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2014年1月

テレビを観る人、観ない人

 「若者がテレビを見ないのはコミュニケーションの問題?」というタイトルの記事が、ヤフーニュースに載っていた。ぼくの息子(26)はテレビを持っていないし、たまにパソコンで気になる番組だけを視聴する。娘(25)も激務で遅い時間に帰宅するから、休日くらいしかテレビは観ない。

 ぼく自身、還暦にして、テレビをふだん観てきた期間は人生の半分くらいだろう。実家にテレビがついたのは10歳ころだった。ひとり暮らしをはじめた18歳から10年間は、意図的にテレビを持たなかった。海外にいた計6年間も日本のテレビ視聴の空白期間で、その当時流行った歌など懐メロ番組で流れてもわからない。

 くだんの記事を書いたのは、40歳代の女性ライターだった。それなりに興味のあるテーマなので、少し長いが最後まで読んだ。ふんふんそういうことか、と一応納得したのだが、ちょっとひっかかるところもあった。うんと要約するとつぎのようになる。

 <最近よく耳にするのが「テレビは見ない」という言葉です。博多華丸・大吉の大吉さんは、多くのテレビ番組は30代の人にわかるように作られていて、20代にはわからないものも多いようだとコメントしていました。

 なぜ「テレビは見ない」という人が多いのでしょう。一つには、テレビが、TwitterやLINEのようにそれ自体コミュニケーションのツールにはならないということがあるでしょう。今は何かの番組の話題でコミュニケーションの手助けをするというケースは、以前よりも減っていると思われます。

 年々、体験の価値があがり始めていると言われ、CDを買うよりライブに行くほうが満足度が高くなっている世の中です。Facebookにテレビを見たことを書く人があまり見られないのも、それが写メを撮ってアップするような自分の体験ではないからではないでしょうか。

 リアルタイムでテレビ番組を見るという状況は、基本的に家にいて「ぼっち」であるという状況をイメージさせるでしょう。テレビを見ているということは、孤立していていて、コミュ力のなさを露呈させてしまうという気持ちが関係して、「テレビは見ない」と言う人が増えているのではないでしょうか>

 「コミュ力」という略語は初めて聞いた。SNS全盛のいま、若者にとってコミュニケーションの力?の有無はそれほど大切な価値観になっているのだろうか。

 この記事には400本以上のコメントがついていた。それをざっとながめてみると、ほとんど<かなりこじつけた、無理のある、説得力に乏しい分析ですね>などと批判的だ。

 <いろいろな意味でテレビは低レベルでコチコチになってしまった。昔のテレビは低俗だったかもしれないけど柔らかかったし、挑戦を恐れなかった。>

 <ドラマにしても、顔がいいだけで演技力が全くないキャスト、とりあえず人気のあるタレントを使えばどんな悪いシナリオでも視聴率がとれると高をくくっているスタッフのせいで、まともなものがほとんど無くなった>

 <クレーマーが増えたからびびって昔ほど無茶な番組なくなったしね>

 テレビを観ない理由として圧倒的に多いのが、<ツマラナイ放送を見たく無いだけの話>というコメントに尽きるようだ。<つまらない番組→視聴者離れ→スポンサー減→番組制作費減→ますますつまらない番組という負のスパイラル進行中>

 記事は、その肝心な点に触れていないので批判を煽った。

 <タレント(才能があるとは限らない)がバカ騒ぎして、賞金貰って賞品貰って、んでギャラも貰って、それを我々視聴者が観て何か楽しいと思ってんの?>

 <バラエティーなんて芸人同士のくだらない内輪ネタばっかでちっとも面白くない>

 この種のコメントもたくさんあった。ぼくなんかは、縦文字・横文字を読む仕事に疲れたときなど、お笑い芸人さんたちの馬鹿騒ぎでぼーっと頭と体を休めるのが習慣なのだが。

 <忙しい、に尽きる。自宅に帰って一風呂浴びてビールのみながらテレビ見るなんてことなくなったんじゃないのかな><若者はスマホやSNS、パソコン、ゲームといった娯楽を消化するのに精一杯>

 娯楽は「消化」するものだとは知らなかった(笑)。

 <テレビ全盛期はテレビの見過ぎが社会問題となっていましたが、それから考えると好ましい結果かもしれません>

 こういう(NHK風に)貴重なご意見もあった。

 <(ネット世代は)テレビで放映されている事実は真実ではないことに気付いている。報道番組も含めて><インターネット(これもウソかホントか怪しいが)を知っている人間は、たとえば総理の靖国神社参拝で本当にマスコミが騒いでいるほど非難轟々なのか自分で情報収集する>

 <偏向報道と捏造とヤラセばかりのテレビなんて見る価値ないと思う><最初から左翼方向に歪曲、一方的な報道しかできない>

 テレビはなぜつまらなくなぜ偏向しているか、この女性ライターに続編の記事でえぐって欲しいと思うのは、ぼくだけではないだろう。

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真夜中の洗濯機事件

 あれは事件だった。悪夢か。いや、やっぱり事件としかいいようがない。

 2013年6月下旬、郷里・出雲でひとり暮らししていた母(84)がついに倒れた。父(91)は施設に入っている。数日後、かみさんを伴いUターンすることを決心した。

 問題は、長年住んだ東京近郊からの撤退だ。仕事の整理をし不要な家財道具などを処分して引っ越すには、どう考えても3か月はかかる。

 かみさんは8月いっぱいで仕事を退職し、引っ越し準備に専念することになった。ぼくも、いざ引き払うとなれば処理することは山ほどある。パソコンで、「仕事の整理」「重要な書類・書籍の仕分け」「引っ越し品目」「処分品」「手続き一覧」などのリストを作り、チェックボックス欄を設けた。ひとつ終わるごとにチェックを入れていく。

 引っ越す家具類などは約80点におよんだ。書籍や書類の量は段ボール何箱になるか見当もつかない。古いタンス、がたついた書棚、壊れた電化製品など処分品も40点以上ある。手続きも、解約、住所変更など38項目あった。

 引っ越し準備の作業は、かみさんとふたりで、スケジュール闘争のようにひとつひとつこなしていった。それに合わせて、送別会、挨拶回りなどがある。

 引っ越しは3つの業者に見積もってもらい、F社に決めた。Xデーは9月27日とした。その日午前8時には、業者の作業員6人が4トントラック2台でやってくる手はずになった。見積もりでは、処分品だけで18万円かかる。ふぅーっ。

 「ほんとに、間に合うかしら」。かみさんは、片付けているのか散らかしているのかわからない家財の山を前に、何度もため息をついた。

 資源回収日の前夜、捨てる本をひもで結んで公道脇の所定の場所に置いた。軽トラで1、2台分あった。30分後に行ったときにはすっかり消えていた!古書や古紙を回収場所から盗んで業者に売る外国人グループがいることは新聞で読んでいた。油断も隙もないというか、生き馬の目を抜くというか。

 1か月にわたる引っ越し作戦のあいだ、かみさんは睡眠2~3時間で動きつづけた。Xデーの前夜、かみさんはまだ働いていたが、ぼくはソファで仮眠することにした。6点セットのコーナー型ソファも半分は処分してもらうことにしていた。

 やっと寝ついたころ、遠くからかみさんの声がする。それがだんだん大きくなっり、肩を揺すられた。目を開けると、かみさんがパニックになって何か言っている。「洗濯機が大変なのッ。とにかく起きて!」

 時計を見たら午前2時過ぎだ。洗濯機を回していたが、途中で止まってしまい水がたまったままどうしても動かないという。

 「なかのマイコンが狂っちゃったんじゃないの。プラグをコンセントからいったん抜いてみたら」「何度もやってみたけど、おなじところで止まってしまうの」

 洗濯乾燥機は買ってまだ1年くらいだ。しょうがないから起き出して脱衣所へ行った。たしかに洗濯槽は洗濯物と水が入ったまま止まっている。プラグを抜いてしばらく待ってから差し込み、【スタート】ボタンを押すと動き出す。しかし、途中で止まってしまう。

 ふつうなら、このまま朝を待って電気屋さんを呼ぶところだ。しかし、午前8時には引っ越し業者がやって来る。汚れた水が入ったままの洗濯機をトラックに積んでもらうわけにはいかない。

 眠気も吹っ飛び、じわーっとあせってくる。「マニュアルがあるだろう」「それが、もう段ボールに詰めちゃって、どこに入っているかわからないのよ」

 時計を見ると、3時前だ。あと5時間しかない。なにか方法はないか。冷静に冷静に。

 洗濯機本体のボタンや表示を左からひとつずつ確かめていった。【風呂水 洗い すすぎ】【液体洗剤自動投入 多め 少なめ】・・・そして一番右端に赤いシールが張ってある。【U11が表示される場合は排水口を掃除してください。糸くずがたまっている可能性があります】

 本体のモニターには【U11】と表示が出ている。これだッ!排水パイプを引き抜くと洗濯槽の水がどーッと流れ出た。あわてて、かみさんと脱衣所に積んであったタオルの山を床に投げつけ水を吸わせた。後から後から水は出て来る。ありったけのタオルで吸い取ってどうにか収まった。

 ふぅーっ。排水口を掃除しパイプを穴に突っ込んで【スタート】ボタンを押す。最新鋭の洗濯乾燥機は何事もなかったように快調に動き出した。

 力が抜けて床に座り込みそうになるが、心臓はまだどきどきしていて眠れそうにない。そのまま、長い夜が明け、午前8時、引っ越し屋さんがやって来た。子どもたちも手伝いに来てくれた。それから、火事場騒ぎのような時間が過ぎ、荷物を積み終えたトラックを送り出したのが午後4時だった。

 まだ、不動産業者の立ち会いがある。それは息子に頼んで、ぼくたち夫婦は愛車Bちゃんの後部座席に愛兎RANAを積み、大量の荷物とともに一路西へ向かった。途中、三重県桑名市で一泊し、睡魔と戦う計13時間のドライブの後、出雲の実家へたどり着いた。

 洗濯乾燥機は、実家にあった古い洗濯機を押しのけ、涼しい顔で所定の場所に収まった。

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キサちゃんは、歴史上の重要な生き証人だった

 「松の内」というのは、ふつう、七草粥を食べる1月7日までだそうだから、もうお正月はとっくに終わったが、初詣の話題をもう1本ぶっ放してみたい。

 昨秋、出雲へUターンするための引っ越し準備中に出てきた新聞記事スクラップにあった話だ。日付は2013年1月30日、つまりほぼ1年前ということになる。

 日本史家の磯田道史さんが、『古今をちこち』というタイトルでコラムを連載していた。書き出しはこうだ。

 「正月の初詣はどこに行こうかと考え、良いことを思いついた。『そうだ。浜松には日本史上最強のパワースポットがあるじゃないか』」

 筆者は、どうやら静岡県浜松市に住んでいるらしい。そのコラムに登場するのが、浜松城の前身、引間城の城主・飯尾豊前守の娘キサだ。磯田さんは文中で「キサちゃん」と軽い調子で呼んでいる。

 これは、ぼくが読売新聞にいたころ、同僚や他社のマスコミ人に呼ばれていたのと同じだ。マスコミでは、いい年をしてちゃんづけするのが習わしみたいになっていた。いま中央公論新社の社長をしているコバちゃんや読売本社の大幹部になったオダちゃんなどさらに親しい記者仲間は、ぼくのことを「キーちゃん」と呼んでいた。

 この話を京都のある女流詩人に話したら、けたけたと大笑いされた。京都では、精神的にアブナイ人を「きーやん」と呼ぶそうで、「キーちゃんなんて、とんでもない呼び方やわぁ」となった。

 さて、キサちゃんが「日本史上最強のパワースポット」とどうつながるか。磯田さんの家から400メートルほど北へ行ったところに、50メートル四方の小さな神社があるという。

 「恐るべき霊力をもった場所らしく、ここにやってきた男二人に天下を獲らせた。日本中をさがしても、こんな霊地はない」

 話は460年前にさかのぼる。キサちゃんが生きていた時代のことで、この殿様の姫は後の豊臣秀吉の無名時代のことをよく覚えていた。それをキサちゃんの孫が聞き書きし『太閤素生記』という本にまとめた。「闇に消えるはずであった秀吉の無名時代の様子が後世に伝わった」

 NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』の第1回で、信長と木下藤吉郎(秀吉)が出会うシーンがあった。かみさんと雑談しながら観ていたので確信はないが、たしか、藤吉郎がなんとか信長に仕え武士になりたいと、小汚い格好をして木の上で待ちぶせする設定だった。

 でも、『太閤素生記』によると、最初に仕えたのはキサちゃんの父・飯尾豊前守の家臣・松下だったそうだ。ある日、松下が、浜松の町はずれ「曳馬ノ川辺」で拾った「異形なる」顔をした少年を城に連れてきた。白い木綿の着物は垢だらけで「猿かと思えば人。人かと思えば猿」といった感じだった。

 「国はどこ。何者か」と尋ねると「尾張から来た」と答え、「幼少の者が遠路なにしに来た」と重ねて聞くと「奉公望み」と言った。つまり、武家に就職することを希望していた。

 松下は、猿顔の少年を宴会の見世物にしようと考えて連れてきた。『太閤素生記』には、キサちゃんが語った初めて「猿」と出会ったときの様子が活写されているという。

 松下は、「御覧あれ」とキサちゃんたち飯尾家の一同に「猿」を披露した。「皮の付いた栗を取り出して与え、口で皮をむき喰う口元が猿にそっくり」と、みな大笑いした。

 猿は一同に気に入られ、体を洗い古い小袖と袴を身につけさせると小綺麗になった。猿はそのとき16歳だった。父の遺産・永楽銭1000枚の一部をもらい尾張清州で木綿着を作り針を仕入れて、それを売りながら浜松まで来たと語った。

 草履取りからはじめ、松下の側近に抜擢されると「なに一つ主人の心にかなわぬことがない」完璧な勤めぶりだった。そこで、出納管理を任されたが、できるが故に他の小姓がねたみいじめた。コラムによると、松下は慈悲のある人で、「おまえはよそ者だから無実の罪を言いかけられるのだ。不憫だが本国に帰れ」と永楽銭300枚を与えて暇を出した。猿ことのちの秀吉は、16歳から18歳まで3年間を浜松で過ごした。

 しばらくして引間城は落城し、われらがキサちゃんはかろうじて逃げおおせる。代わって引間城本丸に入ってきたのが徳川家康だった。その本丸跡が、いま「50メートル四方の小さな神社」になっているようだ。

 「家康はこの狭苦しい空間に一年ほど寝起きして城を拡張。城の名前を変え、浜松城とした」。ここを根城に遠江一帯を支配下におさめ、1582年に武田氏が滅び信長が本能寺で殺されると、ここから出陣して一挙に甲斐、信濃へ領土を拡大、やがて秀吉が築いた天下を奪った。

 秀吉と家康、ふたりの天下人を生んだ引間城本丸の所番地は、浜松市中区元城町111の2、神社の名前は浜松東照宮というそうだ。

 「初詣客は少ない。しかし、ここにこっそり参って成功した浜松の社長を私は何人も知っている」と、コラムは結ばれている。行ってみよ~かなぁ~。

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初詣に宗教の力を思う

 出雲大社へ初詣に行った。車は混むからと一畑電車の『しまねっこ号』に乗った。出雲大社の本殿?を頭にかぶった猫をイメージしてデザインされたしまねっこは、全国のゆるキャラグランプリでベスト10に入る人気だ。

 大社はこれまで見たこともないほど混み合っていた。ほぼ60年に1度行われる大遷宮の余波はすごい。正月三が日の参拝客数は例年の1.3倍、約77万人にのぼった。伊勢神宮が内宮、外宮あわせて約61万人だったから、出雲には大変な数の参拝客が押し寄せた。東京から高速バスに乗っての“弾丸参拝ツアー”もあったと聞く。

 大国主命を祀る本殿で、善男善女が独特の「二礼四拍手一礼」で祈りを捧げる。日本神道には経典も教義もないが、人びとは神の前で自然に敬虔な気持ちになる。宗教の力だ。

 宗教と言えば、昨年6月にニューヨーク・タイムズで読んだ記事を思い出し、改めて読んでみた。

 スロバキア共和国で夏に発行される予定だったユーロの記念硬貨をめぐるトラブルが、詳しく書かれている。そのコインはスロバキアへのキリスト教伝来1150年を記念するもので、ふたりの有名な歴史上の修道士が刻まれていた。

 国内のアーチストによるデザインで、修道士の頭に後光が差し、法衣には十字架が描かれていた。これをEUの政策執行機関であるヨーロッパ委員会が問題にした。EUのルールは、特定の宗教に偏ることを禁じており、記念硬貨のデザインから後光と十字架を取り除くよう行政命令を出した。

 このデザインにとりわけ強く抗議したのは、厳密な政教分離主義をとるフランスだった。ギリシャは教会と国家が密接な関係にあるが、「コインに描かれたふたりの修道士はギリシャ固有の文化遺産だ」として、別の立場から抗議した。

 デザイン変更命令に対し、カトリック教徒が圧倒的多数を占めるスロバキアをはじめヨーロッパ各国のキリスト教団体が強く反発した。

 そもそも、青の地に12の黄色い星をあしらったEUの旗は、フランス人のあるカトリック教徒が、聖処女マリアが12の星のついた冠をかぶっている宗教画からのインスピレーションによってデザインしたものとされる。

 ヨーロッパが統一されるべきだというアイデアも、9世紀の神聖ローマ帝国の初代統治者カール大帝が全キリスト教徒を再結集させようと努めたのが起源とされている。

 ヨーロッパの多くの国家の紋章もキリスト教に基づくもので、その国歌にも神を称える歌詞がある。

 だから、「EUの基盤はキリスト教にある」というのが、反発の最大の理由だった。

 背景には、現代ヨーロッパに中東などからイスラム教徒が多数流入し、イスラムの影響力が目立って強まっている現実がある。

 それに比例して、宗教的過激派とも言えるキリスト教原理主義の勢力も増しているそうだ。スロバキアの極右政党『スロバキア国家党』の幹部は、ニューヨーク・タイムズの取材に、「EUは悪魔かスターリニズムに支配されていると疑わざるをえない」と語っている。たぶん、真顔で答えたのだろう。

 EUは悪魔に仕えている、という考えは、極端なキリスト教原理主義者の好むテーマという。

 もうひとつの背景としては、キリスト教離れがある。ヨーロッパ全域で教会へ行く人が減少しており、逆に、よく組織された世俗主義団体が次々と生まれている。

 オーストリアの首都ウィーンにある『反キリスト教不寛容・差別監視』という調査ロビー団体の代表は「いまのヨーロッパにはラディカルな世俗主義のとても強い潮流がある。すべての宗教に影響を及ぼしているが、特にキリスト教への風当たりが強い」と語った。

 2012年のイギリスの世論調査で、神の存在より宇宙人の存在を信じる人のほうが多かった。EU全加盟国で行われた2010年の世論調査では、キリスト教の神を信じる人はほぼ半数だった。アメリカでは90%以上が信じているとされ、ヨーロッパでのキリスト教離れは想像以上だ。

 西ヨーロッパは世俗的なうねりが強いのに対し、スロバキアやポーランドなど東ヨーロッパは宗教の伝統が根強く生きている。

 ヨーロッパのキリスト教団体は、イスラムと世俗主義を相手に二正面作戦をせざるを得なくなっているわけだ。

 ヨーロッパ委員会の当局者は「EUはアンチ・キリスト教ではなく、EUの旗に描かれた12の星は、ヨーロッパの人びとの統一と団結、調和の象徴だ」と弁明している。

 スロバキア国立銀行は、ヨーロッパ委員会の命令を突っぱね、後光と十字架を描いたコインを元通り発行することを決めた。委員会も宗教の力には勝てず結局はそれを容認した。

 宗教は微妙で、時には反作用を生む。出雲大社に一般の人びとが参拝しても何の問題もないが、総理が靖国神社に参ると大騒ぎになる。悪人でも善人でも、亡くなれば神になり仏になるという日本の宗教観は、海外ではほとんど理解されない。

 スロバキアは宗教論争でEUに勝った形だが、日本の場合は前途多難だ。

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嗚呼、和食

 2014年元旦、出雲にUターンして約100日が経つわが家の食卓には、例年とはちょっとちがったお節料理が勢ぞろいした。数の子とイクラは、北海道で医師をしている甥が送ってくれた。鮎などの昆布巻きは、滋賀県大津市の妹から届いた。いずれも、ハイクオリティーだった。

 かみさんは、昨年夏まで東京近郊の食品会社に勤めていた。会社では、年末、お節料理も作っている。元同僚にかみさんが電話してお節を送ってもらったら、凄まじい量が宅配便で送られてきた。エビ80尾、かまぼこ8本、玉子焼き6本、だし巻き6本、きんとん12パック、田作り2キロ、ミートボール2キロ!いずれも紀文ブランドだ。

 「こんな量、いったい、どうやって食べるんだ」

 ご近所に配ってもまだまだ残っている。

 かみさんが例年通り作ったのは、黒豆、なます、きんとん、筑前煮などだった。

 腎臓病を患い食事制限がきびしくなった母には、残念ながらほとんど味わってもらえないが、和食フリークとも言えるこっちも、食べ過ぎに注意しなければ。

 和食にとりわけこだわるようになったのは、ニューデリー特派員としてインドに駐在して以来だ。当時、彼の地に日本食のレストランや食材店はなく、赴任前に前任者から、大量の日本食材を持参したほうがいいとアドバイスされた。

 身重のかみさんと都内のスーパーを回り、缶詰や乾物、真空パック、醤油、味噌などをごっそり買い集めて船便で送り出した。住みはじめてみて、そのアドバイスは正解だったことが身にしみた。

 インドでは、極端に言えば、カレー以外のまともな食はほとんど期待できなかった。首都ニューデリーは大都会だから、中華やイタリアンの店はあったが、東京の店のようなわけにはいかない。

 インドの地方へ出張したとき、1週間ずっとカレーを食べつづけた記憶がある。さすがに本場だから種類は豊かだったが、出張に同行してくれたインド人の親友プラメシュが言ったものだ。「こういう田舎の食堂では、肉の入ったカレーは絶対に食べちゃだめだよ。田舎の肉なんて腐ってるかもしれない。どうにか安全なのは、ベジタリアン・カレーだ」

 「和食 日本人の伝統的な食文化」が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。個人的にもうれしいニュースだった。決定に当たっては、和食の特色が「正月行事にその一典型がある」とされ、和食が日本人の社会的結束を強めていることが評価されたそうだ。

 つまり、お節料理が無形文化遺産のシンボルのようになった。チェコの首都プラハへある年末に行ったときには、青空市場で生きた鯉をたくさん売っていて、お正月の定番料理にされると聞いた。でも、日本のお節ほど年中行事として大切にされている料理が世界にどれだけあるだろうか。

 クリスマスにアメリカ人は七面鳥を食べ、ドイツ人はガチョウを食べる。だが、味の繊細さや見た目の美しさで、お節料理の敵じゃない・・・。

 わが家の子どもたちをふくめ、日本の若い世代がお節にこだわらないのは残念なことだ。文化遺産も結構だが、和食離れが進む国内でもっと日本食を広める必要がある。

 一方で、海外の日本食レストランは急増している。5年前に家族でインドへ再訪したときには、ニューデリーだけで本格的日本食レストランが少なくとも5軒できていた。昨冬かみさんと行った台北には、数えきれないほどあった。

 外務省・農水省のデータによると、海外の日本食レストランは2013年3月時点で約5万5000店にのぼっている。2006年の約2万4000店から倍増した。

 日本貿易振興機構(JETRO)などが調べたところ、外国人が最も好きな外国料理は日本料理で、外国人観光客が来日前に最も期待しているのは日本食だという。

 ドイツに駐在していたふた昔前、寿司店があちこちにあるのは当然として、鉄板焼きの店が多いことに少しびっくりした。ある店の日本人調理師に理由を聞くと、醤油とバターの組み合わせがドイツ人の度肝を抜くのだという。

 正直言って、ぼくたち家族も、本格的鉄板焼きの美味さを知ったのは、ドイツ北西部ドルトムントの店だった。サッカーの香川真司選手が活躍したあの街だ。肉や魚介、野菜なんでも、醤油とバターで焼くと箸が止まらなくなる。もっとも、子どもたちが一番気に入ったのは、「アイスクリームの鉄板焼き」だったが。

 ドイツに限らず、基本的に塩と胡椒、スパイスしか知らなかった外国人にとって、えも言われぬ旨味がある醤油は衝撃らしい。その醤油を世界に広めたのはキッコーマンの功績だ。世界の食の市場規模は、2020年には倍増するといい、日本食文化の輸出はまだまだ伸びる。その分、日本好きもどんどん増える。

 お節を食べながら、かみさんと日本人の和食離れの話をしていたら、テレビで興味深い番組をやっていたという。九州かどこかの幼稚園で、畑での野菜作りから調理、試食まで子どもたちに経験させているそうだ。

 そういう食育を全国に普及させれば、和食の空洞化を防ぐ本当の無形文化遺産になる。

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