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日の丸を背負い、カンボジアの地雷原に挑む③

 この2012年の夏、日本ではロンドン五輪で大いに盛り上がった。カンボジアのテレビで日本人選手の活躍が中継されることはないが、首都プノンペンに駐在する谷川保行さんも、インターネットで結果をチェックしていた。

 <ロンドンオリンピックって何? カンボジアでは遠くの世界の出来事です。カンボジア人スタッフの関心はゼロに近く話題にもならないことから、一喜一憂したくともできず、フラストレーションを感じながら仕事をしています>

 スポーツに力を入れるほど国力に余裕のない途上国では、よくある話だ。世界第2位の人口大国なのに、オリンピックのメダルがひとつふたつ取れれば大喜びのインドだって、五輪で盛り上がるのはごく一部の国民だけだった。サッカーW杯もおなじことだ。そんなの関係ない国もたくさんある。

 さて、日本政府のODAなどによって設立されたJMAS(日本地雷処理を支援する会)のカンボジア現地統括代表をしている谷川さんからのメールによると、かの国の人びとは、いまも死と隣り合わせで生きている。

 7月31日には、200個の地雷が見つかったサイトの隣の村落で、農耕用のトラクターが対戦車地雷に触雷した。すさまじい爆発が起き、トラクターと運転していた若者は跡形もなく吹き飛んだ。事故現場は、JMASが建設している道路からわずか150m離れたところだった。幸い、JMASチームは事故の40分前に作業を終えて現場を通り過ぎていたため事故に巻き込まれることはなかった。

 <このようなことが起こる原因は、地雷・不発弾が処理されていないにもかかわらず、多くの貧しい農民が生活のため、危険を覚悟で、あるいは、これまでの経験から大丈夫と判断し、農作業を行っているからです。それがカンボジアの農村の現実です>

 海外からの投資を呼び込むなどして開発が行われている経済特区でも、不発弾の問題が大きくなっている。事故が起きて死傷者が出れば日本企業の進出に大きな影響が出るのは必至で、日本にとっても他人事ではない。

 そもそも、カンボジアにはなぜそれほど地雷や不発弾が埋まっているのだろうか。

 1965年、アメリカが北ベトナムの空爆に踏み切り本格的なベトナム戦争に発展すると、隣のカンボジアも巻き込まれた。1970年にはアメリカ軍がカンボジアに侵攻し、農村部や地方都市への空爆が強化された。投下された爆弾は第2世界大戦でアメリカが日本に投下した総量の3倍にのぼるとも言われ、数10万人の農民が犠牲となったとされる。

 アメリカ軍が農村部に爆撃したことにより農民は国内避難民として都市に流入し、プノンペンの人口は200万以上に増加する一方、農村での食糧生産は大打撃を受けた。

 やがて中国の支援を受けたポル・ポト派も内戦の当事者となり、ポル・ポト時代の飢餓と虐殺による死者は70万~300万人とも言われている。ベトナムはヘン・サムリンを首相に擁立して打倒ポル・ポトを掲げて戦闘するなど、内戦はソ連、中国、ベトナムも背後で加わり混迷を深めた。

 内戦は、1993年の総選挙で政権が誕生するまでつづき、この間、各派によって地雷が敷設された。ポル・ポト派幹部は内戦終結後、虐殺などを断罪され国際法廷で裁かれつつある。

 谷川さんはメールにこう書いている。

 <地雷や不発弾の処理現場を回ると、「あの家は元ポル・ポト派だ」、「村長は元ポル・ポト派だ」と、教えてくれる村人がいます。JMASと共同で地雷・不発弾処理をしているCMAC隊員の中にもポル・ポト派として戦った隊員がいます>

 内戦後、カンボジアは、「カンボジアは一つ」というスローガンのもと国づくりに励み、また、フンセン首相をはじめ政権中枢にポルポト派からの離脱幹部を抱えているため、国内でのポル・ポト派断罪の機運は低いという。

 <元ポル・ポト派幹部に対する国際法廷の記事は何回か見てきましたが、報道も押しなべてポル・ポト派による虐殺に関しては、あまり記事にしない傾向があるようです>

 ドイツ人の圧倒的多数は、ヒトラー時代、ナチズム(国家社会主義)を信奉しナチ化されていた。しかし、戦後は、定義のあいまいな「ナチス」をスケープゴートにして断罪し、自分たちは元から非ナチスだったかのように装い過去を精算したことにしてきた。(拙著『<戦争責任>とは何か 清算されなかったドイツの過去』中公新書参照)。

 それとはカンボジアの国内事情は異なるようだ。

 そんななかでも、8月7日、谷川さんは、プノンペンポスト紙で大変ショッキングな記事を見つけた。

 <「先週の週末(8月4日~5日)、シェムリアップ郊外にあるトルン・バット山の麓から20体の遺骸が発見され、そこは35,000人以上が殺された収容所跡と考えられている。また収容所ではかって、1ヘクタール当たり3トンのコメを作るというポルポト政権の方針を満たすため、虐殺された遺体と生きたまま火葬場に投げ込まれて殺された遺体から、肥料が作られていた。骨を砕き小便を混ぜて作った」という記事でした。想像もできない人間の狂気です。こうなると書くすべはありません>

 --毎週木曜日に更新--

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