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生のムール貝に涙を流す

 2014年のクリスマスの夜だった。テレビをつけた瞬間、貝を食べているおじさんが映った。「新鮮なムール貝は生でも食べられます」というナレーションが入った。ついに生のムール貝を食べるシーンが出てきたか。ぼくはある種の感動を覚えた。

 ぼくの家族は、1994年11月27日、ベルギーの首都ブリュッセルにいた。そのころはドイツのボンに住んでいて、ブリュッセルまでは特急列車でも車でも1時間40分くらいで行けた。

 月曜日からEU本部での会議を取材する予定があった。妻子はまだベルギーに行ったことがないから、アメリカンスクールのない土日を利用して連れて行くことにした。妻子は日曜午後に直行列車でボンに帰ればいい。ブリュッセルには素敵な美術館などもありぼくのお気に入りの都市のひとつだが、家族同伴の目的は美術鑑賞ではない。

 NATOやEUの本部があるブリュッセルは、知る人ぞ知る食の都市でもある。一説によると、ミシュランの星を持つレストランの数が、人口比でパリよりも多いそうだ。食べ物のおいしさは、街角のなんでもないレストランへ行くだけでも感じられる。こんど海外生活するならブリュッセルがいいな、と本気で思えるほどだった。

 ブリュッセルには、『シェ レオン』というレストランがある。フランスなどにも支店がある店で、いつも外国人観光客でにぎわっている。有名なだけに値段はそれなりにするが、味はその割でもないときもある。

 ブリュッセルほどの“ミニ食の都”なら、きっと、無名でも素晴らしい店はあるはずだ。前回来たとき、ベルギー人のジャーナリストが、シェ レオンから2筋くらい離れたところに観光客は来ないすごくいい店があると教えてくれた。

 ぼくたち家族は、清潔で快適な特急列車の旅を楽しんでブリュッセルに着いた。ホテルへチェックインして街を散策したあと、くだんのレストランへ向った。まず、シェ レオンを目印に歩いて行き、そこから教えられた通りに裏道を行くと、あった、あった。

 土曜日の午後3時ごろだったが、店内はごった返していた。やっと空いていたテーブルに陣取り、さて、注文しようとした。だが、目の前にあるメニューは英語でもドイツ語でも、もちろん日本語でもなく、ぼくの知らない言葉だった。どうやら、オランダ語のベルギー方言とも言うべきフラマン語のようだった。ベルギーでは3つの言葉が使われていて、フラマン語を話すフランデレン人が58%、フランス語を話すワロン人が31%、その他ドイツ語を話すひとがドイツとの国境に近いあたりに少数だけ住んでいるのだそうだ。

 メニューが分からないときは、周囲のテーブルを見回し美味しそうなものをジェスチャーで注文すればなんとかなる。まず、白ワインのボトル、ロブスター、そしてもちろん生カキを2種類、さらに、ウェイターが勧めたフィッシュスープを子どもたちのもふくめ4人前頼んだ。スープは、地魚をじっくり煮込んだのだろう、どろっとして深い味だった。どのテーブルでも頼んでいるようで、この店の名物らしかった。

 東京などでもいつのまにかオイスターバーが賑わうようになったが、ヨーロッパでの生カキの食べ方は迫力がちがう。テーブルに小さめのバケツをドンと置いて、食べた端から殻を放り込んでいく。生カキに合うワインはシャブリの高級品などではなく大衆的な白がいい、という情報はグルメ漫画『美味しんぼ』で仕入れていた。

 カキは種類によってかなり味がちがう。これはいいね、これもうまいねと舌鼓を打っていたら、かみさんが「あれ、あれ見て」と隣のテーブルに顔を向けている。じつに美味そうに人びとが食べているのは、生のムール貝だ!。

 「ムール貝を生で食べるなんて聞いたことある?」「そんなの知るわけないでしょ」。ぼくたちは、ウェイターを呼んで、「あれ、あれ」と隣のテーブルのムール貝を指さして注文した。

 出てきたムール貝はぷくぷくっとしてつやもいい。レモンを搾って口に放り込むと海の香りがふわーっと口の中に広がる。味も食感も申し分ない。生カキより断然美味い!

 ウェイターに、それでも英語が少しは通じるかなと、どこでとれた貝か聞いてみた。「ノルマンディーの近くから、店に直送してもらっています」。ノルマンディーと言えば、第2次世界大戦で米英などの連合国軍がヒトラーのドイツ第三帝国を西側から攻めるために上陸した海岸で、映画『史上最大の作戦』の舞台としてあまりにも有名だ。

 生のムール貝は、ぼくたち夫婦にとって、ヨーロッパで食べたもののなかでまちがいなくNo.1だった。

 日本に帰ってその絶品ぶりをひとに話してもなかなか分かってもらえない。日本のテレビには世界のグルメ情報があふれているのに、生ムール貝を紹介するケースがまったくないからだ。

 それが、20年後、クリスマス当夜の日テレ系『ぐるナイ涙のXmasゴチ最終戦』で、ついに紹介された。世界遺産の修道院モンサンミッシェルが浮かぶサン・マロ湾の海で「フランス1のムール貝」を養殖しているおじさんが、自分で育てた貝を食べていた。鮮度が命なので、番組の出演者の口には生では入らなかったが。

 いつか、もう一度あの絶品ムール貝を。ぼくたち夫婦は心に決めている。

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