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死ぬのが楽しみになりそうな本がある

 恩人、恩師、恩義などという言葉がある。『般若心経入門』の著者で『南無の会』会長の松原泰道師は、ある本に出会い「これは恩書です。人に恩人がいるように、本にも恩書があります」と語ったという。松原師が86歳だった1994年夏のことだ。

 その本は『ここまで来た「あの世」の科学』(天外伺朗著)という。仏教の大家で仏への道は熟知しているはずの師も、高齢となり、考えるところがいろいろあったのだろう。

 本の著者は長らくソニーに勤め、犬型ロボットAIBOを発明したことでもよく知られる。素粒子の科学(量子力学)と宗教をふくむ東洋哲学、そして深層心理学の3方向から、人間にとって最大の難問であるあの世に迫っている。

 この本が単行本で出されベストセラーとなった当時、ぼくはドイツにいてそのことを知らなかった。それから約10年を経て改訂版が文庫として出され、初めて読んだ。

 天外氏は、素粒子研究者たちが最新の理論と東洋哲学の類似性を指摘していることにふれる。<どうやら、この宇宙は二重構造になっており、われわれがよく知っている物質的な宇宙(この世)の背後に、もうひとつの目に見えない宇宙(あの世)が存在するらしいのです>

 ぼくがかじった宇宙論や素粒子論などでは、たしかにそういう議論が行われている。この世とあの世は、紙の表裏みたいな関係かもしれない。

 般若心経の有名なくだり「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」は、形あるものとないものが表裏一体で分離できないことを示す。天外氏は、般若心経がそれを4回もくり返し強調していることを指摘する。また、華厳経にある「一即一切、一切即一」は<部分が全体で、全体が部分>であることを意味し、これらの経文は<最新の宇宙モデルそのものである>と述べる。

 宗教では、この世があり死んであの世にいく、という説明がなされてきた。しかし、天外氏はこう記す。<私たちは、生きているこの瞬間にも時間も空間もない「あの世」にもいる、ということです。「死」というのは、「この世」の存在が終わることを意味しており、「あの世」での存在だけになるのです>

 そして、古代インド哲学の「アカシック・レコード」という概念を紹介している。「空」を意味するアカーシャの記録という意味で、<宇宙開びゃく以来すべての存在、出来事、行動や想念などが細分洩らさずに記録されている>

 それから着想して「アカシック場(フィールド)」という考え方をとる物理学者もいるそうだ。<時間を超越して…未来のことまで含めてたたみこまれている>。この考え方は、著者の提唱するものと同様、科学的仮説というよりまだ科学的ロマンの段階だそうだが。

 ぼくがかつて暮らしていたインドでは、たしかにそういう考え方がある。たとえば、ムンバイのスラム街を舞台とした英映画『スラムドッグ$ミリオネア』(2008年)は、アカデミー賞8部門をはじめ数え切れない賞を受けた。これをめぐって、出演したスラムの素人の子どもたちの反応が印象的だった。彼らはヒンディー語で言う。「結果はあらかじめ決まっていた。それは運命だったんだ」。英語字幕では“It is written”ともなっていた。つまり、すべては「アカシック・レコード」に書かれていることだ、と言うのだ。

 『神、この人間的なもの』(なだいなだ著)は、宗教とは何か――という問いにこう答えている。<孤独から人間を救い出し、一つにまとめるための原理、それもなるべく簡単な原理>

 一方、宗教の誕生にはもうひとつ決定的な要因がある。つまり、死の恐怖からの救いだ。宗教は死後の世界をさまざまに説き、それを信じる者、信じない者ともに救ってきた歴史がある。イスラム、タミルなどの過激派の自爆テロは、それぞれの宗教にもとづく死生観抜きには語れない。キリスト教徒は決して自爆テロなどしない。

 大震災を目の当たりにした日本では、いま、宗教入門書や僧侶のエッセイなどが続々と刊行されている。死を強烈に意識し出し、これまで宗教に距離を置いてきた人も関心を抱くようになったのだろう。

 天外氏は、瞑想や禅など東洋式の修行は、この世と裏表にどこにでも存在しているあの世の真理にアクセスする方法論であることをくりかえす。哲学者ラズロは<あらゆる存在や出来事、行動や想念が歪みとして真空中に記録されていると考えました。宇宙は、その歪みを通じて瞬時に影響しあう、密接に結合されたひとつの実体だ、というのです>

 釈迦が悟ったのだとすれば、その真理、その実体だったはずだ。死というのはあくまでこの世での観念で、実際には、生を終えてもその記憶と記録は「空=アカシック・レコード」に永遠に存在しつづけることになるのだろう。

 日本仏教に「人は死んで仏になる」というのがある。ある意味では不遜な教えであり、他の仏教国にはない。だが、これこそ真理である可能性はある。誰でも死ねば、釈迦が6年の苦行ののち菩提樹の下で7日間の瞑想をしてたどりついた境地または存在に、結果として至るのかもしれない。

 生身の人間が死を実験で確かめることはできない。しかし、“恩書”によって死が恐怖でもなんでもなく、むしろ楽しみになってくるようにさえ思えてくる。

 --毎週木曜日に更新--

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