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2015年1月

ぼたん鍋と愛妻に贈る歌

 出雲には、島根県立公園の立久恵峡という名勝がある。神戸川の渓流に沿って奇岩がそびえ、温泉も出る。いま往時の賑わいはないが、温泉旅館が2軒建っている。

 わが家へ出入りしている大工のOさんが企画して、その旅館のひとつでぼたん鍋を囲む会が開かれた。旅館は御所覧場(ごしょらんば)という珍しい名前だ。出雲松江藩の第7代藩主・松平治郷(まつだいら はるさと)の別荘地跡にちなんで命名されたそうだ。治郷は江戸時代の代表的茶人のひとりで、その号から不昧公(ふまいこう)として知られる。

 去年の初夏のある日、わが家の屋根と外壁の修理にきたOさんが、冬になったらぼたん鍋を食べに行こうと誘ってくれて、ぼくら夫婦はとても楽しみにしていた。

 旅館のマイクロバスが、迎えにきてくれた。参加者は、左官のMさん一家、俳優の石倉三郎さんによく似たTさん一家を加えた4家族15人で、バスに次々ピックアップしてもらい山あいへ入っていった。

 小一時間で立久恵峡へ着いた。ぼくたち夫婦がここへきたのは、インドから帰国した1990年の夏休み以来だから、じつに25年ぶりとなる。あのころ、うちの子どもたちはまだ赤ん坊で、なにも覚えてはいないだろう。親兄妹孫が一堂に集まったのは、いまふり返れば、その夏が最後だった。ぼくはわが子や甥っ子たちを連れて渓流で遊び、宴会では地元特産のカニの飴炊きや鯉の洗いなどを味わった。母は孫たちと花火をしてはしゃいだ。

 御所覧場2階の宴会場には、大きなガラス窓があった。夕闇が訪れるとライトアップされ、高さが50メートルはあろうかという奇岩の列が浮かび上がる。

 お楽しみのひとつは、その奇岩を観ながら入る露天風呂だった。旅館でタオルをもらいさっそく風呂に向った。一番乗りで岩風呂につかると、お湯がぬるい。真冬にしては気温がやや高く風もほとんど吹いていないから、どうにか入っていられたが、そうでなければ確実に風邪をひきそうだった。内風呂は、道路をはさんだ旅館内にある。

 Oさんたち男性4人もやってきた。Oさんは、さすがに大工で「ここの天井を支えてるのはこんな細い柱1本だけだね。地震がきたらひとたまりもないよ」。数年前、御所覧場のすぐ脇を5トンほどの巨岩が転がり落ちたことがあったそうだ。県はあわてて、他に落ちる恐れのある岩がないか調べたという。

 ほとんど体が暖まらないが、風呂からあがって宴会場へ帰った。テーブルには、すでに食事の用意が調っていた。出雲で捕獲したというイノシシの肉が、野菜を底に敷いた鍋にちょうど牡丹の花のように盛りつけられている。肉が牡丹色のため、ぼたん鍋と呼ばれている。

 生ビールで乾杯し宴会に突入した。ふだんは糖分を気にして焼酎を飲んでいるという左官のMさんも、「こういうごちそうのときは、やっぱ熱燗だよね」とちょこを傾けている。

 猪肉は柔らかく、甘い脂身が分厚く巻きついている。牛や豚とちがいイノシシやシカなどの脂身は健康にいいと聞いているので、思い切り食べまくった。猟師さんのなかには、この脂で質のいいハンドクリームや石鹸を作るひともいるという。でも、それはもったいないと思うほどに箸は進んだ。

 熱燗の徳利が10本ほど空いたところで、Oさんが若い参加者にカラオケを用意するよう指示した。大画面のテレビをモニターにしてカラオケ大会がはじまる。Oさんはかなり酔っていて、伴奏と歌の“時差”がひどい。いちおう画面を流れる歌詞をみてはいるが、「独自の戦い」という感じだった。それでも、自分が企画したぼたん鍋イベントを盛り上げようと一生懸命だ。

 失礼ながら、見かけによらず歌がうまいのが石倉三郎さん似のTさんだった。何曲か歌ったあとに、ぼくの知らない歌を選曲した。リフレインに♪お前はおれの宝物 お前はおれの宝物♪という歌詞がある。Tさんは、その部分を歌いながら自分の妻を見つめ手で指すのだった。

 Oさんが冷やかしたが、Tさんはまったく照れないでそれをくり返し、歌い終わった。いつものことなのか、奥さんも照れたようすはない。

 うちのかみさんが聞いたところ、Tさん夫婦は10数歳の「年の差婚」で、大学生の息子と高校を出て社会人になった娘がいる。感情や愛情をあまり表現しない日本人のなかでも、とりわけその傾向が強い出雲にあって、Tさんは例外中の例外ではないだろうか。酒席とはいえ愛妻ぶりを堂々と人前で示す姿は、とても新鮮で微笑ましかった。

 Tさんは、うちのかみさんにこう言ったという。「ぼくは幸せでねぇ。ほんとに、いつ死んでもいいと思ってますよ」。人生で最大の幸せは、相性のいい運命のひとと出会い、仲良くいっしょに暮らし、可愛い子どもや孫に恵まれ、楽しく生きていくことだ。

 ぼくがぼたん鍋を食べたのは33年ぶりだった。信州・伊那の山あいの旅館へひとりで泊まったときのことだ。その宿は作家の佐藤愛子先生が執筆するときに使っていると聞いて、行ってみた。作家を気取って原稿用紙とペンを持ちこみ、ひとり鍋のあと、あるひとに頼まれたエッセイを書いた。その作品『金木犀の話』が、数年後、ぼくとかみさんが結婚するキューピッドとなったのだった。ぼたん鍋はラッキーアイテムなのかもしれない。

 1月31日は「愛妻の日」だという。1がI=アイで、31をサイと読ませる。

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もう時効だから書ける、役得のテニス観戦

 東京「有明テニスの森公園」の敷地内にある有明コロシアムは、観客席1万を備え、開閉式の屋根を持つテニスの殿堂だ。上の方の席からでも、コートがよく見えファンにはたまらない。いつもは、緊迫した空気と歓声に包まれているが、その日は笑い声が絶えなかった。

 かみさんが正月に録画しておいてくれたテレビ朝日系「夢対決2015 とんねるずのスポーツ王は俺だ!!」を、やっと観る時間ができた。

 われらが錦織圭と、昨年、彼の専属コーチになって全米オープン準優勝、世界ランク5位に導いてくれたマイケル・チャンが、とんねるずと対戦する。熱血指導の松岡修造さんも、もちろん参戦する。

 とんねるずがまともに戦って勝てるわけはなく、さまざまな奇策が登場した。木梨憲武さんは、ラケットを2本持ち出して二刀流でコートを動き回る。一番笑えたのは、ネットをずらし、とんねるずのコートをうんと狭くして戦う新戦法だ。卓球の福原愛ちゃんがやらされたのを、テニスでも初めて取り入れた。有明コロシアムのネットポールは自由にずらせるようになっているのを、初めて知った。

 マイケル・チャンの少し広くなった額を見ながら、ちょうど20年前のことを思い出した。ドイツのフランクフルトで、現役ばりばりの彼が熱闘を演じたときのことだ。

 当時ぼくは、特派員としてボンに駐在していた。体育会系でショートヘアが似合うゲルマン美人の取材助手クラウディア嬢が、ぼくを誘惑するように言った。「今度、フランクフルトでATPツアー世界選手権があるんですけど、大会のプレスカード(記者証)を取って観にいったらどうですか?」。彼女もテニスが大好きだった。

 ATPツアー世界選手権というのは、いまで言うATPワールドツアー・ファイナルのことだ。ATPワールドツアーの年間最終戦で、レース・ランキングなどによりシングルス8人、ダブルス8組が選出され年間王者を決定する。

 ちょっと調べてみたら、第1回大会は、1970年に東京都体育館でペプシ・グランプリ・マスターズとして行われたそうだ。以降、名称を変えながら各国持ち回りで行われた。ぼくがボンにいたころは、何年かつづけてフランクフルトが会場になっていた。

 クラウディア嬢によると、新聞社のレターヘッドに申請書を書いて大会主催者に送れば、たぶんプレスカードはもらえるという。ぼくはスポーツ記者ではないが、ドイツ連邦政府新聞情報庁に登録した正式な外国人特派員だからだいじょうぶらしい。

 問題は、東京本社にどういう口実で出張申請をするかということだった。当時、ATPツアー世界選手権に出場できるような日本人選手がいるわけはなかったから、正攻法では許可が下りないだろう。

 そこで、動機は不純ではあるが、クラウディア嬢に協力してもらって、出張の口実探しをはじめた。そして見つかったのが、「ロスチャイルド家展」という催しだった。ロスチャイルド家は、言うまでもなく世界的財閥で、いまではアメリカのファミリーだと思われている。だが、そのルーツはフランクフルトにある。

 ロスチャイルドのスペルはRothschildで、「ロスチャイルド」は英語読みであり、ドイツ語読みでは「ロートシルト」となる。ロートシルト家は、神聖ローマ帝国自由都市フランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)で暮らすユダヤ人の家系だった。ロートシルト(赤い表札)の付いた家で暮らすようになってから、ロートシルトと呼ばれるようになった。やがて銀行業で財をなしたが、ナチスによって反ユダヤ主義プロパガンダの格好の標的とされたことなどから、亡命した。

 これだけの材料があれば、じゅうぶん記事が書ける。東京本社のほうはそれでOKだ。さっそくクラウディア嬢に申請書を書いてもらい、ぼくがサインして郵送すると、しばらくして取材許可が下りた。

 フランクフルトの大会会場で、ぼくの席は前から二番目だった。強打のピート・サンプラス、のちにハリウッド女優ブルック・シールズと結婚するアンドレ・アガシなど、そのころのスーパースターが次々と戦った。一番声援を受けたのは、ドイツ出身のボリス・ベッカーだった。何しろ弱冠18歳でウィンブルドンを制し、一躍、ドイツにテニスブームをもたらした栄光の選手だった。

 トッププロの試合を生で観るのははじめてだった。サーブは軽く200キロを超える。ある試合では、サーブに頭を直撃された線審がふらっとするシーンもあった。

 なかでも印象に残ったのが、マイケル・チャンだった。台湾系アメリカ人で、独特の粘り強さがあった。絶対に取れないだろうと思われるコートぎりぎりの球を、「ウッ、ウッ」と声を出しながら拾いまくる。決勝では、わずかの差でボリス・ベッカーに敗れたが、アジア系選手として堂々の戦いぶりだった。

 そのマイケル・チャンが専属コーチになったのだから、錦織圭が技術、メンタルとも格段に強くなったのはうなずける。

 とんねるずの番組では、アンドレ・アガシも登場した。すっかりおじさんになっていた。今度は、ATPワールドツアー・ファイナルで錦織圭の勇姿が観たい。

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新たな世界大戦は、もうはじまっているのか

 ドイツのボンへ特派員として赴任してすぐのころ、旧西ドイツの暫定首都だったその街で、こじんまりとした国際的イベントがあった。ヨーロッパを中心に各国の人びとが集い、「異文化の共生」をアピールするのが主旨だった。その野外会場には「寛容」というスローガンをドイツ語などで書いた大看板が掲げられていた。

 正直言って、日本からドイツへ来て間もないぼくには、そのスローガンはピンとこなかった。寛容ってなにが? なぜ、それがそんなに大切なのか?

 でも、ドイツに暮らしヨーロッパ各地へ出張して社会や文化を知るにつけ、寛容が決定的なキーワードであることに気づいた。

 そうした考え方のルーツは、ナチス・ドイツの過去にさかのぼる。ヒトラーとナチズムに染まったドイツ人たちは、ユダヤ人などを段階的に迫害した。ただユダヤ教を信じているというだけで、公の場へ出ることを禁じられ、私有財産を没収され、ついには、貨物列車に詰め込まれ、アウシュヴィッツなどのガス室へ送り込まれた。500万から600万人ものひとが虐殺されたとされる。いわゆるホロコーストの悲劇だ。

 異なる文化、宗教、民族に対して寛容であらねばならない、という考え方はそうした過去の反省から生まれた。そして、異文化との共生、寛容の精神は、ヨーロッパではくり返しくり返しアピールしなければならない価値観とされてきた。

 だが、そうした積み重ねはもろかった。寛容の精神崩壊への引き金を引いたのは、アメリカ同時多発テロ「9.11」だった。以来、キリスト教文化圏を中心に、イスラムへの警戒心、敵対心は人びとの心のなかでだんだんと増幅していった。

 そして、2015年1月7日、フランスの週刊紙『シャルリー・エブド』本社銃撃テロ事件が起き、フランスをはじめヨーロッパでは寛容の精神が吹っ飛んだような印象がある。

 報道によると、パリで行われた10日のテロ犠牲者を追悼する大行進では、50か国・地域の首脳をふくむ120万人以上が参加した。大通りは「私たちはシャルリー」と記された横断幕で埋め尽くされ、「自由を!」などのスローガンが街に鳴り響いた。シャルリー・エブドを表現の自由のシンボルとし、それへの連帯を示したものだ。

 だが、遠い日本の出雲の地からながめていると、フランス全土はいま、集団ヒステリーにかかっているように思えてならない。

 今回のテロ事件をめぐるさまざまな報道で改めて知ったのだが、フランスでは表現の自由をどこの国よりも強く尊重する伝統があるという。

 シャルリー・エブドのような風刺新聞を受け入れる素地も根強いそうだ。かの国で1830年と1848年の革命の発端となったのは、政治権力による新聞弾圧への反発だった。仮にそれが特定の宗教や文化を揶揄し、ときには他人を傷つけるとしても、それは風刺であり表現の自由として尊重しなければならないものだとする考え方が培われた。

 第2次世界大戦でナチス・ドイツがフランスを占領したときも、一部のフランス人は地下新聞を発行し対独抵抗をつづけた。戦後のフランス人は、それについて絶対的な誇りを抱いているのだという。ヴィシー政権という親独体制を作ったのもフランス人だったのだが、ひとは誇りを持って生きていくため、ときには歴史のごく一部を針小棒大に評価する。

 今回は、左派メディアも右派メディアも、イスラム過激派のテロは表現の自由に対する挑戦とし、一致団結している。

 テロの標的になったシャルリー・エブドは、イスラム教にかぎらずカトリックやユダヤ教などさまざまな宗教の風刺画を掲載してきた。特に、イスラムの予言者や信仰を低劣な絵でけなすだけでなく、それを毎年キャンペーンのようにつづけていたそうだ。

 それは、ヨーロッパのもうひとつの価値観である寛容の精神とは、ある意味で相容れない。シャルリー・エブドの実売部数は約3万にすぎなかったが、多くのフランス人が支持していた。その大半はキリスト教徒だったとみられる。キリスト教とイスラム教は共に一神教であり、神の観念で互いに受け入れられない根本的な溝がある。ヨーロッパではキリスト教徒が圧倒的多数派であり、就職や収入面でも有利だ。格差や差別が、たとえば、イスラム教徒移民の子どもが自暴自棄になりテロに走る動機となる。

 フランスの歴史人類学者エマニュエル・トッド氏(63)は、ぼくの友人でもある読売新聞編集委員・鶴原徹也君の国際電話インタヴューに答え、こんなことを語っている。
 「私も言論の自由が民主主義の柱だと考える。だが、ムハンマドやイエスを愚弄し続ける『シャルリー・エブド』のあり方は、不信の時代では、有効ではないと思う。・・・ところがフランスは今、誰もが『私はシャルリーだ』と名乗り、犠牲者たちと共にある」「私は感情に流されて、理性を失いたくない。今、フランスで発言すれば、『テロリストにくみする』と受けとめられ、袋だたきに遭うだろう。だから、フランスでは取材に応じていない。独りぼっちの気分だ」

 独仏などキリスト教文化圏では、反イスラムの機運が急速にたかまっている。フランス政府は「テロとの戦争」を宣言し、とりあえず兵士1万と警官5千を国内警備のために展開し、過激組織「イスラム国」に対する空爆に空母を参加させる。今後も「戦線」はどんどん広がるだろう。新たな宗教戦争、世界大戦はもうはじまっているのかもしれない。

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たかがパクチー されどパクチー(上)

 朝食のテーブルにつくと、オニオンスライスにパクチーを乗せた一品があった。おお、スワミ、気が利くじゃないか。四半世紀以上も前、ニューデリーに特派員として駐在して間もないときのことだ。

 お抱え料理人スワミは、歴代の特派員夫人に日本人の口にあう料理を教え込まれていて、こういうメニューをときどき出してくれるのだった。オニオンスライスは、ぼくにとっては日本食で、それにパクチーを乗せれば、和食とエスニック料理のハイブリッドとなる。日本にいるときからそうしているように、醤油と酢、鰹節をかけて口に運んだ。

 かみさんが乳飲み子を連れてインドへやって来る前の、単身赴任中のことだった。

 パクチーと出会い、それに取り憑かれたのがどんなきっかけだったか、もう忘れてしまった。インドに赴任するよりかなり前、東京か出張先の東南アジアのどこかで、初めて口にしたのだと思う。

 パクチーはタイでの呼び方で、ぼくとかみさんは、初めのころ、日本語でコウサイ(香菜)と呼んでいた。その後、テレビを観ていると、芸能人が「パクチーを好きか、嫌いか」で盛り上がったりするようになった。それ以来、日本でもパクチーという呼び方が一般に広まったようだ。英語ではコリアンダー、中国語でシャンツァイ(香菜)という。

 パクチーは、ぼくの周囲のひとをみても、好きか嫌いかどっちかしかない。中間派は存在しない珍しい食品だ。

 ウィキペディア日本語版をみると、何と、江戸時代の本草学者、儒学者の貝原益軒まで持ち出してその名称を論じている。和名はもともと「コエンドロ」と言ったそうだ。現在ではほとんど使われないものの、鎖国前の時代にポルトガル語のcoentroから入った古い言葉だそうだ。益軒は有名な『大和本草』のなかでCorianderからの転化説をとなえているという。『延喜式』『和名抄』などには、「朝廷料理で生魚を食べる際に必ず用いる薬味」として記載があるそうだ。意外だが、パクチーはずいぶん古くから日本にあったのだ。

 「カメムシソウ」という別名があるとは知らなかった。たしかに、あの匂いはカメムシの異臭に似ていなくもない。ぼくをふくめ、そんなものにはまるひとが世界にたくさんいるのだから、人間の嗜好というのは複雑だ。パクチーを嫌いなひとは、そのカメムシ臭が受け入れられないのだろう。

 日本では、1990年代ごろからいわゆるエスニック料理の店が増えるとともに、生食する葉を指してパクチーと呼ぶことが多くなったという。インドに赴任したのは1987年だから、ぼくがパクチーと出会ったのは、やはり日本ではほとんど知られていなかったころということになる。

 うちのかみさんがパクチーにはまったのは、本人の言によれば、新婚早々、赤坂の高級海鮮中華『海皇(ハイファン)』で活石鯛の中華風刺身を食べたときだという。海皇の本店は神戸で、大阪の堂島にも店がある。

 赤坂の海皇は、ぼくが新聞記者をしているときに、何度か仕事がらみで上司に連れて行ってもらったことがあった。ぼくがパクチーを初めて知ったのもそこだったかもしれない。

 海皇はコース料理が中心となっている。店員さんが、木の桶にたとえばぴちぴちはねる石鯛を入れて来て、「これをお刺身にして持ってまいります」と言う。しばらくすると、大根や人参の千切り野菜の上できれいに盛りつけられた鯛に、客の目の前で塩と胡椒、ピーナッツオイルをかけ、シャカシャカとまぜてお皿に盛ってくれる。

 そこに乗っているのがパクチーだ。嫌いならはずせばいいが、この料理を海皇の高級な個室で初めて食べれば、たいていのひとはファンになるだろう。わが夫婦は、コースのなかでも特にこれが好きで、勝手に「シャカシャカ」と名づけ、家庭でも作ることがある。そのために、東京のあちこちのデパートをピーナッツオイルを求めて歩き回ったほどだ。

 ぼくたちは、結婚1年でインドへ赴任したが、カレー以外の食生活レベルが極端に低いインドにあって、パクチーがごくふつうに食べられるのだけはうれしかった。お抱え料理人スワミが、オニオンスライスにまでパクチーを添えてくれるのも、そうした食事情があったからだ。

 ぼくの海外での見聞からすると、パクチーを日常的に食べるのは東南アジアから南アジア、中東にかけてのようだ。ヨーロッパでは、ごく一部のエスニック料理店を例外として、ほとんど口にした記憶はない。ヨーロッパとアジアが交差するトルコのイスタンブールにはあった。

 香港、台湾でももちろんパクチーはあったが、大陸の中国へ行ったことがないのでそっちではどうなのかな、とかねてから思っていた。すると、上海に駐在している甥のお嫁さんから情報が届いた。彼の地でもふつうに食されていて、甥夫婦はファンだという。

 それを聞いて、何だかうれしくなった。阪神タイガースファンなら、東京でたまたま知り合ったひとが虎キチだったりすれば、それだけで友だちになれそうな気がするだろう。好き嫌いのはっきりするパクチーの場合でも、それとおなじような心理が起きるのだ。

 独断と偏見だが、パクチーを知らないと言うひとは、それだけで「国際派じゃないな」と思ってしまう。パクチーを大好きというひとには、それだけで抱きつきたくなる。

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生のムール貝に涙を流す

 2014年のクリスマスの夜だった。テレビをつけた瞬間、貝を食べているおじさんが映った。「新鮮なムール貝は生でも食べられます」というナレーションが入った。ついに生のムール貝を食べるシーンが出てきたか。ぼくはある種の感動を覚えた。

 ぼくの家族は、1994年11月27日、ベルギーの首都ブリュッセルにいた。そのころはドイツのボンに住んでいて、ブリュッセルまでは特急列車でも車でも1時間40分くらいで行けた。

 月曜日からEU本部での会議を取材する予定があった。妻子はまだベルギーに行ったことがないから、アメリカンスクールのない土日を利用して連れて行くことにした。妻子は日曜午後に直行列車でボンに帰ればいい。ブリュッセルには素敵な美術館などもありぼくのお気に入りの都市のひとつだが、家族同伴の目的は美術鑑賞ではない。

 NATOやEUの本部があるブリュッセルは、知る人ぞ知る食の都市でもある。一説によると、ミシュランの星を持つレストランの数が、人口比でパリよりも多いそうだ。食べ物のおいしさは、街角のなんでもないレストランへ行くだけでも感じられる。こんど海外生活するならブリュッセルがいいな、と本気で思えるほどだった。

 ブリュッセルには、『シェ レオン』というレストランがある。フランスなどにも支店がある店で、いつも外国人観光客でにぎわっている。有名なだけに値段はそれなりにするが、味はその割でもないときもある。

 ブリュッセルほどの“ミニ食の都”なら、きっと、無名でも素晴らしい店はあるはずだ。前回来たとき、ベルギー人のジャーナリストが、シェ レオンから2筋くらい離れたところに観光客は来ないすごくいい店があると教えてくれた。

 ぼくたち家族は、清潔で快適な特急列車の旅を楽しんでブリュッセルに着いた。ホテルへチェックインして街を散策したあと、くだんのレストランへ向った。まず、シェ レオンを目印に歩いて行き、そこから教えられた通りに裏道を行くと、あった、あった。

 土曜日の午後3時ごろだったが、店内はごった返していた。やっと空いていたテーブルに陣取り、さて、注文しようとした。だが、目の前にあるメニューは英語でもドイツ語でも、もちろん日本語でもなく、ぼくの知らない言葉だった。どうやら、オランダ語のベルギー方言とも言うべきフラマン語のようだった。ベルギーでは3つの言葉が使われていて、フラマン語を話すフランデレン人が58%、フランス語を話すワロン人が31%、その他ドイツ語を話すひとがドイツとの国境に近いあたりに少数だけ住んでいるのだそうだ。

 メニューが分からないときは、周囲のテーブルを見回し美味しそうなものをジェスチャーで注文すればなんとかなる。まず、白ワインのボトル、ロブスター、そしてもちろん生カキを2種類、さらに、ウェイターが勧めたフィッシュスープを子どもたちのもふくめ4人前頼んだ。スープは、地魚をじっくり煮込んだのだろう、どろっとして深い味だった。どのテーブルでも頼んでいるようで、この店の名物らしかった。

 東京などでもいつのまにかオイスターバーが賑わうようになったが、ヨーロッパでの生カキの食べ方は迫力がちがう。テーブルに小さめのバケツをドンと置いて、食べた端から殻を放り込んでいく。生カキに合うワインはシャブリの高級品などではなく大衆的な白がいい、という情報はグルメ漫画『美味しんぼ』で仕入れていた。

 カキは種類によってかなり味がちがう。これはいいね、これもうまいねと舌鼓を打っていたら、かみさんが「あれ、あれ見て」と隣のテーブルに顔を向けている。じつに美味そうに人びとが食べているのは、生のムール貝だ!。

 「ムール貝を生で食べるなんて聞いたことある?」「そんなの知るわけないでしょ」。ぼくたちは、ウェイターを呼んで、「あれ、あれ」と隣のテーブルのムール貝を指さして注文した。

 出てきたムール貝はぷくぷくっとしてつやもいい。レモンを搾って口に放り込むと海の香りがふわーっと口の中に広がる。味も食感も申し分ない。生カキより断然美味い!

 ウェイターに、それでも英語が少しは通じるかなと、どこでとれた貝か聞いてみた。「ノルマンディーの近くから、店に直送してもらっています」。ノルマンディーと言えば、第2次世界大戦で米英などの連合国軍がヒトラーのドイツ第三帝国を西側から攻めるために上陸した海岸で、映画『史上最大の作戦』の舞台としてあまりにも有名だ。

 生のムール貝は、ぼくたち夫婦にとって、ヨーロッパで食べたもののなかでまちがいなくNo.1だった。

 日本に帰ってその絶品ぶりをひとに話してもなかなか分かってもらえない。日本のテレビには世界のグルメ情報があふれているのに、生ムール貝を紹介するケースがまったくないからだ。

 それが、20年後、クリスマス当夜の日テレ系『ぐるナイ涙のXmasゴチ最終戦』で、ついに紹介された。世界遺産の修道院モンサンミッシェルが浮かぶサン・マロ湾の海で「フランス1のムール貝」を養殖しているおじさんが、自分で育てた貝を食べていた。鮮度が命なので、番組の出演者の口には生では入らなかったが。

 いつか、もう一度あの絶品ムール貝を。ぼくたち夫婦は心に決めている。

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