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2014年6月

輪廻転生を科学的に探る本

 <「お空から さがしてきめた パパとママ」告げる少女の真顔に頷く>

 読売新聞1面のコラム『編集手帳』に、2014年6月3日、こんな一首が引用されていた。コラム筆者は、何年か前に『読売歌壇』でこの作品を読み書き留めておいたのだそうだ。

 これを読んだ読者はどう思っただろう。幼子が空想したファンタジーに親御さんが心を揺さぶられて短歌に詠んだ、と受け止めたひとが大半だったかもしれない。

 しかし、子どものこういう言葉は単なるファンタジーではない、と数々の事例をもとに幼児の証言を綴る本が出た。横浜市の産科クリニック院長・池川明氏の著書『前世を記憶する日本の子どもたち』(ソレイユ出版)だ。

 実は、このブログでも2年半前、池川院長の著書『子どもは親を選んでうまれてくる』(日本教文社)について触れ、「命とは、記憶とは 赤ちゃんの不思議」のタイトルで書いたことがある。

 赤ちゃんは胎内にいたときや誕生のときのことを覚えているという報告は100年くらい前からあるが、科学的な研究がはじめられたのはここ十数年ほどという。いまでは、テレビや新聞でも取り上げられることがあり、編集手帳の引用についても「ああ、あの話か」と思ったひとはいるはずだ。

 池川院長の新著によると、「お空の上にいた」という生まれる前の魂の記憶はそれほど珍しいものではないそうだ。『前世を記憶する――』は、それを通り越して、一度死んで再び生まれるまでの期間「中間生」に多くの章がさかれている。つまり、古来から伝わる「輪廻転生」だ。

 輪廻転生と聞けば、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマのことを真っ先に思い出す。チベットの人びとは観音菩薩をチベットの守護尊であると考え、その観音菩薩の化身として転生するのがダライ・ラマだと信じている。現ダライ・ラマ14世は、中国共産党独裁体制に対する独立運動「チベット動乱」の結果、インド北部に亡命した。中国国内でいまも迫害を受けるチベット人にとっても精神的支柱だ。

 ぼくは、ニューデリーに駐在しているときダライ・ラマのインタヴューを計画したが、スケジュールが合わず実現しなかった。直接会ったことのあるひとに聞くと、親日家でゆっくり正確な英語を話し、人徳の極めて高い人物という。

 さて、池川院長は、米バージニア大学知覚研究所の大門正幸客員教授(中部大学教授)に輪廻転生の最先端研究について詳しく聞いている。輪廻転生というと、日本ではまだ超常現象のひとつとしてマユツバで考えるひとも多いだろう。だが、科学的には心身症状というとても日常的なことに、「過去生」の記憶が関わっていることもあるそうだ。

 バージニア大学では、あるひとの過去生についての証言から、その記憶に当てはまる人物が歴史上に実在したことを確認する研究を進めている。そのなかでは、記憶を持つひとの身体症状が、過去生に実在した人の傷や怪我と関連しているケースがいくつも明らかになっているという。

 大門教授は、輪廻転生の科学的研究の意義について「大きな視点から言えば、『人は死んだらどうなるのか』という、人間にとってこのうえなく大きな問題に対して、解明の手がかりを与えてくれる可能性がある」としている。そして、現代科学の本流は、人間を「生まれ」すなわち遺伝的要因と「育ち」すなわち環境的要因のふたつで説明しようとするが、それだけでは説明しきれない部分があり、そのすき間を埋めるのが「生まれ変わり」という概念だ、と説明する。

 過去生は、退行催眠という方法によって探られる。ある人を催眠状態にして過去の記憶に遡らせその内容を言葉として語らせるやり方だ。ぼくはもちろん退行催眠をほどこされた経験がなく、過去生の記憶があるかどうかもわからない。

 だが、一点だけ、ひょっとしたら過去生にからんでいる症状ではないかと思い当たることがある。それは、閉所恐怖症だ。

 たとえば、トイレも閉所ではあるが恐怖感を味わったりはしない。慣れ親しんだ生活空間だからかもしれないし、もう少し深く考えると、トイレはドアを開ければ閉所から解放される(!)という安心感があるように思う。

 絶対にだめなのが、宇宙ロケットや国際宇宙ステーション(ISS)のなかに自分がいると想像するときだ。ロケットやISSは、扉を開けて外へ出れば宇宙空間で、生きていることはできない。だから、少なくともぼくにとっては究極の閉所なのだ。

 高校時代から「四次元とは何か」とか「光は重力で曲がる」といった宇宙論の本は大好きで、月に人間が降り立った米アポロ計画のテレビ中継を興味深く観てはいても、自分で宇宙に行く気にはまったくなれなかった。

 『前世を記憶する――』は、過去生記憶や輪廻転生のテーマにとどまらず、動物の潜在意識にコンタクトしてテレパシーで話せるという日本人女性獣医の実名インタヴューなども紹介されている。

 この本は、常識や意識の閉所からひとを解放する書と言えるかもしれない。

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台湾のラーメンと台湾ラーメン

 羽田から飛んで台湾の台北松山空港へ降り立ち、ホテルへ直行したあとすぐに街へ出た。2013年1月のことだ。気候は温暖で快適だった。

 ある目的地に向かう途中、歩道に行列ができている料理店の前を通った。通りからガラス越しに見えるキッチンでは調理師さんたちが忙しそうに立ち働いており、その奥にある店内は満席だった。ちょうどお昼時だった。

 それからしばらく経って、おなじ道をもどって来たら、さきほどの店の行列は消え、店内もがらんとしているのが見えた。腕時計を見ると午後1時過ぎだった。台北も日本の都市とおなじで、正午から午後1時までがランチタイムとして混雑するのだろう。

 同行していたかみさんに「あれだけお客が多かったんだから、きっとうまいんじゃないの」と声をかけて入った。海外へ行くと必ず、ガイドブックにはない“庶民の店”で味と食材、サービスを確かめることにしている。その点で、この店は申し分ない。日本で言えば、レストランというより大衆食堂という感じだった。

 店員の中年女性に、英語で話しかけるかそれとも日本語のほうが通じるか、一瞬迷った。その店員は、何も言わないでも日本語のメニューを持って来てくれた。観光客も来るんだろう。

 お腹がすいているからすぐにでも注文したいが、台湾での初めての食事だからじっくりと検討した。酸辣湯麺にも日本語訳がついているものの、「これは中国語のほうがわかりやすいわよね」とかみさんが言う。日本でもサンーラータン麺を知るひとは多いだろう。

 台北の物価は、街歩きでチェックした限り日本のほぼ半分くらいだった。どうせなら、この店で一番高い料理にしよう。「牛肉と筋肉とホルモンの麺」とあるのにすることにした。これで180台湾元、日本円にすると約610円くらいだ。かみさんは、エビのワンタン麺80元、約270円にした。

 お客はもうほとんどいなかったから、料理はすぐに出てきた。お昼時の繁盛ぶりを脳裏に、期待をふくらませてスープから試した。ん? 調理師さんは何か肝心な調味料を入れ忘れたのか? いや、プロが毎日何百杯と作っているだろうから、手順をまちがえるはずはない。それにしても味が薄い。薄いというか、醤油か塩が決定的に足りない。これじゃ、腎臓病などの病院食じゃないか。もっとも、病院食を食べたことはないが。

 スープがそれだから、麺を口にしてもうまいわけがない。でも、テーブルに調味料は置いてない。ふくらんだ期待の風船が一気にしぼむ気分で、かみさんを見ると、やはり首をかしげている。そっちのスープもすごい薄口のようだ。

 参ったな。自分で味の濃さを調節するのが台湾流なら、店員が調味料を持ってきてくれるはずだが、そんなそぶりもない。店員たちは、暇そうに何かおしゃべりをしている。これも異文化との遭遇だ、と何とか完食して店を出た。

 歩道を歩きながら、考え込んでしまった。これまで20以上の国の料理を試したが、あれだけ味が薄いのは初めてだった。たまたま、あの店がそうなのか。だが、あれだけ繁盛しているのだから、あの味が台北の人たちにとっては美味なのだろう。

 街の光景には、昭和初期の日本の都会はこうだったか、と思わせるレトロな趣がある。その親近感と超薄味のギャップが、頭のなかで消化不良になりそうだった。

 翌日に乗ったタクシーの運転手さんは、日本語ぺらぺらで、「牛肉麺と餃子が美味しい店」を紹介してくれた。その店に入ってエビ餃子10個120元と牛肉麺130元を食べた。またも異文化に打ちのめされた! ここのひとたちの味覚はどうなっているのだろう。

 前夜は、たまたま行った中華レストランが、台湾では唯一ミシュランの星を取っている高級店だった。味はそれなりにあったが、今度はビールが生ぬるいのに参った。台湾ではアルコール類を飲むひとが少なく、しかも常温で飲むのがふつうらしいとあとでわかった。外国人観光客の多い「士林夜市」の店は冷やしてあったが。

 1年半の時が流れ、日本テレビ系『秘密のケンミンSHOW』を録画して観たら、<台湾ラーメン>の特集をやっていた。愛知県民の大好物で、この名前の麺を出す店は県内に200軒以上もあるらしい。

 名古屋にある『味仙』という店の台湾出身の先代が、40年前に、台湾のタンツー麺を激辛にアレンジして客に提供したところ、口コミで広まっていまに至るのだそうだ。店のひとは「台湾にはありません。辛すぎるから」と言う。ある愛知ケンミンは「スープの辛池地獄がでらうまい」と汗びっしょりで食べていた。「でら」は名古屋弁の新語で、「えらい」の比較級および最上級の「どえらい」あるいは「でえーりゃー」の略だそうだ。「冬は温かく、夏は汗をかいてすっきりする」と、週に4回食べるというひとさえいた。

 かみさんも「美味しそーっ!」と言い、わが家でも作ってみることにした。大量のニンニクのみじん切りと豚ミンチ、大量の唐辛子を鍋に投入して炒め、醤油と鶏ガラスープでさっと煮込む。中太ストレート麺、生のニラとモヤシを入れた丼に注いで出来上がりだ。

 確かに、くせになる。残ったスープにご飯を入れてかき込むのが名古屋流だそうで、ぼくたちも先人につづいた。“病院食”に慣れた台北のひとに食べさせたら、辛さと味の濃さにひっくり返るだろう。台湾のラーメンと台湾ラーメンの差はあまりにかけ離れている。

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月遅れの端午の節句に

 出雲地方は、6月5日、端午の節句を祝った。わが家の息子は東京にいるが、とりあえず、かみさんは家の表座敷に五月人形を飾って、遠くから健やかな成長を祈った。

 五月人形といっても、ぼくが子どものころ買ってもらったのは、豊臣秀吉だという騎馬姿だった記憶がある。その人形はもうないが、いっしょに飾ってもらっていた出雲特産の張り子の虎はいまでも押し入れにあった。それに、母が初孫のために買ったという人形も家にあるのでいっしょに飾った。

 子どものころ、母が五月人形を飾りちまきを作ってくれたのを覚えてはいても、それが月遅れとは認識していなかった。新聞記者になって長野支局へ赴任し、信州ではたいていの年中行事が月遅れで行われることを知った。ひな祭りを4月3日にやるのは、春が遅い山国だからだろうと思っていた。

 雪国でもないわが郷里でもそうなのは、Uターンして初めて知った。子どものときは、そういう行事や季節の移ろいはあまり気にかけないものだ。

 端午の節句といえば、やはりクマザサの葉で巻いたちまきだ。まだ宅配便のなかった学生時代、京都の下宿に郵送小包でちまきが送られてきたのが懐かしい。これで少しだけ食費が浮くな、と思いながら共同のキッチンでちまきをゆできな粉にまぶして食べると、季節感を味わえた。でも、それが6月初めの梅雨入りの時季だったとは。

 ぼくが一番気に入っている京都のお祭り、7月の祇園祭でも、ちまきは重要な役割を担っている。初めて見たとき、その巻き方が出雲地方のとかなりちがって細いのが印象的だった。もっとも、この祭りではちまきは食べ物ではなく、厄病・災難除けのお守りだそうだ。京都のひとは、毎年、祇園祭のときに山鉾のお会所や八坂神社でちまきを買い、一年間玄関の上に飾っておく。

 そもそも祇園祭は、平安時代前期、疫病が流行したため、スサノオノミコトなど八坂神社に祀られた神に疫病を鎮めてもらおうとしたのが始まりとされる。須佐之男命といえば出雲の祖神であり、ちまきも元はと言えば出雲から京都にもたらされたのかもしれない。

 出雲へUターンして初めて迎える今年は、施設に入っている母が早々と「節句が来たらちまきの作り方を伝授する」と張り切っていた。その時期になると、スーパーでちまき用の白い米の粉「まきの粉」やチョコレート色の「きび粉」、それにクマザサとそれを結ぶイグサを売り出すからあらかじめ買っておくよう、母からかみさんに電話があった。

 ぼくが子どものころは、クマザサは確か山へ採りに行った記憶がある。それをスーパーで買う時代になっているのは当然の流れとして、いまでも各家庭でちまきを作る風習が残っているとは感慨深いものがある。

 すると、5月の半ば、回覧板に地元コミュニティセンターのちまき作り体験ボランティア募集のチラシが入ってきた。三世代交流事業として、子どもたちにちまき作りを教えるのだという。

 「笹を洗ったり、葉の仕分け、箸やハダコ作り、まきのこね方などの準備と巻き方の指導をお願いします」

 ハダコというのは笹の中心に丸まっている薄緑の若い葉のことで、団子を直接巻くのに使うそうだ。その上から緑の葉を何枚か重ねて巻き上げる。

 そして、5月末になると、地元紙に「恒例ちまき作り始まる」という記事が載った。毎年この時期の季節ネタなのだろう。今年は、『安来節』で知られる安来市広瀬町の住民グループによるちまき作りが、カラー写真つきで紹介されていた。35年ほど前に比田地区の有志が始め、いまでは北海道から九州までの常連客に、計2500箱を発送する。40代から80代までの約40人で作るそうだ。

 昼夜の寒暖の差が大きい比田地区のもち米とうるち米コシヒカリを使った食味の良さが売りなのだという。昔ながらの石臼で米をひいてこねて団子を作り、地元産の笹で巻く。1箱20本入りで送料込み3900円というからそれなりの値段だが、懐かしさを味わいたいひとが取り寄せるのだろう。

 さて、節句が近づきかみさんと材料を買いにスーパーへ行った。確かにどこの店でもまき粉やクマザサを売っている。粉の袋をよく見ると、メーカーは子どものころにきな粉のテレビCMを流していた松江市の会社で、その名前が懐かしい。

 ぎりぎり節句当日の6月5日、母のちまき作り教室が開かれた。母を大学病院に連れて行く関係で、この日になった。手のしびれに悩んでいる母だが、その日は調子もよさそうで、ハサミでの笹竹の切り方からハダコの準備、巻き方まで教えてもらった。

 税抜きでまき粉600グラム598円、きび粉400グラム570円、イグサ1束98円、クマザサ4束792円で、総額2058円。これに買い置きしてあったきな粉をまぶし、米粉ときび粉合わせて36本のちまきができた。1本当たり税込みで約62円となる計算だ。

 スーパーでは、出来合いのちまきを売っているが、5本で税込み900円以上する。笹で巻くなど作業には結構手間がかかり、人件費を入れるとこれくらいにはなるだろう。

 ひょっとして、きび粉でちまきを作るのは邪道かもしれない。でも、ぼくは前世が犬か猿か雉か、子どものころから米粉の白い団子よりきび団子のほうが好きだ(^-^q)。

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幻のぼたん鍋と出雲のジビエ

 わが家の屋根と外壁の修理のため、大工さんと左官さんに来てもらい、午前10時のお茶を出しているときだった。大工さんが、「冬になったらぼたん鍋を食べに行かない?雪景色のなかの露天風呂も最高だよ」と話を切り出した。

 大工さんは、Uターンしたぼくたち夫婦に、選りすぐりの出雲情報を「ひとつずつ小出しにして話題をつないでいく」つもりなのだそうだ。前回はアワビとサザエの話だった。そして今回は、雪景色と露天風呂プラスぼたん鍋の件を切り出したのだった。

 かみさんも、身を乗り出して聞いている。ぼたん鍋と言えば、もちろん、イノシシ肉の鍋料理だ。出雲でもイノシシが捕れるのかと聞けば、畑を荒らす害獣のひとつで、左官さんが「捕まえれば市から報奨金が出ますよ」と言う。

 後日、ネットで調べてみたら、「出雲市鳥獣被害防止緊急捕獲等対策事業捕獲報償金」というむずかしい名前の制度があった。イノシシの成獣が1頭8,000円、イノシシの幼獣いわゆるウリボウが1匹1,000円で、他にヌートリア、アライグマ各1,000円となっていた。

 ヌートリアは、別名「沼狸」と呼ばれるそうだ。イメージのよくわかるネーミングではある。南アメリカ原産で日本には本来分布していない外来種という。川や湖沼に棲息し、農作物を荒らすため農家からは目の敵にされている。わが家の前を流れる川へ降りる階段には波板トタンで蓋がしてあるが、これもヌートリア対策だそうだ。

 たまたま、2014年5月24日の新聞には、改正鳥獣保護法が、参院本会議で可決、成立したことを伝える記事が載っていた。「有害鳥獣の捕獲を促進し生息数を適正規模に減少させる」ことを盛り込んでいるそうだ。

 シカやイノシシなどによる農作物の被害は、全国的に増える一方という。法律ではこれまで鳥獣を「保護」することに力点をおいていたが、これからは「管理」に力を入れる。つまり、増えすぎた害獣は人間の手で積極的に減らすわけだ。その結果、ぼくたちの胃袋にジビエ料理がおさまることになる。食いしん坊の身としては、歓迎すべき状況ではある。

 ぼたん鍋と言えば、忘れられない思い出がある。ドイツのボンに駐在していたころの話だ。ボンの郊外には、グリム童話『白雪姫と七人の小人たち』の舞台となった「七つの山」という山岳地帯がある。ここで、1994年から95年にかけての冬、戦後ドイツ最大規模のイノシシ狩り作戦が計画されていることを知った。

 数年来つづく暖冬のせいでイノシシの頭数がねずみ算式に増え農作物の被害が目立つようになったため、大規模な駆除に乗り出すことになったという。

 ぼくは、ドイツ人助手に指示して情報を集め、作戦の当事者団体に、当日、現場で取材させてくれるように頼んだ。地元狩猟連盟の会長によると、ハンター200人、追い立て役60人、猟犬50頭を動員する計画だった。

 獲物は狩人の伝統に従って一か所に集めてみんなで食べ、残りは福祉施設などに寄贈すると聞いた。取材というのはむろん表向きの話で、ぼくの密かな狙いはイノシシの肉だ。事前取材に応じてくれた会長は、肉を大量にわけてくれそうな口ぶりだった。手に入れば、在留日本人を中心に仲間を呼び集め醤油味のぼたん鍋パーティを挙行する予定で、よだれを垂らしながら作戦のXデーを待った(^-^q)。

 しかし、問屋はそうは卸さない。狩猟連盟は、事前にリハーサルを兼ねて小規模の狩りを行った。その際、120人ほどの男女が現場に現れ、笛を吹いたり白布を振ったりしてイノシシを猟場に近づけないよう妨害した。それだけじゃなく、ハンターの車を壊すなど暴力行為にもおよんで、24人の警官隊が出動する騒ぎになった。本番となれば一段と大きなトラブルが予想され、大規模作戦は中止に追い込まれてしまった。

 つまり、異国でのわれらがぼたん鍋パーティは幻に終わった。

 妨害した男女は、俗に「独立系動物保護主義者」と呼ばれていた。だが、ハンターや警察にもその実態はつかめておらず、ドイツ国内で報道されたこともほとんどないという。助手に連邦政府新聞情報庁の膨大なデータベースも調べさせたが、関係資料はさっぱり見つからなかった。

 さまざまな動物保護団体に当たった結果、ようやくその騒ぎの当日、現場にいたという女性がわかった。夫とともに『生体解剖反対連盟』というグループを結成したレギーナ・シュミッツさん(46)だった。日頃から狩猟反対デモなどを行ってはいるが、れっきとした登録団体で行動には節度を保っているという。

 シュミッツさんらが現場に行くと、10代後半から20代の若者が集結していて暴力行為に走った。彼らは当局にシッポをつかまれないよう、意図的に組織化を避けているらしい。だから「独立系」と呼ばれるわけだ。

 簡単に言ってしまえば、捕鯨に反対し暴力さえ辞さない『シーシェパード』のような狂信的動物保護主義過激派だ。政治面では、極右・ネオナチを最大の敵とするそうだが、同時に共産主義にも反対で、自分たちは極左ではない、と主張するそうだ。

 あれから20年が経つ。その後、彼らはどうなったか。ドイツのイノシシ肉を食べてみたかった。まあぼくらには、出雲のイノシシが待っている。嗚呼、冬が待ち遠しい。

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