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2012年9月

映画『さまよう刃』は、現代の忠臣蔵だ

 「誰かのために命をささげるなんて、できるかしら?」。NHKのBS時代劇『薄桜記』を観ながら、かみさんが言う。

 忠臣蔵外伝ともいうべき物語で、主人公は江戸随一の剣客・丹下典膳(山本耕史)だ。

 典膳の剣仲間であり親友でもある安兵衛(高橋和也)は、堀部家に養子として入り赤穂藩士となる。そこへ松の廊下事件が起こる。

 忠臣蔵である以上、主君・浅野内匠頭への<忠義>がとりあえずのテーマとなる。忠は『南総里見八犬伝』の八つの数珠に込められた文字のひとつでもあり、江戸時代の重要な価値観のひとつだったはずだ。

 安兵衛は、養子とはいえ浅野家の家臣として、主君の仇討のために命をかける。

 現代では忘れ去られた価値観で、かみさんのセリフとなった。「夫や子どものためだったら、場合によっては命を捨てられるかしら?」

 そういえば江戸時代、商家の使用人が主人の病の平癒を祈って、清水の舞台から飛び降りた記録が残っているという。武士にかぎらず商人にも、<忠>はあったのだ。いまどき、社長のために命を捨てる社員なんていないが。

 典膳は、訳あって吉良上野介(長塚京三)への仇討に備える吉良家の用心棒となる。赤穂浪士の討ち入りが迫ったと思われるころ、典膳は妻の千春(柴本幸)に思わず本音を漏らす。「安兵衛がうらやましい。死に場所を見つけたのだから」

 典膳は、討ち入りの当日、安兵衛に呼び出されて斬り合いを演じ、命を落とす。いや、江戸一の剣客であり、わざと切られたというべきだろう。吉良邸で赤穂浪士を迎え撃ち仇討の妨害をするのは、武士としてしのびなく、死に場所を選んだのだ。

 不吉な予感のした千春は、駕籠を飛ばし、ふたりが会っているはずの谷中の七面社へ向かう。典膳と千春が桜の季節に出会い、恋に落ちた思い出の場所だった。

 境内で、典膳はすでにこと切れていた。千春は骸に寄り添い、殉死する。ふたりの上に雪が降り積もっていく。武士道とは死ぬことと見つけたり。

 この連続ドラマを観たあと、録画していた映画『さまよう刃』を観た。3年前に劇場で観たときには気づかなかったことが、くっきりと目に映った。

 主人公の長峰(寺尾聰)は56歳の建築士で、高1の娘とふたりで暮らしている。娘は花火大会の帰り少年グループに車で拉致され、レイプされる。その際、薬物を大量に注射され、急性心不全で死亡する。少年らは、遺体を河川敷に捨てていく。

 死の真相について、刑事は何も教えてくれない。真相を知ろうとあてもなく歩き回る長峰の自宅の留守電に、密告電話が入っていた。レイプした少年ふたり菅野、伴崎の実名と、伴崎のアパートの住所を告げる。そこにあるはずのビデオテープが証拠だとし、「これはいたずらではありません」と繰り返す。

 長峰は、伴崎のアパートへ行く。テープを見つけて再生すると、娘を凌辱する光景が映し出されて慟哭する。

 そこへ、伴崎が帰ってくる。長峰はナイフで伴崎を刺し、菅野が長野県のペンションの廃屋にひそんでいることを聞き出す。

 歪んだ性欲によって無残に殺された娘の復讐のため、長峰は長野県の菅平高原へ向かう。理不尽にも自刃させられた主君の仇を討とうとする赤穂浪士と通ずる。

 長峰は、警察に手紙を送り、伴崎を殺したことを認めたうえで、ひとり娘を殺された父親の心情をつづる。

 「伴崎は未成年です。逮捕されたとしても、更生と社会復帰を目的とする理由で、刑罰とはとても言い難い判決が下されたことでしょう」

 少年法の故に、犯した罪とはかけ離れた処分しか期待できない。仇討は自分で決行するしか道はない。

 手紙の全文がマスコミに漏れ、世間はむしろ長峰に同情する。赤穂浪士に肩入れした江戸の庶民と同じだ。

 かたやご公儀の裁断、かたや少年法が、不条理として目の前にそびえる。

 若い刑事(竹之内豊)も司法制度に疑問を抱く。「警察ってなんですか。市民を守っているわけじゃない。守ろうとしているのは法律のほうってことですか」。ベテラン刑事(伊東四郎)は、答えにもならない答えを口にする。「正義ってなにかを考える暇もなく、俺たちは駈けずり回っている」

 長峰は、菅平のあるペンションに偽名で泊まる。経営者の老父とその娘に「甥を探している」と言って、追っている菅野の写真を見せる。

 娘は翌日、新聞でくだんの手紙を読んで客の素性を知り、悩んだ末に警察へ通報する。警察が駆けつけると、老父は趣味のライフル銃を奪われたような演技をして長峰に手渡す。

 やがて長峰は菅野を捕え、ライフルの銃口を突きつけるが、ベテラン刑事に撃たれ即死する。そのライフル銃からは銃弾が抜いてあったことを、刑事はあとで知る。

 長峰は、ぎりぎりのところで仇討をやめ、菅野に死の恐怖を覚えさせることだけにとどめた。その代り、みずからの死に場所を見つけたのだった。

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世界で2番目に好きな幻の絵画

 28年前、作者から複製を1枚もらって、書斎にずっと架けている絵がある。クロード・モネの『印象 日の出』につぎ、世界で2番目に好きな絵だ。

 タイトルは『飛天』という。仏教上の空を飛ぶ天人のことだ。

 複製を改めてみると、男の飛天と女の飛天が腕を組み、膝立ちしたような姿勢で飛んでいる。身にまとう衣は風に巻き上げられている。

 捨象の筆遣いとでもいうのだろうか。ただ虚空を飛ぶペアが、薄緑とベージュが基調の抑えた色で、画面いっぱいに描かれている。

 その姿は、不思議な透明感があるのに、官能的でさえある。

 1984年のころ、新聞社の東京本社で10か月間だけ、地方がらみの取材をするセクションにいた。そこで担当した仕事のひとつが、中央で活躍している山形県出身の人を、毎週ひとりずつ山形県版に写真つきで紹介する欄だった。

 ある人から東置賜郡川西町出身の画家、黒沢梧郎先生のことを聞き、たしか目黒区にある自宅へ取材にいった。

 2階のアトリエには、五月の陽光があふれていた。小柄で細身の黒沢先生は、ちょこんと椅子に座り、黙々と筆を動かすのだった。

 スクラップ帳を開くと、ぼくの記事はこう書きだしている。

 <一匹のカイコが、その頼りない体から果てしなく糸を吐き出し、一つの宇宙ともいえるマユを作り上げる。人をキャンパスに立ち向かわせるのも、それと似た、細くしたたかな本能かもしれない。>

 先生は、1918年、医師の家に5人きょうだいの末弟として生まれ、ひとりだけ絵の道に進んだ。東京美術学校(現・東京芸大)で学んでいたころ、法隆寺金堂の壁画の前に立ち尽くした日があった。

 のちにインドを訪れ、仏像の絵をライフ・テーマと心に決めた。穏やかな先生が、ぼくに向かって強い言葉で言い切ったことがある。「仏像だって、結局、人間なんです」

 『飛天』は、聖なる空間と俗世を自由に行き来する様を描いたものという。

 ぼくは、複製をどうしても1枚欲しいと先生にお願いし、裏にサインと日付を書いてもらって大切に持ち帰った。

 原画は、川西町のとなり米沢市の市役所に飾ってある、と先生から聞いた。山形県を訪れたことはまだないが、いつか原画と対面してみたいとずっと思いつづけた。

 それから28年経ったこの夏、ついに機会がやってきた。事前に、米沢市広報課にメールを送ると、米沢市上杉博物館から返信がきた。

 絵は長年、市役所議事棟に飾られていたが、保存の関係で、数年前に博物館で完全梱包し収蔵しているという。

 もう、直接みることはできないのか。それでも、話だけでも聞こうと博物館を訪ねた。E学芸員に持参した複製画を差し出すと、この絵にまちがいない、と言った。梱包する前に撮った画像をみせてもらったが、色はかなり褪せていて、むしろぼくの複製のほうが生き生きとしているようだった。

 Eさんは、1998年に発行された『黒沢梧郎作品集』をみせてくれた。黒沢先生は、ほぼ同じ構図の『飛天』を、米沢世紀(株)という会社の音楽ホールの壁にも描いていた。

 その会社の堤菁・前会長が、作品集のなかで、壁画『飛天』について<シバ神と妃パール・パーティが飛天する姿を借りて宇宙のどこかで誕生し進化した人間>と説明している。その<生命体の尊厳と神秘を、黒沢梧郎氏は独自の大空間の中に表現された。(中略)どこに行く命か。これは傑作である。>

 ぼくの複製の絵では、飛天がクローズアップされているが、作品集にある壁画では、たしかに大空間のなかを飛んでいる。この作品も、まちがいなく傑作だ。写真をみただけで、新たに感動をおぼえた。

 黒沢先生は、ぼくが取材に訪れたとき、山形県の赤湯温泉のはずれに茅葺きの民家を借りてあり、来月からそこで故郷の人と風景を描く、と話していた。

 先生は1999年6月8日、80歳で亡くなられたそうだ。

 先生は川西町の川西中学校にも壁画を描いた、と言っていた。博物館から車で30分弱のその学校へ行くと、K校長が多目的ホールへ案内してくれた。縦7メートル、横8メートルの大壁画がそこにあった。

 クラブ活動に励む生徒や地元の伝統芸能・小松豊年獅子踊りの様子などが描かれている。

 作品集の巻末の作品リストには、収蔵先も記されている。米沢興譲館高校、川西町民総合体育館、高畠町役場・・・。故郷のあちこちに足跡がある。そのほとんどは無償で描いたのだという。

 E学芸員は言った。「黒沢先生の絵は、わたしも好きです。ここら辺の人は、先生の名前は知らなくとも、その作品なら見たことがあるはずです」

 先生は絵のなかに生きつづけている。「郷土愛」とともに「マーキング」という言葉を思い出した。

 --毎週木曜日に更新--

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変態野郎と枯れ草男子

 大学生のころ、K子と知り合った。あるキリスト教系大学の学生で、ぼくより2学年下だった。やや古いが、ペギー葉山さんの『学生時代』にある、♪讃美歌を歌いながら 清い死を夢見た♪ といった感じの女の子だった。

 あるときカクテルバーに誘うと、女友だちといっしょにやって来た。しばらく3人で話しながら飲んでいて、女友だちがトイレに立ったとき、突然、K子は涙ぐんでうつむいた。

 ぼくは訳がわからなくて、どうしたの?と恐る恐るたずねると、「私は、恋愛も結婚もできない女の子なんです」と、小声で言った。

 5歳のとき、見知らぬ男に無理やり公園の茂みの陰に連れていかれ、スカートのなかに手を入れられたという。怖かったが、どうにか叫び声をあげ、男がひるんだすきに逃げ出した。そのことは、いままで、親にさえ話したことはなかった。

 しかし、男の気味悪い手の感触を忘れることはできず、中学校や高校でフォークダンスをするときも、男子の手が触れると虫唾が走った。

 そのころ、トラウマという言葉は一般に知られていなかった。でも、いま思えば、K子のいまわしい幼児体験は、トラウマそのものだったと思う。

 カクテルバーを出たあと女友だちと別れ、遠い帰り道をふたりでゆっくり歩いた。いろいろな話をしたが、それきりで、もう会うことはなかった。K子の体験は重すぎた。

 最近、ニュースをみていると、女児に対する性的犯罪が年々増えているように感じる。

 2012年9月4日には、広島市で、ボストンバッグに小学6年生の女の子を閉じ込めてタクシーに乗り込んだ東京の男子学生(20)が、運転手の機転で現行犯逮捕された。

 動機はまだはっきりしていないが、おそらく性的いたずらが目的だったのだろう。

 この小学生は、バッグに閉じ込められて怖い思いをしたものの、K子のような深い心の傷は負わずにすむかもしれない。

 2日後には、神奈川県警の巡査長が女子中学生に1万円を払って体をさわり、逮捕された。

 女児相手に性的犯罪をしでかす男は、大人の女性を相手にすることが苦手で、恋愛や金銭関係なしのセックスに縁がないタイプが圧倒的に多いとされる。

 幼顔でしかもセクシーな小さい女の子が登場するアニメがちまたにあふれていることと、関係があるのだろうか。オタクを自認する若者たちは、「オタクだからといって、犯罪者予備軍扱いするな」と、この種の事件のたびに声をあげてはいるが。

 女の子にもてたくてももてない男は、いつの世にもいる。でも、生身の適齢の女性を最初から相手にできない男は、人間としてというより、動物のオスとしてどうだろう。

 女児への性的犯罪者は変態野郎としかいいようがないが、その正反対の男の急増も、少子高齢化のわが国としては見逃せない。

 厚生労働科学研究班が2010年に行った男女3,000人を対象とするアンケート調査のデータは衝撃的だ。

 セックスをすることに「関心がない」または「嫌悪している」男性が、16~19歳では36.1%もいた。2008年の同じ調査では17.5%だった。この年ごろの男の子といえば、ある人いわく「石垣のすき間にでも突っ込みたい」年代のはずなのに、いまでは3人にひとり以上が女性を避けている。

 ちなみに、30~34歳では、2008年が8.2%、2010年が5.8%とむしろ減っている。統計学的な誤差はあるから、この年代ではほぼ横ばいといっていいかもしれない。

 日本男児の一部はこと性に関し凶悪化し、一方で、その他の多くはものすごい勢いで“去勢”されているみたいに思える。

 アジア某国が、日本の国力衰退をねらい、若者の性欲を減退させる何らかの環境ホルモン兵器でもまきちらしているのか。そんな妄想さえしてしまう。

 報道で知る限り、“去勢”現象は日本でしかみられないようだ。国際社会は、人口爆発、食糧危機再来におびえているというのに。

 ロンドン五輪では、有名コンドームメーカーが、五輪ロゴ入り製品を選手村に15万個提供した。選手ひとり当たり10個の計算になるが、それでは足らず10万個を追加した。

 土産に持ち帰る者も結構いただろうが、スタミナ自慢の若い男女が集まっているわけだから、さっそく実戦で消費した選手たちもたくさんいたはずだ。サッカー女子アメリカ代表の美人GKソロ選手は、「女子選手の70~75%はセックスをしていた」と語ったという(^^;)。

 セックスは、活力、覇気のシンボルともいえる。わが日本の五輪代表選手で、夜の国際親善試合にはげんだ者はいたのだろうか。

 映画『海猿』シリーズが大ヒットを飛ばしているのは、女子の観客動員に成功しているからと聞く。女の子の多くは、たくましい肉食系男子を求めているのだ。

 草花だってオシベとメシベがあり、子孫を残す本能がある。草食系動物は、肉食系以上に子どもをたくさん作る。

 日本の若い男子の3人にひとりは、残念ながら、もはや枯れ草だ。

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古代出雲王朝の姿は八雲のなか

 島根・出雲大社の近くで、2012年7月21日から11月11日まで、『神話博しまね』が開かれている。古事記1300年にあわせ、その神話の3割が出雲を舞台としていることから企画された。

 姉の新盆で帰省したおり、会場を訪れた。県教委の主催かと思えば観光振興課が音頭をとったイベントとかで、郷土芸能や和太鼓、民謡などを繰り広げる舞台があった。

 メインは、「国内最大級」」とうたう高さ3m、幅15mのアーク型超ワイドスクリーンでの、CGと本物の役者による演技を組み合わせた神話映像館だった。出雲の始祖神スサノヲがヤマタノヲロチを退治する物語を展開する。

 ヤマタノヲロチのあまりの迫力に、「怖い、こわい」と泣きじゃくる子どももいた。

 古事記→神話→出雲ときてこういうイベントになったのだろうが、ロンドン五輪の影響もあって、夏休み中の人出はいまいちとの話も聞いた。

 ネット上には神話博のホームページもあるが、「古事記の舞台」「古事記の世界構成」といったページは、イベント開始からひと月半も日数が経っているのに、「現在準備中です」と表示されたままだ。主催者の詰めの甘さはいなめない。

 古事記より少し後に編纂された出雲国風土記を読むと、有名な国引き神話をはじめ、地名起源、気候風土、地誌などが整然とまとめられており、当時の民度の高さを示している。その高度の文化は、1000年以上の時を経て、いまや失われてしまったのか、と出雲人としてはやや残念な気もする。

 観光客をあてこんで企画すれば、無難な出雲神話がらみのイベントということになるのだろう。でも、遠方からの古代史ファンも引きつけるなら、次はやはり古代出雲王朝をどんとテーマにしたインパクトのある企画でやって欲しい、と思うのはぼくだけだろうか。

 神話博に物足りないものを感じ、まず足を運んだのが、出雲弥生の森博物館だった。出雲を中心に山陰から越後地方などにまで分布する独特の四隅突出型墳丘墓の発掘地に建つ。 こたつに布団をかけたような形の四隅突出型はユニークな形状で、なかでも西谷(にしだに)3号墳が、考古学や古代史の本では必ず紹介されている。たしかに形状は珍しく、ヤマト王権が前方後円墳を特徴とするのに対し、独特の存在感を持つ。

 しかし、その被葬者についてはほとんど無視されている。

 西谷3号墳は、ずばり卑弥呼の邪馬台国の時代に相当する。被葬者は、男王と子ども、女王の3人だ。しかも、博物館では、「必ずしも夫婦ではなかったかもしれない」としている。

 女王卑弥呼には政治を助ける「男弟」がいたことが、魏志倭人伝に書かれている。この出雲の弥生の森でも、ちょうど同時代に、男に政治面を任せた、シャーマンか巫女のような存在としての女王がいたのかもしれないのだ。

 学芸員を呼んでもらって話を聞くと、「王」が被葬者だと考えるのは、一緒に出土したブルーのヒスイ製勾玉が、国内でも例のない海外からの物だからだなどと理由をあげた。骨は残っていなかったそうだが、ガラスの胸飾りも中国陝西省産の極めて珍しいものだった。男王の棺には鉄剣もあった。また、副葬品には岡山県吉備地方からもたらされた大型土器などもあり、出雲の地にかなりの基盤をもつ王権があったことがうかがえるという。吉備にも強大な王国があったと考えられている。

 弥生の森から東へ約8kmのところにある荒神谷遺跡にも行った。1980年代半ば、銅剣358本をはじめ銅鐸、銅矛が大量出土し、考古学界を騒然とさせた遺跡だ。なにしろ、日本全国で出土した銅剣の合計数を上回る数がまとめて埋葬してあったのだ。時代は、弥生の森よりさらに200年以上古い紀元前後とされる。

 ぼくの実家から真南に臨む仏教山の麓にあるが、かつてはその山も神名火山(かんなびやま)と呼ばれていた。遺跡のボランティアガイドによると、銅剣類出土地の正しい地名は神庭西谷(かんばさいだに)というそうだ。神庭はまさに神の庭であり、西谷の「さい」はもともと「斎」または「祭」ではなかったか、という研究者もいるようだ。

 銅剣などはいずれも実用的な武器ではなく祭器とされる。誰が何のために整然と並べて埋めたのか、弥生の森に眠る男王、女王とはどんな関係があったのか。

 古事記や日本書紀を読めば、ある時代、出雲に大きな勢力を持つ王朝があったことがうかがえる。政治権力というより、宗教的権威がすごかったようで、出雲大社では巨大神殿の柱も発掘された。

 東京・府中市にはオオクニヌシを祭神とする大国魂神社があり、いま、鎮座1900年事業を行っている。社伝などの伝承によれば、景行天皇41年(西暦111年=別の学説も)5月5日に大國魂大神がこの地に降臨し、それを郷民が祀った社が起源という。

 武蔵一の宮とされる埼玉県さいたま市の氷川神社の祭神は、スサノヲと妻クシナダ姫だ。オオクニヌシも祀られている。氷川神社の支社は関東各地にたくさんある。

 なぜ、関東にまで出雲の神々の足跡があるのか。古代出雲王朝はとんでもない広がりをもっていたのではないか。しかし、まだ謎だらけで、その姿は八雲立つ出雲の雲のかなたに隠れている。

 --毎週木曜日に更新--

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