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2012年1月

続・有毛論、無毛論

 ニューヨーカーは、カップ入りの味噌スープをスプーンですくって飲む。日本人としてはカップから直接飲みたいところだが、そうすれば周囲の目が集まって気まずいことになる。ミソスープと味噌汁はかくもちがう。

 そんなことを、朝日新聞のニューヨーク特派員がコラムで書いていた。その気持ち、よくわかる。ぼくも、ヨーロッパに住んでいるとき、麺類を食べるのに、決してすすらないよう十分気をつけていた。欧米にすすって食べる文化はなく、そんなことをすれば、なんと下品な人間だと決めつけられる。

 ところが、クールジャパンに憧れた外国人たちが日本にやってくるようになり変わってきた。麺をすすって食べるのは、蕎麦の風味を味わうためとか、熱々の麺を冷ますためとかその意義を知って、すすって食べるようになっているという。

 郷に入っては郷にしたがえというか、文化の差というのは難しく、かつ面白い。

 さて、毛はあったほうがいいか、ないほうがいいかという話を書こう。

 頭の毛はあったほうがいい、と決めつけているのは日本の文化(?)だ。ロシアなどでは、頭の毛が薄い男性のほうがホルモンが強く男らしい、とむしろもてるというのだからこれも文化のちがいではある。

 では、下半身の毛はどうだろう。2011年1月13日に本ブログで「有毛論、無毛論」をアップしたところ、アクセス数がいまでもぐんぐん増えつづけている。サッカー香川真司選手の名前をあげ、ドイツのヌーディストスポットに言及するなどしたからというのもあるだろうが、人はみな、そういう話題が好きなのだろう。

 ドイツのブンデスリーガで戦う日本人選手は下の毛を剃っている、という話題だ。チームメートがみな剃っているからシャワーのときひとりだけ生やしているのは恥ずかしいのだそうだ。CSKAモスクワで活躍してきた本田圭佑選手も剃っているというから、無毛モードはロシアにも及んでいる。

 ニューヨークで味噌スープをカップから飲めないのと同じことだ。

 ここで繰り返しておくと、ぼくがドイツで暮らしていた10数年前、ドイツ人は男女を問わず下の毛を生やしていた。それは、ヌーディストスポットや混浴サウナ、アダルト雑誌で確認したことだからまちがいない。

 だから、ぼくにとって一番興味深かったのは、ヨーロッパ人男女がいったいいつごろから何のために下半身の毛を処理するようになったか、という点だった。だが、ことがことだけに、マスメディアが改めて報道するテーマではない。ぼくの中ではずっと引っかかったままになっていた。

 そしてついに、その件について正面から取り上げた記事に出会った。週間現代2012年1月21日号だ。そのタイトルが素晴らしい。「無毛ヌード時代がやってきた」。グラビアを売りのひとつにする週刊誌だけに、「無毛時代がやってきた」ではないところがそれらしい。誌面では、あそこがつるつるの美女たちが、惜しげもなく全裸をさらしている。

 ヨーロッパでは18歳から25歳の女性のうち半数は陰毛を完全に剃っている、というデータが2009年にオーストリアの新聞に掲載された、と記事にある。ドイツ人心理学者の研究結果だそうだ。

 そして、西洋の美女を撮りつづける写真家・高橋生建氏のコメントを紹介している。<かつてはみな生やしっぱなしでしたが、10年ほど前から剃毛する女性が増えました。一昨年や昨年に撮影したときは、9割の女性は“無毛”。>

 ぼくの体験、観察はまちがっていなかった。かつてはたしかに生やしっぱなしだった。脇の毛でさえ自然に任せている女性もいたほどで、こちらが勝手に恥ずかしくなった。

 そこで、高橋氏は、日本男児として当然の質問をした。剃っている理由を聞いたのだ。すると、「だって清潔で衛生的だから、当然でしょ」と答えたという。陰毛は性病の原因になるし、体臭を発生させやすい不潔なものと考えているのだそうだ。

 記事には、通算5,000人以上の外国人女性と関係を持ったという猛者のライター出町柳次氏のコメントもある。

 <一神教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の女性は、最近、剃毛しているケースがほとんどです。しかし、仏教、ヒンドゥー教など多神教は剃毛しない女性が多い。一神教の生まれた中東は砂漠地帯で水が使えず不潔になる。…水が豊富な日本などアジアの人は剃る必要性を感じていないのです」

 一見もっともらしい解説だが、宗教と無毛は関係あるのだろうか。それなら、ずっと昔からキリスト教徒などは無毛だったはずだ。性病予防のために剃るというのも唐突すぎる。エイズは粘膜で感染するというし、その流行が理由でもないだろう。ここ10年ほどというのだから、なにかをきっかけにした一種のファッションなのではないか。

 まあ、そんなのは大したことではない。日本でも無毛が流行るかどうかだ。週間現代などがどれだけ無毛ヌードで売るかにかかっているのではないか。

 <90年代に一世を風靡したヘアヌードの次は、無毛ヌードがブームを起す>と、記事は締めくくる。

 個人的には有毛、無毛ともに捨てがたいのだが。

 --毎週木曜日に更新--

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死ぬのが楽しみになりそうな本がある

 恩人、恩師、恩義などという言葉がある。『般若心経入門』の著者で『南無の会』会長の松原泰道師は、ある本に出会い「これは恩書です。人に恩人がいるように、本にも恩書があります」と語ったという。松原師が86歳だった1994年夏のことだ。

 その本は『ここまで来た「あの世」の科学』(天外伺朗著)という。仏教の大家で仏への道は熟知しているはずの師も、高齢となり、考えるところがいろいろあったのだろう。

 本の著者は長らくソニーに勤め、犬型ロボットAIBOを発明したことでもよく知られる。素粒子の科学(量子力学)と宗教をふくむ東洋哲学、そして深層心理学の3方向から、人間にとって最大の難問であるあの世に迫っている。

 この本が単行本で出されベストセラーとなった当時、ぼくはドイツにいてそのことを知らなかった。それから約10年を経て改訂版が文庫として出され、初めて読んだ。

 天外氏は、素粒子研究者たちが最新の理論と東洋哲学の類似性を指摘していることにふれる。<どうやら、この宇宙は二重構造になっており、われわれがよく知っている物質的な宇宙(この世)の背後に、もうひとつの目に見えない宇宙(あの世)が存在するらしいのです>

 ぼくがかじった宇宙論や素粒子論などでは、たしかにそういう議論が行われている。この世とあの世は、紙の表裏みたいな関係かもしれない。

 般若心経の有名なくだり「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」は、形あるものとないものが表裏一体で分離できないことを示す。天外氏は、般若心経がそれを4回もくり返し強調していることを指摘する。また、華厳経にある「一即一切、一切即一」は<部分が全体で、全体が部分>であることを意味し、これらの経文は<最新の宇宙モデルそのものである>と述べる。

 宗教では、この世があり死んであの世にいく、という説明がなされてきた。しかし、天外氏はこう記す。<私たちは、生きているこの瞬間にも時間も空間もない「あの世」にもいる、ということです。「死」というのは、「この世」の存在が終わることを意味しており、「あの世」での存在だけになるのです>

 そして、古代インド哲学の「アカシック・レコード」という概念を紹介している。「空」を意味するアカーシャの記録という意味で、<宇宙開びゃく以来すべての存在、出来事、行動や想念などが細分洩らさずに記録されている>

 それから着想して「アカシック場(フィールド)」という考え方をとる物理学者もいるそうだ。<時間を超越して…未来のことまで含めてたたみこまれている>。この考え方は、著者の提唱するものと同様、科学的仮説というよりまだ科学的ロマンの段階だそうだが。

 ぼくがかつて暮らしていたインドでは、たしかにそういう考え方がある。たとえば、ムンバイのスラム街を舞台とした英映画『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)は、アカデミー賞8部門をはじめ数え切れない賞を受けた。これをめぐって、出演したスラムの素人の子どもたちの反応が印象的だった。彼らはヒンディー語で言う。「結果はあらかじめ決まっていた。それは運命だったんだ」。英語字幕では“It is written”ともなっていた。つまり、すべては「アカシック・レコード」に書かれていることだ、と言うのだ。

 『神、この人間的なもの』(なだいなだ著)は、宗教とは何か――という問いにこう答えている。<孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理、それもなるべく簡単な原理>

 一方、宗教の誕生にはもうひとつ決定的な要因がある。つまり、死の恐怖からの救いだ。宗教は死後の世界をさまざまに説き、それを信じる者、信じない者ともに救ってきた歴史がある。イスラム、タミルなどの過激派の自爆テロは、それぞれの宗教にもとづく死生観抜きには語れない。キリスト教徒は決して自爆テロなどしない。

 大震災を目の当たりにした日本では、いま、宗教入門書や僧侶のエッセイなどが続々と刊行されている。死を強烈に意識し出し、これまで宗教に距離を置いてきた人も関心を抱くようになったのだろう。

 天外氏は、瞑想や禅など東洋式の修行は、この世と裏表にどこにでも存在しているあの世の真理にアクセスする方法論であることをくりかえす。哲学者ラズロは<あらゆる存在や出来事、行動や想念が歪みとして真空中に記録されていると考えました。宇宙は、その歪みを通じて瞬時に影響しあう、密接に結合されたひとつの実体だ、というのです>

 釈迦が悟ったのだとすれば、その真理、その実体だったはずだ。死というのはあくまでこの世での観念で、実際には、生を終えてもその記憶と記録は「空=アカシック・レコード」に永遠に存在しつづけることになるのだろう。

 日本仏教に「人は死んで仏になる」というのがある。ある意味では不遜な教えであり、他の仏教国にはない。だが、これこそ真理である可能性はある。誰でも死ねば、釈迦が6年の苦行ののち菩提樹の下で7日間の瞑想をしてたどりついた境地または存在に、結果として至るのかもしれない。

 生身の人間が死を実験で確かめることはできない。しかし、“恩書”によって死が恐怖でもなんでもなく、むしろ楽しみになってくるようにさえ思えてくる。

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命とは、記憶とは 赤ちゃんの不思議

 友人知人に孫がつぎつぎと生まれている。かみさんの姪も女の子を出産した。ぼくは、こういうとき、必ず次のように言うことにしている。

 「おしゃべりできるようになったら、聞いてみて。お母さんのお腹から生まれたときのことを覚えてる? 生まれるよりずっと前のことも覚えてる? と」

 こんなことを話すのは、2011年後半から、最新の赤ちゃん学をかじったからだ。

 ある日、小学生のシンガーソングライター水谷ゆうさんが、テレビで『いっぱい大好き』という歌をうたっていた。

 ♪ねえママ わたし 生まれる前 ママを空からずっと見てたよ
 やさしそうだなって ずっと見てたよ だからわたしは ママを選んだよ
 ああ やさしそうだね 神さまわたしは あの人の子どもに なりたい なりたい
 そうしたら ちっちゃい シャボン玉に入れられて ゆっくりわたしは 透明になって
 降りていく 降りていく♪

 ぼくは水谷さんに、所属事務所を通じて手紙を出した。「実は、いま、<赤ちゃんは親が作るのではなく、赤ちゃんのほうが親を選んで生まれてくるのではないか>というテーマで取材をしています」。そして、この歌詞を書いたいきさつを尋ねたのだが、残念ながら返事はなかった。しかし、自分の記憶に基づいている可能性はじゅうぶんあるだろう。

 産科の現役の医師・池上明さんが、『子どもは親を選んで生まれてくる』(日本教文社)という本を出している。出産の現場に数多く立会い、また、ぐんぐん育つ赤ちゃんに接するうち、その能力が常識を超えていることに気づき、研究を進めてきたという。

 胎内記憶・誕生記憶については、100年くらい前から報告がある。だが、科学的な研究がはじめられてからはまだ日が浅い。池上医師自身は、2001年、全国保険医団体連合会で胎内記憶について発表し、全国紙に掲載されて大反響を呼んだ。

 2003~04年には、長野県の諏訪市と塩尻市のすべての幼稚園、保育園に協力してもらい、3601組の親子にアンケートを実施した。対象は3~4歳で、ほぼ3人にひとりが記憶していた。胎内記憶をもっていたのは30数%で、誕生記憶は20%前後だった。「子どもがまだしゃべれないので答えられない」「子どもが話したがらない」「子どもに質問したことがない」などのケースもあり、実際の記憶保有率はもっと高い可能性もある、としている。池上医師は、2005年、アメリカで開かれた国際学会で発表した。

 「こうした記憶は人に語ると消えていくようなのです。まるで、誰かに知られることで記憶の役目が果たされたかのように」としている。

 ぼくが知る限り、作家の故・三島由紀夫は自分の誕生記憶について書き残している。それを読んだときには、さすが天才だからか、と思ったが、池上医師によると、大人でも100人にひとりくらいは、生まれる前後の記憶を保っているそうだ。

 子どもたちの語る内容は、細かい点はちがっていても、だいたいのイメージは共通しているという。「生まれる前は雲や空の上にいて、何人かの友だちとのんびりすごしていました。その世界は平和で穏やかで、神さまや天使や妖精たちが住んでいます。そしてふさわしい時期がくると、どのお母さんのもとに生まれるかを決めて、トンネルやはしごを通っておなかの中に入るというのです」

 この情景は、水谷ゆうさんの歌『いっぱい大好き』そのものではないか。

 川上医師によると、おなかにいたときお母さんに話しかけられた赤ちゃんは、胎内記憶・誕生記憶ともに保有率が高いというデータも得られた。お母さんが赤ちゃんにひんぱんにおなかに話しかけていると、「あったかかった」「たのしかった」といったポジティブな記憶が多く、あまり語りかけないと「さみしかった」「早くでたかった」というネガティブな回答が多くなるという。

 東洋では胎教という考えが昔からあったが、母は出産するより前から子どもと絆を持っているということだ。そして、胎内のときから父親の影響も大きいという。

 ある小学生はこう語ったという。「虐待されることも全部知って生まれてきます。それは、親に『そんなことをしてはいけないよ』と教えるためです」

 赤ちゃん学、発達認知神経科学などを専門とする開一夫さんは、『赤ちゃんの不思議』(岩波新書)を書いた。口を開けたり閉じたりする、唇を突き出す、舌を突き出すなどの表情を新生児にしてみせると、それをまねるのだという。生まれて数時間しか経っていない赤ちゃんが、人間の顔の絵とそうでない絵とを区別することもできるそうだ。

 赤ちゃんは、高度で多彩な認知能力を非常に初期から持ち合わせている、と開さんは述べている。

 池上医師はさらに、「イトミミズみたいなのになって」お父さんからお母さんのお腹の中へ入り「たまごになった」と話す子どものケースなどを紹介している。つまり、精子と卵子の記憶で、その子は、受精から誕生までの産科医師も知らない発達のようすについて克明に語ったという。

 命とはなにか、記憶とはなにか、とつい考えさせられる。

 嗚呼、ぼくにも早く孫が生まれないかな。実験台としても楽しみだ。

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カレーライス

 あるエッセイを読んで、半世紀以上前の記憶がまざまざとよみがえった。郷里・出雲の母がファクスで送ってきた。タイトルは『恩師』とあった。

 <今朝もいつもの通り新聞のお悔やみ欄を見る>

 こう始まる文章には、筆者の古川精次さん(72)が、その欄で高校時代の恩師の名前を見つけ、長女の訃報が載っていたことが書かれている。

 恩師とはぼくの父であり、長女は姉だった。父は、島根県立出雲産業高校などで教員をしていた。産業高校は、のちに商業高校と工業高校に分かれる。

 <長女とあるから先生は健在なのだ。卒業してから五十数年が過ぎている今、こんなことでそれを知った>

 姉は長年、パーキンソン病と闘ってきた。頭はしっかりしているのに、手が振るえ、足元がおぼつかなくなって、言語障害もしだいにひどくなっていった。

 それでも、ごく軽い一眼レフカメラを買い、不自由な体で花の写真を撮るようになった。母や妹、ヘルパーさんに体を支えられるようにして撮影をつづけた。四季折々、花の輝きを一瞬で切り取るため、その場に長い時間たたずんで撮影することもよくあった。

 毎年、12の作品を選んで卓上カレンダーに印刷し、人に買ってもらうようになった。その作業をつづけるうち、花のカレンダーは評判を呼び、メディアでたびたび紹介されるようになった。カレンダー作りは、体がついていけなくなるまで10年間つづけた。その間、作品をパネルにして各地で展示会も開かれた。

 症状は一進一退で、しだいに重くなっていった。入退院を繰り返し、2011年9月20日、ついに帰らぬ人となった。古川さんが目にしたのは、その死亡記事だった。後日、姉の作品を母と妹がまとめた写真集が完成し一般にも販売されるという記事を読み、ぼくの実家に写真集を買いにきてくれた。そのとき、母に手渡したのが自作のエッセイだった。

 「このエッセイについて、ブログに書いてよ」と、母は言ってきた。ぼくは古川さんの自宅に電話を入れ、いきさつを聞いた。

 昭和33年3月、当時の出雲産業高校を卒業した。学校では、父から商法と民法を教わったという。「堅くてまじめ、冗談も少なく面白みのない授業でした」。たしかにそういう父だった。エッセイにはこんなエピソードがつづられている。

 <ある日の授業の時だった。黒板に歌の詞を書かれた。『これは自分の卒業した旧制三高の寮歌だ』と言われた。『琵琶湖周航の歌』の歌詞だった>

 歌詞は6番まであるが、父は教室で1、2番を歌い、授業をつぶしてクラスの生徒全員に合唱させたそうだ。

 ♪われは湖(うみ)の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと♪

 <まだ蛮カラな気風が残っていたその当時の私たちが、特に二番の歌詞 ♪雄松(おまつ)が里の乙女子は・・・はかない恋に泣くとかや♪ のフレーズに『乙女だと』、『恋だと』と男子生徒も、女子生徒も照れと気恥ずかしさでワーワー騒いだ>

 それがきっかけとなり、生徒たちは父に親しみを覚えた。卒業式の数日後、古川さんは男子4、5人と連れ立ってぼくの実家へ遊びに来た。

 <若い奥様、先生となにを話しただろう。そのまわりを走ったりしていた子供がいた。女の子もいた。その子がそのお嬢さんだったのだろう>

 昭和33年の春といえば、姉が6歳、ぼくが4歳のころだ。妹はまだ生後4か月だった。古川さんが覚えているのは、まちがいなく姉とぼくだった。当時7歳の兄は、お客さんのまわりを走るような子ではなかったはずだ。

 このエッセイを一読したぼくのかみさんは、「文章が上手ね」と言った。聞けば、古川さんは、地元のエッセイ同好会に参加していて、月に1回、先生の指導のもと、各自の作品を批評しあっているという。仕出し料理の会社を経営していたが、息子に譲って会長職に退き、悠々自適の日々を送っている。

 新聞のお悔やみ欄を目にする1週間前、古川さんは、親鸞聖人750回御恩忌法要で京都の西本願寺に参拝し、バスでホテルへ向かった。琵琶湖の湖畔に差しかかり、ガイドさんが『琵琶湖周航の歌』を歌った。

 <私も大きな声で歌った。となりの家内が「よう知っているね」という。その時、昔の話をしたばかりだった。湖上を中秋の満月が照らしていた>

 卒業生さんたちは、ぼくの実家に泊まったという。母も、それは覚えていないそうだが。

  <夕食は子供向きの甘いカレーだった>

 古川さんは言う。「そのころ、カレーはまだ珍しかった。それに、とっても甘口だったので記憶に残ったのかもしれません」

 教師の家に生徒が遊びにいく牧歌的な時代だった。

 母は、生徒さんが来ると、たいていカレーライスを大量に作って出していた。表座敷で学生服姿のお兄さんたちが大声でおしゃべりをし、カレーを食べていた情景を、ぼくもはっきり覚えている。

 父は学校で“カレーライス”というあだ名をつけられたのだった。

 --毎週木曜日に更新--

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