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2013年3月

この季節、涙目のマスターがうらやむ話

 床屋談義というのは、古典落語の時代からある。どうでもいい天気の話から世間話までさまざまだが、案外、勉強になったり、ふと昔のことを思い出させてくれたりする。
 家族や仕事関係の人と話しているのとは、またちがった、独特の気楽さがあるからかもしれない。

 「いい季節になりましたねぇ」
 マスターに髪を切ってもらいながら、とりとめもない話がはじまる。
 「でも、この季節、わたしゃ苦手なんですよ」
 マスターの声が、冴えない。
 「ひょっとして、花粉症?」
 「そうなんですよ。6年前にデビューしちまって」

 マスターは、涙ながらに語った。もちろん、悲しくて泣いてるわけじゃない。
 奥さんは、結婚したてのころから、ひどいスギ花粉症だった。マスターが外から帰ると、叫ぶように言う。「そのまま入っちゃだめ! 外で花粉を落としてきて!」

 めんどくさいなぁ、と思いつつもしょうがない。いったん玄関の外へ出て、服に着いた花粉を払ってから家に入る。
 「そんなに花粉、花粉って、大騒ぎするようなことかい、って思ってたんですよ」

 しかし、6年前の春先、やたら鼻水が出てとまらない。そのうち、目がかゆくてたまらなくなり、医者へ行ったら、スギ花粉がアレルゲンとわかった。

 「べつに、山へ入ったわけでもないし、どうして、突然、こんなことになったのか、さっぱり腑に落ちないんですよね」
 花粉症デビューとは、そんなものだ。

 薬を飲んで目薬をさし、なんとか仕事をがんばっているマスターには悪いが、ぼくは、ちょっとした自慢話を抑えられなかった。

 「ぼくも一時期、花粉症に悩んだんですけど、すっかり治ったんですよ」

 マスターは、そんないい治療法があるならぜひ教えて欲しい、とハサミを動かす手を止めた。

 「いや、それが、治療法じゃないんですよ。インドに3年間いたあいだにすっかり治ってしまって、それ以来、鼻も目もなんともないんですよ」

 お釈迦さまの生まれた国で、ヒンドゥー教やイスラム教の本場でもある天竺は、なにかにつけ霊験あらたかで、花粉症も治してくれる。そういうことなら面白いが、たぶんそんなんじゃない。

 つまるところ、インドにはスギがないからだ。スギがなければスギ花粉も飛ばず、鼻炎のアレルゲンがないのだ。

 でも、それだけじゃ、日本にもどれば、元の木阿弥になる可能性が高い。

 しかし、ぼくだけじゃなく、インドで花粉症が完治した人を何人も知っている。じゃ、なにが原因なのだろう。

 ぼくの場合、治ったのは花粉症だけじゃない。水虫もすっかり退散したのだ。

 新聞社の東京本社で国際ニュースをあつかっているころ、不寝番勤務があった。午前0時に出社し、午前3時ごろから8時半までは、完全にひとりで外電をチェックし、世界中のニュースに目を配る。

 大ニュースが起きれば、その地域を管轄している特派員や本社の上司に緊急連絡し、修羅場を迎える。
 社内では、一応、つっかけ禁止令というのがあった。でも、夏場など、どうせアルバイト学生しかいない未明のオフィスで、革靴をはいたままもいやだから、つっかけでぺたぺたと歩き回っていた。

 そのつっかけを、モスクワでの語学留学から帰ってきた1年後輩のF君が、不寝番のとき、勝手にはくようになった。冷戦が終結するよりちょっと前のころで、当時のモスクワはソ連の首都だった。

 まちがいなくつっかけが感染源で、水虫をうつされてしまった。
 「えへ、ぼくもモスクワで水虫になったんですよ」。
 F君は、悪びれもせずに言う。

 そのころ、インフルエンザのソ連型というのが有名だったが、“ソ連型水虫”も強烈だった。足の指のあいだの皮膚がぼろぼろになり、かゆい、かゆい。

 ところが、それもインドですっかり治ってしまった。

 医学的根拠は知らないが、あの過酷な気候風土が体質を根本から変えたのだ、としか思えない。ソ連のバイキンマンなど、インドのバイキンマンにかんたんにやっつけられちゃったのだろう。

 理髪店のマスターは、しみじみ言った。
 「ここの店はたたんで、インドで開業しようかなぁ」

 マスターの腕だったら、きっと繁盛するだろう。

 --毎週木曜日に更新--

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新法王はフランチェスコになれるか

 新しい法王は「フランチェスコ(フランシスコ)」と名乗った。初めてニュースでその名を聞いたとき、なにか違和感のようなものを感じた。

 カトリック教会の総本山バチカンで、2013年3月13日、南米アルゼンチン出身のベルゴリオ枢機卿(76)が、第266代法王に選出された。

 ぼくの意識は、青春時代に飛んだ。1973年、ハリウッド映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』が公開され、おなじ年に、日本でも一般上映された。

 イタリア中部アッシジの聖人フランチェスコ(1182ごろ~1226年)を描いた作品だ。ひとりで観ようと決め、京都の市電で河原町までいったのを覚えている。

 先日のある深夜、かみさんを誘って、ネット通販で買っておいたビデオ版作品を、40年ぶりに観た。

 冒頭、ひとりの青年が、戦地へ赴くのをやめ、故郷へふらふら帰還する。大病をわずらって生死をさまよい、さまざまな体験がフラッシュバックする。

 青年フランチェスコは命をとりとめ、ある程度元気になった。だが、様子がおかしく、家族は、精神がやられたのではないかと心配する。

 裕福な毛織物商である青年の父は、近隣で反乱した平民との戦いに負けた貴族などが売りに来た宝物を、安く買いたたいて高く売る。その商売がうまくいき、ご機嫌だ。

 フランチェスコは小鳥とたわむれ、野花の咲き誇る草原でときをすごし、父親の商売になど見向きもしない。父の使用人を連れ出して遊ばせ、商品を窓から投げ捨てる。

 神の声を聞くフランチェスコには、もはや、地上の富や栄誉にはなんの関心もなかった。本当に価値あるものは天上の神のもとにある、とキリストの教えをそのまま口にするようになる。

 町の郊外で廃墟となっていた小聖堂を再建しようと、ひとりで活動をはじめる。十字軍の英雄となった友人なども、フランチェスコに共感し、ひとりふたりと加わっていく。

 十字軍とは、言葉を変えれば、イエス・キリストの名において、イスラム教徒を殺戮・略奪・強姦する戦争のことだった。

 キリストの本当の教えが、少しずつ、フランチェスコの周りで同心円のように広まっていく。教会の権威が脅かされることを恐れた地元司教は、手の者を使って再建中の小聖堂に火をつけ、フランチェスコの仲間のひとりを殺害する。

 フランチェスコとその同志は、ローマへ出向き、教皇に訴えようとする。権威のかたまりである法王庁の高位聖職者らは、ぼろをまとったフランチェスコ一派をうまく追い返そうとする。だが、教皇自身が、一行に合うことを決断する。

 フランチェスコは訴える。地上にある富や権威にはなんの価値もなく、ほんとうに大切なものは神のもとにある。貧しい人びとに手を差し伸べないで、なんのための教会か。

 教皇は、フランチェスコたちに歩み寄っていく。「わたしも若いころは皆とおなじ考えだった。しかし、教会政治に多忙なあまり、大切なことを忘れていた」

 教皇はひざまずき、フランチェスコの泥にまみれた足に接吻して祝福する。その行為が、本心からのものか、若者を手なずけるための方便にすぎないかはわからないが。

 フランチェスコは、アッシジに帰り、貧者や病人のための地道な活動をつづけていく。

 この作品は、ぼくが生涯でもっとも感動した映画だった。19歳のぼくは絵画館を出て、文明があふれるけばけばしい繁華街を避け、鴨川の河川敷を歩き通して、数キロも北の下宿まで帰った記憶がある。かみさんも、ビデオの途中から泣いていた。

 京都の有名寺院を訪れ、大伽藍に違和感を覚えることがある。宗教とは、心と神仏との問題であり、こけおどしのような大伽藍などないほうが本当ではないのか。そう思うようになったのは、あの映画の影響が大きい。

 作品のタイトルは、「兄弟なる太陽、姉妹なる月」に見守られ、清く貧しく生きるフランチェスコの姿を象徴する。

 マザー・テレサが、聖人フランチェスコを崇敬していたのは、よく知られた話だ。マザーは、おなじ生き方を、この現代で実践した。

 教会の権威を真っ向から否定したフランチェスコの名を、世界12億のカトリック信者の頂点に立つ最高権威者が、名乗っていいのか。

 ドイツに暮らしているとき、家族を連れてバチカンに行った。システィーナ礼拝堂は、たしかに素晴らしい。天井画は最高の美術品であり、南隣のサン・ピエトロ大聖堂もこの上なく荘厳だ。しかし、それは、聖フランチェスコが否定したものでもある。

 ただ、ニューヨーク・タイムズを読む限り、新法王には、フランチェスコを名乗る資格があるのかもしれない。常に貧しい者たちのことを考え、彼らに手を差し伸べる。宮殿を離れて小さなアパートに住み、運転手つきの送迎車は断って、バスや電車に乗る。自分で炊事もしていたという。

 ローマ法王庁のかかえる課題は、あまりに多い。聖職者による児童への性的虐待、女性の高位聖職者への登用、同性愛結婚、妊娠中絶などをどうあつかうか。

 21世紀のフランチェスコは、足元の教会の権威と闘うことを求められる。

 --毎週木曜日に更新--

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台湾と韓国が戦えば・・・絶対に台湾を応援する

 野球の国・地域別世界一を決めるWBCが、いま、佳境に入りつつある。侍Japanは、アメリカへ乗り込んだ。「地域」という言葉に首をかしげる人もいるかもしれない。要するに、中国が「中国はひとつだ」と言って譲らないので、台湾は「チャイニーズタイペイ」というスポーツ大会用のチーム名で出場した。

 中国関係のニュースサイト『サーチナ』によると、その台湾の応援団の一部が、台中市で行われたWBC1次ラウンドB組の韓国ー台湾戦で、金日成、金正日、金正恩という北朝鮮親子3代独裁者の肖像画を掲げ、韓国を挑発した。

 球場の入り口で配ったチラシには、「棒打高麗」(バットで韓国を打て)という文字があった。一見、何の問題もなさそうだが、実は、中国語圏では、韓国人を「高麗棒子(ガオリー・バンヅ)」と差別的な色合いを帯びた表現をすることもある。「棒打高麗」は、「高麗棒子」に引っ掛けた侮蔑的な言い方だったようだ。

 チラシには、戦車に乗った台湾選手が韓国国旗のはちまきを巻いた韓国選手を踏みつけるイラストも描かれていたそうだ。品のいい話ではない。

 韓国のメディアやネットユーザーが大いに反発したのは、言うまでもない。

 日本では、韓国人の反日感情はよく知られているが、台湾人の反韓・嫌韓感情はあまり知られていない。

 台湾出身で日本の大学で学び、日本で活躍している評論家の黄文雄氏(74)の著作によれば、台湾人と韓国人はとにかくそりが合わないらしい。黄氏自身も、さまざまな個人的体験から、韓国人とは肌が合わないという。韓国社会の外国人差別、地方差別、女性差別などを指摘して、「インドのカースト以上に極端な階級思考」(『WILL』誌2012年11月号)とまで表現している。

 だから、と簡単に結論づけはできないが、台湾と韓国はおなじ日本の植民地だったのに、対日感情も正反対だ。その理由は何なのだろう、と、日本人としては興味がつきない。

 台北とソウルへ行けば、その差は歴然とする。台北は、ああここはかつて日本だったんだな、と思わせる建物や雰囲気がそのまま残っている。ソウルでは、「日帝三十六年」の痕跡は徹底して隠し、有史以来独立した国だったかのような顔をする。

 朝鮮半島は、中国の属国か日本の植民地としての歴史しか持たないとされるが、そのコンプレックスが、民族のDNAみたいになっているのかもしれない。

 読売新聞朝刊は、2013年2月19日、台湾で「日本レトロ」がブームになっているという特集記事を載せた。日本の統治時代(1895~1945年)の日本式家屋を民宿や喫茶店などにリフォームして活用する動きが、台湾全土で広がっているそうだ。

 ここ10数年、脱中国化と台湾人意識の高まりがあり、“日本時代”も台湾史の一部としてポジティブに再評価されているのだという。

 韓国人が旧日本軍や自衛隊を毛嫌いするのに対し、台湾では、旧日本軍宿舎をサロンや喫茶店に衣替えしているというから、その日本愛はすごい。日本の左翼えせ平和主義者だってびっくりだろう。

 特集記事はこう締めくくる。「台湾人には、日本時代を知る老年層の『愛日』や『懐日』から、若年層の『哈日(ハーリー)』(日本のサブカルチャー好き)まで、様々な親日感情が存在する。官民挙げての日本レトロブームは今後も拡大しそうだ」

 第3国のメディアは、台湾の親日ぶりをどうみているのだろう。シンガポールの華字紙『聯合早報』は、3つのポイントをあげ、こう書いている。

 「1つ目の理由は歴史的な要因だ。日本は台湾統治を始める前に西洋文明の洗礼を受けていた。したがって日本による統治によって、台湾は中国よりも早く西洋文明に接する結果となった。これにより、台湾の基礎、文化、制度が中国より進んだものとなり、台湾人も日本が進歩をもたらしたことを認めている」

 「2つ目は文化的要因だ。日本の食文化は台湾に非常に広く浸透している。食文化にかぎらず、ゲーム、アニメ、文学作品、電子機器、AVなど、第二の日本かと思えるほど広まっている。中国は文化的に遅れており、台湾人が好きになるようなものが何もない」

 「3つ目は民度の高さだ。民度の高い国は好感を得やすい。多くの台湾人にとって、日本はアジアの文明国の模範なのだ。多くの台湾人が日本へ旅行に行き、美しい景色のほかに日本の快適さ、清潔さ、文明的な環境に心引かれる」

 一方、サーチナは、3月8日、こんな記事も載せた。

 WBC第2ラウンド日本ー台湾戦が8日、東京で行われることを受け、台湾メディアの『自由時報』は「台湾ー韓国戦の殺伐とした雰囲気とは一変し、日本のファンが東日本大震災における台湾の支援に謝意を示す活動を呼びかけている」と報じた。

 翌日、自由時報はこう書いたという。「試合では双方は敵同士だったが、日本人は台湾民衆の温かい支援に感銘を覚えて感謝し、台湾を応援するプラカードも掲げていた。敵であり友である関係。こんなシーンはおそらく日本―台湾戦でしか見られないだろう」

 男女関係であれ、国同士であれ、好意を持ってくれている相手に好意を持つ。ぼくが台北へ行ってなんとなくしっくりしたのは、それだけの理由があったからだった。

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古代出雲と最新IT(情報技術)が出会う日

 金曜日夜、都内の会社で仕事を終えたOLらが、東京駅で寝台特急『サンライズ出雲』 に乗り、翌朝、出雲に着く。そんな旅行が流行っているそうだ。出雲大社や八重垣神社などへ参り、良縁を祈る。婚活ブームもここまで来た。

 そういえば、出雲空港は、2010年秋から、『出雲縁結び空港』という愛称で呼ばれるようになった。乙女心をくすぐるみえみえの命名だが、それでわが郷里が活性化すれば、それもいい。

 東京の有楽町朝日ホールで、2013年3月3日、島根大学による『古代出雲文化フォーラム』が開かれた。大学OGでもある妹から連絡をもらって、取材に行った。

 ぼくは、古代出雲をテーマとする電子書籍を書く企画を立てており、渡りに船という感じだった。

 地方の大学が東京で大がかりなフォーラムを開くのは珍しいそうだが、すでに半年前、会場の780席が予約で埋まったという。

 古代出雲に対する関心が、首都圏でもそれほど高まっている。

 きっかけは、1983年から84年にかけ、現島根県出雲市斐川町の荒神谷遺跡で、358本もの銅剣が出土したことだった。それまで、全国での銅剣出土総数は300本余りだったから、358本という数字は、とほうもないものだった。すぐ近くから、銅鐸(どうたく)と銅矛(どうほこ)もまとまって出土した。

 『記紀』には出雲の話がよく出て来るが、考古学的発見は比較的少なく、出雲神話は単なる空想の話だと思われていた。そこへ、大発見がもたらされ、大和王朝より前、古代出雲にはやはり大勢力があったのではないか、ということになった。

 ぼくも古代史ファンのひとりだから、この発見には心躍るものがあった。古代史研究は、「荒神谷以前」と「荒神谷以後」ではっきりと分かれるようになった。いま、「以前」の関連書物を開くと、古色蒼然としてみえる。

 「荒神谷以後」も出雲の地では歴史的発見がつづいた。伝説にすぎないとされていた出雲大社の巨大神殿についても、2000年に境内から巨柱が発掘された。16丈(48メートル)もの社が実際にそびえていた可能性が、きわめて高くなった。

 日本のルーツといえば、大和王朝やそれに先立つ邪馬台国がイメージされる。だが、その前に、出雲が重要な位置を占めることになる。

 2012年は、『古事記』編纂1300年に当たり、島根大学でも古代出雲文化をキーワードにした教育や研究に力を入れるようになった。

 そこでリーダーシップを発揮しているのが、今年度から学長になった小林祥泰氏だ。前の医学部付属病院長であり高名な医師なのだが、実はかなりの古代史ファンだった。そのことを、フォーラムの第2部で行われた俳優佐野史郎氏らとの鼎談(ていだん)で知った。

 あえて東京でフォーラムを開いたのには、山陰の文化遺産である古代出雲文化を全国に発信する狙いもあったそうだ。そして、それは成功した。発信は、今後もつづけていかなければならない。

 大イベントが終わった後、小林学長にあいさつに行った。実は、パーキンソン病と闘っていた姉が付属病院に入院していたとき、お世話になった。短い時間だったが、フォーラムでは触れられなかった古代出雲の謎とロマンについて、会話ができた。

 学長は、出版されて間もない関連書籍にも目を通していることがうかがえた。機会があれば、じっくりと話をしてみたいところだ。

 島根大学では、新年度、全学共通の公開授業として「出雲文化学コース」を設ける。フォーラム冒頭であいさつに立った学長がその話をすると、会場から「学長、ありがとう!」と声がかかった。教員のひとりなのだろうが、地元でも待ち望まれていたものだろう。

 その公開授業の記録を、ぜひ読みたい。学長にあてたお礼のメールで、ぼくは電子書籍化して発売することを提案した。

 電子書籍にはいろいろなシステムがあるが、なかでも、世界最大のネット書店・米国アマゾン社が開発したKDP(Kindle Direct Publishing)が画期的だ。昨秋、日本語にも対応するようになった。

 自己負担がゼロで、世界246か国で販売でき、定価も自分で設定できるだけでなく、著者ロイヤルティー(印税)率が70%となっている点がすごい。

 紙の本の印税がふつう10%前後、歌のCDを出した場合、歌手が3%、作詞者、作曲者がそれぞれ1.5%で、シンガーソングライターでも計6%とされている。KDPの70%はケタはずれだ。

 ぼくは、このシステムを利用して、『ブーゲンヴィリアの祝福 日本人カースト戦記』という電子書籍を上梓した。今後、作品をどんどん発行する予定でいる。

 大学の紀要などもこのシステムで出せば、出費が減らせるだけでなく、むしろロイヤルティーを稼げる。

 古代出雲の文化を、最新ITで世界に発信できれば、なにかとほうもないものが生まれるような気がする。

 --毎週木曜日に更新--

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