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たかがパクチー されどパクチー(上)

 朝食のテーブルにつくと、オニオンスライスにパクチーを乗せた一品があった。おお、スワミ、気が利くじゃないか。四半世紀以上も前、ニューデリーに特派員として駐在して間もないときのことだ。

 お抱え料理人スワミは、歴代の特派員夫人に日本人の口にあう料理を教え込まれていて、こういうメニューをときどき出してくれるのだった。オニオンスライスは、ぼくにとっては日本食で、それにパクチーを乗せれば、和食とエスニック料理のハイブリッドとなる。日本にいるときからそうしているように、醤油と酢、鰹節をかけて口に運んだ。

 かみさんが乳飲み子を連れてインドへやって来る前の、単身赴任中のことだった。

 パクチーと出会い、それに取り憑かれたのがどんなきっかけだったか、もう忘れてしまった。インドに赴任するよりかなり前、東京か出張先の東南アジアのどこかで、初めて口にしたのだと思う。

 パクチーはタイでの呼び方で、ぼくとかみさんは、初めのころ、日本語でコウサイ(香菜)と呼んでいた。その後、テレビを観ていると、芸能人が「パクチーを好きか、嫌いか」で盛り上がったりするようになった。それ以来、日本でもパクチーという呼び方が一般に広まったようだ。英語ではコリアンダー、中国語でシャンツァイ(香菜)という。

 パクチーは、ぼくの周囲のひとをみても、好きか嫌いかどっちかしかない。中間派は存在しない珍しい食品だ。

 ウィキペディア日本語版をみると、何と、江戸時代の本草学者、儒学者の貝原益軒まで持ち出してその名称を論じている。和名はもともと「コエンドロ」と言ったそうだ。現在ではほとんど使われないものの、鎖国前の時代にポルトガル語のcoentroから入った古い言葉だそうだ。益軒は有名な『大和本草』のなかでCorianderからの転化説をとなえているという。『延喜式』『和名抄』などには、「朝廷料理で生魚を食べる際に必ず用いる薬味」として記載があるそうだ。意外だが、パクチーはずいぶん古くから日本にあったのだ。

 「カメムシソウ」という別名があるとは知らなかった。たしかに、あの匂いはカメムシの異臭に似ていなくもない。ぼくをふくめ、そんなものにはまるひとが世界にたくさんいるのだから、人間の嗜好というのは複雑だ。パクチーを嫌いなひとは、そのカメムシ臭が受け入れられないのだろう。

 日本では、1990年代ごろからいわゆるエスニック料理の店が増えるとともに、生食する葉を指してパクチーと呼ぶことが多くなったという。インドに赴任したのは1987年だから、ぼくがパクチーと出会ったのは、やはり日本ではほとんど知られていなかったころということになる。

 うちのかみさんがパクチーにはまったのは、本人の言によれば、新婚早々、赤坂の高級海鮮中華『海皇(ハイファン)』で活石鯛の中華風刺身を食べたときだという。海皇の本店は神戸で、大阪の堂島にも店がある。

 赤坂の海皇は、ぼくが新聞記者をしているときに、何度か仕事がらみで上司に連れて行ってもらったことがあった。ぼくがパクチーを初めて知ったのもそこだったかもしれない。

 海皇はコース料理が中心となっている。店員さんが、木の桶にたとえばぴちぴちはねる石鯛を入れて来て、「これをお刺身にして持ってまいります」と言う。しばらくすると、大根や人参の千切り野菜の上できれいに盛りつけられた鯛に、客の目の前で塩と胡椒、ピーナッツオイルをかけ、シャカシャカとまぜてお皿に盛ってくれる。

 そこに乗っているのがパクチーだ。嫌いならはずせばいいが、この料理を海皇の高級な個室で初めて食べれば、たいていのひとはファンになるだろう。わが夫婦は、コースのなかでも特にこれが好きで、勝手に「シャカシャカ」と名づけ、家庭でも作ることがある。そのために、東京のあちこちのデパートをピーナッツオイルを求めて歩き回ったほどだ。

 ぼくたちは、結婚1年でインドへ赴任したが、カレー以外の食生活レベルが極端に低いインドにあって、パクチーがごくふつうに食べられるのだけはうれしかった。お抱え料理人スワミが、オニオンスライスにまでパクチーを添えてくれるのも、そうした食事情があったからだ。

 ぼくの海外での見聞からすると、パクチーを日常的に食べるのは東南アジアから南アジア、中東にかけてのようだ。ヨーロッパでは、ごく一部のエスニック料理店を例外として、ほとんど口にした記憶はない。ヨーロッパとアジアが交差するトルコのイスタンブールにはあった。

 香港、台湾でももちろんパクチーはあったが、大陸の中国へ行ったことがないのでそっちではどうなのかな、とかねてから思っていた。すると、上海に駐在している甥のお嫁さんから情報が届いた。彼の地でもふつうに食されていて、甥夫婦はファンだという。

 それを聞いて、何だかうれしくなった。阪神タイガースファンなら、東京でたまたま知り合ったひとが虎キチだったりすれば、それだけで友だちになれそうな気がするだろう。好き嫌いのはっきりするパクチーの場合でも、それとおなじような心理が起きるのだ。

 独断と偏見だが、パクチーを知らないと言うひとは、それだけで「国際派じゃないな」と思ってしまう。パクチーを大好きというひとには、それだけで抱きつきたくなる。

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