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2014年10月

ビール、ビール、ビール

 フィリピンの首都マニラへ初めて出張した30年前、国産ビール『サンミゲル』に大感激した。ビールってこんなにうまいものかと心から思った。日本でがぶ飲みすればトイレが近くなる。フィリピンは常夏の国でいくら飲んでも汗になるのか、トイレ通いした記憶がない。サンミゲルはスペイン系の財閥メーカーが開発したものだそうで、そのラベル名もスペインの人名という。

 東京へ帰ってきてしばらくしたころ、あの味とのど越しが忘れられず、輸入ビールを飲ませる店へわざわざいった。大いに期待していたのだが、ラベルはサンミゲルでも、飲んだ感じは全然ちがった。やはり、あの気候風土のなかで飲むから旨いのだ。

 ドイツのビールも同じで、特に、ヨーロッパの乾燥してさわやかな夏にアウトドアで飲むのが最高だ。ドイツでビアガーデンといえば、文字通り庭園や公園の緑に囲まれたところで飲む。何でもラベルが5000種もあるそうで、住みはじめたころは、どの銘柄を飲めばいいのか迷った。そのうち少しずつ勉強し、おおざっぱに言って3種類のビールがあることを知った。

 一般的なのがピルスナーと呼ばれている。チェコのピルゼン地方が発祥といい、日本でふつうに飲むビールの製法はこのピルス系だそうだ。もうひとつが、ケルシュと呼ばれていた。これはドイツのケルン地方が発祥だとあるビール党から聞いた。大麦と小麦から作られるという。アルコール度数がやや低く色も薄い感じがして、飲んべえにとってケルシュはややパンチに欠けてもの足りないイメージがあった。

 ぼくがドイツで初めて飲んでとても気に入ったのが、ヴァイツェンビールだ。日本語では白ビールという。ピルスナーがビール麦から作られるのに対して、このヴァイツェンビールは小麦から作られる。ホップは入れないので苦みはなく、やや甘い。日本の甘酒を薄くしコクを増したような感じと言えばいいか。

 これは、絶対に肉料理に合う。本場ミュンヘンへ行ったとき、現地のひとが案内してくれた醸造所付属のレストランでは、豚のすね肉のグリル焼きをかぶりつきながら飲むのだった。いまでも、その味を思い出して、すね肉とヴァイツェンビールのためだけにでも、ミュンヘンへ行きたくなる。

 そもそも、ドイツのレストランでは、ミネラルウォーターよりビールのほうが安いことも珍しくない。その理由は税率にあり、ビール0.5リットル当たりわずか約6.5円で、日本の17分の1しか税金がかかっていない!

 世界全体を見渡すと、新興国の経済成長もあってビールの消費量は増えるいっぽうらしいが、本場ドイツではビールを飲む人が減っている。読売新聞によると、ピークの1976年から約3分の1も減ったそうだ。

 ぼくが住んでいた1990年代半ばには、まだ、飲酒運転の規制もそう強くはなく、「ランチにビール派」は結構いた。しかし、次第にきびしくなり、社会のアルコールへの寛容度が下がった。

 ビール離れのもうひとつの理由が、ダイエットだそうだ。ドイツは2007年に発表されたEUの肥満度調査で、男性75%、女性59%と共にヨーロッパ1位となった。たしかに、アメリカ人ほどではないが、ドイツ人の肥ったひともすごい。あるとき、ゴルフ場であった中年男性は、お腹が大きすぎて芝の上のボールが見にくいからと、ゴムバンドで脂肪の塊を縛っていた。

 さて、わが日本のビール業界も揺れている。350mlの場合、酒税はビールが77円、発泡酒が47円、第3のビールが28円のところ、政府与党は、これを段階的に見直して将来的に税額の一本化を目指す方針を打ち出した。業界だけでなく飲んべえにとっても、歓迎すべきか反対すべきか、判断がむずかしいところだ。

 本物のビールは安くなるからいいとして、家で飲むささやかな楽しみの発泡酒と第3のビールは値上がりすることになる。そもそも、発泡酒と第3のビールは、本物のビールの酒税が高いから、それを回避するために日本のメーカーが開発した世界に誇るアルコール飲料だ。それが高くなったら、意味が薄れてしまう。

 日本が開発した世界に誇るビール飲料のもうひとつが、プリン体ゼロ、糖質ゼロの製品だ。プリン体ゼロは痛風の予防になるし糖質ゼロはダイエットにつながる。ぼくは、もうだいぶん前から、晩酌にまず飲むアルコールはサッポロ極ZEROと決めていた。本物のビールに比べコクがやや劣るのはやむをえないが、飲み慣れると結構いける。

 このサッポロ極ZEROが爆発的に売れつづけて、2014年9月、キリン、サントリー、アサヒがいっせいに同じゼロゼロ商品を売り出した。4銘柄を飲み比べてみたら甲乙つけがたいものがあり、日替わりでいこうかと思っているところだ。

 ヨーロッパでは、和食ブームに乗って、アサヒのスーパードライを中心に日本のビールがよく売れているらしい。ついでに、ダイエットにもいいゼロゼロ・ビールで殴り込みをかければいいんじゃないか。ヨーロッパにも痛風で悩むひとは多いらしいから。

 もっとも、ビールの製法を法律・ビール純粋令で厳密に決めているドイツは、受け入れないかもしれない。「あれはビールじゃない、発泡酒ですよ」と説得すればいいか。

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たぶんに政治的なノーベル平和賞

 2014年ノーベル平和賞に決まったパキスタン出身のマララ・ユスフザイさん=英バーミンガム在住=は、「この受賞は終わりではなく、始まりに過ぎない」とし、改めて女子教育の普及に向けた決意を語った。まだ17歳であり、史上最年少のノーベル賞受賞者となるが、その前途はあまりにも多難だ。

 ぼくは、ニューデリー特派員をしていた3年間のあいだに、13回も西隣のパキスタンに入った。パキスタンのアフガニスタン国境に接する北西辺境州には、アフガン難民が多数逃れてきてキャンプで暮らしていた。

 難民のなかには、アフガンの7つの反政府ゲリラ組織があって、ぼくら西側のジャーナリストは、主に彼らの動向を取材するのだった。アフガニスタンに侵攻したソ連軍が、首都カブールだけ統治するナジブラ共産政権を支えていた。ゲリラ各派は、パキスタン領内に出撃基地を構え、アフガニスタンへ入っては、ソ連軍・ナジブラ政権軍と戦っていた。ゲリラ7組織に、アメリカをはじめとする西側諸国が武器弾薬などを与えていた。

 ソ連とアメリカは、にらみ合うだけで、一発の銃弾もミサイルも互いに撃つことはない「冷戦」を展開していた。アフガニスタンでは、銃弾・砲弾の飛び交う「熱戦」がくり広げられていた。日本で暮らす大半のひとが“平和ぼけ”しているあいだにも、日本は西側諸国の一員として、アフガン熱戦の半ば当事者の立場にあった。

 ゲリラ7組織の指導者は親日的で、時間さえ合えば取材に応じてくれた。ぼくは結果として指導者7人全員に単独インタヴューすることができたが、それぞれの思想には微妙な差があった。

 一番強硬だったのは、イスラム党ヘクマティヤル派のヘクマティヤル党首だった。カブール大学工学部時代にイスラム原理主義グループを結成し、スカートをはいた女性に向って機関銃をぶっ放したという伝説の持ち主だった。ゲリラ7派のなかで最大の勢力を保っていたから、アメリカから来る軍事援助も最大だといわれていた。

 スカートに向って銃を撃つのを、彼らは当然と考えていた。肌はもちろん髪であれ顔であれ、夫以外の男に見せるのはイスラム女性としてふしだらだというのだ。

 今回、ノーベル平和賞がマララさんに与えられるのは「西側の価値観によるものだ」と、パキスタンのイスラム原理主義組織は非難する。だが、ほんの20数年前まで、西側は、組織こそちがうがイスラム原理主義者を政治的、軍事的理由で支援していたのだ。

 ソ連邦が崩壊して冷戦が終わり、さらに、9.11テロに象徴される新たな脅威としてイスラム過激派が台頭したことにより、世界の構図はすっかり変わってしまった。そういうなかでの今回の平和賞決定であり、たぶんに政治的なものがうかがわれる。

 受賞者のマララさんは、2012年、パキスタン・スワート渓谷で2007年ごろから勢力を伸ばした新興イスラム武装勢力「パキスタン・タリバン運動(TTP)」に銃撃され、瀕死の重傷を負った。その指導者ファズルラの影響下、スワート渓谷だけで2008年までに400におよぶ学校が爆破され、学校教育が禁じられたという。

 ぼくたちが、パキスタンやアフガニスタンを飛び回っていたころには、まだ、TTPの影も形もなかった。いま世界最大の難題のひとつとなった中東の過激派「イスラム国」も当時は存在しなかったのに、いつのまにか大勢力になった。

 マララさんへの平和賞で思い出したが、ぼくはカブールに滞在しているとき、連載を書いた。その最終回が「因習、差別と闘う女性」というタイトルだった。

 <アフガン婦人中央協会のダドマーフ理事長は、ブレザーとスカートにブーツをはいていた。・・・ゲートから一歩外に出ると、「チャドリ」姿の女性が気にかかる。頭から足元まですっぽりと布で覆われ、顔の所だけ網の目になっている。チャドリをかぶるのは、地方出身か年配の人たちという。

 そのチャドリを脱ぎ、男性と一緒に仕事をしたアフガン女性の第1号とされる人がいた。各地の婦人組織を束ねる全アフガニスタン婦人協会(会員・公称15万人)のマスーマ・ワルダク会長(59)だ。

 「女性解放の運動は、すでに1919年、アマヌラー王政下で始まった。女性を抑圧する政権もあったが、少なくとも59年には、女学校や女性専門病院で、チャドリをかぶる必要はなくなった。今、カブール大学の約6割を占める女子学生が、どれだけファッショナブルな服装をしているかは、ご存じでしょう」

 ワルダク会長は、さらにこう述べた。「78年の4月革命以降、女性の社会的地位についての意識が、男女ともに大きく変わったことは否定できません」

 ダドマーフ理事長は「イスラム原理主義指導者らは『女は家に戻れ、チャドリをかぶれ』と言う。カブールでも古い習慣を強いるなら、女性は闘う」と言った。デリーにいる亡命アフガン知識人の男性もこんなことを言っていた。「西側は原理主義派主体のゲリラ勢力を支援している。だが、もし彼らがカブールの政権を取ったらどうなる。時計の針を30年も50年も逆回しすることになるんですよ>

 そのアフガニスタンもパキスタンも、原理主義派タリバンが勢力を伸ばした。
 マララさんは、時計の針を逆回しする強大で狂信的な勢力と闘わなければならない。

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沖縄の桃太郎

 沖縄県では、米軍基地のありかたをめぐって論争がつづいている。2014年11月16日には県知事選が行われる予定で、一段と熱気を帯びているようだ。

 ジャーナリスト櫻井よしこさんは、沖縄で開かれたある催しに出席した体験を、週刊新潮の連載コラム『日本ルネッサンス』に書いている。櫻井さんが沖縄入りする前日の9月20日、普天間飛行場が移設される予定の辺野古の浜で、「止めよう新基地建設!9・20県民大行動」というデモが開かれた。

 翌日には、地元・琉球新報が1面トップで大々的にデモの模様を報じた。ページの半分以上を占めるデモの写真には、こぶしを振り上げて叫ぶ人たちの姿が写っており、そのなかに赤地に白文字で「全学連」と大書した旗が翻っていたという。

 櫻井さんは、こうつづっている。「この紙面に、或る種の感慨を抱くのは、私だけではあるまい」「全学連は過去の遺物のように思えるが、沖縄ではまだ人々の期待を集め得る存在なのか」

 全学連って、まだ生き残っていたのか。ぼくが大学に入ったのは1972年で、そのころのキャンパスにはいわゆる70年安保闘争の名残りがあった。1か月の全学ストライキで講義が開かれない日々も経験した。しかし、日米安全保障条約が改定される1970年に向け学生運動が燃え上がったあとのことで、ぼくらはのちに「白け世代」と呼ばれた。

 一部の過激な学生がいくら条約改定反対を叫んでも、政治は粛々と進んでいった。学生運動は大学の改革なども訴え、ある部分は改革されたが、運動に情熱を注いでいた学生たちの多くは挫折感を味わった。一部の者は退学し、一部の者は休学した。ぼくは現役で入学し1974年に3回生となってある専門課程に進んだが、そのコースのぼくを除く全員が休学からの復学組で年上だったのには驚いた。

 そのなかのひとりだったある女子学生は、70年安保のデモで機動隊になぐられ頭に大きな傷を負っているという噂だった。本人に確かめなくても、その言動からいかにもありそうな話ではあった。いっしょに酒を飲みにいったこともあるが、政治や学生運動の話ははばかる雰囲気があった。

 そのころでさえ、ゼンガクレンという言葉は死語に近かった。それが、丸40年も経ったいまになって沖縄でデモに参加しているというのだ。

 ウィキペディアによると、正式名称は全日本学生自治会総連合といい、戦後間もない1948年に結成された。学生自治会の連合組織で、分裂を繰り返し、現在では5つの団体が「全学連」を名乗って、それぞれが自らの正当性を主張しているそうだ。

 ウェブサイトを漁っていると「全学連関闘ブログ」というのがあった。「全学連 関西の闘争」の略だという。「9・20県民大行動」についての記事もあったあった。

 <9・20沖縄 5500人で集会が打ち抜かれました。ビラまきもして3000枚がものの30分程でまけました。階級的労働運動派・革命派ががっつり登場しました>

 いまどき、階級的とか革命派とかいう言葉を使っているとは。櫻井さんならずとも、ある種の感慨を抱く。そのブログには、<それに先立って、平安神宮前で街頭宣伝をしました!多くの署名・カンパをいただきました!ありがとうございました!頂いたカンパで派遣に行けます!>とあった。

 <派遣に行けます>というのは日本語としておかしいが、これらの学生はちゃんと大学へ通っていないのだろうか。たとえば、70年安保の昔から、自活する学生は生活費や学費をバイトで稼ぐのに忙しく、学生運動などしている暇はなかった。運動家はたいてい親のすねをかじって騒いでいた。いまのゼンガクレンもそうなのかもしれない。

 ブログには<琉球独立論や県外移設(他県移設は断固支持し、本土と分断する路線)を振りかざす腐敗分子を打倒しつくす>とある。沖縄の独立にも基地の県外移設にも反対しているように読めるが、では彼らは何を目指しているかがよくわからない。

 学生運動が華やかなりしころ精神科医の土居健郎が執筆し、1971年に刊行して大ベストセラーになった『「甘え」の構造』という本がある。そのなかで著者は「現代の戦闘的青年が桃太郎に似ているように思われてならない」と書いている。「彼らにとって両親は桃太郎におけるじいさんばあさんのごときものである。彼らは両親から保護と愛情は受けていても、大人になることについてはなんら指導を受けていない。・・・彼らにもまた自分のエネルギーをぶつけるために鬼征伐が必要になる」

 現代のゼンガクレン諸君が「鬼」として選んだのが、沖縄の米軍基地反対運動だった。琉球新報と沖縄タイムスは、辺野古移転反対で路線が一致しており、ゼンガクレンも彼らの味方ということなのだろう。

 だが、櫻井さんは、それを「論理破綻」と切り捨てている。琉球新報などは「これ以上の基地はいらない」としているが、辺野古に基地が移転されれば、普天間飛行場などをふくめ最終的には5000㌶もの土地が沖縄県民に返却される。もし、沖縄から米軍基地がなくなれば、中国の脅威が増し沖縄も強奪される恐れがある。基地を抱えるデメリットがあることも確かだが、沖縄の地政学的位置を考えれば、辺野古移転が妥当ではないか。

 少なくとも、鬼退治ごっこをしているゼンガクレンはお呼びじゃない。

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御嶽山噴火がけしかけた、あるご縁

 長野県王滝村と岐阜県高山市にまたがる御嶽山が爆発し、多くの登山客が亡くなる惨事となった。ぼくにとっては、とてもひと事ではない。忘れもしない、1979年10月28日、それまで死火山だと思われていた御嶽山が、突然、噴火した。

 そのころ、ぼくは読売新聞長野支局にいて警察担当のキャップをしていた。御嶽山噴火のニュースは、信州にショックを与えた。噴火するなど、県民の誰も思ってもいなかった。

 現地の木曽地方をカバーするのは、おなじ長野県内の松本支局で、3人の記者が王滝村へ飛んでいった。そしてぼくは、長野支局のデスクから、現場へ行く前に県と県警に取材して上中下3本の連載を書くように指示された。

 キャップとはいえ、入社2年目の青い記者だったから、まだ自分ひとりで連載をしたことはなかった。単発の記事とちがい、連載ともなれば、各回にテーマを設定して原稿を書き、全体としても連載の狙いが明確なものでなければならない。記者修業の中級編と言ったところだ。

 まず、県庁内の防災課へ行き、課長に県側の反応と対応を取材した。「青天の霹靂」という言葉を聞いた。そして、県庁ビルの上階にある県警本部へ行き、警備部長などからも警察サイドの話を聞いた。そこで聞いたネタで3本の柱を建て、その柱を補強する壁や屋根を作るための関連取材をあちこちでつづけた。

 時間は限られていたが、何とか3回分を仕上げデスクに渡したら、一発でOKをもらった。そして、少しの着替えや望遠カメラなどを車に積んで、大滝村へ向った。

 「御嶽 有史以来の噴火」などと新聞もテレビも大騒ぎをしていたが、麓は意外に静かだった。御嶽山は広大な裾野があるから、麓の集落にはまだ直接の影響はなかった。

 松本支局の同僚は、ある民宿を前線の取材基地として確保していた。民宿のおばさんはそのとき留守だったそうだが、勝手にあがりこんで居座ったのだった。

 噴火はつづいていても、幸い、人的な被害はなかった。水蒸気爆発が起こったのは午前5時ごろで、頂上付近に登山者はいなかった。

 現地では取材合戦がくり広げられ、毎日新聞の友人記者O君が、無謀にもひとりで火口まで降りてルポを書いた!その話はすぐ評判になり、「うちも誰か登ってこい」という無茶な指令が上から来た。

 ただ登るだけでは二番煎じになるから、火山の専門家を連れて登ったらどうか、と誰かが発案した。現地には、全国の火山・地震学者が集まっており、体力のありそうな某助教授に白羽の矢を立てることにした。先輩ふたりがその先生を必死に口説き、取材班で一番年下のぼくが同行取材することになった。

 翌日未明、先生を車に乗せて、車で行けるぎりぎりのところまで登った。ドアを開けて山肌に降り立つと、地面のずっと深いところでゴーンという音が絶えず聞こえ、大地は細かく振動している。見上げれば、頂上付近の火口からは、やや小さくなったとはいえ噴煙があがっている。

 火山学の先生は、すっかりびびってしまった。ぼくも死の恐怖を感じた。新聞記者になって1年半余りで、死を意識するのはこれで2回目だった。最初は、記者になって1週間ほどで発生した新潟県妙高高原の土石流災害を取材したときだった。

 「私には、社会的立場もありますし、万一、遭難ともなれば大学もふくめて“無謀な行為”と批判を浴びることになります」。先生は青ざめた顔で言う。それももっともだった。山の上では、松本支局と無線が通じた。デスクに事情を話し、「先生がためらっています」と言うと、「何とか説得しろ」と言ってくる。しかし、地の底では不気味な音がつづき、微震動もおさまりそうにない。30分もすったもんだし、やっぱり登るのは断念した。

 ぼくは、そのときつくづく思った。人間いつ死ぬかわからない。特に新聞記者をやっていれば。無事帰れたら、絶対に悔いのない人生を生きることをモットーにしよう。

 このときの噴火をきっかけに、死火山、休火山、活火山の分類はナンセンスとされ、活火山に統一されることになる。山はいつ噴火してもおかしくないのだ。

 2014年秋の御嶽山惨事をニュースでみると、被害者は全員頂上付近にいた人たちだ。麓の集落にはほとんど影響がない。つまり、登山者さえいなかったら、ただ噴火のニュースとして終わっていたということだ。

 命からがら下山してきた人たちは「御嶽が噴火するなんて思いもしなかった」と口々に漏らしたという。それは甘いんじゃないか。1979年10月以降、1991年5月、2007年3月にも小規模噴火を起こしている。それでも、特に入山規制はされていなかった。登山届を出していないひともたくさんいた。国も気象庁も自治体も登山客も甘い。

 天気がいいから一足早い紅葉を見に、などと軽いレジャー気分で登ったのだろう。だが、山を甘く見ないほうがいい。火山学者の鹿児島大学准教授・井村隆介さんは、ある記者に「二度と被害を出さないようどうすべきでしょうか?」と聞かれ、こう答えたという。「火山に登らないことですね」。記者は言葉を返せず、黙ってしまったという。

 ぼくは、取材が一段落して長野市へ帰り、悔いのない人生の一歩を踏み出すことにした。気になっていた県庁の美少女に声をかけ、デートに誘った。それがいまのかみさんだ。

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歯、わが闘争

 「当診療所のプライドにかけて、全力で治療します」。30代の若々しい歯科医は、頼もしい言葉を発してくれた。忘れもしない、1991年4月のことだ。当時のソ連共産党書記長ゴルバチョフが、日本へやってくる少し前のことだった。「新思考外交」をかかげて登場したゴルバは、日本でも大変な人気だった。

 読売新聞の世論調査部にいたぼくは、数日後、ゴルバ訪日にあわせた日ソ共同世論調査を実施するため、モスクワへ出張することになっていた。読売の東京本社ビルのなかには診療所があり、内科などのほか歯科もあった。勤務の空き時間に治療をしてもらえるので、とても便利だった。

 ぼくが、青年医師にモスクワ行きの話をすると、がぜん張り切って、出張までに何とか治療を終えることを宣言したのだった。

 日本は春でもモスクワは吹雪の日々だった。ソ連邦が崩壊する直前で、通貨はルーブルと米ドルがごちゃ混ぜに通用した。米ドルの価値はめちゃくちゃ高く、それを両替したルーブルで買い物ができれば、日本人をふくむ外国人にとっては只みたいに安かった。国が滅びるときは、そうした混乱がつきものだ。

 ある老舗のロシア料理店へ行くと、ラッキーなことにルーブル払いでいいという。取材で知り合ったロシア人とふたりで、絶品のロシア料理を思い切り味わった。有名なグルジアワインのボトルを空けても、ふたり合わせて2千数百円というウソみたいな額ですんだ。歯は快調で、料理をじゅうぶんに味わうことができた。

 高齢者が、若いときに治しておけばよかった、と一番後悔するのが歯の治療だという。

 そういうことも知らない33歳のとき、インドへ赴任する前に「歯をチェックしてもらったほうがいい」と先輩同僚にアドバイスされ、調布市の自宅近くの歯科クリニックへ行った。近いからという理由だけで選んだのだが、歯科医が40歳手前くらいのすごい美人でしかも優しく、ラッキーだった。

 インド赴任の事情を話すと、全部の歯をチェックしたあとで、「虫歯とかは特にないですが、親知らずが生えそうだったら、いまのうちに抜いておいたほうがいいでしょう」と言った。レントゲンを撮ってもらったら、左の奥にそのうち顔を出しそうな親知らずがあるという。もちろん、その場で抜いてもらった。

 いざ、ニューデリーへ赴任して、いやというほど医療レベルの低さを味わった。もし、親知らずが在任中に痛んでいたらと思うと、いまでもぞっとする。幸い、3年間のあいだ、歯科には一度もかかることなく帰国できた。あの美人歯科医も、いまでは前期高齢者になっているのだろうが、できることなら、もう一度お会いしたいほどだ。

 それから約10年後、ベルリンで歯が痛くなった。助手に評判のいいクリニックを聞いて飛んで行った。そこの歯科医は50歳くらいの男性だった。ぼくの口の中をのぞいて、なぜか歯科衛生士など女性スタッフ2、3人を呼んだ。

 「ほら、見てごらん。これが日本の技術の高さだよ」

 もちろんドイツ語で、やたらぼくの歯の治療のあとをほめている。日本では、明治以来の先入観なのかもしれないが、ドイツの医療はレベルが高いと信じられている。でも、ケースによっては、日本のほうがずっと高いように思えることもあった。ぼくの歯も「読売診療所の名誉にかけて」治してもらっただけのことはあった。

 時は流れ、出雲へUターンしてしばらくしたとき、かみさんの歯のかぶせ物がとれた。暇だったので散歩がてらいっしょに歯科へ行き、ぼくの歯も点検してもらった。「左下の歯茎がちょっと痛い」と言うと、レントゲンを撮られた。歯茎が炎症していると言われ、かぶせてあった金属を取り除き、神経の穴に薬を注入してふたをされた。ついでに歯石も取ってもらった。すべての治療が終わるまで7、8回は通った。

 それから、3か月後、右あごの付け根が痛くてろくに食事もできなくなり、口腔歯科をネットで探して行った。そこには最新式の設備があり、上下すべての歯を立体的に撮影するレントゲンを撮られた。

 あごの痛みは、関節痛ではなく筋肉痛だとわかった。痛み止めをもらい、数日間、固い物を避けていると痛みが治った。

 ところが、前の歯科で左下の治療をしてもらったはずのところに、薬がちゃんと注入されていないことがわかった。さらに、歯石もきちんと除かれていないという。では、あの何日も通った前の歯医者はなんだったのか。はっきり言って、ヤブだったことになる。

 「薬を注入してもらったときに、2年間の保証書が発行されているはず」と言われたが、いまさらヤブ医者にかかる気にはなれない。結局、もう一度、最初から治療をしなおしてもらうことにした。

 その最新のクリックでは、歯肉をめくって歯石を取られた。ちょっとした拷問のように痛いが、そこまでしないと歯石はちゃんと取れず、歯周病の原因が残ると言われた。

 ぼくがモスクワへ出張してから8か月後に、ゴルバのせいでソ連邦は崩壊した。米ソ冷戦は終わり、世界はすっかり変わった・・・はずだった。しかしいま、ウクライナ情勢をめぐり、ヨーロッパは「冷戦の再現か」と緊張している。わが歯は、快調だが。

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