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日本マスメディアの断末魔

 戦国末期、豊臣秀吉の右腕石田三成率いる2万の軍は、わずか500の兵と領民らが立てこもる忍城(埼玉県行田市)を攻めあぐね、巨大な堤防を築いて水攻めにした。しかし、でくのぼうを文字って「のぼう様」と領民らから馬鹿にされ、慕われてもいる忍城城代の成田長親は、士気を高めるため奇策を打つ。一部の領民らはのぼう様のために堤防を決壊させ、水攻めは失敗に終わる――。

 映画『のぼうの城』が、大好評上映中という。制作したTBSは、映画の冒頭、「史実に基づく」とはっきり打ち出す。

 はたして、それは本当か。小説版を読んだ3年前、ぼくは忍城跡にある郷土博物館の学芸員に取材し、ブログに書いた。

 三成が築かせた堤防の一部は今も残っており「石田堤」と呼ばれている。しかし、決壊した歴史的証拠はない、という。水攻めが解かれる前に開城した可能性もあるらしい。成田長親は実在の人物だが、人物像についての史料はほとんど残っていない。

 つまり、「のぼう様」というあだ名も水攻めをめぐる攻防も、作者和田竜氏の創作にすぎない。TBSは宣伝戦略として、無理を承知であえて「史実」と打ち出したのだろう。

 2012年11月9日の読売夕刊映画評が、「史実に基づくオリジナル脚本を・・・」と平気で書いているのが気になった。そういう歴史が本当にあったのか、というジャーナリストなら当然抱くべき疑問を抱かなかったのだろう。博物館に電話を1本入れれば確かめられることなのに。

 映画や小説は、たかがエンターテインメントではあるが、新聞が歴史のねつ造をそのまま受け入れ広めるのはいかがなものか。新聞記者としての基本姿勢がまちがっている。『忠臣蔵』なら、まだ史実性が高いだろうが。

 読売と言えば、iPS細胞臨床治療をめぐる世紀の大誤報があったばかりだ。

 ぼくは21年間、読売の記者をしていたから、更迭された科学部長のS君とも親しい。冷静で頭の切れる彼が、どうして裏付け取材を部員に指示しなかったのか、理解に苦しむ。最高責任者として戒告処分された編集局長のO君はぼくの同期で優秀さはよく知っているが、なぜあんな杜撰な記事を載せることを許してしまったのか。

 週刊新潮は11月8日発売号で、さらにみっともない事件をスクープしている。朝日と読売の30代前半の運動部の男性記者AとBが、同世代の朝日の男性記者Cと飲んでいて仕事ぶりをけなして挑発した。Cは激高しAとBの胸倉をつかむなどした。

 後日、Aは「殴られて全治1か月のけがをし、Bも診断書を取った」とのメールをCに送りつけ、200万円を脅し取った。この事実が会社にばれ、当然、AとBは解雇された。

 まるでチンピラのやることだ。

 一連のメディアスキャンダルで、スーパーマンのエピソードを思い出した。

   スーパーマンことクラーク・ケントは、初登場以来70年以上、デイリー・プラネット紙の新聞記者として勤務してきた。ところが、10月24日発表された新作漫画で、「新聞はもはや、ジャーナリズムではなく娯楽になり下がった」と上司に言い放ち、新聞記者を辞めてしまった。

 朝日の天声人語は10月26日、そんなスーパーマンに突っかかった。

 ケントは今後、ジャーナリストとしての活動の場をインターネット上に移すとされているが、「同業の目には無謀と映る」とネットの力を馬鹿にしたように書く。「『新聞で人助け』とか言っていたのに、そりゃないぜクラーク」

 さらに、「空さえ飛べる男が時流に乗るのは道理かもしれない」と皮肉り、「いわば副業だけに気楽なもんだと思う」と切り捨てた。新聞批判については、「娯楽だと嘆いたのは場の勢いだろう」と突き放す。

 だが、新聞の現状をわかっていないのは天声人語のほうではないか。朝日独特のプライド臭がにおう。

 日本のマスメディアの劣化を正面から糾弾する本が、相次いで出版されている。ニューヨーク・タイムズ東京支局長が書いた『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』もそのひとつだ。

 小沢一郎氏がいわゆる陸山会事件で最終的に無罪になったのはつい最近だが、この“茶番劇事件”をめぐる日本国内での報道ぶりをこう書く。

 <小沢氏は逮捕も起訴もされていないのに、すでに有罪が確定しているかのような記事が洪水のように流れた。東京地検特捜部が指し示した方向に、メディアは主体性もないまま突き進み、小沢氏が極悪人であるかのような話が拡がっていく>

 ぼくはすでに2010年1月7日、「これでは愛検ポチだ」というタイトルのブログを書いた。朝日も読売も、みえみえの検察リークをスクープとして大々的に報じ、検察の世論操作の意図などまるで意識にない。誰が見ても、日本マスメディアの現状は異常なのだ。

 新聞が娯楽になり下がったと言うスーパーマン・ケントの言葉は的を得ているし、多くの人もそう思っているだろう。『のぼうの城』を史実として紹介する映画評など、まさにエンターテインメント追従そのものではないか。

 --毎週木曜日に更新--

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