以下でもない、と著者は書く。そして、霊魂は生きつづけるのだと。そう思えば、死を恐怖する必要はなくなり、したがって宗教も不要となるか、大きく本質を変えることになる。イマジン!

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(29)【風に揺られて=前編】

      96年夏

 森の中を心地よくサイクリングしていた。青葉を映す湖が現れ、湖岸の遊歩道を家族づれがおしゃべりしながら散歩している。自転車もときたま行き交っていた。

 「あ、あれ見て」

 荷台に優士を乗せて走っていた妻が、ずっと前の方を顎で示した。まさか、といった表情をしている。

 若い女性がスッポンポンで、遊歩道をゆっくりこちらへ向かって歩いていた。肩まで流した細いブロンドの髪が、7月の風に揺れている。下のヘアも、木漏れ日の中で、金色にきらめいていた。

 ――ブロンド娘といっても染めてるのがかなりいるけど、さすがに下は染められない。色ちがいの上下を同時に見ると変なもんだよ。

 ずっと前、モスクワへ行ったとき、夜の事情に詳しい知人が、したり顔で話していた。

 すると、目の前の女性は、本物のブロンドということになる。よたよたと歩く2歳くらいの子を追いかけていた。ヤング・ミセスなのだろうが、体の線はまったく崩れていなかった。子どももブロンドの巻き毛で、かわいいおちんちんをつけている。ドレスデンのツヴィンガー宮殿絵画館で鑑たラファエロの傑作『システィーナのマドンナ』に描かれた天使のようだ。

 「ねえ、見て。あのおじさんの揺れてる」

 自転車から下り、妻は遊歩道脇の雑木林をちらちらながめている。同じ観察者でも、男女でおのずと注目点がちがう。妻は信州の露天風呂でも連想しているのだろう。

 辺りには20人ほどのヌーディストがいた。ヤングより中年のおじさん、おばさんの数が多そうだった。シートに寝そべったり、動き回っておしゃべりをしたりしている。

 優士は、妻の自転車の荷台で、この珍しい光景をぼんやりながめていた。舞も、いつもならキンキン声で質問を浴びせるところだが、木の根っこが浮き上がっていたりするでこぼこ道で、子ども自転車を操るのにけんめいだった。

 ベルリンへきて半年、一家でサイクリングなどとしゃれこむのは初めてだった。外は軽井沢の夏のようなすがすがしい日曜日なのに、わが家の朝は大荒れだった。例によって早くからテレビゲームに熱中していた優士は、みんなが起きてくるころには眠気がピークにたっしていた。

 ゲームのじゃまをしたと舞に八つ当たりし、物差しで思いきりひっぱたいた。左頬にあざを作った舞は泣きわめき、優士をしかる妻の声が家じゅうに響きわたる。

 少し嵐がおさまってブランチにありついたら、優士はわけもなく暴れだし、コーンフレークの皿を舞に向かって放り投げた。

 「もお、なんてことすんの!!」

 妻は目に涙をためている。以前知り合いだった酒乱の人は、血液中のアルコール濃度が一定のレベルを越すと、自動的にわけがわからなくなり暴れだした。優士の場合は、「眠気度」が一線を越すと必ず半狂乱になる。ふだんは優しくて物わかりもいい方だから、その落差には製造責任者も愕然とさせられる。

 嵐はいったん通り過ぎればうそのように静かになる。気分転換のため、子どもたちを外へ連れ出すことにした。地下倉庫には、もらいものの日本製自転車2台と子ども用1台がほこりをかぶっていた。引っ張り出して空気を入れ、雑巾でざっと拭いた。

 「野生の鹿を見に行こうよ」

 舞が言った。どうせアニメの世界と現実とをごちゃまぜにしゃべっていると思えば、そうではないらしい。優士が前に、通学の車の中から鹿を見つけたという。わが家はその名も「緑の森(グルーネヴァルト)」という地区にあった。鹿はその一画の「緑の森湖(グルーネヴァルト・ゼー)」あたりにいるという。

 ふたりはどっちが子ども自転車に乗るかでもめたが、朝の事件の加害者が折れて話がついた。

 湖まで10分もかからなかった。鹿はたしかにいた。2頭の姿が見え、大きな方は立派な角をはやしていた。

 湖岸には、それよりもすごい「金色の毛」をなびかせた群れがいて、妻もぼくも朝の嵐のことなどすっかり忘れてしまったのだった。

 前の夏、ボンに住んでいたころ、ケルン方面に向かってあてもなくドライブし、アウグスティス城の広大な庭園を散策した。その後、ハイデルベルク湖という田舎の保養地にたどり着いた。

 たまたま、ものすごく暑い日で、小さな森に囲まれた湖岸には人があふれていた。ボートを漕いだり水の中に入って遊んでいるのは一部だけで、ほとんどはトドのように寝そべっている。たいていの人は水着を着けているが、あるところだけトップレスが集まっていた。ここでは、おじさんやおばさんは見あたらず、ボディラインに自信のありそうな女性たちだけが、ブラジャーをはずして太陽にさらしていた。

 「なぜ、あんなところまで焼く必要があるの」

 妻の疑問はある意味でもっともだった。でも、答えようがない。服を着たままのぼくたちのほうが恥ずかったが、子どもたちを連れ、その中を歩いて通り抜けた。ただ見て歩くのも変なので、売店でアイスクリームを買って引き返した。

 ベルリン緑の森のヌーディスト・スポットは、湖水浴客だけが訪れる限られた空間ではなく、ふつうの散歩コースだった。混浴の銭湯の壁を取り払って、その脇を通行人が行き来していると思えばいい。

 「やってみる?」

 妻に聞いてみた。

 「10年前なら」

 強気の言葉が返ってきたが、顔はトンデモナイと言っていた。

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(28)【香り高きスニーカー】

      96年春

 日本に一時帰国する日がきた。2年ぶりの日本だった。「何といっても温泉よ」と妻が言えば、舞は「おいしいお肉が楽しみーっ」と叫んでいる。

 ヨーロッパの国々では、今や、それなりにうまい寿司や刺身は食べられる。だが、牛肉、豚肉のたぐいは質より量といったところか、たいてい硬いかぱさぱさでうまみに欠ける。高級和牛の霜降り肉など、夢のまた夢だった。

 ベルリン・テーゲル空港へ向かおうと、自宅にタクシーを呼んだ。おみやげや着替えを詰めたふたつのスーツケースを運び、「早く、早く」と子どもたちをせかして乗り込もうとしたときだった。

 「フンを踏んじゃったぁ」

 優士が泣きそうな声をあげた。タクシーの後部ドアを開けたちょうどその場所に、立派なモノが落ちていた。それをスニーカーでまともにつぶしてしまった。

 「こんな時にどうすんのよぉ」。

 妻は時計を見ながらあせっている。ティッシュペーパーでふいても、臭いまで落ちそうにない。ハンチング帽をかぶった運転手さんは「そのまま乗るなんてじょーだんじゃない」といった顔をしている。

 家の外に洗い流せるような水道はない。妻は、優士の靴を脱がせると、わが家のあるメゾネット・マンションに飛び込んでいった。

 なかなか出てこない。じりじりと、霜降り牛の夢が夢のままになりそうな絶望感におそわれる。

 「優士、いつもフンには気をつけろと言ってるだろ」

 「お父さんだって、この間、踏んじゃって、車の中が何日も臭かったじゃない」

 そう言われれば、返す言葉がない。

 犬のフン害は、ドイツ7不思議の筆頭格にあげられる。

 ほんらい、ドイツは、マナーや社会のルールを守ることについて、信じられないほどきびしいお国柄だ。

 たとえば、車で一方通行を逆から入ったりすれば、大通りを走るトラックがわざわざ止まり、運ちゃんが窓をあけて注意する。「関係ないでしょ、よけいなお世話!」と言いたくなる。

 ボンに住むようになって間もないころ、マンションのオーナー会社から正式な手紙がきた。

 「貴宅の洗濯物は近隣の景観を損なうため、すみやかに善処されることを望みます」

 馬鹿ていねいに堅苦しいドイツ語で書いてあった。5階建ての屋根裏部屋の窓ガラスの内側に干していたのに、だれがそんなところを見上げて文句をつけたのだろう。

 そんな国なのに、お犬さまは「たれ流し後免」だった。犬を散歩させている人が、持ち帰り用の袋を持っている姿など見たこともない。

 優士に音楽や体育を教えてくれる日本人学校の美人のS先生も「1日に続けて2回も踏んじゃいましたよ」とフンガイしていたことがある。

 ドイツでは猫はめったに見かけないのに、こと犬に関しては博覧会場のようだ。毎日毎日、ドイツ全土で人間より多いかもしれないという数のお犬さまが散歩に連れ出され、たれ流しているさまを想像すると、ぞっとさせられる。

 300万頭いるとされるロンドンでは、外で飼い犬にふんをさせると最高500ポンド、ざっと7万円の罰金を取られる。公園の近くなどには、始末用のビニール袋の自動販売機があり、10ペンス(10数円)硬貨を入れると2枚入りの小箱がでてくる。それ専用のごみ箱もあり、専門業者が処理する。

 パリではオートバイにバキューム式装置を積んだ犬のフン処理部隊がいるそうだ。総勢75人いて、毎日ひとり平均50キロくらいを吸い取って回るという。

 ベルリンでも小型車に積んだフン収集機が導入されると新聞に出ていたが、一度も見かけたことはない。

 ドイツでは、たばこのポイ捨てもひどい。歩道を歩いていて、車の窓から火のついたままのたばこを足元に投げ捨てられ、頭にくることもしょっちゅうある。わが家のある地区「緑の森(グルーネヴァルト)」は街路樹が繁り、落ち葉の季節などよく火事にならないものだと思っていた。

 1995年の夏、デュッセルドルフに近いレムシャイトでアパートが燃え、トルコ人など20人ほどがけがをして4人の子どもが入院する事件があった。この市は2年前、トルコ人一家5人がネオナチの放火で焼け死んだゾーリンゲンの隣にあり、一時は「またもネオナチの外国人攻撃か」と騒ぎになった。

 火元は玄関前にあったベビーカーで、車の窓から投げられた吸いがらで燃え上がったことがわかった。良識派はネオナチの動きには敏感でも、ぽい捨てを法律で禁止しようとの声はあげない。

 タクシーの中で数世紀にも感じられるほど時間がすぎたころ、妻がやっともどってきた。手に別のスニーカーを持っている。

 「あんなの簡単に洗い流せないわよ」

 「じゃあ、あれ、どうしたの」

 「玄関わきの階段のところへ置いてきたわ」

 わが家の玄関わきといえば、お隣の玄関の真正面でもある。内階段だから臭いがこもって大変かもしれない。

 「だって、外に出しておいたら、だれか持っていっちゃうかもしれないでしょ」

 はき古しのフンつきが取られるとも思えないが。

 2週間後、日本から帰ってくると、スニーカーはそのままあった。お隣のクルップさん一家には、ささやかなおみやげを渡した。妻の実家でもらった香りの高い信州りんご2個だった。

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(27)【ベルリンの信州味】

      96年春

 朝ゆっくり起きて窓の外に目をやると、気持ちよく晴れ上がっている。そういえば、日本ではゴールデンウィークに突入しているはずだった。

 「ベルリンのこの時期の天気は、だいたい信州なみかなあ」

 信州産の妻とブランチを食べながら話していた。昼間は暑くなっても夜になると一気に冷え込む。

 食卓には夕べの残りの海草サラダがあった。日本から持ってきた貴重な乾物だった。
 

 「これ食べるともっときれいになるよ」

 野菜類の苦手な舞に少しでも食べさせようと、妻は苦労している。

 「うそだ。お母さんはしょっちゅう食べてるのにちっともきれいにならない!!」

 優士がすかさず口をはさんだ。休みの日にかぎって朝6時前には起きだし、テレビゲームにかじりつく。そのせいで、1日中眠くてきげんが悪い。

 「きょうはお母さんの誕生日なんだから、うそでももう少し優しいこと言えば」

 うそでも、はよけいだったか。眠気ざましに優士と舞を裏庭に連れだした。大きな1軒家を上下左右の4世帯に分けたメゾネット式住宅で、わが家は2階、3階、屋根裏の半分を占めている。マンションながら家の中は3階建ての感覚だった。

 道路側の前庭には花壇があり、裏庭は子どもたちと遊ぶには十分な広さがあった。芝生の間に雑草がのぞき、踏み荒らしてもオーナーに文句を言われそうにないところがいい。野球のグローブをはめ、優士と硬式テニスのボールでキャッチボールをした。舞は庭の片隅にある砂場でお城を作っている。

 キッチンの片づけを終え下りてきた妻が、隣の庭を指さして声をあげた。

  「ねぇ、あれコゴミじゃない?」

 まさかこんなところに。駆け出しの記者として赴任した長野で、初めてコゴミを食べた。ゼンマイに似ているが、丈がやや低く緑が濃い。ゆでて削り節、しょうゆをかけると、季節感たっぷりの酒の肴になる。天ぷらや胡麻あえにすることもある。

 長野市にある妻の実家の庭でも、本格的な春がくれば必ず顔を出した。名前はおそらく、屈(こご)んだようなその姿からきているのだろう。ここ数年、東京近郊のスーパーでも見かけるようになったが、あれは栽培物のせいか風味がややおとる。

 「ゆう君、採ってきて」

 パリの花盗人の再現だった。あのときはルーブル美術館の庭で赤ジゾを失敬した。それにしても、妻はつねに食べ物を求め、あたりに目を凝らしているのだろうか。キャッチボールですっかり目のさめた優士は、身の高さほどもある金網フェンスを一気によじのぼり、お隣へ侵入した。

 「もっと右、右。葉っぱだけじゃなく根っこごと引き抜いちゃいなさい!」

 隣の人が出てきたらドイツ語で何と説明すればいいのか。こっちの心配も知らず、妻は大胆な指令を出している。

 確かにコゴミだった。ベルリンと信州の気候の話をしたばかりの偶然に驚かされた。根っこはバルコニーのプランターにおさまり、葉っぱはもちろん、おひたしとして夕食の一品となった。

 もの覚えのどこかトンチンカンな舞も、コゴミの形と名前はすぐに覚えた。

 翌日、日本は「緑の日」で休みだが、子どもたちがベルリンへ越してから通うことになった日本人学校は祖国の連休には関係ない。学校はドイツの祝祭日に合わせている。妻が毎朝、車に乗せアウトバーンを飛ばして15分ほどで着く。ベルリン一帯でいちばん大きな湖ヴァンゼーのほとりにあった。

 小学校低学年生から中学生までで10数人しかおらず、先生が6人、それに事務局長や講師の先生たちを合わせたこじんまりした学校だった。

 「学校の中庭の花壇にコゴミがあったよ。舞が見つけてみんなに食べられることを教えたんだよ」

 舞が夜、得意そうに話した。もともと山菜というか野草だから隣の庭にしかないということはないはずだったが、意外なところにあったものだ。他の子どもたちや先生もおもしろがって採ったらしい。

 わが家の食卓には2晩つづいてコゴミのおひたしが乗っている。コゴミの地物は、ニッポンの味を日本人の知り合いにプレセントする大発見だった。そして、妻にはもっと大きな功績があった。

 前の年の暮れ、デュッセルドルフの日本食卸商F社の営業マンが、月1回の共同購入分をわが家に届けてくれた。

 「あの、来年1月にボンからベルリンへ引っ越すことになったんですけど、また、家へ届けてもらえます?」

 妻の猫なで声に、営業のお兄さんは一瞬たじろいだという。

 「ベルリンにも月1回は行ってますけど、レストラン専門でして」

 「でも、あっちでも日本人家庭に声をかければお客さんなんて簡単に集まりますよ。ね、そうでしょ」

 色仕掛けとは言わないまでも、わが家の食卓の質を確保しようと妻も必死だ。

 「それじゃ、ま、ついでですから」

 お兄さんはついに折れた。妻の集客力はベルリンでもすぐに発揮された。日本人学校の先生や保護者、ドイツ人と国際結婚している人などに声をかけ、10家族ほどを集めた。ベルリンに本格的な日本食品店は1軒しかなく、しかも品数はうんと限られていて、値段もお手ごろとはいえなかった。

 日本人コミュニティにとって、ほとんど選択肢がなかっただけに、この宅配サービスは衝撃的に受け入れられた。スペイン産日本米も、市販のものより味が好評でしかも安い。

 「ドイツに住んでるんだからドイツのものを食べていればいい、と言ってきたんですがねぇ」

 Gさんも、北海産のホタテ貝の刺身を食べて、ころっと主義を変えた。

 ボンでのテニス仲間だったT公使がベルリン総領事・大使として赴任されたのをきっかけに、総領事館でも共同購入が行われるようになった。

 事情を知らない人は、妻が少なくとも5、6年前からベルリンに住んでいると思っているらしい。

 のちに日本へ帰ることになったとき、妻はコゴミを記念に持ち帰ると言い張った。植物検疫に引っかかったらうるさいことになる。

 「根っこをよく洗って、荷物の底に入れておけばだいじょうぶよ」

 密輸された根っこは、春になると芽をふき、夏が近づけば青青とした葉を伸ばすのだった。

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インどイツ物語ドイツ編(26)【空を飛んだウサギ=後編】

      95-96年冬

 そのうち、ベルリンへの転勤話が持ち上がった。こじんまりとしたボンの街のたたずまいも悪くないが、ドイツで断トツの大都会に住んでみるのも悪くはない。同じ国の中だから海外への引っ越しより楽とはいえ、ボンで後任者に事務を引き継ぎ、ベルリンで前任者から引き継ぎを受けなければならない。家も探さなきゃいけない。

 日本から持ってきた段ボール箱がまだそのまま放ってあるというのに、新たに真新しい段ボールが床を占領し始めた。正月気分もゆっくり味わえないうちに、引っ越しのXデーが迫ってくる。

 ベルリンの新居は、年末に家族で飛んでいって大慌てで決めてきた。大きな庭があるメゾネット式の素敵な家だ。

 さて、何が大変かといって、ラブの輸送問題が一番のネックだった。すっかり家族の一員になった「初孫」を、今さら他人に譲るなどと言えば、子どもたちがわめき立てるに決まっている。

 9年ぶりの厳冬とかで、引っ越し荷物といっしょにトラックに積み込めば、冷凍ウサギになってしまう。家族といっしょに飛行機に乗せるしかない。運送屋さんが家具の運び出し作業をやっているさなか、オフィスにいる助手のザビーネに電話した。

 「ルフトハンザ航空に、ウサギを運ぶにはどうすればいいか聞いておいてよ」

 あとで、片づけのためオフィスへ飛んで行ってザビーネの報告を受けると、4、5か所も電話をたらい回しにされた挙げ句、やっと確かなことが分かったという。

 「離陸2時間以上前に、空港の別棟にある貨物窓口へ行ってチェックインして下さいって。専用の檻に入れて運ぶそうです」

 「えーっ、ウサギは貨物なの?」

 「重さが5キロ以内の犬や猫なら機内に連れて入っていいし国内線は運賃もかからないけど、ウサギはだめです」

 ラブはハイジャック犯扱いか。ぬいぐるみみたいにかわいいのに。

 「ウサギはネーゲティーアで、万一、機内で逃げ出したらケーブルをかじる恐れがあるからだそうです」

 そう言えば、わが家のリビングルームで遊ばせておいたら、テレビゲームのケーブルをばらばらになるほどかじったことがある。おかげで優士は、日本にいる大の親友ユウタ君に電話してケーブルを送ってもらわなければならなかった。でも、ネーゲティーアってなんだ。大独和辞典を開くと「げっ歯類。ウサギ、リス、ナズミなど」とある。

 輸送料は檻代込みでざっと300マルク、2万円以上かかるという。お金もかかるが、それより2時間も前に空港に行く時間がない。当日の午前中、後任者に引き継ぎをした後、午後2時40分発の便で飛ぶことになっていた。

 ラブちゃんをどうやってベルリンまで連れて行くか。妻が発信源となり、ボンの友人たちの間でもすっかり関心を集めてしまった。

 ボンでの最後の晩、Kさん一家が、わが家のほかに2、3の家族も呼んで盛大なさよならパーティを開いてくれた。大変なごちそうで、文字通り死にそうになりながら胃袋へ詰め込んだ。話題はラブのことに集中した。

 「そりゃ、こっそり持ち込んだ方がいいでしょう。お金ももったいないですよ」という声が圧倒的だ。やっぱり強行突破か。

 ルフトハンザは1994年10月に民営化され、すっかり親切になった。「お客様は神様です」なんて国が地球上にあることさえ知らなさそうなこの国で、最近は地上職員も搭乗員もにこやかに「ダンケ・ゼーァ!!」などと言うようになった。しかし、法律や規則には世界でも最もうるさいドイツ人だから、ラブがもし見つかったらややこしいことになる。

 「エックス線のチェックが問題でしょうねえ」

 「骨の形がくっきり見えたら、こりゃなんだってことになるよね」

 酒の肴の話題として結構盛り上がった。

 今や、空港のエックス線装置のディスプレーはカラー化されかなり鮮明だ。そこに背骨がはっきり映し出され、ぼんやりと長い耳が見えたら・・・。セキュリティー・チェックのおじさんはどんな顔をするだろう。想像すればちょっと楽しいが、同時にぞっとさせられる。

 作戦の当日がやってきた。子どもたちは、前夜、Kさんのうちに泊めてもらっていた。妻はホテルからKさん宅へ直行し、ぼくはオフィスであわただしい引き継ぎを終えてKさん宅へ向かった。

 ラブちゃんを運ぶ箱は、ごそごそ動き回らないよう小さ目のものにし底にビニールを敷いた。プラスチックの餌入れに乾燥飼料を入れ、粘着テープと紐でふたを閉じた。万一見つかっても「これなら逃げ出さないからだいじょうぶ」と言い張るつもりだ。

 日曜日の昼下がりとあって、友人知人が次々と見送りに集まってくれた。8家族、大人と子ども合わせて30人ほどにもなった。

 ボンで暮らして1年と10か月。これほどの数の人と親しくなれたのは、不思議な“集客力”のある妻とふたりのちびっこ外交官の功績だった。

 あわただしさと作戦決行前の緊張で、感傷に浸っている場合じゃない。

「元気でねー」「遊びにきてねー」という声が飛び交う中、タクシーに乗り込んで空港へ向かった。「すごい見送りだね」と運転手のお兄さんが驚いている。

 ケルン・ボン空港、正式には西ドイツの初代首相の名をとってコンラート・アデナウアー国際空港という。1昨年だったか、コール首相がつけたのだ。

 ラブちゃんの箱はチーママ舞が持っている。「君たちはここで待ってて」

 搭乗手続きをする間、子どもたちをロビーの少し離れたソファーに座らせた。チェックインカウンター前で、箱がガサゴソ動いたりしたらまずい。子どもたちが日本語で「ウサギが・・・」などとしゃべってもたぶんだいじょうぶだろう。カニンヒェンというドイツ語は知らないはずだが、何かの拍子に「ラビットが・・・」などと言い出せばやばい。ルフトハンザのお姉さんの耳がウサギみたいに伸びて、「その箱は?」となりかねない。もっとも、ラブちゃんの耳はあまり長くはないが。

 搭乗券を4枚受け取り、子どもたちといっしょにセキュリティ・チェックのゲートに向かう。

 妻に目配せすると、光線の具合か、少しひきつったように見える。

 ぼくは真っ先に長年愛用のフライト・バッグをエックス線装置のローラー・ベルトに乗せ、さっさとゲートを通り抜けて荷物の受け取りカウンターに回った。エックス線装置のカラーディスプレーに、子どもたちのナップザックの影がくっきり映っている。

 妻もゲートをくぐり、ぼくの横に立ってディスプレーをちらっちらっと見ている。ローラーの上をころがる箱の角が現れた。底に丸いものがある。硬質プラスチックの餌入れだ。続いて大きめのスポンジ・ボールのようなものが映る。

 あれだ。骨なんかまったく映っていない。影からは生き物にも見えない。

 何事もなく、箱はローラーの上を滑りでてきた。妻と目配せしたが、まだ安心してはいけない。急いで箱を受け取り、子どもたちをせき立てるように搭乗ロビーに入った。

 「ラブちゃん、おりこうだったわね。体をうまく丸めてたから、あれじゃ何だか分からないわよね」

 ソファーに座りながら、妻が「勝利インタビュー」に答える監督のような調子で総轄をはじめる。確かに、耳をピンと立ててでもいたら、その場で牽制タッチアウト、ゲームセットになったかも知れない。

 「それにしても、背骨くっきりなんて誰が言ったんだ。夕べ、みんな本気でそれを心配してくれたけど」

 考えてみれば、胸のレントゲン撮影じゃあるまいし、空港のエックス線がそんなに強いわけがない。言い出したのは、確か東大工学部出身の俊英Tさんじゃなかったか。

 機内でスチュワーデスのお姉さんに見つかる恐れが残っていたから、まだ気は抜けない。勝負は下駄をはくまで分からない。そうは思うのだが、緊張感はほとんど消えていた。

 優士はロビーの端に置かれた無料サービス品の棚からチョコバーを持ってきて食べている。舞はリンゴをかじりはじめた。

 「私も取ってこようっと」。妻はセルフサービスの紅茶を入れ、リンゴを3、4個、コートのポケットに入れて持ってきた。「だって、ラブちゃんの餌にもなるでしょ」。主婦はいつでもたくましい。

 機内はエンジン音でかなりうるさく、ラブちゃんがガソゴソいわせても聞こえはしない。チーママ舞の座席の下にそっと置かれた「持ち込み手荷物」は、何事もなく空を飛んだ。

 「早く開けてラブちゃんを見たーい」。ベルリン・テーゲル空港で預け入れ手荷物がベルトコンベアーで運び出てくるのを待ちながら、舞が両足でピョンピョン跳ねて叫ぶ。

 「まだ、もうちょっと。荷物を受け取って外へ出てしまえばOKだから」

 出迎えの人たちで混雑する到着フロアで公衆電話を探し、Kさん宅にかけた。携帯電話は支局用だから後任に引き継いでいた。

 「愛兎秘密空輸作戦ニ成功セリ。アレス・グーテ(いずれまた)!!」

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『人は死なない』を読み、ジョン・レノンを思う=前編

 ♪想像してごらん 天国はないと
  …下に地獄はなく 上にあるのは空だけ♪

 ジョン・レノンの『イマジン』は、世界平和を祈って作られたものだ、と人は思っている。まちがいではないが、その前提として、キリスト教などを否定した歌でもある。

 歌詞の2番には、♪そして宗教もない♪というフレーズもある。ジョン・レノンは、天国と地獄という観念を創出し、「神の名において」異教徒を殺害してきた一神教を否定しようとしている。

 人びとが宗教を作り出したのは死への恐怖からだった、とする見方が強い。では、死後にも安らかな世界があり、死など怖くはないことを知れば、ときに残虐な振る舞いをする宗教などなくてもいいことになる。

 ふと、そんな思いを抱かせる一書が『人は死なない』だ。霊魂不滅をテーマとする、と書けば抹香臭い本だと思われるかもしれない。だが、この本はちっとも抹香臭くはない。内容が斬新か、と聞かれればそうでもない。だが、東京大学医学部の現役の教授で、いまは救急治療に当たっている矢作直樹氏が書いたものだけにインパクトがある。

 「まさに生と死の交差点ともいえる場所」とする病院で、日々、人の死を看取っている。「生命とは我々が考えるほど単純なものではなく、自然科学としての現代医学が生命や病気について解明できているのはほんのわずかな部分でしかない」「私自身、実際の医療現場に身を置いていると、机上で科学的に考えてすべてが解決するほど現実は単純ではないことを痛感しています」

 矢作氏は、代替医療のひとつとして、気功の講習会に参加し衝撃の体験をする。中腰になった気功の先生を力づくで押さえ込もうとすると、一瞬のうちに体が宙を舞った。力学の第三法則(作用、反作用)ではまったく説明できない技だった。

 北京への気功ツアーにも参加した。パーキンソン病患者は歩幅の小さいヨチヨチ歩きを特徴とするが、70歳の男性患者は、治療後、ほぼふつうに歩けるようになり、患者の奥さんは涙を流して喜んでいた。

 大手の知的障害者施設に勤めているぼくの息子(24)も、利用者への薬漬けの治療に疑問を感じ、代替医療を研究しはじめた。その一環として、ミクシィによる遠隔ヒーリングというのを知り、月額3,000円を払ってみずから試している。

 あらかじめ生年月日や本名を伝えてあるので、たとえばアレルギー性鼻炎の症状がひどいとき、ヒーラーにメールを送って症状を伝える。ヒーリングといえばふつう手かざしをするのだが、相手は遠隔で気(?)を送ってくれ、症状がすぐに和らぐのだという。つい先日も、風邪で喉が痛かったので送ってもらうと、翌朝にはすっかり治っていたそうだ。 自己暗示によるものといえばそれまでだが、ITを利用した新しい形の代替医療かもしれない。息子はそれを施設利用者に広まらせようとしているのだが、頭の固くて古い上司を説得するのが大変のようだ。

 著者の矢作氏は、マンションの8階から転落した20歳代の女性の例をあげている。全身を打撲、骨折していながら「意識が異様に清明」で、入院25日目、「飛び降りは、自殺しようとしたものではなく、霊に乗り移られたためです」と語った。

 女性には向精神薬の服用暦はなく、統合失調症、短期精神性障害、心因反応の3つの可能性があげられたが、確定診断には至らなかった。

 数年後、その女性は結婚して子どももできた。矢作医師は、その女性宅を訪ね、引っかかっていたものを確認しようとした。ジャーナリスティックな手法だ。

 女性は、生来、金縛りにあいやすい体質だった。「ある女性が『あなたの体を借りたい』と私の頭の中に話しかけてきました。その女性に『出て行って』と言おうとすると、泣き落とされてなかなか毅然と追い出すことができませんでした」

 転落したのは元の自宅のマンションで、どうやってそこまで来たのか記憶はなく、「気付いたときには落下するところでした」

 矢作氏は触れていないが、症状としては解離性同一性障害に似ているのではないか、とぼくは思う。いわゆる多重人格で、本人にとって堪えられない記憶などを切り離して忘却しようとし、切り離した感情や記憶が成長し別の人格となって表に現れるものだ。24人もの人格が入り乱れていたとされるアメリカ人男性ビリー・ミリガンのケースが有名だ。

 精神医学的な解釈では、あたかも独立した人間の人格のように見えてもそれらはその人の「部分」である、とされる。常識にとらわれればそうとしか説明できないだろう。

 くだんの女性の夫は、妻に「他人」が入ってきたときにはわかるようになった。妻が知るはずのない夫の事情についてふだんとはちがった話し方で話すからだという。つまり、本人以外の体験や知識を持つ人格が入り込む憑依現象と考えたほうが自然だ。

 ふつうは、ひとつの体に対し人格はひとつだ。それが1対複数となる現象がある以上、体と人格は本来別々のものだと言えなくはないだろうか。神のいたずらか、1対1対応がときに崩れる。人から独立した別の人格としての霊、あるいは死後の存在を想定するなら、いちおうの説明はつく。

 ――つづく

 --毎週木曜日に更新--

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インどイツ物語ドイツ編(25)【空を飛んだウサギ=前編】

      95年夏-秋

 「何か生き物が飼いたーい」。そう叫んだ舞のひと言がそもそもの始まりだった。

 優士も舞も、幼いころから動物が好きだった。ボンのマンションのイタリア人管理人一家は猫を飼っている。白と黒のかなり太めの猫で、うちの子どもたちは本当の名前も知らないまま「パンダ・ネコ」と呼んで可愛がっていた。

 最初はそのパンダも、外人の子どもが珍しいのかすり寄って来たが、あまりにも追いかけ回されるので、警戒して近寄らなくなった。

 街で猫を見かけることはめったにないが、ライン河畔へ行けば、あらゆる種類の犬が散歩している。遠目には月の輪熊としか見えない犬がいきなり川に飛び込んで水浴びし、子猫のような白犬が細紐を持つおばあさんの後をちょこちょこところがるように歩いて行く。地下鉄やバスでも犬を連れた人が乗っている。

 いつもそういう光景を見ていて、ペットが欲しいという気持ちになるのはよくわかる。舞のおねだりは、こちらが生返事をしているうちにいっそうしつこくなった。優士もそれにつられていっしょに叫ぶようになった。

 でも犬は朝晩必ず散歩に連れ出て、用を足させなければならない。子犬の時、プロの訓練士にあずけてしつけをしてもらわなければならないとか、この国では何かとわずらわしい。

 ある日本人は「どうせ飼うならドイツ人もびっくりするようなのを」と大金をはたいて超大型犬を買った。帰国が決まり、運賃や検疫料など20万円ほどもかけて連れ帰ったが、日本の狭いマンションではとても飼えない。地方に住む友人宅に預け、久しぶりに訪ねてみたら、その犬は元の飼い主をすっかり忘れていてがっくりしたという。

 「まあ、ウサギならいいんじゃないの」という話になったのは、舞が唇を蜂に刺され、それがあまりに可愛そうだったのが、きっかけだった。子どもたちもできるだけ世話をする約束をした。

 ある夏の終わりの日、その名も「ZOO」(動物園)という小さなペットショップへ一家で出かけた。子ウサギが3、4匹箱に入っている。「ピーターラビットのウサギみたーい」と子どもたちが思わず口走った。日本ウサギとちがって目は赤くなく、鼻と額の縦の線が白く、体は薄いグレーとベージュだ。

 よーく見比べて一番可愛いのを選んだ。そう高い買い物じゃない。と思えば、ウサギ小屋ならぬケージの方がウサギ代の3倍もする。店のおばさんは、干し草にビタミン剤、それに塩の固めたものも勧めてくる。

 あれこれ選ぶのもめんどうだから、とまとめて買い込む。ケージは思ったより大きく、白い愛車ベンツのトランクに入らない。後部座席にどうにか押し込んだ。こんなこともあろうかと、妻が赤い自分の車クリオに乗ってきていた。

 さて、家に帰ると子どもたちが子ウサギを猫かわいがり(?)する。

 その姿を見ていると、何だか自分に初孫ができたような気がする。

 「舞、ウサギのお母さんになるんだよ」というと、「じゃ、チーママね」という。

  何か言葉のかんちがいをしているようだが、まーいーか。舞は最初から平気で抱いていた。優士は情けないことに恐る恐る毛にさわるのが精いっぱいだった。「だって、爪で引っかかれると結構痛いんだもん」

 ウサギのケージは玄関ホールに置いた。日本式に言えば30畳くらいはあるたっぷりとしたホールで、靴箱以外何もなく室内運動場にしている場所だから、ウサギを遊ばせるにもちょうどいい。

 「名前をどうするか、ちゃんと考えろよ」

 とは言ったものの、ほとんど期待はしていない。これまでの例を見ると、ぬいぐるみなど実に安易に名づけている。サンタさんにもらったトナカイは「トナちゃん」、おばあちゃんにもらったキリンは「キリンキリン」、従兄弟たちにもらったキツネの指人形は「コンちゃん」・・・。

 子ウサギのシッポにほおずりしながら舞が言う。「ドイツ生まれだからドイちゃんはどう」

 どこかの政治家のおばさんの顔が浮かんで、ひっくり返りそうになった。優士もケタケタしながら調子に乗って「じゃ、日本に連れて帰ったらニーちゃんだ」

 「ばか言ってるんじゃないわよ」。玄関ホールから螺旋階段をのぼったホビールームで洗濯ものを干している妻の声がする。

 子ウサギ命名の家族会議が召集されたのは、夕食のテーブルだった。「ラブちゃんっていうの、かわいくていいんじゃない」と妻が提案する。LOVEではなくてRABBITのRABだという。優士も昼間同じ案を口にしていたそうだ。アメリカン・スクール・ボーイの発想だなあ、と少し感心する。ちゃんと発音するのはむずかしそうだが、まあ、片仮名発音でいいだろう。会議はあっけなく終了した。

 舞はふんの始末こそしないが、野菜くずや干し草をやってチーママらしく(?)世話をする。ラブちゃんを玄関ホールに出してやるとちょこちょこ走り回り、まるで動くぬいぐるみだ。それをよつんばいで舞が追いかける。

 ある夜遅く帰宅して晩酌のビールを飲もうとしていた。「ねえ、おふたりさんが最近、ラブちゃんのこと変に尊敬してるの知ってる?」と妻が聞く。

 「ん?」

 「この間、試しにピーマンの切れ端をやったらむしゃむしゃ食べたの。それを子どもたちに話したらすごーい、すごーいって」

 ビールを吹き出しそうになった。そりゃ、ラブの方が確かに偉い。世界中のたいていの子どもたちより偉い。

 ラブちゃんは実によく食べる。秋が深まり気温が下がると毛も厚くなるのかコロコロしてきた。

 ――つづく

 〔短期集中連載〕

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インどイツ物語ドイツ編(24)【折り鶴にまた会う日】

      95年秋

 ボン中央駅で短距離特急(インターレギオ IR)に乗り込み、2時間ほどの旅にでた。北ドイツの大学町ミュンスターへの週末の家族旅行だった。ドイツ鉄道(DB)の特急には、3人がけの席が向かいあうコンパートメントがある。窓ぎわに、おばあさんがひとりで座っていた。10月下旬のよく晴れた日で、市街地を抜けると窓の外には緑に輝く牧草地がつづいた。

 コンパートメントに家族だけのとき、たいてい優士と舞がけんかを始め、乱闘寸前の大騒ぎとなる。知らない人がいれば、ふたりともおとなしい。
 「おばあちゃん、おんなじだね」。

 舞が袖を引っ張り耳もとでささやいた。何のことか、すぐには分からなかった。自分と老女の服のことらしい。どちらも落ちついたえんじ色の上下だった。

 ドイツの高齢の女性には、近所への買い物のときにさえ、派手な服を身につけ濃いめの化粧をする人が多い。ハイヒールをはき、ころびそうになりながら行く人もいる。窓際にぽつんといるおばあさんは、化粧も控えめだった。

 「かわいいお嬢さんね。もう、学校へ行っていますか?」

 なまりのない品のいいドイツ語で話しかけてきた。デュッセルドルフにいる友だちに会いに行くところだという。

 「私にはもう、ひ孫がいるんですよ」

 そういえば、と手提げのなかから写真を一葉取り出して見せてくれた。優士や妻ものぞきこむ。目のまん丸い栗色の髪の坊やだった。子どもたちがアメリカンスクールへ通っていることを知ると、ゆっくり英語で名前を聞いた。ふたりとも恥ずかしがって、小さな声でちょこっと名乗った。

 「グーテン・ターク!」

 舞はわざとドイツ語のあいさつをつけ加えた。こんにちわ。日常では、単に「ターク!」とも言う。

 さようならの正式な言い方は「アウフ・ヴィーダーゼーエン」。そのまま訳せば「再会を期して」となる。重々しい響きを持ち、心は茶道の「一期一会」につながる。ドイツ語の中でぼくが一番好きな言葉だった。子どもたちに、最近、その本来の意味を教えてやった。あまりに長たらしく、人はふだん「ヴィーダーゼーエン」だけ口にする。

 1980年代半ばごろから、由来不明の「チュース!」という軽い別れのあいさつがはやっている。最近は、イタリア料理ブームのせいか、若い世代は「チャオ!」とも言う。

 優士と舞は、妻がいつも持ち歩いている千代紙をもらって折りはじめた。

 おばあさんはドイツ語にもどり、「オリガミ」という言葉をまじえた。

 「息子の友だちに日本人の夫婦がいました。奥さんの方は確かユキかユケといいました。東洋の人の名前は覚えにくいものです。そうそう、シュネー(雪)のことだと言っていました」

 ユキさん夫妻に折り紙のことを聞いたのだろう。

 赤い地の千代紙から、きのうの夕焼けを思いだした。厚くひだを寄せた茜雲が、地平線は金色に、頭の上は赤銅色に染まっていた。きょうも郷愁をそそる夕焼けが見られるのだろうか。

 「アジアへ行ったことがありますか?」

 脈絡もなく聞いてみた。おばあさんは軽くため息をつき、窓の外に目をやった。牧草地を区切るポプラ並木が通り過ぎていく。

 「若いころはヒトラーの時代でした。戦争が終わってからは貧しくて、3人の子どもを抱え苦労しました。少しお金ができたときには、夫が病気で倒れました。私ももう79歳です。あなたの国へ行くこともないでしょう」

 優士が、今、おばあちゃんヒトラーって言ったの?、と小声で聞いた。現代史でもっともいまわしい人物の名前を、こんなところで耳にした。列車の中だけに、強制収容所へ家畜のように送り込まれたユダヤ人たちを連想する。

 ドイツ人とりわけ戦中派は、戦時中という言い方をあまりしないように思う。戦争に突入するずっと前から、ヒトラーが率いる時代はあった。戦争はあの鼻ヒゲの独裁者が起こした。自分たちはむしろ被害者だった。無意識にもそう思いたいのだろうか。あまりにもむごい過去ゆえに、そう思わなければ、戦後のドイツの人びとは生きていけなかったのかもしれない。

 列車はデュッセルドルフの市街地へ入り、スピードをゆるめた。妻にうながされ子どもたちが赤い折り鶴を差しだした。おばあさんはほほえんで両手の掌に受け取り、ていねいにお礼をのべてハンドバッグにしまった。

 列車が止まり、ぼくがコンパートメントのドアを開いてあげた。おばあさんは、ぼくたち家族の健康と幸せを祈る言葉をゆっくり、はっきりとのべた。列車がふたたび動きだすのではないかと心配するほどだった。

 そして、「アウフ・ヴィーダーゼーエン!」と言って降りていった。

 舞が「もう会うこともないのにね」とつぶやいた。

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インどイツ物語ドイツ編(23)【悲しみの午後=後編】

      95年晩夏

 追悼のプロフィールで初めて知ったのだが、フェルドマン先生は20年以上、いつも小学1年生を教えてきたのだった。優士が先生のクラスにいたのは、4月に転入して夏休み前に学校の年度が終わるほんの3か月足らずだった。

 初登校の日に、しくしく泣いていたのが、今では「アメリカン・スクールは楽しいよ。日本になんか帰りたくない」と言うまでになった。フェルドマン先生が最良のスタートを切らせてくれた。

 牧師さんは、壇上で銀のグラスに入った葡萄酒を飲み干し、大きなコインのような白いものを食べた。

 <最後の晩餐で、イエス・キリストはパンを手にとり、それを祝福し、それをちぎり、弟子たちに分け与えました。その行いは惜しまず分け与えたマリー・アンヌ・フェルドマンの生涯を思い起こさせます>

 参列者たちは、中央の通路に列をつくり、ひとりずつその白いものを受け取って食べている。子どもたちといっしょに列の後ろに並んだ。葡萄酒はキリストの血、パンはキリストの肉とされる。パンになぞらえた白いコインに味はなかった。歯ざわりは、日本の「えびせん」とそっくりだった。

 クルティエ先生が演壇に立った。英語のうまく話せない子どもたちに特別授業をするESL(第2言語としての英語)コースの担当で、優士のもうひとりの「最初の先生」だった。フェルドマン先生とは年ごろも近く、とても仲がよかったらしい。追悼ミサがあることを電話で妻に連絡してくれたのもクルティエ先生だった。ESLコースはクッキーを焼いたり工作をしたり、とても楽しい授業で、子どもたちはこの先生が大好きだ。

 <マリー・アンヌはとても話じょうずでした。ドイツが東西に分かれていたころ、国境近くでパーティーをして大騒ぎし、気がついたら鉄のカーテンの向こう側に入りそうになっていた。フランスに行ったとき「完全なるグルメの店」を求めて3つ星レストランを車ではしごした。そんな話は何度聞いても聞き飽きませんでした。

 食事といえば、彼女の料理のすばらしさを否定する人はだれもいないでしょう。ただ、糖尿病だったので、自分ではほとんど食べられませんでしたが。なぜ、彼女はそんな病気になったのでしょう。分かち合うこと、与えることが好きだったからです>

 故人を知っている参列者は、どっと笑った。食いしんぼうだったフェルドマン先生のふくよかな顔を思い浮かべたのにちがいない。そして、笑いながら目頭を押さえていた。クルティエ先生は、悪友の結婚式でスピーチでもしているように話そうと努めていた。目の縁は赤くはれていたが。

 <彼女は、分かち合うこと、与えることが好きでした。彼女が立てたあの20フィートもあるクリスマスツリーのように大きい心を持っていました。そのツリーのように、彼女も1,000個ものライトで輝いていました。電気は、ややこしく絡まりあったコードとスイッチを通ってきていましたが>

 また、どっと受けた。そして、すすり泣きがつづいた。絡まりあったコードで輝くクリスマスツリーのようなフェルドマン先生。そのイメージは、一瞬、体中にチューブをセットされた末期癌の病床を連想させた。

 <彼女は毎晩、何時間もかけ、連絡カードにそれぞれの子どもについてコメントを書いていました。そのハードワークぶり、子どもたちを思う心にいつも感心しました。

 お昼の時間に子どもたちがランチルームで騒いでいても、彼女がドアのところに黙って立ち、両腕で胸を抱くようにして見つめるだけで、シーンとなるのでした。私たちは、「フェルドマンの凝視」と呼んでいました。

 彼女は魔術師でした。学校生活のスタートに、フェルドマン先生と出会えた実に幸運な子どもたちが何100人といます。マリー・アンヌはその子どもたちの中で生き続けています>

 再び賛美歌を歌い、ミサが終わった。礼拝堂の地下室でささやかな追悼パーティーが開かれるという。それは失礼することにして、最前列にいたクルティエ先生にあいさつに行った。

 「ユーシ、マイ。きてくれて本当にありがとう」。先生は子どもたちの頭をなでた。「ユーシは、もうすぐESLコースに来なくてもよくなると思いますよ」。先生は、むしろこちらを励まそうとしてくれた。優士はその言葉を聞き取ってうなずいている。

 チャペルの玄関に、椿に似た葉で大きな輪のリースがあった。クレヨンや、はさみ、ものさし、絵筆、セロテープが取り付けてある。8月末から新しい学年で使うはずのものを同僚の先生たちがフェルドマン先生に送り届けるためにリースにくくりつけたという。

 クルティエ先生は、スピーチの中でこんな軽いジョークも飛ばしていた。「天国で新1年生たちが待っていました。マリー・アンヌは新学年に間に合いました」

 外は、まだ蒸し暑かった。やっぱり子どもたちを連れてきてよかったな、と妻に語りかけた。人が死ぬ、ということを子どもたちはどれだけ分かっているだろう。いますぐには理解できなくても、きっとこの蒸し暑い日の午後のことを覚えている。大人たちが泣いていた。みんなで賛美歌をうたっていた。白いコインのようなせんべいを食べた。クルティエ先生は、目を赤くしながらも微笑んでいた。

 人は生まれ、いつかは死んで行く。人の死は悲しいけれども、避けられないものだから、こうやって儀式をして、亡くなった人の魂をなぐさめ、残された人たちの悲しみをなぐさめる。そして、その人たちもいつかは亡くなり、新しく生まれる人がいる。いつか、それが分かる日がくる。

 道路脇にとめていた車に乗りオフィスへ帰ろうとしたとき、妻が「日本式だけど」と言いいながら、黒服に清めの塩をかけてくれた。「どうして、そんなことをするの」と子どもたちが聞いてくる。ほんとうなら今夜は、どこかのレストランでささやかなお祝いをするはずだった。これまで、この日をきちんと祝ったことは一度もなかったのだけれども。

 きょうは9回目の結婚記念日だった。

 〔短期集中連載〕

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手作りポン酢で大宴会 関塚JAPANは勝った

 すべては、スーパーSVのミスからはじまった。
 大分特産のカボスを箱買いしようと、近くのスーパーへかみさんと出かけたのはふた月前だった。大分県の友人が、昨秋、送ってくれて以来はまっている。焼き魚を始めほとんどどんな料理に絞ってもうまい。味噌汁にだって入れることを友人から教えられた。

 でも、スーパーSVにはカボスがなく、代わりに徳島産のスダチを売っている。なぜか5個入りで152円、1箱で250円だった。ぼくが頭をひねっているとかみさんが言った。

 「それは、ラベルのまちがいよ」。恐る恐るレジに持っていくと、あっさり250円で通った。家で箱を開けると41個入っていた。店では1箱1,250円とすべきところ、うっかり1,000円を抜かし、それを売り場の誰も気づかなかったのだろう。ラッキー!

 これは天の啓示で、ポン酢を作るしかない。とはいえ、40個もスダチを絞るのは大変だなと思っていたら、自然食品の店でもらった果汁絞り器があるという。うちのかみさんは、モノを捨てるのが大の苦手だが、その分、言えばたいていのモノが出てくる。ぼくは「打ち出のかみさま」と呼んでいる。

 あるブログに、ずばりスダチポン酢のレシピが載っていた。果汁の量に合わせて生醤油、米酢、味醂、料理酒をきっちり測って入れる。昆布と削り節をひと煮立ちさせたものを加えると、1リットルのポン酢ができた。それを冷蔵庫でひと月寝かせる。

 翌月、法事で郷里の出雲へ帰省した。晩秋のいい季節だ。かみさんは実家の隣りの家の畑で、柚子が鈴なりになっているのを発見した。「あれよ、あれ。あれをポン酢に入れれば完璧じゃない?」

 さっそく、母に隣りの家へ電話してもらい、かみさんは帯同していた息子を連れて“柚子狩り”に行った。隣のおばさんは「どうぞ、どうぞ、いくらでも採っていってね」と言い、高ばさみを貸してくれたそうだ。

 かみさんは、こういうとき、決して遠慮はしない。戦果は華々しかった。母や妹、姪に分け、あとは他のものといっしょにダンボール箱に詰めて宅配便でわが家へ送った。

 ぼくは、「スダチポン酢 芳男謹製」というラベルを貼っておいたペットボトルのなかへ柚子を絞り、さらに香りを加えるため柚子の皮も少し入れて、ふたたび寝かせた。

 特製ポン酢とくれば、あの鍋料理をやるしかない。どうせやるなら盛大に、と「サッカー関塚JAPANを応援する大ホームパーティ」を企画した。サッカー狂を招き、対シリアのロンドン五輪最終予選をテレビ応援するのだ。同時に、早めの忘年会とクリスマス、ぼくの誕生日会を兼ねている。

 そのための大作戦は、まず、大掃除から始めた。リビングがなんとか片付くと、ドイツで買って日本へ持ち帰った大クリスマスツリーを押入れから出した。高さは210センチあり、ふつうのマンションだと飾りきれないかもしれない。幸いわが家は一戸建てで天井もかなり高い。

 クリスマスツリー用のガラス球が、日本では目にしない凝ったものだ。卵の殻のように薄く、工芸品としての趣がある。ちょっと力を入れると割れてしまう。かみさんは今回、ひとつ壊してしまった。嗚呼。

 もうひとつのメインアイテムが、やはりドイツ製の「クリスマスピラミッド」だ。聖書にあるキリスト誕生の様子を、大中小3段式のテーブルに乗せた木製人形で表現している。てっぺんには羽がついており、六角形の台の角にろうそくを立て、炎による上昇気流でピラミッド状のテーブルが回転する。羽の角度を変えるとスピードも変わる。回転する羽で天井に複雑な幾何学模様が映し出され、クリスマスの厳粛なムードをかもし出す。ドイツのどこの家庭でも、この時期になると必ず登場するものだ。

 ドイツでかみさんが習いに行って作った大きなリースも引っ張り出した。部屋をモールやサンタクロースの人形でデコレートし、目一杯、華やかになった。

 そして、パーティ当夜、サッカー狂の男性3人と中3のお嬢さんひとりが、シャンパンやビール入りの箱を抱えてやって来た。シャンパンで乾杯し、いきなり大宴会に突入した。

 メインの鶏ちゃんこ鍋をはじめ、キムチ、松前漬けなどはすべて自家製だ。鍋は大相撲の故「呼び出し太郎」さん夫妻が、相撲、報道関係者のために考案したものだった。ぼくも新聞記者時代、太郎さんの奥さんがやっている両国の店で食べて感動し、わが家のもてなし料理に取り入れることにした。コストは安く、味はやみつきになる。

 鍋は、もちろん、手塩にかけて熟成させた柚子入りスダチポン酢で食べる。市販のポン酢も用意したが、圧倒的に手製のほうに軍配があがった。やったね!

 パーティの第2部が関塚JAPANの応援だ。前半終了間際にやっとDF浜田水輝がヘディングシュートで先制したが、後半、守備の乱れから同点に追いつかれた。そして、86分、FW大津祐樹が左クロスに頭から飛び込みゴールに叩き込むと、わがパーティ会場も一気に盛り上がった。2対1でそのままホイッスルが吹かれ、勝ちきった。

 でも、もっとシュートを撃て! ほんとに草食系なんだから。

 すでに新しいシャンパンはなく、焼酎のお湯割りで乾杯だ。クラッカーを買っておけばよかったぁ。

 --毎週木曜日に更新--

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