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2014年12月

ケダモノという言葉があるが

 社会的地位も名誉もある大のおとなが、痴漢行為などをして人生を棒に振ったというニュースが後を絶たない。なんでそんなことをするの、と不思議に思っているひとは少なくないだろう。最近、その理由がわかって、なるほどそうなのかと得心がいった。

 産経新聞電子版によると、2014年12月24日、東京都教育委員会は、スマートフォン向け無料アプリLINEを使って女子生徒に「抱かせろ」などと迫った都立高校の男性教員(30)を懲戒免職処分にした、と発表した。

 都教委によると、高校教員は昨年4〜5月、同校の女子生徒にラインで計170件のメッセージを送信した。「抱かせろ」「嫉妬すんなよ」などとわいせつな内容が含まれていたほか、別の女子生徒が自分の顔写真をネットに投稿したことに憤慨し、ラインで「おれが警察に言えば、停学退学になる」などと脅した。

 また、「スカートが短い」などと生徒指導を装い、女子生徒を校内でひざ立ちにさせ、スマートフォンの動画機能を使ってスカート内を盗撮した区立中学の男性教員(29)も懲戒免職にするなど、都教委は教員計5人を処分した。

 高校教員は「立場をわきまえず、友人ののりで接してしまった」。中学教員は「ストレスがあり、スリルに満足感を得ていた」などと話したという。都教委は、このほか教育実習生に対するセクハラで中学教諭1人を停職処分にした。

 あ~あ、ガッコの先生たちがまたやっちゃったか。

 脳のメカニズムと性衝動とは密接な関係にあることが、近年の脳科学の研究でわかってきているそうだ。

 J-CASTニュースは、以前、わいせつ行為の改善相談も行っている「カウンセリングオフィスAXIA」代表・衣川竜也さんの話を紹介していた。それによると、男性は早くも小学校低学年から性欲が芽生えるそうで、高校までに一気にピークに駆け上がる。そう言えば、小学校のころ、なんで男女は別々の風呂に入らなければならないんだろう、と疑問を持ったことを覚えている。そして、大人の女性の裸を想像すると、オチンチンが固くなる。男子なら誰でも経験することだろう。

 性への興味、関心は高まっているのに、性的な接触を持てる環境になく、想像を膨らませるだけの時期がある。そして、その時期の性的な興味が女性の体や性器ではなく、下着に向いたりすると、それが「性的嗜好」となるという。下着フェチが世の中にたくさんいることを知ったのは、かなり大人になってからだった。自分にはそういう趣味はなく、不思議に思っていた。

 衣川さんは「男性は大なり小なりそうした嗜好を持っている」と話したようだ。そうなのだろうか。下着よりその中身のほうがいいと、個人的には思うのだが。そういう話をかみさんにしたら、「中身にありつけない男性が、しょうがないから下着に執着するんじゃないの」と言われた。一理あるが、性的嗜好というのは複雑なものだ。

 それにしても、なぜ、ひとによっては性的な興味が性器ではなく下着にいったりするのだろう。J-CASTニュースの記事にはその理由が書かれていない。肝心なのは次の点だ。
 強いストレスを受けると、その性的嗜好が爆発してしまうことがあるというのだ。

 この点が脳科学によって説明されている。人間の脳は、呼吸や循環、消化など基本的な生命機能をつかさどる「脳幹」、感情や性欲を含めた欲求などをつかさどる「大脳辺縁系」、理性的な思考や感情のコントロールなど人間的な活動を行う「大脳皮質」の3層構造からなる。

 そして、なんらかの心理的ストレスがあると、最も外側にある大脳皮質がダメージを受けやすく、生命にかかわる活動をしている脳幹と大脳辺縁系の働きはむしろ活性化するという。つまり、本能的な部分は活発になり、それをコントロールする部分の活動は落ち込むことになる。それによって、理性の利かない突発的な行動が起きやすくなる。盗撮など非理性的な行為をしてしまう人は、そういう状態に陥っている場合が多いそうだ。

 最近、仕事で必要があって、脳科学・神経科学の世界的権威アントニオ・R・ダマシオの大冊『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』を読破した。この本でくり返し出て来るのが、進化生物学の研究成果だ。どんな進化によってわれわれ人類が生まれたかが、脳の機能を中心に語られている。脳の中心部にある脳幹などは進化の早い段階でできた“動物的”なもので、その周りにある大脳辺縁系が次に出現し、進化の最終段階でできたのが大脳皮質だそうだ。

 人間が人間社会で平穏に暮らしていけるのは、ケダモノ的なものを理性でくるんでコントロールしているから、ということになる。ストレスといういかにも人間的なものによって大脳皮質がダメージを受けるのは、ある意味で皮肉だ。もうひとつの皮肉は、地位や名誉、職や収入、家族など、失うものが多いひとほどストレスも抱えやすいことだ。

 人生を棒に振ってしまわないためには、いかにストレスを発散するかが重要となる。もし、既婚の中高年男性がそうした大失敗を犯したのなら、夫婦関係がうまくいっていないからと推察でき、妻にも責任がある。独身男性なら、早く彼女を作らなければだめだ。

 脳科学の知識は、ケダモノ性の制御に少しは役立つだろうか。

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出雲の赤いテープ

 英語に「レッドテープ」という言葉がある。その昔、たぶん大英帝国でのことだろうが、役所で公文書を赤いひもで縛ったのが語源だそうだ。転じて、官僚的形式主義とか官僚的で面倒な手続きという意味で使うようになった。

 この言葉を初めて知ったのは、インドのニューデリーに赴任してまもなくだった。たとえば、日本の実家からうちの子どもに日本製のおもちゃが送られてきたとする。ニューデリー中心部にある外国郵便局から、何かが日本から送られてきた、という通知状が届く。その時点で関税額が記入されているときもあるが、たいていは、外国郵便局へ出向いて郵送された物を自分で確認する。ああこれはおもちゃだなと思ったら、商品の適当な金額を書いた上申書のようなものを書くことになる。

 上申書と言ってもそれ用の用紙があるわけではなく、ざら半紙を1枚渡され、そこに自分はどこそこに住む誰それで、これこれの郵便物がきたので関税を払い受け取りたい、と書いていく。もちろん英語でなければならず、タイプライターもないから手書きだ。

 それは郵便物の封を開けるまえの話で、日本から何が送られてきたのかはあらかじめ知っておかなければならない。そして、局の係官のまえで開封するのだが、中の製品がインド人の目から見て申告額より相当高そうなら、ひともんちゃく起きることになる。

 薄暗い、インド人の体臭が臭う古ぼけただだっ広い外国郵便局などで、日常的にこんな交渉をするはめになった。そのおかげで、けんか腰の英語はけっこううまくなったが。

 父が亡くなり、インドでのようなレッドテープ体験を、わが郷里・出雲ですることになるとは思ってもみなかった。「これからの手続きが大変だよ」とひとから言われたが、事務処理能力にはいささか自信があったから、まあ大丈夫だろう、とたかをくくっていた。

 だが、甘かった。故人の口座は、死亡届が出されるとすぐに凍結される。そのため、口座引き落としになっていた公的な支払いがすべて現金払いになる。出雲市役所からは「後期高齢者医療保険料」と「国民健康保険料」の請求書がきた。ひとつはコンビニ払いOK、ひとつはコンビニNGだった。おなじ市役所でもこういうふざけたことをして平気なのだ。わざわざ、混雑している郵便局へいくはめになった。

 父から相続するものとしては、家とその宅地、ささやかな田んぼと畑がある。相続するためには、故人が生まれてから死ぬまでのすべての戸籍謄本をそろえなければならない。故人が認知していた隠し子がいたりすれば、その子にも相続権があるからという。

 近所のひとに聞いたり、最近やはり父を亡くした奈良の親友にメールで問い合わせると、「司法書士に任せたほうがいいよ」という。それならということで、かみさんを連れてある司法書士事務所へ行った。

 相手はプロだからテキパキと話を進めてくれた。その司法書士さんは女性で、兵庫県西宮市出身というコテコテの関西人だった。夫の仕事の関係で8年前に出雲にきたというのだが、どうも出雲の風土が合わないようだ。こっちがUターン組だと知ると、出雲の悪口を機関銃のように連射した。

 なかでも、相続の手続きの“出雲式”のややこしさを聞かされてげんなりしてきた。不動産関係はすべて司法書士に任せればいいのだが、預貯金は自分でやるしかないそうだ。

 父は、4つの金融機関を利用していた。その一つひとつに行って、相続人関係図などを書かされ、さらに申請用紙をもらう。金融機関によって要求する書類がちがうので、それをまちがえず必要部数そろえるのが大変だ。

 ゆうちょ銀行の場合、窓口で書類を数枚書いたのに「中央のセンターから用紙を自宅に送付することになっています。1週間かかります」とそっけない。ある信用金庫では、相続人すべての印鑑証明の原本がないと手続きはできないという。JAはさらにややこしい。父の場合、母と兄妹も相続人だが、印鑑証明を計何通ずつもらえばいいかまだわからない。

 文字通り連日、金融機関や市役所などを回っているのに、まったく見通しが立たない。ぼくのあるいとこはフルタイムの勤務をしながら相続手続きをしたので、完了までに3年かかったという。たぶん本当の話だろう。

 一番ふざけていたのは、母の遺族年金を代理申請するために出雲年金事務所へ行ったときだった。市役所でどんな書類が必要か確認して入手し、母の施設へ行って委任状を書いてもらい、紛失した年金手帳の代わりに健康保険証があればいいということも電話で確かめたうえで出かけた。だが、冷酷な感じの女性職員は、父と母が「同一生計だったことを証明する書類が必要だ」と言い張った。たしかに、両親は晩年、別々の施設に入っていたが、住民票の住所もいっしょだ。両親のそれぞれの年金額をみれば同一の生計でなきゃ母の施設の費用も払えないことはすぐにわかる。

 同一生計を証明する書類には、「3親等以外」の人物の署名捺印が必要だという!そんな赤の他人が、うちの両親が同一生計だったことをどうやって知っていたというんだろう。

 あまりの馬鹿さ加減に「こんな手続き、納得はできませんが、誰かの署名捺印があればいいんでしょ。持ってきますよ」と啖呵を切って席を立った。

 奈良の親友にメールで愚痴ったら「そんなこと、こっちはなかったよ」と呆れていた。住所、名前を書き捺印する各種申請用紙の総数は、軽く100枚を超えることになるだろう。

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焼骨という手があったのか

 ある夜の8時前、施設にいる母から電話がかかってきた。NHKクローズアップ現代の「どう決める?最期の時 延命治療の現場で」を観ていてかけたという。用件は1点だった。「私の延命治療はしないで」。それはもう何度も聞いていたことではある。

 奈良市に住む親友のお父さんが、亡くなられた。大阪での姪の結婚式に出席したあと、ついでだからかみさんと奈良へ遊びに行こうと思っていた直前のできごとだった。お父さんは数えで93歳だったという。もう少し若いと思っていた。昼食ができるのを待っていた食卓で、突然、息絶えたそうだ。安らかな大往生だったのだろう。

 3年半前に姉がパーキンソン病で死んで以来、老親を抱え、死が常に身近にある。大阪の結婚式できょうだいが集まったときも、還暦を過ぎた自分たちのことをふくめ、何となく葬式のことが話題になった。

 先日、突然、父がやはり数え93歳で亡くなった。両親はふつうの仏教式の葬儀を望んでいるようだったので、父も葬祭会館での仏教式で送った。

 だが以前から、日本の葬式仏教にはどうも引っかかるものがある。戒名料金をふくめて、葬儀費用の全国平均が189万円、近畿地方ではさらに高く211万円にものぼるという。生臭坊主、葬祭業界よ、ふざけるな。父の場合は、まだ最終集計はできないが、全国平均よりかなり少なく済みそうで常識的と言えるだろう。

 かつてスリランカに出張したとき、民族紛争で亡くなった仏教徒シンハリ人の葬儀を取材したことがある。いわゆる小乗仏教の僧侶らによる読経の雰囲気は日本とそう変わらなかったが、戒名などというものはなく、葬儀費用もごくわずからしかった。

 日本では、なぜ釈迦の説いた本来の仏教とは無縁の葬式仏教が一般的で、しかも法外な戒名料を取る坊主もいるのか、かねてから疑問に思っていた。週刊新潮で仏教思想家ひろさちやさんの記事「終活なんてしなくていい!」を読み、その疑問がだいたい解けた。

 キリシタンを禁じた徳川幕府は、庶民がこっそり信仰しないよう仏教の寺院に監視させる寺請け制度を作り、全国民をどこかの寺に登録させて檀家にした。そのついでに、仏教のお坊さんに檀家の葬式をやらせた。

 それまで、僧侶は庶民の葬式には関わっていなかったが、幕府に命じられたので、僧侶仲間が死んだときの方法を転用した。死者をまず出家者にするため、出家者名である戒名を与えることにした。にわか出家者である死者は、仏教者になったわけで、仏教の知識を持たなければならないと僧侶は考えた。それが葬式における読経なのだという。

 ひろさちやさんは、こう書いている。「僧侶の読むお経はちっとも意味が分からないと不評であるが、なにあれは死者に対する特訓だから、遺族や参列者に分かる必要はないのである」

 これがいまに残る葬式のルーツなのだそうだ。「戒名なんて馬鹿馬鹿しいと思えば、やめればよいのだ。わたしはそう考えている」。そう言うひろさんは、自分の葬式は自分ではできないから、遺族の仕事であることをはっきりさせておくべきだ、とも指摘している。

 日本人がふつうに考えている鎮魂の儀礼は、もともと神道のものだそうだ。だから、日本の仏教は「葬式神道」になってしまったという。

 インドのヒンドゥー教徒は、輪廻転生を信じ、死者は死後49日目に別個な生命体に生まれ変わるとする。必ずしも人間に生まれ変わるとはかぎらず、牛や馬、あるいは昆虫かもしれない。別の生命体になるのだから永続する霊魂を信ずることはなく、遺体を火葬にし遺骨や焼け残った遺体の一部は川に流してしまう。だから、ヒンドゥー教徒の墓はない。いっさいを無にするのがヒンドゥー教のやり方だ。

 日本の葬式仏教には年忌法要として十三回忌や三十三回忌などがあるが、ひろさんに言わせれば、そういうのは馬鹿げているそうだ。もし故人が人間に転生していれば、三十三回忌のときにはすでに壮年で、読経をしているお坊さんそのひとかもしれないからだ。

 釈迦の遺骨を祀っているとされる寺院の仏塔(ストゥーパ)はわが国にもたくさんある。釈迦は悟りを開いてブッダになりふたたび輪廻の世界には生まれないから墓を作ってもいいのだという。「悟りを開いてブッダになっていないわれわれが墓を作るのは厚かましい限りである」

 前々から思っていたのだが、同様に、ひとは死んで「成仏」するという考え方も不遜ではないか。死んだからと言って「仏に成る」はずはないからだ。死者を「仏さん」と呼ぶのも本来ならおかしい。

 先日、町内の忘年会で、近所のおじいさんは「自分のときは山に散骨して欲しいと思っている」と言っていた。ひろさんによれば、あれこそ本来の仏教徒のやり方だそうで、「おそらくこれからは散骨が主流になりそうだ」としている。

 散骨よりもっといいのは、遺体を焼くときに火力を高めて骨の形に残さずすべて焼いてしまう「焼骨」だそうだ。いまの法律でできるかどうかは知らないが、墓の心配をする必要がなくなるのはたしかだ。

 火葬場から墓へ直行する「直葬」よりさらに簡単で、葬式仏教を打破する革命的習俗になる可能性を秘めている。習俗なんてじつはすぐに変化するものだ、とひろさんも言う。

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父は眠るように逝き、弔砲は二度鳴る

 出雲のわが家がある辺りは、お通夜という風習がない。それでも、葬儀の前夜、ぼくの兄妹や近い親戚のひとたちが集まって、父の柩の横でささやかな宴を催した。

 わが家の庭先には湯谷川が流れ、その向こうは、中井貴一さん主演の映画『レイルウェイズ』で描かれた一畑電車が走っている。映画では、線路脇のたき火の煙に、乗客があわてて窓を閉めるシーンがあるが、それはうちのたき火がモデルだ。

 宴の合間にも、さまざまなひとが駆けつけてくれた。わが家を建てその後もメンテナンスなどをしてくれている大工のOさんが、弔問に顔を出してくれたときだった。松江温泉駅から出雲市駅に向う電車が、長い警笛を鳴らして通り過ぎていった。そういうことはまずないので、どうしたんだろう、と思っていた。

 お通夜もどきの席には、九州の福岡市から車で飛んで帰った兄と北海道から飛行機を乗り継いできた兄の長男もいた。ふたりとも自他共に認める電車マニアだ。

 「いまの長い警笛は、弔砲のつもりで運転手さんが鳴らしてくれたんじゃないか」という話になった。わが家の玄関は東向きで、葬儀社が「御霊燈」と書かれた大きな提灯を掲げていた。松江方面から西に向けて走ってくれば、運転手さんにはいやでも目に入る。“弔砲”を鳴らしてくれた可能性は大いにある。

 兄は、中学生のとき、松江まで電車通学していて、いつも運転席近くに立って電車マニアぶりをみせていたことから、運転手さんとはすっかり顔見知りになったという。兄が家の庭先にいてやって来た電車に手を挙げると、運転手さんも手を挙げてくれる仲だったそうだ。その運転手さんはとっくに定年で引退しているのだろうが、わが家の故人のために誰かが警笛を鳴らしてくれたと思うと、何だか温かい気持ちになった。出雲というのは、そういう土地でもある。

 2014年11月25日は、両親の結婚65周年記念日だった。腎臓を患い父とは別の施設にいる母を大学病院に連れて行った日で、母はそのことを口にしていた。そして、翌26日はぼくの61歳の誕生日だった。スマホのLINEやフェイスブックで、たくさんのひとからおめでとうと祝福され、幸せな一日になりそうだった。

 ささやかな誕生パーティをするため、夕方にはかみさんとふたりで博多料理を食べに行った。自宅に帰ってまもなく、父のいる施設から電話が来た。「熱が38度ほどあり呼吸も少しきつそうなので、かかりつけ医の指示で119番しました」

 幸いかみさんは一滴も飲んでいなかったから、近くの病院へ車で駆けつけた。当直医がCT検査をしたところ肺炎が進行しており、そのまま入院して様子を見ることになった。とはいえ、今日明日にどうにかなることもなさそうで、ぼくたちはいったん帰宅した。

 翌朝、病室を訪れると、父は点滴のチューブと酸素マスクをつけたまま、「なんでわしが入院せんといけんのか。家に帰って晩酌がしたい」と、いつもの台詞を口にするほどしっかりしていた。「ああ、元気になったらね」と適当に聞き流して、かみさんと帰宅した。

 それでも、いつ何があるかはわからない。いまのうちに車のタイヤをスタッドレスに替えてもらうため、車に運び込み、昼食後にタイヤ専門店へ向おうとした。そのとき電話が鳴った。看護師さんがあせっていた。「呼吸が止まりました。すぐに来てください!」

 10数分後には病室へ着いた。父の呼吸は止まったままで、モニター画面が心臓のか細い動きを伝えていた。やがて主治医の内科医が入って来て、まもなくモニターがピーッと鳴り数字は0になった。眠るような大往生だった。11月27日午後12時53分だった。

 葬儀社やお寺、兄妹、町内の隣家などへの連絡でばたばたとなった。一番心配なのは、心身ともに調子が良くない母に、いつどういう形で伝えるかということだった。滋賀県大津市から夫と車で帰るという妹に、その大役を頼むことにした。翌金曜日午後、妹夫婦は母の施設へ直行し、すべてを話したあとでわが家へ母を連れ帰った。幸い、母は取り乱すこともなく気丈にふるまい、入棺の儀式にも参加した。

 その数日前の夜、突然、母はぼくたち夫婦を電話で呼び出し、「葬式にはまとまった現金がいるから、私の定期を崩して金庫に入れておきなさい」と言った。母は、死期を感じているようで、一時帰宅するたびに身辺整理をしていた。その現金が父の葬儀に役だった。

 父は、小学5年のとき、叔母の嫁ぎ先へ養子に入った。すぐに養父が病死し、小学生にして家督を継ぐことになった。女手ひとつで東北帝國大学まで出してもらった恩から、中央で活躍する道を選ばず、養母の元へ帰って高校教師になった。結婚し2男2女をもうけたが、養母つまりぼくたちの祖母は明治生まれの厳しいひとで、母には辛く当たった。そういうときも、養母コンプレックスのある父は毅然とした態度をとれず、家庭不和をおさめられなかった。

 生きるのに不器用で融通のきかないところもあったが、清廉潔白で一生を通したのはまちがいない。子と孫たちの誇りであり、DNAとして引き継ごうとも思う。

 葬儀などすべてが終わった日曜日の夕方、妹は京都行きの高速バスで帰ることになった。ぼくとかみさんと息子でバス停まで送った。ぼくたちは、バスが大きくターンして遠ざかるのを手を振って見送った。運転手さんは、ホーンを少し長く鳴らしてくれた。
 それが、父の霊への二発目の弔砲に聞こえた。

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