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2013年12月

形あるものはいつかはなくなる

 また、新しい年が来る。2013年でもっとも印象に残った経験はなんだったろうとベッドのなかで考えた。

 脳裏に、草原のような光景がよみがえった。見渡す限りほぼ平らな何もない土地が広がり、その向こうに大きな海がある。

 晩夏、宮城県山元町の八重垣神社へ取材に行った。仙台市からレンタカーを南に飛ばして小一時間ほどのところにある。かつて、太平洋岸から530メートルの位置に社殿や鳥居、社務所、宮司の自宅などが建っていたという。

 東日本大震災の津波ですべてが流されてしまった。読売新聞の震災報道で、東北にも八重垣神社があることを知った。八重垣神社と言えばわが出雲の国、現松江市にあるのが有名だが、なぜ東北にも同じ名の神社があるのか。

 しかも、出雲の祖神とされる素戔嗚尊を祀っているといい、いつか訪ねてみたいと思っていた。草原のように見えたのは、津波で流されたあとの土地に雑草が生えていたからだった。社殿跡中央に、両手で抱えれば持ち運びできそうなほど小さな社がポツンとあった。周囲には、ほんのところどころに、津波にも耐えたのだろう、松の木が立っていた。

 しばらくして、携帯で連絡を取りあっていた宮司の藤波祥子さん(57)が車でやって来た。社務所はプレハブで電気も引かれていない。一帯は立ち入り禁止区域という。

 地震の日、藤波さんは秋田県の神社庁で開かれた東北6県の女性神職研修会に参加していた。秋田県も、当然、大きく揺れた。すぐに帰る手段がなく、一緒に参加していた秋田県の神職の家に2晩泊めてもらった。当時89歳だった実母と婿養子の夫、息子と娘は無事だと連絡がついた。

 3日目、何とかガソリンが手に入り、秋田の神職の車で地元へ向かった。山元町に帰ったのは9日目だった。

 母は常に「地震が来たら次は津波だよ」と言っていた。津波注意報くらいでも、おにぎりや貴重品を持って避難するということを過去2回ぐらいしたことがあった。

 大震災のとき、自宅にいた母と娘は息子の運転する車で高台に逃げた。鳥居や社殿はまだ建っていたそうだ。それを津波が奪った。

 瓦礫の山だった。神社の敷地にあったものは消え、そこより東の海側にあった民家の家財道具や農業用トラクターが散乱していた。

 氏子は300戸強ほどいたが、子どもをふくめ90人が亡くなった。氏子のうち60~70戸は町民グラウンドに建てられた仮設住宅に暮らしている。藤波さん一家は、夫が結婚する前住んでいて人に貸していたマンションがちょうど空いたので、そこに住むことにした。

 「お社が流されて何もなくなったが、その跡と参道だけは片付けてもらっていたら、お参りの人たちが来はじめた。境内は瓦礫がいっぱいで神社らしいものは何もないのに。何もないところで手を合わせていく。すごいなと思った」

 屋根瓦を拾って来て正面に置き、賽銭をあげていく。以前、社殿があったときは賽銭泥棒で散々苦労したが、屋根瓦の上に置いてある賽銭は誰も持っていかなかった。

 「お花をあげていく女の子もいた。神社にお花というのはこれまで経験がなく、どういう気持ちなのか聞いてみたことがあった。自分もお家を流されたけど神さまも自分のお家を流されてかわいそうだから、と答えた。日本人の神観念というのはすごいと思った」

 夏祭りは、例年、7月最後の土日に行っていた。社殿も鳥居もなくなり、被災した年は例祭の祈祷をしただけだったが、氏子さんたち30人くらいがお参りに来た。

 次の年は氏子たちからこんな声があがった。「お寺やお墓は自分たちの祖先が祀られているから行くが、笑って集まれるのは神社しかない。だからお祭りをやってほしい」

 幸運にも、神輿は近くの民家のところにとどまっていた。それを大工に直してもらい、被災した次の年には神輿渡御も行うことにした。果たしてどのくらいの人が集まれるだろうかと心配していた。かつては、神社のお祭りが、近くの山下中学校の年間行事のメインイベントのようになっていた。

 仮設住宅などに住む女の子たちは、どうやって手に入れたのか浴衣を着て気合いを入れてやって来た。当然、男の子たちもやって来る。「その子たちが屈託なく笑っていた。神社としてこういうことが必要だったんだなと思った」

 結局、震災前よりむしろ多いくらいの人が集まり、地元商店などから寄付を募って実現した花火大会を楽しんだ。

 神社本庁から植樹の話があり、支援してもらうことにした。「社殿については、私の中では、形あるものはいつかはなくなると思っていた。社殿は資金があればいつか建てられるが、森は10年、20年というスパンがかかる。先に森に手をつけておこうと考えた。木がある程度育って神さまが住みやすい環境が整ったところで、本格的な社殿を作ればいいんじゃないかと」

 社伝では、1409年(応永16年)、伊勢神宮から素戔嗚尊を勧請したとされるが、よくはわからない。被災したいま、大切なことはそれではない。

 東北では、別の人も「形あるものはいつかはなくなる」という言葉を口にしていた。

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“超VIP”と戦略的でグローバルなパートナーシップ

 山陰の冬は暗い。たまに晴れたと思っても、1、2時間後にはどんよりとする。冬晴れの関東から出雲にUターンしたら、その暗さがひときわ身にしみる。そんな空をながめて、ニューデリーの青空が懐かしい。ぼくたち一家が暮らしていたのは20数年も前だが、あの冬の青空はきっといまも同じだろう。北京や上海とちがって、ひどい大気汚染はない。

 ニューデリーの冬は、日本の中秋のような快晴がつづく。11月の下旬ごろから翌年2月いっぱい温暖な気候に恵まれ、彼の地も冬だけ住むなら最高の気分が味わえる。

 その季節を選んで、天皇、皇后両陛下がインドを公式訪問された。インドでも、昭和天皇をはじめ日本の皇室への関心や憧れは、ぼくたちが想像する以上に強い。2008年、ぼくたち一家がニューデリーを再訪した際、大歓迎してくれたある病院長夫人は、自分の子どもが通う学校に秋篠宮妃殿下が訪問されたときの様子をうれしそうに語ってくれた。

 日本の首相はころころ代わり、海外にいるといま誰が総理なのかわからなくなったりする。その点、皇室、特に天皇、皇后両陛下は国際社会でも圧倒的な存在感がある。

 日本書紀を読めば、とんでもない天皇も過去にはいた。5世紀の雄略天皇は若き日、皇位のライバルになりそうないとこの皇子をだまして射殺し、驚きあわてる皇子の子も惨殺した。宮中に入れようとしていた女性が他の男と通じると、四肢を木に貼りつけ焼き殺させた。御者を問答無用と切り捨てたこともある。

 それは極端な例だが、今上天皇と皇后のお人柄は、日本人にとって幸運この上ないものと言えるだろう。一騎当千以上のスーパー外交官だ。

 だから、ぼくは個人的に、インド側が両陛下をどういうふうに迎えるのか興味があった。日本のメディアも同行し歓迎の様子を報道してはいたが、1992年の天皇訪中時とはちがってそう深刻ないきさつもないため、通り一遍のものだった。

 ネットでインド有力紙ヒンドゥーの関係記事を検索した。「天皇アキヒトの訪問は、原子力協力とは無関係」というタイトルの記事がみつかった。日印両国政府は、かねてから原子力発電設備の輸出入をめぐる交渉をしている。福島の事故で中断していたが、シン首相が2012年に訪日し、交渉が再開された。

 インド外務省東アジア局長は、国内メディアに対し、わざわざ「天皇訪問は、政治的および現在進行中の問題とは切り離すことが肝要だ」と釘を刺した。シン首相自ら空港へ出迎えに行くことを明らかにし、「それはオバマ米大統領の訪問時など極めてまれなケースに限られる。思い出深い訪問になるよう、我々は最大限の儀礼を尽くす」と説明した。そして、「この訪問は、両国の<戦略的でグローバルなパートナーシップ>を計り知れなく拡大し強化するものとなる」と付け加えたという。

 <戦略的でグローバルなパートナーシップ>という表現は、インド側にとって、今回の天皇訪問のキーワードになっていたようだ。

 国際問題を専門とするあるインド人の大学教授は、タイムズ・オブ・インディア紙への寄稿で、インドがこれまでにロシア、中国、ベトナム、イラン、韓国、オーストラリア、そしてアメリカなどと<戦略的パートナー>になっていることを指摘した。その上で、「日本はこれらのリストのなかで急速にトップの位置まで上り詰めた」と分析している。同時に、「日本政府のアジアにおける総合戦略のなかで、インドはいまや死活的な位置を占める」と自負している。

 インド政府は、10年以上前から天皇に招待状を出していたそうで、昨年の国交樹立60周年を記念しての訪問となった。

 寄稿では、50近くの国から天皇が招待されているなか、今回、「天皇に助言する」安倍内閣が訪問先としてインドを選んだのは、「インドとの<戦略的パートナー>関係を、ほとんどスピリチュアルなレベルにまで深めようとする安倍首相の意思がある」とつづられている。

 「スピリチュアルなレベル」というのは、インドの知識人がいかにも使いそうな言葉ではあるが、その正確な意味はわからない。なんだろう。共同通信は社説で「(日印の)安保協力は、両国の『平和主義』にしっかり立脚した上で進めるべきだ」と書いていたが、インドには日本で言う平和主義などない。核武装や中・長距離ミサイル開発を国民の99%が支持し時には戦争も辞さない国柄だから、ここでは関係ないだろう。

 両陛下は、インド東南部タミルナド州の州都チェンナイも訪問された。クルシッド外相が同行したそうで、これも異例の対応だった。なぜチェンナイへ行くのか、ぼくにはよくわからなかった。かつて、ニューデリー特派員をしていたとき、スリランカ出張の帰りに寄ったことがあるが、当時は、人の数だけ多いインドの一地方都市にすぎなかった。

 タイムズ・オブ・インディア紙によると、現在では、タミルナド州に360もの日系企業があり、日本人駐在員は約700人にのぼるという。過去10年ほどで急激に増えたそうで、デリー首都圏とともに日本の経済進出の拠点となっているのだ。知らなかった。

 寄稿の末尾には、こんな言葉があった。「安倍首相はアジアを引っ張る明確なヴィジョンを持っており、インドで政策を立案するエリートたちの間で高く評価されている」

 天皇訪印でちゃっかり点数を稼いだのは、やはり安倍さんだったようだ。

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メディアが参戦した出来レースっぽい秘密保護法騒ぎ

 特定秘密保護法案が、2013年12月6日深夜、可決・成立した。永田町での大騒動をみて、いわゆる55年体制のもとでの「金丸・田辺ライン」を思い出した。つまり、与野党の出来レースっぽく、本質から目をそらした左派マスメディアも見苦しい。

 1970年代後半、ともに国会対策委員長だった自民党の金丸信と社会党の田辺誠は、親密なパイプを築き、80年代には国会をふたりで秘密裏に動かしていた。万年与党の自民党が強行採決する際、万年野党の社会党は身を挺して阻止しようとする。だが、それはやらせだった。自民党は「実」を取り、社会党は「面目」をかろうじて保つのだった。

 今回、安倍首相は、民主党をはじめとする野党側に徹底抗戦されると、一見唐突に譲歩策を打ち出した。特定秘密のチェック機関として内閣官房に「保全監視委員会」、内閣府に「情報保全観察室」と「独立公文書管理監」を設置するとした。

 野党や一部世論に折れたように映るが、そんなことはないだろう。最初から譲歩案を表に出していたら、野党はさらに譲歩を迫る。だから、あえて強硬路線から行った。

 一番の争点は、第三者チェック機関に外部の民間人を入れるかどうかだった。特定秘密保護法は、新設された日本版NSC(国家安全保障会議)が機能するために必要だった。日本は、諸外国に比べ機密が漏れやすい風土がある。それでは外国からの極秘情報が手に入りにくく、国の死活を握る情報の共有ができない。特に、“平和ぼけ”した識者などがチェック機関に入れば情報のノーズロ状態になる恐れは十分にあった。「民間人を第三者機関に入れるな」というのは、アメリカなどからの強い意向だったのは容易に想像できる。

 政府の拙速なやり方のまずさは否定できないが、最初から“落としどころ”は、アメリカをモデルとし、国会に監視組織を設けることだったのだろう。

 一方の民主党など野党も、自民公明両党に国会の圧倒的多数を握られている状況で、本来ならなす術はなかった。だから、国民世論を煽り徹底抗戦に出たが、結果は最初からわかっていたはずだ。政府に“譲歩”させたことで最低限の面目を保ったつもりなのだろう。

 国会周辺では、主催者側発表で最大1万5千人ものデモが行われた。そのあり様をテレビで観る限り、太鼓を叩いてシュプレヒコールをあげるなど新興宗教かと思わせるものだった。民主党など一部の野党というより左派マスメディアが、世論を煽りに煽ったためだ。

 石原慎太郎氏は、与党と一線を画す野党・日本維新の会の共同代表でありながら、安倍首相に「頑張って」と異例のエールを送った。読売新聞によると、石原氏はこう述べた。

 「この法案が通ると、憲兵が国民を取り締まるような嫌な時代が来ると大新聞が一面に掲載している。(首相の祖父の)岸首相時代の1960年の安保騒動に似たヒステリー現象が起きている」

 60年安保のとき、ぼくは小学1年だった。何かに反対する際には、意味もわからないまま「アンポハンタイ」と言ったものだ。確かにそういうヒステリー現象があったが、問題は、後世ふり返って、日米安保条約があったほうが良かったのか無かったほうが良かったのかだ。

 もし、条約による日米同盟がなければ、今ごろ尖閣諸島どころか沖縄も対馬も中国や韓国のものになっていたかもしれない。日本に限らないが、煽られた世論はそれだけヒステリックになる。

 秘密保護法案反対で煽ったのは、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、一部テレビだった。日本の安全保障のためには日本版NSCが要り、それを機能させるためには機密情報漏れを防ぐ秘密保護法が不可欠だという本質に気づかないふりをした。

 その煽り方はえげつないほどだった。典型例が朝日の世論調査だ。11月9、10の両日、全国定例世論調査(電話)で特定秘密保護法案の賛否について聞いた。「賛成」は30%で「反対」が42%と多かったなどと報道したが、その設問があきれる。

 「政府に都合の悪い情報が隠され、国民の知る権利が侵害される恐れがあるとの指摘もある」と説明した上で、賛否を尋ねたのだ。

 ぼくは、読売記者時代、世論調査部に編集局内出向していたことがあり、その道のプロを自認している。朝日の設問は思いっきりバイヤスをかけたもので世論調査というより「世論操作」と呼ぶほうが正しい。読売だって国内政治に関してはバイヤスをかけることがありバカバカしかったが、これほど露骨な例はさすが朝日ならではだ。

 共同の調査も同様だった。それで煽られる国民もかわいそうだが、国会前に集結した人びとは「民主主義と正義のために戦う」錯覚のヒロイズムに酔っていたのだろう。

 竹下内閣で3%の消費税が導入されたときも、朝日は反対の大キャンペーンを展開した。安保であれ消費税であれ秘密保護法であれ、冷静に考えて、日本という国にとって必要かどうかで論じるべきではないのか。バイヤス新聞に「知る権利」などと言われたくない。

 産経の高橋昌之記者が、12月7日、こんなコラムを書いていた。タイトルは「朝日・毎日は特定秘密保護法案に反対するほど取材しているか!」

 「もうこれ以上、『反対ありきの反対論』で国民を誤った方向に導くのはやめてほしいと思います。『国民の知る権利』が守られるかどうかは、特定秘密保護法案ではなく、われわれ記者の気概と姿勢にかかっているのです」

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放っておくしかないのか、韓国の反日

 韓国へは3回行ったことがあるが、日本人だからといって不愉快な思いをしたことは一度もない。

 初めて訪れたのが、新婚旅行の済州島だった。旅行代理店の紹介で、大阪生まれの元在日コリアン男性にガイドをしてもらった。3人で食事をしているとき、かみさんと誕生日が同じとわかり一気に親しみが湧いた。日本へ帰ってからも、長い間、年賀状を交換し近況を伝え合った。

 3度目には釜山へ行った。地下鉄の駅で声をかけてきたのが、ネイティブ日本語のおばあさんだった。名古屋の生まれで、いまは釜山市の委嘱を受け、日本人観光客の道案内をしているという。日本のどこかにもこういう外国人のための道案内ボランティアがいるのかどうか知らないが、釜山市のはいい制度だと感心した。

 しかし、こと日本と韓国、日本人と韓国人という総体としての関係は、ますます悪くなっている。韓国では、反日がエスカレートしている。日本では主に保守系の雑誌で韓国問題をとりあげ、なかには嫌韓を煽るような記事もみかける。

 そういう空気のなか、読売新聞が政治面で12回にわたって『冷え切る日韓』という大型連載をした。全国紙が韓国の反日の実情と日本の対応を網羅的に書いたところに意義があるだろう。まず、「なぜ韓国の反日感情はぬぐえないのか。危機に陥った日韓関係を改めて考えてみたい」とある。

 最初に取り上げたのが、VANKという民間団体だ。「日本をアジアで『のけ者』にする」と公言し、若者を中心に約12万人の会員を抱えているという。日本海を「東海(トンヘ)」と呼ぼう、独島(竹島の韓国名)は韓国領だなどの主張を世界中に発信している。

 民間団体とはいえ、韓国政府の補助金や酒造大手『真露』など企業の寄付をもらって大々的にやっている。日本をのけ者にするため、「サイバー外交官」と名づけたボランティアを養成してもいる。

 真露の焼酎やマッコリを以前はよく飲んでいたが、そのお金が回り回ってそんなことに使われていたとは。もう真露は飲まないことにしよう。

 官民をあげて日本を引きずり下ろす行為で、それは「ジャパン・ディスカウント」と呼ばれているという。そういう言葉は初めて聞いた。VANKの団長は、読売の取材にこう答えている。「帝国主義復活を推進する日本の政治家と右翼に対抗するために戦っている」。たぶん、大まじめなのだろう。海の呼称や島の帰属に限るならまあそれもよしとしよう。

 だが、韓国政府は、ジャパン・ディスカウントの一環として、いわゆる従軍慰安婦問題をテーマにしたマンガを50点も、2014年1月にフランスで開かれる国際漫画フェスティバルに出品し、さらにそれを英語、フランス語、日本語に翻訳し世界各国に配布するのだという。

 連載には、こんな文章がある。「最近の韓国の反日感情は『度を越している』(日本政府筋)」「韓国にとって、反日はいわば『国是』といってよい」「韓国には、『反日無罪』という言葉がある。反日なら何でも許されるという意味だ。韓国で『親日派』と見なされれば命にかかわる恐れもある」

 静岡県立大准教授のこんなコメントもある。「反日を超え、日本なんて大したことはない、韓国の方が上だという『卑日』意識さえ芽生え始めている」

 韓国にとって日本はもはや経済的に追いつく対象ではない、という意識があるらしい。韓国の経済力など砂上の楼閣にすぎないとの声も聞く。いつまで強気でいられるか。

 日韓両国が、2002年から10年にかけ、歴史学者による共同研究を試みたケースも連載で紹介されている。日本側が客観的資料を提示して議論しようとしても、韓国側は大声で怒って受け入れないことが多い。参加した筑波大教授は「韓国が客観的史実に基づく歴史教科書を作ることは今後もないだろう」と語っている。

 かつて、米スタンフォード大学の研究グループが各国の歴史教科書を比較研究して、次のような結論を出した。

 歴史は日本では「ヒストリー」だが、中国では「プロパガンダ」、韓国では「ファンタジー」である――と。

 日本の教科書は最も愛国的記述がなく、非常に平板なスタイルで事実の羅列をしている。

 中国の教科書は全くのプロパガンダ、つまり政治宣伝で、共産党のイデオロギーに満ちている。2004年の改訂後は中国人の愛国心をうたい、抗日戦争での勇ましい描写が増えた。日本軍による残虐行為をより強調し、中国人のナショナリズムをあおっている。

 韓国の教科書は自己中心的にしか歴史を見ておらず、日本が自分たちに行った負の事実だけに関心がある。自国の歴史を「こうだったらよかった」と半ば空想で描くのだ。

 では、そんな韓国の反日にどう対応すればいいか。読売の連載で、在韓日本大使館筋は「韓国がやり過ぎれば世界の不信を買う」と静観している。日本外務省幹部も「韓国の振る舞いは自滅の道を歩んでいるようなものだ」と突き放している。

  とりあえずは、世界の中心で反日を叫ばせておくとこにするか。

 

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