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父は眠るように逝き、弔砲は二度鳴る

 出雲のわが家がある辺りは、お通夜という風習がない。それでも、葬儀の前夜、ぼくの兄妹や近い親戚のひとたちが集まって、父の柩の横でささやかな宴を催した。

 わが家の庭先には湯谷川が流れ、その向こうは、中井貴一さん主演の映画『レイルウェイズ』で描かれた一畑電車が走っている。映画では、線路脇のたき火の煙に、乗客があわてて窓を閉めるシーンがあるが、それはうちのたき火がモデルだ。

 宴の合間にも、さまざまなひとが駆けつけてくれた。わが家を建てその後もメンテナンスなどをしてくれている大工のOさんが、弔問に顔を出してくれたときだった。松江温泉駅から出雲市駅に向う電車が、長い警笛を鳴らして通り過ぎていった。そういうことはまずないので、どうしたんだろう、と思っていた。

 お通夜もどきの席には、九州の福岡市から車で飛んで帰った兄と北海道から飛行機を乗り継いできた兄の長男もいた。ふたりとも自他共に認める電車マニアだ。

 「いまの長い警笛は、弔砲のつもりで運転手さんが鳴らしてくれたんじゃないか」という話になった。わが家の玄関は東向きで、葬儀社が「御霊燈」と書かれた大きな提灯を掲げていた。松江方面から西に向けて走ってくれば、運転手さんにはいやでも目に入る。“弔砲”を鳴らしてくれた可能性は大いにある。

 兄は、中学生のとき、松江まで電車通学していて、いつも運転席近くに立って電車マニアぶりをみせていたことから、運転手さんとはすっかり顔見知りになったという。兄が家の庭先にいてやって来た電車に手を挙げると、運転手さんも手を挙げてくれる仲だったそうだ。その運転手さんはとっくに定年で引退しているのだろうが、わが家の故人のために誰かが警笛を鳴らしてくれたと思うと、何だか温かい気持ちになった。出雲というのは、そういう土地でもある。

 2014年11月25日は、両親の結婚65周年記念日だった。腎臓を患い父とは別の施設にいる母を大学病院に連れて行った日で、母はそのことを口にしていた。そして、翌26日はぼくの61歳の誕生日だった。スマホのLINEやフェイスブックで、たくさんのひとからおめでとうと祝福され、幸せな一日になりそうだった。

 ささやかな誕生パーティをするため、夕方にはかみさんとふたりで博多料理を食べに行った。自宅に帰ってまもなく、父のいる施設から電話が来た。「熱が38度ほどあり呼吸も少しきつそうなので、かかりつけ医の指示で119番しました」

 幸いかみさんは一滴も飲んでいなかったから、近くの病院へ車で駆けつけた。当直医がCT検査をしたところ肺炎が進行しており、そのまま入院して様子を見ることになった。とはいえ、今日明日にどうにかなることもなさそうで、ぼくたちはいったん帰宅した。

 翌朝、病室を訪れると、父は点滴のチューブと酸素マスクをつけたまま、「なんでわしが入院せんといけんのか。家に帰って晩酌がしたい」と、いつもの台詞を口にするほどしっかりしていた。「ああ、元気になったらね」と適当に聞き流して、かみさんと帰宅した。

 それでも、いつ何があるかはわからない。いまのうちに車のタイヤをスタッドレスに替えてもらうため、車に運び込み、昼食後にタイヤ専門店へ向おうとした。そのとき電話が鳴った。看護師さんがあせっていた。「呼吸が止まりました。すぐに来てください!」

 10数分後には病室へ着いた。父の呼吸は止まったままで、モニター画面が心臓のか細い動きを伝えていた。やがて主治医の内科医が入って来て、まもなくモニターがピーッと鳴り数字は0になった。眠るような大往生だった。11月27日午後12時53分だった。

 葬儀社やお寺、兄妹、町内の隣家などへの連絡でばたばたとなった。一番心配なのは、心身ともに調子が良くない母に、いつどういう形で伝えるかということだった。滋賀県大津市から夫と車で帰るという妹に、その大役を頼むことにした。翌金曜日午後、妹夫婦は母の施設へ直行し、すべてを話したあとでわが家へ母を連れ帰った。幸い、母は取り乱すこともなく気丈にふるまい、入棺の儀式にも参加した。

 その数日前の夜、突然、母はぼくたち夫婦を電話で呼び出し、「葬式にはまとまった現金がいるから、私の定期を崩して金庫に入れておきなさい」と言った。母は、死期を感じているようで、一時帰宅するたびに身辺整理をしていた。その現金が父の葬儀に役だった。

 父は、小学5年のとき、叔母の嫁ぎ先へ養子に入った。すぐに養父が病死し、小学生にして家督を継ぐことになった。女手ひとつで東北帝國大学まで出してもらった恩から、中央で活躍する道を選ばず、養母の元へ帰って高校教師になった。結婚し2男2女をもうけたが、養母つまりぼくたちの祖母は明治生まれの厳しいひとで、母には辛く当たった。そういうときも、養母コンプレックスのある父は毅然とした態度をとれず、家庭不和をおさめられなかった。

 生きるのに不器用で融通のきかないところもあったが、清廉潔白で一生を通したのはまちがいない。子と孫たちの誇りであり、DNAとして引き継ごうとも思う。

 葬儀などすべてが終わった日曜日の夕方、妹は京都行きの高速バスで帰ることになった。ぼくとかみさんと息子でバス停まで送った。ぼくたちは、バスが大きくターンして遠ざかるのを手を振って見送った。運転手さんは、ホーンを少し長く鳴らしてくれた。
 それが、父の霊への二発目の弔砲に聞こえた。

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