« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月

スカイマークよ、ふざけるな!

 出雲と東京をどう往復するか。仕事やプライベートで利用する身としては、コストも考えながら悩むところだ。若いひとたちは、けっこう高速夜行バスを使っているようだが、この年でしかも腰痛の持病があるから、その選択肢はない。出雲ー東京を走る夜行のサンライズ出雲なら少しはましかもしれない。とはいえ、婚活の出雲ブームもあって簡単に切符が取れるわけでもない。

 出雲ー羽田を日に6往復するJALを利用するのが、もっとも一般的ではあろう。わが家から出雲縁結び空港までは、車で20分ほどだから便利ではある。だが、一番の問題はコストだ。往復割引で60,380円かかる。かつて東京近郊に住んでいたころなら、親の介護帰省割引が使えた。事前に介護保険証のコピーと親子関係を証明する戸籍謄本を取っておいて、当日空港に持参すれば、往復42,880円で飛べた。なんと21,400円も安くなる。でも、出雲にUターンしてきたいま、その介護割引は使えない。

 そこで頭をひねって考えたのが、となりの鳥取県にある米子鬼太郎空港を発着するスカイマークを使う方法だった。2014年の時点では、羽田便は日に2本あった。わが家から米子空港まで車で1時間半ほどかかるが、スカイマークはなんと言っても安い。往復で41,000円、3日前特割なら31,000円だった。第1便は午前7時35分発で羽田に午前10時25分につく。東京での予定を昼以降に入れれば、一日を有効に使えた。

 その方法で、2015年2月7日の便をかみさんとふたり分取っていた。帰りは11日にした。

 ところが、とんでもないことが起きた。スカイマークは、1月29日に突然、「4路線を撤退し12路線を減便する」と記者会見で発表した。なんと、2月1日からそれを実施するというのだ。わずか3日しかない。ネットニュースでそれを読んだが、具体的にどの便がなくなり、どの路線が減るのかよくわからなかった。

 翌朝、山陰中央新報の記事によって、やっと詳細がわかった。なんと、米子ー羽田便は第1便がなくなり、午後5時25分発で羽田午後8時15分着だけになるというのだ。しかも、神戸乗り継ぎだった。

 すでに予約した便をキャンセルし、新たに予約を入れなければならない。だが、便の変更を受け付けるはずのインフォメーションセンターは、いくら電話しても話中だった。それは当然だろう。全国の利用者があわてて電話をかけているはずだ。かみさんに頼んで、電話をかけつづけてもらったが、つながる様子はない。

 そこで、ちょっと頭を冷やして、なんとかいい方法はないか考えてみた。ネットでスカイマークのホームページを開くと、予約はできそうだ。まず、ぼくたちが乗るべき往復の便を予約したら、あと数席だけ残っていて確保できた。いつもはそんなに混んでいないが、2便が1便に減るのだから席が埋まるのは当たり前だった。

 突然の記者会見に、みんな「ふざけるな!」とあせったことだろう。だから、ぎりぎりの機体数で運航していていきなりのキャンセルがありうる、スカイマークのような安い航空会社を使わないサラリーマンは少なくない。

 往復を確保してから、前に予約しすでにクレジットカードで購入していたチケットを、ネットでキャンセルした。「キャンセル料はいただきません」という表示が出た。そんなの当然だ。一方的な都合で減便されるのだから、キャンセル料なんか取れるはずもない。もし、取るなんてことになったら、火に油を注ぐだろう。

 それにしても、なぜ、こんな事態になったか。すべては、バカ社長の強引な事業拡大路線が招いたのだ。その恐れは以前から指摘されていた。2004年にIT企業創業者からスカイマークのトップになった人物が、LCC(格安航空会社)の相次ぐ参入で経営が悪化しつつあるのに、「差別化を図る」と座席の広い中型機に切り替えてドツボにはまった。

 さらに、国際線へ参入しようとエアバス社の超大型機を6機も購入する無謀な策に打って出たが、支払いのメドが立たなくなり、7億ドルもの違約金を請求されるはめになった。日本円で830億円という巨費だ。この額はスカイマークの年間売上高の2倍にものぼる。 スカイマークは、東京地裁に民事再生法の適用を申請し受理され、再建策が模索されている。バカ社長のおかげで、こっちまで振り回されることになってしまった。

 夜8時過ぎに羽田へ着く便だから、その日は泊まるだけになる。これでサラリーマンはますます敬遠するだろう。それにも増して、神戸での乗り継ぎは面倒臭かった。西日本各地の空港から神戸に便を集め、乗客の数を確保して羽田へ運ぶ方針のようだ。

 神戸空港そのものが、いわくつきの空港だった。大阪の伊丹に空港があり、関西空港もできたなかで、神戸にもうひとつあっても誰がどれだけ利用するか。反対運動には、作家の田中康夫さんなども加わっていたから、ぼくも少しはいきさつを知っていた。

 山陰では、スカイマークの半券を居酒屋に持っていくと、地酒や焼酎を1杯サービスしてくれるところもあるらしい。でも、焼け石に水の感がある。

 その米子ー神戸ー羽田便さえ、報道によれば風前の灯らしい。JALを使ったらふたりで12万円以上もかかる(~_~;)。こうなったら、スカイマークにガンバってもらうしかない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

Fさんの不思議な治療室

 マッサージ台が3台並べられた狭い部屋だった。ここへ来るのは2回目だ。「この前、治療してもらってから、体の調子がすごくいいんですよ」。ぼくがそう言うと、Fさんは「それじゃ、ぼくの商売はあがったりだね」とジョークを飛ばした。

 出雲へUターンした約1年半前から、左の肩甲骨と背骨のあいだの辺りに不快な違和感を感じていた。東京国立市に住む息子が、2014年春先、「不思議な治療をしてくれるおじさんを知っているから、やってもらったら」と言ってくれた。東京へ4月に出張した際、息子の案内でその治療室に行った。

 Fさんに、見たことも聞いたこともない不思議な治療を受け、違和感がすっかり消えた。でも、持病の腰痛と肩から首にかけての凝りは以前からあったので、先日、また東京へ行った機会に治療室を訪れた。

 台にうつ伏せになると、Fさんはぼくの尾てい骨と脳天に左右の手を当て、小さな声でぶつぶつ言った。どこがどう悪いのか聞かれた。「腰と肩から首にかけて」と答えると、Fさんは仰向けになるようぼくに言った。指先を背中に差し込み、「ああ、こことここにありますねぇ」と言う。ここにあるというのは、違和感の元凶のツボということらしい。

 この前の治療で消えていたはずの左肩甲骨辺りの違和感がよみがえってきた。前回も治療中にそこがジンジンしだし、あとですっかり消えた。

 Fさんは手を離し、何かの言葉を腹の底から絞り出すように唱えはじめた。しばらくそれをつづけたあと、何かの楽器を鳴らしはじめた。目をつぶり仰向けになっているぼくに、その音色が体の中心に響く。何とも心の癒やされる響きだった。

 10分くらいもその音色がつづいただろうか。今度はぼくに上半身を起こさせ、こめかみの辺りを軽くもみほぐすように触った。次には頭頂部からやや下を触ってきた。もう一度ぼくを仰向けにさせると、ほんのちょっとだけ足などを手先で触りながら、腹の底からふたたび声を出し、骨盤や脊椎骨、頸椎などの名前を呼んで「開いていく、開いていく」と呪文のように唱えた。

 ぼくは、ひたすら心と体をFさんに委ねるよう心がけた。「根っこは深いですねぇ。一回の治療で消えることはないはずだと思いましたが、やっぱり、これは深い」。Fさんは、ひとり言のようにつぶやいた。

 約1時間の施術は終わった。電話で治療の予約を入れたとき、不思議な治療法について取材をさせてくれるように頼んでいた。「ふつうの言葉で言えば、誰にでもある自然治癒力を働かせる治療法ということになります。一番肝心なのは、患者さんが、自分は宇宙につながっていてその一部であることを“気づく”ことです」

 Fさんは、若いころ針灸学校へ入学したが針灸治療は性分に合わず、いちおう卒業したあと、カイロプラクティックの治療師として開業した。治療を進めるうちに、脳幹の異常緊張が身体のバランスを悪くするのだと気づき、治療法を変えた。脳幹は大脳の奥にあり直接触ることはできないので、試行錯誤をくり返しいまの治療にたどり着いたのだという。患者の体をほとんど触らないようになってしまったので「気功治療」と名乗っていたこともあるが、気功そのものは誰からも習ったことはないそうだ。

 Fさんが唱えたのは、1972年に翻訳が出た『心身の神癒』(マクドナルド・ベイン著)にあるキリストの言葉だった。施術中に患者さんが眠っていても、その言葉の波動が作用するのだという。「一番大切なのは、宇宙の真理を患者さんが気づくことです」

 Fさんは、腹から出す声は「倍音」だと言った。この言葉をあとで調べると、「振動体の発する音のうち、基音の振動数の整数倍の振動数を持つ部分音」とあった。Fさんが鳴らしていた楽器はUFOのような形をしており、ハング・ドラムと呼ばれるそうだ。2001年にスイスで開発され、いまでは国産もあるという。手で叩いたり、こすったりして音を出す。これも倍音を出すようで、Fさんは「その波動が脳幹に作用する」と言う。

 治療を受けていて、フィリピンの「フェイスキュア」を思い出した。英語では’faith cure’と書く。信頼とか信念、信仰の治療という意味だ。日本では30年ほど前、「心霊治療」と和訳されテレビなどで流行った。その本場がフィリピンだった。メスを使わず指先でがんに冒された内臓などを取り除く治療として日本でブームになり、フィリピンへがん患者が殺到する事態となった。

 ぼくが最初にフィリピンへ出張したのがちょうどそのころで、’faith cure’の取材をしたいと現地ガイドを通じて取材を申し込んだ。だが、「日本のマスコミは興味本位で取り上げるだけで、真実を伝えない」と断られた。

 日本のある番組では、施術者ががんの部位として取り出したのは鶏のレバーだったことが暴露され、ブームが一気にしぼんでいった。だが、本場ではいまも「心から信じれば、必ず治癒する」とされている。悪いのは、やらせをさせた日本のテレビ局なのだ。

 ひとの心と体は、ぼくたちが頭で考えているのとは本質的にちがうのかもしれない。Fさんが言うように、宇宙の本質におのおのが「気づく」ことが必要なのだろう。少なくとも、ぼくの左の肩甲骨と背骨のあいだの不快感は、Fさんの治療を信ずることで消えた。Fさんの名刺には「気づき治療」とある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

邪馬台国と出雲

 高円宮家の典子さんと出雲大社の権宮司・千家国麿さんが、2014年秋、結婚された。半可通は、大和朝廷の末裔と大和によって滅ぼされた出雲人の末裔の歴史的な結婚だと誤解した。

 でも、出雲大社の宮司を代々継ぐ千家家は、かつては出雲国造だった。その千家家の祖先は、日本書紀によれば、天照大神の子である天穂日命(アメノホヒノミコト)で、千家家はもともと大和側のひとなのだ。

 古事記、日本書紀には、大国主命が出雲の国を譲ってしばらく時間が経ってから、大国主命の祟りと思われる災厄が相次ぎ、その祟りを鎮めるために建てられたのが出雲大社だとある。

 つまり、天穂日命の末裔の千家家が大和から出雲につかわされたのは、大国主命の魂を鎮めるとともに、それが祟りをもたらさないよう監視する役としてでもあったことになる。だから典子さんと国麿さんは遠い遠い親戚同士とも言える。逆に言えば、国麿さんはもともと出雲人ではない。2000年近い時が経ち、いまではすっかり出雲のひとだろうが。

 さて、出雲には、NPO法人出雲学研究所というものがある。起源1世紀ごろの銅剣358本が出土した神庭荒神谷遺跡にある荒神谷博物館館長の藤岡大拙氏が理事長を務めている。「東北学」という地域研究があるが、出雲学というのも地域限定の学術研究として興味深い。

 その研究所が、銅剣発見30周年を記念して『邪馬台国と出雲』というフォーラムを開いた。会場は、出雲市斐川町にある斐川文化会館だった。荒神谷にもほど近く、この種のテーマを論ずるにはかっこうの場所だ。駐車場が混むらしいからとかなり早めに行き、会場一番乗りをした。大ホールの椅子は次々と埋まり、中には広島市からわざわざ参加したひともいた。

 講演をしたのは、『季刊 邪馬台国』を主宰している安本美典氏(80)だった。邪馬台国と言えば、所在地論争が長いあいだつづけられている。安本氏は、北部九州にあった邪馬台国の勢力が東遷していまの奈良県に大和王朝を建てた、とかねてから主張している。

 安本氏の主張の原点は、「卑弥呼は天照大神だった」というものだ。この説は明治期の東京帝大の史家・白鳥庫吉が唱えたのがルーツで、白鳥は魏志倭人伝の記述と古事記、日本書紀を比較し「その状態が酷似しており、誰も否定できない」と述べたという。

 その説をさらに発展させたのが、東大の哲学者・和辻哲郎で、邪馬台国東遷説を明確に打ち出した。安本氏は、その説を補強したのだが、まずその前提として、記紀に書かれている神話つまり「神代編」は史実を反映したものである、と強調した。戦前の国家神道の反動で、戦後の学会は津田左右吉をはじめ神話の史実性を全否定する空気が圧倒的だったが、シュリーマンが伝承からトロイ文明を発掘したように、神話は深く研究すべきだとする。「最近の考古学者は文献をあまり読まないが、内外のものを読むことが古代の全体像をつかむのには絶対に必要だ」とフォーラムで訴えた。

 そして、歴代天皇の在位年数が時代をさかのぼるにつれて短くなっていることをグラフで示した。在位が短いのは、のちの天皇が権威はあっても政治権力はないのに対し、古代では権力と権威の両方をそなえており、その分、権力闘争によって命が狙われる危険も多かったからとする。中国や西洋の王の在位年数もおなじ傾向であることを傍証とした。

 安本氏は、神武天皇は西暦280~290年ごろ、神功皇后は400年前後とした。筑波大学の経済学者・平山朝治氏の研究から、天照大神が実在していたとするなら西暦200年より少し前から数10年のあいだだったとし、卑弥呼が魏志倭人伝で遣使したとある238年または239年と時代が一致する。これを「卑弥呼=天照大神」説の最大の根拠とした。

 安本氏は、邪馬台国の当初の所在地を、現在の福岡県西部・夜須(やす)町あたりとしている。その付近に現在も残る地名が大和の地名と一致するものがたくさんある点を東遷説の傍証としてあげる。笠置山、朝倉、上山田などは表記も位置関係も完全に符合し、鷹取山と高取山、天瀬と天ヶ瀬などほぼ一致する例もいろいろある。

 出雲との関係としては、銅剣、銅鐸、銅矛といった古代青銅器の鉛成分を分析した結果、北九州と出雲、畿内は強い関連性があることがわかったという。安本氏は、「古代の出雲は山陰から近畿にかけての広大な領土を持っていた」とし、邪馬台国勢力は北九州から海路で出雲大社の西にある稲佐の浜へ上陸し、出雲を降伏させるいっぽう、瀬戸内海を東へ進み大和へ入ってその地の出雲勢力を破ったとする。

 会場からは「大国主命はいつごろの人物だと思うか?」という質問が出された。安本氏は「天照大神の弟スサノオの娘婿だから、西暦250年過ぎではないか」と答えた。仮にそれが事実とすると、日本神話は、たとえばいまの中国、北朝鮮のあたりに朱蒙(チュモン)が建国した高句麗(コクリョ)よりのちの時代のこととなる。

 邪馬台国の所在地論争では、近年、奈良県桜井市の纒向遺跡が有力地とされている。この遺跡こそ卑弥呼の居所であり大和王権誕生の地とする見方が強まっている。だが、調査は遺跡のわずか2%しか進んでいない。邪馬台国は出雲族が中心となって作ったのであり、卑弥呼も出雲系の女性とする説もある。そのあれこれが、古代ロマンの面白いところだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

たかがパクチー されどパクチー

 パクチーが手に入るか入らないかは、ぼくたち夫婦にとってはかなり重要な問題だ。人生の幸不幸を左右すると言ってもいいだろう。ま、そこまでではないが。

 インドから帰国した1990年春、東京近辺ではどうすればパクチーが入手できるか、研究を重ねた。その結果、池袋の東武百貨店の地下食品売り場にあるのを発見した。静岡産で1株がたしか250円くらいはしたと思う。インドの青空市場と比べると10倍以上だ。それでも当時は他で手に入らなかったので、通勤帰りにかみさんへの手土産として買って帰ったことがある。かみさんはたぶんお花よりパクチーのほうを喜ぶと思う(^-^q)。

 新聞特派員の出撃基地であるかつての職場・外報部(現・国際部)でも、パクチーが話題になったことはある。世界各地での生活経験がある面々がそろっているから、自然とそういう話で盛り上がる。食べることに興味のない記者は乗ってこないが。

 ぼくはまだ行ったことはないので断言はできないものの、アフリカ、中南米にもパクチーはあるようだ。面積や人口から考えると、パクチーを食べているひとのほうが地球の多数派だと言えるだろう。

 インドでのパクチーをめぐる想い出のなかでもっとも強烈なのは、チキンカレーのパクチー乗せだ。ぼくはニューデリー特派員とは言いながら、パキスタンやアフガニスタンへしょっちゅう出張していたので、インド国内で取材旅行をする機会は案外少なかった。それでも、南アジア情勢が少し落ち着いたら、お抱え運転手ヘンリーの運転で近間へ出かけたり、長距離列車や飛行機の国内線で出かけたりした。

 あるときには、わが家の赤ん坊を子守りのお姉ちゃんに任せて、かみさんにインドの田舎を体験させようと、ヘンリーの運転でニューデリーから南へ車を走らせた。途中、マトゥーラという古代からの都市があり、幹線道路脇の料理店で昼食をとった。日本式に言えばドライブインといったところだ。

 親友プラメシュは、こんなアドバイスをしてくれたことがあった。「インドの田舎で、不潔な店しかないときには、肉が腐っている可能性があるから、ベジタリアンカレーにしたほうが絶対に無難だよ」。マトゥーラの店は、インドの田舎にありそうな何の変哲もない感じではあったが、不潔そうでもなかったので、チキンカレーを注文した。

 出てきたのは、インドではごくふつうの骨つきチキンカレーだ。ユニークなのは、上にパクチーがどっさり乗っていることだった。カレーのスパイスのひとつとしていわゆるコリアンダーつまりパクチーの乾燥粉末を入れるのは一般的だが、生のパクチーを乗せて出てきたのは初めての経験だった。

 ぼくとかみさんは、これもいいんじゃない、とばかりぱくついた。う、うまい! カレーは絶品で、乗せられたパクチーと見事に調和している。こんな田舎にこんな美味いカレーがあるなんて、さすがインド!

 インドにいた3年間に、いやというほどカレーを食べた。地方へ取材旅行したときなど、メニューにカレーしかないから1週間も食べつづけた。メニューにはカレーという言葉はなく、ただチキン、マトン、ベジタリアンなどと書かれているのだ。そのなかでも、マトゥーラのパクチー乗せカレーに匹敵する最上の1品としては、プラメシュと食べたカルカッタ(現コルカタ)のエビカレーしか思い浮かばない。

 ぼくとかみさんは、マトゥーラでパクチーの底力を再発見したのだった。

 時は流れ、ドイツへ赴任し再帰国してからしばらく経ったころ、かみさんは東京近郊のある食品会社へ勤めはじめた。ベトナムが起源の生春巻きやタイ風エスニックスープが日本でブームになりつつあるころのことで、会社では大量のパクチーを扱っていた。食材が残ることが日常的にあり、かみさんはパクチーをもらって帰る日もあった。

 まず使ったのが海鮮中華サラダ・シャカシャカだった。次に思いついたのはタイスキだった。タイスキというのは、語源は「タイのすき焼き」とされているが、日本のすき焼きとは似ても似つかない。肉類や魚介類、野菜、豆腐などなんでも鍋にぶち込んでパクチーの効いたピリ辛のたれにつけて食べる。首都バンコクなどには、現地でCOCAと呼ばれるタイスキの店がいっぱいあって、にぎわいを見せている。伝統的なタイ料理もうまいが、ぼくはこのタイスキが大好物だった。日本の輸入食品店には瓶入りタイスキのたれを売っていて、パクチーを刻んで入れれば本場風のが食べられるのだった。

 シンガポールで食べた鍋料理スチームボートにもパクチーは入っていた。それをヒントに、わが家ではシャブシャブのポン酢にパクチーを入れることもよくあった。食品会社でパクチーの葉だけを使い残った根っこ部分をもらったときには、浅漬けにした。これがまたいけるのだ。

 そして、2013年秋、出雲へUターンすることになり、パクチーの種を買って帰ることにした。出雲でパクチーを売っているとは思えなかったからだ。プランターに撒いて育てようとするのだが、なかなか大きくならない。ネットで調べてプランターの形状や土の種類、日当たり加減などを研究し、どうにか少し食べられるようにはなった。だが、まだムシャムシャ味わえるほどには大きくならない。

 たかがパクチー、されどパクチー。その奥は深い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »