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焼骨という手があったのか

 ある夜の8時前、施設にいる母から電話がかかってきた。NHKクローズアップ現代の「どう決める?最期の時 延命治療の現場で」を観ていてかけたという。用件は1点だった。「私の延命治療はしないで」。それはもう何度も聞いていたことではある。

 奈良市に住む親友のお父さんが、亡くなられた。大阪での姪の結婚式に出席したあと、ついでだからかみさんと奈良へ遊びに行こうと思っていた直前のできごとだった。お父さんは数えで93歳だったという。もう少し若いと思っていた。昼食ができるのを待っていた食卓で、突然、息絶えたそうだ。安らかな大往生だったのだろう。

 3年半前に姉がパーキンソン病で死んで以来、老親を抱え、死が常に身近にある。大阪の結婚式できょうだいが集まったときも、還暦を過ぎた自分たちのことをふくめ、何となく葬式のことが話題になった。

 先日、突然、父がやはり数え93歳で亡くなった。両親はふつうの仏教式の葬儀を望んでいるようだったので、父も葬祭会館での仏教式で送った。

 だが以前から、日本の葬式仏教にはどうも引っかかるものがある。戒名料金をふくめて、葬儀費用の全国平均が189万円、近畿地方ではさらに高く211万円にものぼるという。生臭坊主、葬祭業界よ、ふざけるな。父の場合は、まだ最終集計はできないが、全国平均よりかなり少なく済みそうで常識的と言えるだろう。

 かつてスリランカに出張したとき、民族紛争で亡くなった仏教徒シンハリ人の葬儀を取材したことがある。いわゆる小乗仏教の僧侶らによる読経の雰囲気は日本とそう変わらなかったが、戒名などというものはなく、葬儀費用もごくわずからしかった。

 日本では、なぜ釈迦の説いた本来の仏教とは無縁の葬式仏教が一般的で、しかも法外な戒名料を取る坊主もいるのか、かねてから疑問に思っていた。週刊新潮で仏教思想家ひろさちやさんの記事「終活なんてしなくていい!」を読み、その疑問がだいたい解けた。

 キリシタンを禁じた徳川幕府は、庶民がこっそり信仰しないよう仏教の寺院に監視させる寺請け制度を作り、全国民をどこかの寺に登録させて檀家にした。そのついでに、仏教のお坊さんに檀家の葬式をやらせた。

 それまで、僧侶は庶民の葬式には関わっていなかったが、幕府に命じられたので、僧侶仲間が死んだときの方法を転用した。死者をまず出家者にするため、出家者名である戒名を与えることにした。にわか出家者である死者は、仏教者になったわけで、仏教の知識を持たなければならないと僧侶は考えた。それが葬式における読経なのだという。

 ひろさちやさんは、こう書いている。「僧侶の読むお経はちっとも意味が分からないと不評であるが、なにあれは死者に対する特訓だから、遺族や参列者に分かる必要はないのである」

 これがいまに残る葬式のルーツなのだそうだ。「戒名なんて馬鹿馬鹿しいと思えば、やめればよいのだ。わたしはそう考えている」。そう言うひろさんは、自分の葬式は自分ではできないから、遺族の仕事であることをはっきりさせておくべきだ、とも指摘している。

 日本人がふつうに考えている鎮魂の儀礼は、もともと神道のものだそうだ。だから、日本の仏教は「葬式神道」になってしまったという。

 インドのヒンドゥー教徒は、輪廻転生を信じ、死者は死後49日目に別個な生命体に生まれ変わるとする。必ずしも人間に生まれ変わるとはかぎらず、牛や馬、あるいは昆虫かもしれない。別の生命体になるのだから永続する霊魂を信ずることはなく、遺体を火葬にし遺骨や焼け残った遺体の一部は川に流してしまう。だから、ヒンドゥー教徒の墓はない。いっさいを無にするのがヒンドゥー教のやり方だ。

 日本の葬式仏教には年忌法要として十三回忌や三十三回忌などがあるが、ひろさんに言わせれば、そういうのは馬鹿げているそうだ。もし故人が人間に転生していれば、三十三回忌のときにはすでに壮年で、読経をしているお坊さんそのひとかもしれないからだ。

 釈迦の遺骨を祀っているとされる寺院の仏塔(ストゥーパ)はわが国にもたくさんある。釈迦は悟りを開いてブッダになりふたたび輪廻の世界には生まれないから墓を作ってもいいのだという。「悟りを開いてブッダになっていないわれわれが墓を作るのは厚かましい限りである」

 前々から思っていたのだが、同様に、ひとは死んで「成仏」するという考え方も不遜ではないか。死んだからと言って「仏に成る」はずはないからだ。死者を「仏さん」と呼ぶのも本来ならおかしい。

 先日、町内の忘年会で、近所のおじいさんは「自分のときは山に散骨して欲しいと思っている」と言っていた。ひろさんによれば、あれこそ本来の仏教徒のやり方だそうで、「おそらくこれからは散骨が主流になりそうだ」としている。

 散骨よりもっといいのは、遺体を焼くときに火力を高めて骨の形に残さずすべて焼いてしまう「焼骨」だそうだ。いまの法律でできるかどうかは知らないが、墓の心配をする必要がなくなるのはたしかだ。

 火葬場から墓へ直行する「直葬」よりさらに簡単で、葬式仏教を打破する革命的習俗になる可能性を秘めている。習俗なんてじつはすぐに変化するものだ、とひろさんも言う。

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