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形あるものはいつかはなくなる

 また、新しい年が来る。2013年でもっとも印象に残った経験はなんだったろうとベッドのなかで考えた。

 脳裏に、草原のような光景がよみがえった。見渡す限りほぼ平らな何もない土地が広がり、その向こうに大きな海がある。

 晩夏、宮城県山元町の八重垣神社へ取材に行った。仙台市からレンタカーを南に飛ばして小一時間ほどのところにある。かつて、太平洋岸から530メートルの位置に社殿や鳥居、社務所、宮司の自宅などが建っていたという。

 東日本大震災の津波ですべてが流されてしまった。読売新聞の震災報道で、東北にも八重垣神社があることを知った。八重垣神社と言えばわが出雲の国、現松江市にあるのが有名だが、なぜ東北にも同じ名の神社があるのか。

 しかも、出雲の祖神とされる素戔嗚尊を祀っているといい、いつか訪ねてみたいと思っていた。草原のように見えたのは、津波で流されたあとの土地に雑草が生えていたからだった。社殿跡中央に、両手で抱えれば持ち運びできそうなほど小さな社がポツンとあった。周囲には、ほんのところどころに、津波にも耐えたのだろう、松の木が立っていた。

 しばらくして、携帯で連絡を取りあっていた宮司の藤波祥子さん(57)が車でやって来た。社務所はプレハブで電気も引かれていない。一帯は立ち入り禁止区域という。

 地震の日、藤波さんは秋田県の神社庁で開かれた東北6県の女性神職研修会に参加していた。秋田県も、当然、大きく揺れた。すぐに帰る手段がなく、一緒に参加していた秋田県の神職の家に2晩泊めてもらった。当時89歳だった実母と婿養子の夫、息子と娘は無事だと連絡がついた。

 3日目、何とかガソリンが手に入り、秋田の神職の車で地元へ向かった。山元町に帰ったのは9日目だった。

 母は常に「地震が来たら次は津波だよ」と言っていた。津波注意報くらいでも、おにぎりや貴重品を持って避難するということを過去2回ぐらいしたことがあった。

 大震災のとき、自宅にいた母と娘は息子の運転する車で高台に逃げた。鳥居や社殿はまだ建っていたそうだ。それを津波が奪った。

 瓦礫の山だった。神社の敷地にあったものは消え、そこより東の海側にあった民家の家財道具や農業用トラクターが散乱していた。

 氏子は300戸強ほどいたが、子どもをふくめ90人が亡くなった。氏子のうち60~70戸は町民グラウンドに建てられた仮設住宅に暮らしている。藤波さん一家は、夫が結婚する前住んでいて人に貸していたマンションがちょうど空いたので、そこに住むことにした。

 「お社が流されて何もなくなったが、その跡と参道だけは片付けてもらっていたら、お参りの人たちが来はじめた。境内は瓦礫がいっぱいで神社らしいものは何もないのに。何もないところで手を合わせていく。すごいなと思った」

 屋根瓦を拾って来て正面に置き、賽銭をあげていく。以前、社殿があったときは賽銭泥棒で散々苦労したが、屋根瓦の上に置いてある賽銭は誰も持っていかなかった。

 「お花をあげていく女の子もいた。神社にお花というのはこれまで経験がなく、どういう気持ちなのか聞いてみたことがあった。自分もお家を流されたけど神さまも自分のお家を流されてかわいそうだから、と答えた。日本人の神観念というのはすごいと思った」

 夏祭りは、例年、7月最後の土日に行っていた。社殿も鳥居もなくなり、被災した年は例祭の祈祷をしただけだったが、氏子さんたち30人くらいがお参りに来た。

 次の年は氏子たちからこんな声があがった。「お寺やお墓は自分たちの祖先が祀られているから行くが、笑って集まれるのは神社しかない。だからお祭りをやってほしい」

 幸運にも、神輿は近くの民家のところにとどまっていた。それを大工に直してもらい、被災した次の年には神輿渡御も行うことにした。果たしてどのくらいの人が集まれるだろうかと心配していた。かつては、神社のお祭りが、近くの山下中学校の年間行事のメインイベントのようになっていた。

 仮設住宅などに住む女の子たちは、どうやって手に入れたのか浴衣を着て気合いを入れてやって来た。当然、男の子たちもやって来る。「その子たちが屈託なく笑っていた。神社としてこういうことが必要だったんだなと思った」

 結局、震災前よりむしろ多いくらいの人が集まり、地元商店などから寄付を募って実現した花火大会を楽しんだ。

 神社本庁から植樹の話があり、支援してもらうことにした。「社殿については、私の中では、形あるものはいつかはなくなると思っていた。社殿は資金があればいつか建てられるが、森は10年、20年というスパンがかかる。先に森に手をつけておこうと考えた。木がある程度育って神さまが住みやすい環境が整ったところで、本格的な社殿を作ればいいんじゃないかと」

 社伝では、1409年(応永16年)、伊勢神宮から素戔嗚尊を勧請したとされるが、よくはわからない。被災したいま、大切なことはそれではない。

 東北では、別の人も「形あるものはいつかはなくなる」という言葉を口にしていた。

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