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歯、わが闘争

 「当診療所のプライドにかけて、全力で治療します」。30代の若々しい歯科医は、頼もしい言葉を発してくれた。忘れもしない、1991年4月のことだ。当時のソ連共産党書記長ゴルバチョフが、日本へやってくる少し前のことだった。「新思考外交」をかかげて登場したゴルバは、日本でも大変な人気だった。

 読売新聞の世論調査部にいたぼくは、数日後、ゴルバ訪日にあわせた日ソ共同世論調査を実施するため、モスクワへ出張することになっていた。読売の東京本社ビルのなかには診療所があり、内科などのほか歯科もあった。勤務の空き時間に治療をしてもらえるので、とても便利だった。

 ぼくが、青年医師にモスクワ行きの話をすると、がぜん張り切って、出張までに何とか治療を終えることを宣言したのだった。

 日本は春でもモスクワは吹雪の日々だった。ソ連邦が崩壊する直前で、通貨はルーブルと米ドルがごちゃ混ぜに通用した。米ドルの価値はめちゃくちゃ高く、それを両替したルーブルで買い物ができれば、日本人をふくむ外国人にとっては只みたいに安かった。国が滅びるときは、そうした混乱がつきものだ。

 ある老舗のロシア料理店へ行くと、ラッキーなことにルーブル払いでいいという。取材で知り合ったロシア人とふたりで、絶品のロシア料理を思い切り味わった。有名なグルジアワインのボトルを空けても、ふたり合わせて2千数百円というウソみたいな額ですんだ。歯は快調で、料理をじゅうぶんに味わうことができた。

 高齢者が、若いときに治しておけばよかった、と一番後悔するのが歯の治療だという。

 そういうことも知らない33歳のとき、インドへ赴任する前に「歯をチェックしてもらったほうがいい」と先輩同僚にアドバイスされ、調布市の自宅近くの歯科クリニックへ行った。近いからという理由だけで選んだのだが、歯科医が40歳手前くらいのすごい美人でしかも優しく、ラッキーだった。

 インド赴任の事情を話すと、全部の歯をチェックしたあとで、「虫歯とかは特にないですが、親知らずが生えそうだったら、いまのうちに抜いておいたほうがいいでしょう」と言った。レントゲンを撮ってもらったら、左の奥にそのうち顔を出しそうな親知らずがあるという。もちろん、その場で抜いてもらった。

 いざ、ニューデリーへ赴任して、いやというほど医療レベルの低さを味わった。もし、親知らずが在任中に痛んでいたらと思うと、いまでもぞっとする。幸い、3年間のあいだ、歯科には一度もかかることなく帰国できた。あの美人歯科医も、いまでは前期高齢者になっているのだろうが、できることなら、もう一度お会いしたいほどだ。

 それから約10年後、ベルリンで歯が痛くなった。助手に評判のいいクリニックを聞いて飛んで行った。そこの歯科医は50歳くらいの男性だった。ぼくの口の中をのぞいて、なぜか歯科衛生士など女性スタッフ2、3人を呼んだ。

 「ほら、見てごらん。これが日本の技術の高さだよ」

 もちろんドイツ語で、やたらぼくの歯の治療のあとをほめている。日本では、明治以来の先入観なのかもしれないが、ドイツの医療はレベルが高いと信じられている。でも、ケースによっては、日本のほうがずっと高いように思えることもあった。ぼくの歯も「読売診療所の名誉にかけて」治してもらっただけのことはあった。

 時は流れ、出雲へUターンしてしばらくしたとき、かみさんの歯のかぶせ物がとれた。暇だったので散歩がてらいっしょに歯科へ行き、ぼくの歯も点検してもらった。「左下の歯茎がちょっと痛い」と言うと、レントゲンを撮られた。歯茎が炎症していると言われ、かぶせてあった金属を取り除き、神経の穴に薬を注入してふたをされた。ついでに歯石も取ってもらった。すべての治療が終わるまで7、8回は通った。

 それから、3か月後、右あごの付け根が痛くてろくに食事もできなくなり、口腔歯科をネットで探して行った。そこには最新式の設備があり、上下すべての歯を立体的に撮影するレントゲンを撮られた。

 あごの痛みは、関節痛ではなく筋肉痛だとわかった。痛み止めをもらい、数日間、固い物を避けていると痛みが治った。

 ところが、前の歯科で左下の治療をしてもらったはずのところに、薬がちゃんと注入されていないことがわかった。さらに、歯石もきちんと除かれていないという。では、あの何日も通った前の歯医者はなんだったのか。はっきり言って、ヤブだったことになる。

 「薬を注入してもらったときに、2年間の保証書が発行されているはず」と言われたが、いまさらヤブ医者にかかる気にはなれない。結局、もう一度、最初から治療をしなおしてもらうことにした。

 その最新のクリックでは、歯肉をめくって歯石を取られた。ちょっとした拷問のように痛いが、そこまでしないと歯石はちゃんと取れず、歯周病の原因が残ると言われた。

 ぼくがモスクワへ出張してから8か月後に、ゴルバのせいでソ連邦は崩壊した。米ソ冷戦は終わり、世界はすっかり変わった・・・はずだった。しかしいま、ウクライナ情勢をめぐり、ヨーロッパは「冷戦の再現か」と緊張している。わが歯は、快調だが。

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