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この季節、涙目のマスターがうらやむ話

 床屋談義というのは、古典落語の時代からある。どうでもいい天気の話から世間話までさまざまだが、案外、勉強になったり、ふと昔のことを思い出させてくれたりする。
 家族や仕事関係の人と話しているのとは、またちがった、独特の気楽さがあるからかもしれない。

 「いい季節になりましたねぇ」
 マスターに髪を切ってもらいながら、とりとめもない話がはじまる。
 「でも、この季節、わたしゃ苦手なんですよ」
 マスターの声が、冴えない。
 「ひょっとして、花粉症?」
 「そうなんですよ。6年前にデビューしちまって」

 マスターは、涙ながらに語った。もちろん、悲しくて泣いてるわけじゃない。
 奥さんは、結婚したてのころから、ひどいスギ花粉症だった。マスターが外から帰ると、叫ぶように言う。「そのまま入っちゃだめ! 外で花粉を落としてきて!」

 めんどくさいなぁ、と思いつつもしょうがない。いったん玄関の外へ出て、服に着いた花粉を払ってから家に入る。
 「そんなに花粉、花粉って、大騒ぎするようなことかい、って思ってたんですよ」

 しかし、6年前の春先、やたら鼻水が出てとまらない。そのうち、目がかゆくてたまらなくなり、医者へ行ったら、スギ花粉がアレルゲンとわかった。

 「べつに、山へ入ったわけでもないし、どうして、突然、こんなことになったのか、さっぱり腑に落ちないんですよね」
 花粉症デビューとは、そんなものだ。

 薬を飲んで目薬をさし、なんとか仕事をがんばっているマスターには悪いが、ぼくは、ちょっとした自慢話を抑えられなかった。

 「ぼくも一時期、花粉症に悩んだんですけど、すっかり治ったんですよ」

 マスターは、そんないい治療法があるならぜひ教えて欲しい、とハサミを動かす手を止めた。

 「いや、それが、治療法じゃないんですよ。インドに3年間いたあいだにすっかり治ってしまって、それ以来、鼻も目もなんともないんですよ」

 お釈迦さまの生まれた国で、ヒンドゥー教やイスラム教の本場でもある天竺は、なにかにつけ霊験あらたかで、花粉症も治してくれる。そういうことなら面白いが、たぶんそんなんじゃない。

 つまるところ、インドにはスギがないからだ。スギがなければスギ花粉も飛ばず、鼻炎のアレルゲンがないのだ。

 でも、それだけじゃ、日本にもどれば、元の木阿弥になる可能性が高い。

 しかし、ぼくだけじゃなく、インドで花粉症が完治した人を何人も知っている。じゃ、なにが原因なのだろう。

 ぼくの場合、治ったのは花粉症だけじゃない。水虫もすっかり退散したのだ。

 新聞社の東京本社で国際ニュースをあつかっているころ、不寝番勤務があった。午前0時に出社し、午前3時ごろから8時半までは、完全にひとりで外電をチェックし、世界中のニュースに目を配る。

 大ニュースが起きれば、その地域を管轄している特派員や本社の上司に緊急連絡し、修羅場を迎える。
 社内では、一応、つっかけ禁止令というのがあった。でも、夏場など、どうせアルバイト学生しかいない未明のオフィスで、革靴をはいたままもいやだから、つっかけでぺたぺたと歩き回っていた。

 そのつっかけを、モスクワでの語学留学から帰ってきた1年後輩のF君が、不寝番のとき、勝手にはくようになった。冷戦が終結するよりちょっと前のころで、当時のモスクワはソ連の首都だった。

 まちがいなくつっかけが感染源で、水虫をうつされてしまった。
 「えへ、ぼくもモスクワで水虫になったんですよ」。
 F君は、悪びれもせずに言う。

 そのころ、インフルエンザのソ連型というのが有名だったが、“ソ連型水虫”も強烈だった。足の指のあいだの皮膚がぼろぼろになり、かゆい、かゆい。

 ところが、それもインドですっかり治ってしまった。

 医学的根拠は知らないが、あの過酷な気候風土が体質を根本から変えたのだ、としか思えない。ソ連のバイキンマンなど、インドのバイキンマンにかんたんにやっつけられちゃったのだろう。

 理髪店のマスターは、しみじみ言った。
 「ここの店はたたんで、インドで開業しようかなぁ」

 マスターの腕だったら、きっと繁盛するだろう。

 --毎週木曜日に更新--

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